『祝祭』第2号
Ⅰ
ひとつの喪失の体験の後を生きながらえている人々がいる。世界の崩壊をまのあたりに見ながら生き永らえている人々がいる。不在の深淵を垣間見た人々がいる。現実の世界から滑り落ち、奈落の底で生きている人々がいる。幸福や希望を持たず、かわりに虚無や絶望を諦念にも似た面持で所有し生きている人々がいる。
そうした人々にとって、幸福や希望や夢はもはや無縁のものだ。暗い眼差を持って現実を眺め、自己の在処の不在を知り、そしてその視線のもとで現物は空無化し、風化した現実はその無残な相貌を晒している。そしてその中から聞こえてくる不在の嗚咽に耳を傾けながら、彼らの存在は無限の空間の裡に投げ出され、死に至るまで悲劇的彷徨を繰り返しながら生きるのだ。
こうした永遠に呪詛する存在として、死の後の生を生きようと決意した人々にとっては、現実の生を生きる人々にとって欠かすことの出来ない幸福や希望や夢にあこがれることは許されない。いやそれどころか、〈幸福なんてまっぴらだ。なによりも幸福はごめんだ。もっとも悲劇的なものをつねに望むことが必要なのだ〉(オスカー・ワイルド)と断じて云い続けねばならない。
わが塚本邦雄もこうした呪われた人々のひとりではなかっただろうか。
モーリス・ブランショは『文学空間』の中のマラルメを論じた個所でこう書いている。
詩句を掘り進む人間は、確実さとしての存在を離れ、神々の不在に出会い、この不在の内奥で生き、その責めを負いその危険をにない、その恩恵に耐える。詩句を掘り進む人間は、一切の偶像を断念し、一切の縁を切らねばならぬ。真理をそれの地平としてはならず、未来をすまいとしてはならぬ。なぜなら彼には希望を要求する権利はないからだ。それどころか逆に、彼は絶望しなければならぬ。詩句を掘り進む人間は死ぬのだ。深淵としての己れの死に出会うのだ。
かくしてここに価値の逆転が生ずる。すなわち、こうした人々にとって、不在を、絶望を発条として、深淵の中で生きること、書くこと、歌うことがひとつの証しとなるのだ。そしてこの不在と絶望の深淵で奏でられた旋律こそが、カフカの云う〈天使の歌〉として、風化された空間に響き渡るのである。
心象は逆立し、風化された現実は撃たれなければならぬ。それはたとえば
<桜の樹の下には屍体が埋まっている>
云うまでもなく、梶井基次郎の『桜の樹の下には』の一節がある。美の背後にも不吉なものの陰影を感じ取らずにはいられない感覚を所有し、表象をそのまま受け止めることが出来ずに鋭利な感覚をとぎすませて、仮象のすがたの奥底にうごめいているものをたえず凝視しようとする感性がある。
あるいはまた埴谷雄高の呪詛の呟き
<ロマネスク。そは絶望の反語なるか> (『不合理ゆえに吾信ず』)
絶望をロマネスクの仮構に託して語らんとする屈折した意識、それこそは塚本邦雄の短歌の世界を流れている旋律なのではなかったであろうか。そして絶望とロマネスクの均衡の上に構築された塚本邦雄の短歌の世界とはどのような様相を呈しているのであろうか。
従来の短歌を読み慣れている者にとって、塚本の短歌の世界はまるで異質の世界の迷宮の裡に呪縛されたかのような不意討にも似た錯覚と困惑を添えて、眼前に横たわることだろう。
短歌と云う日本文学の伝統の中に、西洋文学の系譜を移植し、その徹底した反リアリズムの手法を用い、眩しいばかりの不協和音の旋律が、短歌に、虚空に向けて直立せよ!と呼びかけるが如きめくるめくばかりの光芒を呈して、ひとつの反世界としての言語祝祭空間を確立している。そのレトリック、その言語その実験的表現によってもたらされるところの強烈な印象は、読む者を幻惑させ、あらたなる反世界としての塚本の裡に運び去られてしまうような錯覚を与えずには置かない。
しかしその華麗な表現にだまされてはいけない。まどわされてはいけない。じっと踏みこたえ、そのロマネスクに満ちた世界の奥底に流れる塚本の暗い悪意を含んだ情念を凝視しなければならない。なぜならその暗い悪意に満ちた情念こそが、塚本の短歌を支え、そこから放射された光こそが、塚本の短歌の裡で乱反射し、わたしたちに眩暈を起こさせるのであるから。
あなたがその悪意を知らないのなら教えてあげよう。塚本の悪意の旋律を聞くがいい。
轢死あれ 轢死あれ われは屋上に
蜂の巣の肺抱きて渇くを
少女死するまで炎天の縄跳びの
みづからの円駆けぬけられぬ
どこまでも坊やのさきへさきへ翔ぶ
斑猫と慈善音楽会へ
(つづく)
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