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混住社会論47 山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)

ありがとう 上 ありがとう 下
 



「わかるかい? 世の中には君たちよりも悲劇の家庭が、とてもありふれて、あふれている」
(「ムシ君」のセリフより)
                     
山本直樹に関しては本ブログ「ブルーコミックスス論」9で、『BLUE』をすでに取り上げている。だがここでは前回の重松清が描いた「優しいパパの街」である郊外ではなく、同じくニュータウンを舞台としていても、あからさまに性と暴力を表出させている家族の物語『ありがとう』を論じてみたい。
[f:id:OdaMitsuo:20110906142953j:image:h110](弓立社)

『ありがとう』は小津安二郎の『晩春』の映像や『父ありき』のセリフの引用からうかがわれるように、小津的な近代家族の物語をふまえながら、それが郊外やニュータウンにあってはもはや成立しないどころか、まったく解体されてしまった中での現代家族の行方を問うている作品と見なせよう。そこにはまた九〇年代前半に起きていた女子高生コンクリート詰め殺人事件、アメリカにおける日本人留学生射殺事件、家庭内暴力の息子による父親殺し、学校での自殺も生じた様々ないじめ、オウム真理教事件などが投影され、『ありがとう』の物語展開の発条となっている。また阪神大震災への直接的言及はないが、物語に大きな影を落としているようにも思える。

晩春 父ありき

さらに付け加えれば、山本のコミック群はこの『ありがとう』における家族のみならず、近代社会の共同幻想的コアとしての学校、宗教、学生運動などにも及び、それらは『学校』(太田出版)、『ビリーバーズ』(小学館)、『レッド』(講談社)などの作品であり、常に性と暴力を伴って異化されていく。その意味において、『ありがとう』の物語構造も他の山本作品と通底しているといっていい。

学校 ビリーバーズ レッド

『ありがとう』の1「寒い国から来た男」の章の扉にはアメリカンコミック仕立ての侵入者を射殺する場面が描かれ、そこには出典を「ロドニー・ピアーズ裁判弁護側最終弁論より」として、次のような言葉が置かれている。これは『ありがとう』の物語のテーマに他ならないので、全文を引用してみる。

 家庭とはなんでありましょうか?
 それは暴力に満ちあふれたこの世界から逃れ、私たちが平和と安全を得られる最期の場所ではないでしょうか?

だがその扉にはアメリカンコミックを模した射殺場面、引用した文章と出典の記載しかないので、若干の説明が必要だろう。この場面は先述したアメリカにおける日本人留学生射殺事件、引用文はその裁判記録によっている。これは一九九二年にルイジアナ州で、留学していた日本人高校生がハロウィンパーティに出かけたのだが、家を間違え、他の家を訪問したために、その家のロドニー・ピアーズから侵入者と判断され、射殺されてしまった事件である。この事件の詳細な経緯と裁判についてはティム・タリー『フリーズ! ピアーズはなぜ服部君を撃ったのか』(平義克己訳、集英社)が刊行されている。

フリーズ! ピアーズはなぜ服部君を撃ったのか

次にその扉をめくると、唐突といっていいほどに郊外ニュータウンの光景が一ページで示される。つまり先のページで象徴的に示されている家庭、侵入者、事件という三つの事柄に、トポスとしての郊外ニュータウンが存在しているとわかる。一面の広い空の下にロードを挟んで均一的なマイホームが並んでいる風景が、物語のありかを告げるかのように繰り返し挿入されていくし、そのロードを「寒い国から来た男」が歩いていく場面から『ありがとう』も始まっている。この1のタイトル、2の「父帰る」のタイトルがそれぞれ、ル・カレのスパイ小説や菊池寛の戯曲をもじっていることはいうまでもないだろう。

寒い国から帰ってきたスパイ (『寒い国から帰ってきたスパイ』)父帰る(『父帰る』)
そのニュータウンの一軒の鈴木家は母と二人の娘の暮らしだが、そこでは性的オージーが繰り拡げられていた。三、四日前から家は暴走族の三人の男によって占拠され、高校生の姉昌子はクスリづけで輪姦され、中学生の妹貴子も性的慰み物となり、アル中の母は荒廃を極める家の中で、なすすべもなく傍観するしかなかった。昌子が男たちの奸計にはまり、「このすさんだ家庭の状況」がもたらされたのである。このイントロダクションも先述した女子高生コンクリート詰め殺人事件のディテールにヒントを得ていることは明らかだ。

そこにニュータウンのロードを歩いていた男=「寒い国から来た男」が姿を現わす。それは2の「父帰る」へとつながっていく。その鈴木一郎は北海道に五年間単身赴任し、ようやく本社勤務となり、家に戻ってきたのだ。「このすさんだ家庭の状況」を見て、彼はいう。「どういうことなんだ? これは」と。そして一郎は男たちのボスのカクマと戦い、彼を家から追い払うことに成功する。しかももう一人は人質としたままで。だがそれもつかの間で、家の前は暴走族が大挙して押し寄せてきた。防戦を強いられる一方で、一郎は「のんびりケーキなんか作っている場合じゃない」のに、貴子の誕生日のために、深夜にケーキを作ろうとする。「こんな時代だからこそ誕生日を祝い、家族の結束を確認することに意味があるのだ」。かくして一郎は暗闇の台所に妻と娘たちを集め、ケーキを前にして、「ハッピーバースデー」を歌うのだ。だがそこに犬のチロの首が届けられてきて、ケーキは食べられないままで終わってしまう。

これが「すんだ家庭の状況」の中での「父帰る」によって招来された一族再会に他ならない。隣人の言葉を借りれば、「こんな平和で文化的なこのご町内」の「平凡な家庭に、そんなドラマのような大げさな事件が起きるはずもない」のに。父とアル中の母、急性薬物中毒の姉と反抗的な妹の籠城的な生活は、人質にとっても「異常な家」の様相を呈していき、暴走族たちによる再びの占拠、警察の介入、一郎の傷害罪による検挙の事態も招いていく。「俺がいないと家庭はおしまいなんだ」と叫びながらも。そして彼は留置所で、また同じ夢を見る。

それはこの何年か繰り返し見ているもので、コンビニの前に泣き叫ぶ子供を置き去りにしたまま、車で去っていく夢だ。それは『ありがとう』の中で三回フラッシュバックされ、家族を解体へと追いやった不本意な単身赴任のメタファーとも考えられる。貴子は留置場にいる父を迎えにいき、家へと連れて帰る。とりあえず母は家を掃除し、昌子も正気に戻ったようで、「おかえりなさい」「ただいま」というやりとりの後で、冒頭におけるピアーズの言葉の反復はなされていないが、何もなかったかのようにあのニュータウンの光景が挿入される。

そして貴子の述懐が続いていく。

 近況はこうです。
 父さんは単身赴任を終えて、家に帰ってきました。
 姉はクスリからさめたけど、時々、夜などうなされて叫びます、本人は朝起きても、おぼえていないそうです
 母さんはまだ時々、お父さんのいないところでお酒を飲んでいます。(中略)
 あの騒ぎも、ついこの前のことなのに何か遠いむかしの出来事だったような、怖い映画か夢でも見ていたようで、不思議なかんじです。

しかし事件はまだ終焉しておれず、新たな問題が待ちかまえていた。それは家族の内部ではなく、学校といった外部へと撹拌されていったことで、輪姦され慰み物にされた昌子と貴子の写真が流出し、昌子はトラウマから自殺未遂と登校拒否に至る。その一方で、一郎は家族を守るために仕事を休み、家事、娘たちの送り迎え、弁当作り、学校との面談などに励んでいたのだが、会社からリストラされ、希望退職宣告を受ける。貴子は父にいう。「あしたからお金どーするのよ。『家族を守る』とかえらそうなことをいって、お金なきゃ食べていけないじゃない。住宅ローン全部払いきれるほど、退職金もらえるわけじゃないんでしょ。ローン払えなきゃこの家も住めなくなるんでしょ」。

一郎は会社に再就職の条件を出し、「つねに家族がいっしょにいれる仕事」を選び、ステーキハウス「DEADCOW」(死んだ牛)の店長となり、妻と娘たちもそこで働くことになる。これはステーキハウスといっても、郊外のファミレスに他ならず、それを世話した一郎の部下が冗談混じりにいう「これがホントの『ファミリーレストラン』」ということになる。ここまでくるとファミレスの名前が象徴しているように、父の一郎がめざす家族再生は「ホームドラマごっこ」といったパロディの色彩を帯びていく。だが事件は「災害」として処理できず、家族全員のトラウマとして絶えずフラッシュバックされ続けている。

貴子は家出し、一郎はステーキハウスを欠勤し、彼女を必死で探し出し、家に連れ戻すが、勤めを辞めるしかなかった。そのような中で、妻のさくらは外出を重ね、身嗜みが変わり、定期預金を解約し、「シンコーシューキョー」といっていい「ニコニコ人生センター」に入会してしまう。しかしこのセンターは多くの容疑で警視庁の強制捜査を受け、その名義上の主宰者となっていたさくらは全国に指名手配され、家へと戻ってくるしかなかった。すると家の前はマスコミと噂を聞きつけた近所の人々でごったがえし、またしても家族は籠城へと追いやられた。そこにいじめに抗して殺人を犯してしまった貴子の友人の「ムシ君」も加わってくる。だが家に立てこもって一週間後、一郎はストレスからくる急性胃炎で倒れてしまう。彼が単身赴任中にガンの手術をしたことも初めて明らかになる。

退院した一郎に、会社から復帰とロシアでのプロジェクトのオファーが出され、彼は家族を台所に集め、次のようにいうのだ。

 「(……)家に帰って一年近く、いろいろなことがあった。その中で私はずっと考えていた。そして……ついにひとつの結論に達せざるをえなくなった。つまり……それは……本日をもって、我が鈴木家は解散する。
 この一年、いろいろな苦難を乗り越え、私たち家族はキズナを強めたか? 否、逆に私は今、家庭に吹く寒々とした風を感じざるをえないのだ。家を離れると言いはじめる昌子。母さんはなんの反省もなく、また怪しげな宗教にかぶれ、貴子はさらに反抗的だ。このままでは鈴木家はダメになってしまう。砂をかむような味気ない生活の中で、みんなすさんだ人間になってしまうだろう。
 なぜこんなことになってしまったのか?(中略)ここで一度一人一人になって、外の世界へ踏み出すべきなのではないか? 一度バラバラになって、一人一人になって考えてみようじゃないか。」

そして一年後に再会し、その時お互いに必要であれば、もう一度一緒にやっていくかどうかを決めようと。「家族というものはいずれバラバラになる運命」だし、その「バラバラになったそれぞれが、またそれぞれの家庭を作る。そういうものなのだ」。一郎の提案に初めて家族全員が賛同する。その「翌日、鈴木家は解散した」。家の前で家族写真を撮る。そしてまたしてもあのニュータウンの風景が挿入され、空のところに「それからみんなそれぞれのほうに去っていきました」との一文が置かれたのである。

一年が経ったが、あの風景は変わらず、家族は家の前に集まった。家は貸しているので、近くのファミレスで食事をした。そして昌子の「どうする? これから」という一言を受け、「やっぱり……このまま、みんなそれぞれやっていくのが一番いいんじゃないか」という結論に落ち着いた。

それから五年後、一郎はガンを再発し、家族に看取られ、小津の『父ありき』の中のセリフを含めた「なんにも悲しいことはない。お父さんはできるだけのことはやった。私は幸せだ。ありがとう」という言葉を残し、死んでいく。この最後の言葉からタイトルがとられ、ここに至ってようやく『ありがとう』が裏返された究極のファミリーロマンスであったことを知らされるのである。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1