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古本夜話375 『国訳禅宗叢書』と二松堂

三井晶史と仏教書出版、及び東方書院と誠文堂新光社の関係などを書いてきたが、その後『国訳禅宗叢書』を入手し、その発行者が本連載160でふれた宮下軍平であることを知った。そこで既述したように、二松堂の宮下は誠文堂新光社の小川菊松と公私にわたる盟友で、小川の『出版興亡五十年』にも語られているように、共同出版に取り組んでいる。しかし二人とも仏教書出版に関係していたことに関しては言及されていない。
[f:id:OdaMitsuo:20140307000239j:image:h120]『国訳禅宗叢書』 出版興亡五十年

大正における仏教書ルネサンスともいうべき「国訳」に代表される出版は、それらの全貌が解明されているとは言い難く、その経緯や背景が不明のシリーズもしばしば見受けられる。そうした意味において、『国訳禅宗叢書』全二十二巻の発行者と出版社が判明しただけでもひとつの発見だし、この叢書が昭和円本時代の『国訳禅学大成』のベースになっているとも判断できるからだ。

私が入手したのは『国訳禅宗叢書』第七巻で、大正九年に刊行されている。奥付表記には編輯兼発行者、発行所として神田区錦町一丁目の国訳禅宗叢書刊行会、その右代表者は宮下軍平とあり、発行所の住所のところに「(二松堂書店内)」と明記されているので、それと代表者の名前から、これが二松堂の宮下による出版だと判明したのである。

この第七巻は『碧厳集』(『碧厳録』)で、その「国訳」と「原文」が菊判七百三十ページ余に及び、この一巻だけでも『国訳禅宗叢書』が大部な出版に属するものだと推測がつく。『碧厳録』は中国宋代の禅文学の代表典籍、中国と日本における禅宗第一の書とされ、正確には目次に示されているように、『仏果圜悟禅師碧厳録』といい、仏果圜悟禅師が原書を碧厳院で提唱したことに由来している。その日本への伝来と出版事情について、記名なき「編者記す」として、次のように「凡例」で述べている。

 碧厳集の我邦に舶載せられたる年月詳ならざるも、足利初期以来、慶長以前に、既に数版の刻本ありて、其の多くは元槧本の覆刻本なり。間々我国刻工の書字によりて刻せられたるものあれど、概して足利時代の刻版は、元、明の覆刻本其の多数を占めたり。徳川時代に入りての刻本は、悉く邦人の書字に基きて鏤刻せしもののみにて、元禄以後に至りては、冠註本尤も広く流布せり。

また「国訳」と「原文」収録に際しては蜀、福、張の三本の唐本のうちの張本によるとも述べられている。この「凡例」から想像するに、『国訳禅宗叢書』全二十二巻は唐本から和本に及ぶそれぞれのテキストの歴史の中から、最良のものが選ばれ、それが「国訳」と「原文」収録に反映されているのだろう。だがそれは誰が選択し、国訳し、収録したのであろうか。国訳禅宗叢書刊行会の編輯者とは誰なのだろうか。それらの疑問に答えるヒントはこの一冊には見出せない。

そこで二松堂と宮下軍平に戻るしかないのだが、これは本連載160でも既述しておいたように、二松堂と宮下による編集と考えるには無理がある。宮下は小川菊松の先輩的存在で、書籍取次の出身であり、明治三十七年に二松堂として独立し、小川の言を借りれば、「取次と雑書の出版」を主としていた。それゆえに「雑書の出版」とはまったく異なる『国訳禅宗叢書』は、宮下や二松堂にとってもふさわしくない企画だと見なしていいだろう。しかも奥付には「非売品」との記載があるので、これは高定価の予約出版と考えられる。

それならば、宮下軍平は国訳禅宗叢書刊行会に名前を貸しただけなのだろうか。本連載160の小川と共同出版した「書画骨董叢書」が同じく予約出版で、これがやはり名前なき「編輯者」によって持ちこまれた企画ではないかと考察しておいたが、『国訳禅宗叢書』も同様で、しかも金融絡みだったのではないだろうか。

これも小川が『出版興亡五十年』に書いているけれど、金尾文淵堂が望月信享の『仏教大辞典』の刊行を企てたが、それが出せずに破綻してしまった。そのために金を借りていた武揚堂の小島棟吉に債務弁済の代償として、『仏教大辞典』の出版権を譲渡したというエピソードが示されている。

おそらく『国訳禅宗叢書』もそれに似たような事情が潜んでいるように思われてならない。ましてこちらは全二十二巻に及ぶ大部な叢書であり、それなりに予約金も集まっていたと推定すれば、何としても完結させなければならない。これも小川が書いていることだが、金尾文淵堂の『仏教大辞典』の予約出版の破綻に絡み、明治四十三年に予約出版法が制定され、発行者に内務大臣へ五百円から千円の保証金納付が義務づけられたことにもよっている。

それゆえに流通販売ルートと金融を、これも記名なき「編輯者」が宮下に依頼し、そのことによって、宮下が国訳禅宗叢書刊行会の代表者となったのではないだろうか。それらの宮下のバックアップによって、この叢書は完結に至ったと見られる。そうした経緯と事情ゆえに、昭和四年には二松堂の円本として、『国訳禅学大成』が刊行されるにいたったと思われる。

なおこの叢書は昭和四十九年に第一書房から復刻されているので、仏教書出版としても重要なものだったとわかる。だが本当にこの「編輯者」とは誰だったのであろうか。

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