『〈郊外〉の誕生と死』において、日本の郊外の歴史を表象する写真集として、小林のりおの『ランドスケープ』(アーク・ワン、一九八六年)に言及している。この写真集は八〇年代半ばの東京や横浜の郊外の風景が、団地や分譲住宅地の開発によって変容していく過程を追跡したものだ。拙著のその部分を再読してみると、管見の限り、『ランドスケープ』が日本で唯一の写真集であると述べ、次のように書いている。当時の思考をそのまま伝えたいので、それを引用することを許してほしい。
郊外の写真家である小林のりおのこの『ランドスケープ』は、郊外が生成していく過程を風景そのものの変容によって伝えることで、郊外がどのようにして誕生するのかをみごとに映しだしている。小林のりおのカメラは、郊外の誕生する前史とでもいうべき風景に引き寄せられていく。
ブルドーザーによって土がむきだしになった丘陵地帯、森や林が伐採されて整地された土地、轍の跡の続く絶えず進行中の開発現場、クレーン車やブルドーザーの姿、打ちつけられたばかりの白いコンクリート、それらの風景は土地の死とその解剖にカメラが立ち合っているかのようだ。
さらにこの『ランドスケープ』において印象的なのは、郊外の開発現場とマイホームの風景の無国籍性である。森や林や緑の色彩が開発の進行によって減少していき、むきだしの褐色の土のかもしだす色彩のトーンは、そこが荒野や砂漠のような空間であるように感じさせる。開発によって土地の歴史性が消滅し、過去の風景が突然切断されたのである。
「過去の風景」とはそのような開発の中に挿入された茅葺きの古い農家が象徴する農村の姿に他ならない。しかし開発が進んでいく過程で、これらの農村の残映は消滅し、郊外へと変容し、ことごとく新しいマイホーム、団地、マンションが立ち並ぶ風景が召喚される。また学校もあり、公園もあり、テニスコートも出現している。
そのような中にあって、小林のりおは分譲地の「西洋風」のマイホームを住宅産業のカタログ写真のように撮っていく。小林の言によれば、郊外の「西洋風」のマイホームの現実は、「緑の砂漠の後に作られた申し訳程度の人工自然と流れてくる光化学スモッグの下での窮屈な生活」だという。そして彼はその風景の中に身を置き、「周囲を企業のカタログイメージによって囲まれてしまった写真家」と自称し、「遥か海の向こうの楽園や片隅の自然を、美しいイメージで詩うことなく、こうしてある今をカタログ写真よろしく克明に映しとる事から始められるべきだ」と書きつけている。
それゆえに『ランドスケープ』は「カタログ写真」のような作品の集積として出現している。それは郊外のアイデンティティが「カタログ写真」の中にしか存在しないことを告げているかのようであり、また郊外そのものが「カタログ写真」の帝国で、パロディ、パスティーシュ、シミュラクルによって成立していることを物語っているかのようだ。その「カタログ写真」の風景は、同じく八〇年代に「ベッドタウン二世」、つまり郊外の小説家としてデビューし、郊外を描いた島田雅彦の世界と通底している。
そして小林の郊外への眼差しは九〇年代に入って、TAKASHI HOMMA に継承され、それは『TOKYO SUBURBIA』(光琳社出版、九八年)として結実していく。カバー写真に浦安の団地の風景を採用し、湘南インターナショナルビレッジから始まる同書は、菊倍判の判型と5.5センチに及ぶ厚さを有し、九〇年代におけるさらなる郊外の膨張とそのリアリティの台頭を主張しているようにも見える。しかし『TOKYO SUBURBIA』は拙著の刊行の翌年に出されたために、残念ながら参照できなかったのである。
九七年における拙著の執筆の時点で、HOMMAの写真集と同様に、見ることができなかった一冊があり、これは未刊のためではなく、絶版となっていたからだ。ここでこの写真集も取り上げておくべきだろう。それはBill Owens, Suburbia (Fotofolio,1999) である。こちらは一九七三年に刊行され、絶版のままで、同じく拙著上梓後の一九九九年に復刻され、ようやく入手に至っている。だがそれでもSuburbia は 本連載36の大場正明の『サバービアの憂鬱』の口絵写真にも数点が収録され、また本文での言及もあったので、この写真集の存在は承知していたし、小林の『ランドスケープ』との関連も気になっていたのである。
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しかし実際に入手してみると、その推測は当たっておらず、『ランドスケープ』の視線が郊外の変容していく外部風景に向けられていたことに対し、Suburbia はひたすら郊外の内側にあるマイホームと家族の姿に集中し、それらの写真を中心にして一冊が形成されていたのである。マイホームの中や庭にいる様々な夫婦や家族、妻や子供のポートレートが大半を占めている。これらは冒頭に置かれたハイウエイと開発されつつある郊外の風景とそれらを示す「Sun setown」なる看板の写真、及び巻末の見開き二ページに示された、画一的に区画整理された土地に、これも均一的な家が立ち並んでいる風景を目にしなければ、ただちに郊外だとわからない。どこでも見られるような夫婦や家族のポートレートのようにも映っている。
しかしそれぞれの写真に付された一文を読んでいくと、写真に出てくる人々が郊外へと移住してきたのであり、その喜びの中で生活していることが伝わってくる。それらの例を挙げてみれば、庭にバーベキューセットを出し、そこで肉を焼いている夫とそれに寄り添う妻に対して、「日曜の午後、私たちは一緒にいて、私がステーキを焼き、妻がサラダをつくる」とある。庭で芝生を刈っている男をロングショットで捉え、「郊外で暮らす喜びのひとつは自分で芝生の手入れをすることだ」との一文が付され、モダンアートらしき絵画を背後にした夫婦に関しては、「私は郊外で自由なセンスに目覚めた……」とある。いずれにしてもすべての写真に閉塞的なニュアンスは漂っておらず、郊外はまだ希望に包まれ、これもまた最後のページある草の繁った空地に建てられた「ショッピングセンター出店決定地」という看板がそれを保証しているようにも思える。
一九九九年の復刻版Suburbia に「序文」を寄せているのは、これも『ザ・フィフティーズ』のD・ハルバースタムであり、オウエンズの写真に対する優れた解説にもなっているので、これも私訳し、説明も加え、要約してみる。
第二次大戦後に何百万人にも及ぶ普通のアメリカ人が郊外へと移住し始めた。これはアメリカ史における大移住のひとつに数えられる。それは主としてビル・レヴィットによる大量の郊外住宅建設に導かれてもいた。レヴィットはフォードの大量生産方式を、中産階級対象の住宅建設に応用した画期的ハウスメーカーで、彼の開発した郊外住宅地はレヴィットタウンとよばれている。レヴィットに関しては『ザ・フィフティーズ』の「家を大量生産した男」の一章が彼に当てられているので、詳細はそちらを参照されたい。
それに車社会の進行と新しいハイウエイの建設も加わり、ありとあらゆる大都市の周辺に二万五千人から五万人の小さな街、すなわち郊外に生まれ、それは三十年間にわたって続き、六千万人が郊外生活者となったのである。
この郊外への移住を身をもって体験してきたビル・オウエンズは、一九六八年にカリフォルニアの地方紙でカメラマンとして出発し、移住者たちが新たに出現した郊外において、家族のためのよりよき生活をめざすという最善のアメリカ的生き方を志向していることをよく理解していたのである。
そしてSuburbia は出版されるとすぐにそれなりの古典に位置づけられ、年月を経るに従って、カルト的地位を獲得することにもなった。それはオウエンズが郊外への移住に関して、まさに大きな社会的変動だと直感的につかみ、あるがままに捉えたことによっている。彼のような視線と異なり、新しく出現した郊外はその画一性、均一性から社会的批判を浴びせられてきた。それに対しオウエンは前述したように、郊外が表象する自由の感覚に敬意を払い、共感しているのだ。それはこの郊外への大移住を通じて、確固たる新しいアメリカの中産階級が形成されることになったわけであり、郊外生活の経験は若いアメリカ人の生活を様々な分野で向上させたからでもある。Suburbia はささやかではあるが、そうした普通のアメリカ人の希望を映し出し、伝えてくれたともいえるのだ。
これらのハルバースタムの言には少しばかり注釈が必要で、レヴィットの郊外住宅に対し、著名な文明批評家ルイス・マンフォードが、画一的な家に住む画一的な人々が送る画一的な生活はアメリカの最悪の未来像だとして、非難を浴びせていたのだ。このマンフォードの都市と建築に対するビジョンは「郊外、そしてそれをのり越えて」の一章を含む『歴史の都市 明日の都市』(生田勉訳、新潮社)に集約されていよう。
そのマンフォードに対し、オウエンズの視線は郊外の家の内側にいる夫婦や家族、そこに表象されているアメリカ中産階級の新しい夢と希望を写し出すことによって、郊外の古典、もしくはカルト的一冊へと位置づけられることになったと判断していいだろう。それを五〇年代の落とし子であるハルバースタムも深く共感するゆえに、Suburbia の復刊序文を引受けたのだろう。こちらに引きつけて考えると、レヴィットタウンとは、日本における戦後の団地のようなものだったのではないだろうか。五〇年代から六〇年代にかけて、団地も夢と希望の生活様式の空間として語られてきたのだから。
だがそれらはひとまずおき、ここまできて小林のりおの『ランドスケープ』に戻らなければならない。もちろん日本とアメリカのプライバシーの問題もあるのだが、外部と内部という方法論の問題も含め、郊外をめぐって風景写真と肖像写真の明らかな相違が生じてしまうのはどうしてなのだろうか。
八〇年代になってしまうと、夢や希望の表象ではなく、郊外そのものがあらかじめ失われてしまったような思いを内包する空間へと転位したゆえなのだろうか。それは同じタイトルのHOMMAの作品にもいえるからである。郊外における風景と家族の肖像の差異にこめられているもの、それをもう少し考え、次回へと続けてみたいと思う。