出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

「塚本邦雄私論―〈虚無への供物〉としての短歌」 その1

 『祝祭』第2号

        Ⅰ

 ひとつの喪失の体験の後を生きながらえている人々がいる。世界の崩壊をまのあたりに見ながら生き永らえている人々がいる。不在の深淵を垣間見た人々がいる。現実の世界から滑り落ち、奈落の底で生きている人々がいる。幸福や希望を持たず、かわりに虚無や絶望を諦念にも似た面持で所有し生きている人々がいる。

 そうした人々にとって、幸福や希望や夢はもはや無縁のものだ。暗い眼差を持って現実を眺め、自己の在処の不在を知り、そしてその視線のもとで現物は空無化し、風化した現実はその無残な相貌を晒している。そしてその中から聞こえてくる不在の嗚咽に耳を傾けながら、彼らの存在は無限の空間の裡に投げ出され、死に至るまで悲劇的彷徨を繰り返しながら生きるのだ。 

 こうした永遠に呪詛する存在として、死の後の生を生きようと決意した人々にとっては、現実の生を生きる人々にとって欠かすことの出来ない幸福や希望や夢にあこがれることは許されない。いやそれどころか、〈幸福なんてまっぴらだ。なによりも幸福はごめんだ。もっとも悲劇的なものをつねに望むことが必要なのだ〉(オスカー・ワイルド)と断じて云い続けねばならない。

 わが塚本邦雄もこうした呪われた人々のひとりではなかっただろうか。

 モーリス・ブランショは『文学空間』の中のマラルメを論じた個所でこう書いている。

 詩句を掘り進む人間は、確実さとしての存在を離れ、神々の不在に出会い、この不在の内奥で生き、その責めを負いその危険をにない、その恩恵に耐える。詩句を掘り進む人間は、一切の偶像を断念し、一切の縁を切らねばならぬ。真理をそれの地平としてはならず、未来をすまいとしてはならぬ。なぜなら彼には希望を要求する権利はないからだ。それどころか逆に、彼は絶望しなければならぬ。詩句を掘り進む人間は死ぬのだ。深淵としての己れの死に出会うのだ。
 

 かくしてここに価値の逆転が生ずる。すなわち、こうした人々にとって、不在を、絶望を発条として、深淵の中で生きること、書くこと、歌うことがひとつの証しとなるのだ。そしてこの不在と絶望の深淵で奏でられた旋律こそが、カフカの云う〈天使の歌〉として、風化された空間に響き渡るのである。

 心象は逆立し、風化された現実は撃たれなければならぬ。それはたとえば

 <桜の樹の下には屍体が埋まっている>

  

 云うまでもなく、梶井基次郎の『桜の樹の下には』の一節がある。美の背後にも不吉なものの陰影を感じ取らずにはいられない感覚を所有し、表象をそのまま受け止めることが出来ずに鋭利な感覚をとぎすませて、仮象のすがたの奥底にうごめいているものをたえず凝視しようとする感性がある。

 あるいはまた埴谷雄高の呪詛の呟き

 <ロマネスク。そは絶望の反語なるか>  (『不合理ゆえに吾信ず』

  
       
 絶望をロマネスクの仮構に託して語らんとする屈折した意識、それこそは塚本邦雄の短歌の世界を流れている旋律なのではなかったであろうか。そして絶望とロマネスクの均衡の上に構築された塚本邦雄の短歌の世界とはどのような様相を呈しているのであろうか。

 従来の短歌を読み慣れている者にとって、塚本の短歌の世界はまるで異質の世界の迷宮の裡に呪縛されたかのような不意討にも似た錯覚と困惑を添えて、眼前に横たわることだろう。

 短歌と云う日本文学の伝統の中に、西洋文学の系譜を移植し、その徹底した反リアリズムの手法を用い、眩しいばかりの不協和音の旋律が、短歌に、虚空に向けて直立せよ!と呼びかけるが如きめくるめくばかりの光芒を呈して、ひとつの反世界としての言語祝祭空間を確立している。そのレトリック、その言語その実験的表現によってもたらされるところの強烈な印象は、読む者を幻惑させ、あらたなる反世界としての塚本の裡に運び去られてしまうような錯覚を与えずには置かない。

 しかしその華麗な表現にだまされてはいけない。まどわされてはいけない。じっと踏みこたえ、そのロマネスクに満ちた世界の奥底に流れる塚本の暗い悪意を含んだ情念を凝視しなければならない。なぜならその暗い悪意に満ちた情念こそが、塚本の短歌を支え、そこから放射された光こそが、塚本の短歌の裡で乱反射し、わたしたちに眩暈を起こさせるのであるから。

 あなたがその悪意を知らないのなら教えてあげよう。塚本の悪意の旋律を聞くがいい。

 轢死あれ 轢死あれ われは屋上に
   蜂の巣の肺抱きて渇くを

 少女死するまで炎天の縄跳びの
   みづからの円駆けぬけられぬ

 どこまでも坊やのさきへさきへ翔ぶ
   斑猫と慈善音楽会へ

寵歌變: 塚本邦雄歌集 (新現代歌人叢書 1)『寵歌變: 塚本邦雄歌集』

(つづく)


[関連リンク]
 過去の[同人誌]の記事一覧はこちら

「眩暈としての序章」その3

『VOLO』第4号 昭和51年9月10日発行


       Ⅲ

 遮断機の降りる音が聴こえていた。ここは部屋の中ではなかった。ぼくはここに今茫然として立っている。ぼくはどうしてここまで来たのだろうか。無意識のうちに部屋のドアを開け、白昼の夢遊病者の如く街の中を彷徨い歩き、群衆の中を通り抜けて来たのは確かだ。だがその間の記憶は、先刻襲って来た眩暈によって朦朧としている。

 そんなぼくを促すように背後で再び電車が音を立てて通り過ぎ、ぼくはまた歩き始める。だが眩暈の残像と奥深く立ち上ってくる疲労は、ほんの何メートルも歩かぬうちにぼくを打ちのめす。ぼくは休息を取ろうと通りすがりの喫茶店に入った。

 喫茶店の硝子扉を開け、中へ入ると室内の冷房のきいた空気が身体にまとわりつき、疲労がそのまま凝固してしまいそうな気がする。ぼくは店の奥の席に座り、注文を訊きに来たウェイトレスにコーヒーを頼み、運ばれてきた水を一口ゆっくりと飲み下す。

 傍らの硝子一枚隔てた道路を人々は相変わらず忙し気に歩いて行く。今までぼくもあの中に居たのだ。だがたった数ミリの硝子を隔てただけで、自分がそこにいたと云う意識が希薄になる。そういった思いは、ぼくがあの部屋の中から、変化している風景を見ている時、その風景の中にぼくの占める位置は何もなく、またその風景から自分が排除されていると云う意識をいだくのと相似している。

 ふと店の時計を見るともう五時過ぎだった。円環の中に嵌め込まれた二つの針は鈍角を形成し、周囲に穿たれている十二の数字の文字の上を永遠に回り続けて行くのだろう。二つの針は追いつ追われつしながら、その自己運動を繰り返し、その円環の裡から逃亡することは出来ない。それは有限の領域に於ける無限の反復であり、ぼくの裡の疲労の原因を暗示しているようにも思われるのだった。

 ぼくは眼を閉じる。居心地の悪い喫茶店の椅子も今のぼくには一瞬の慰安を与えてくれるふくよかな抱擁のように思われる。何処にでもあるような雑然とした店の雰囲気、たゆたって流れている音楽、客たちの話し声、そういったものがぼくから隔離され、自分だけ明るい店の中でブラック・ライトによって囲繞されたように、ぼくは追憶と夢想の中に沈み込む。

 するとぼくはまたぼくの荒涼とした感覚の中を、あの声とあの風が通り抜けて行くように思われた。確かに何処かで聴いたような気がする、視たような気がする。

 《あの時、サン・グラスの奥に深く沈んでいたあの風景の中を、あの声が風と共に吹き抜けて行った時、ぼくは立ちすくんでいたのだった。蒼ざめて行く視界の中で、時間は溶け始め、化石のような沈黙が襲い、ぼくは為す術もなく風化して行く自分を感じていた。》

 どの位の間夢想にふけっていたのだろうか。ぼくはふと我に返る。そうだ、ここは街外れにある喫茶店だった。そんな時ドアが開いて三、四人の若者たちが休日のむっとする体臭と共に押し入って来た。ぼくの側を通り、何か声高くしゃべりながら、空いている席に座り込むのをぼくは見た。

 さあ戻らなくてはいけない、あの暗い部屋へ。何も始まらず、何も終わらず、そして全てが存在し、全てが欠落しているようなあの狭い空間へ。

 しかし立とうと思っても、疲労によって身体が呪縛され、椅子に身体が強力な接着剤によって貼り付けられたような状態になっている。立ち上れ!立ち上るのだ!と脳裡では思っても身体は椅子に密着を感じているかのようだ。もうしばらく休もうとぼくは妥協してしまう。

 ぼんやりと硝子越しに外の風景を眺める。外は夏と云うのにもう暗くなり始めている。太陽の光はもはや遮断され、寒色系の色彩に包み込まれている。道路の上には紙屑が散乱し、人々の過ぎ去った痕跡がある。さっきまであれほど蠢いていた群衆は疎らになっている。一体何処へ行ったのだろうか。

 視線を上げて空を見ると、風景が暗くなったのが何処か判る。雲足は速く、空の明るさの残っている部分をグングン染めて行く。それに連れて、窓硝子から射し込む光は次第に褪せ行く。雨が来るのだろうとぼくは考える。早く帰らなくては、雨の来る前に。

 ぼくは弾みをつけるようにして椅子から立ち上り、金を払い、ドアを開ける。外は喫茶店の内部と違って、生暖かく澱んだ空気で充ちている。その差異にぼくの身体は一瞬とまどうのだった。

 その時顔に冷たいものを感じた。もう雨が降り始めたのだった。空を見ると空はもう真っ暗だった。この空模様では雨は止むことなく、次第に激しくなり、しばらく降り続けることだろう。ぼくの出発は遅すぎたのだ。

 ぼくはドアの前に立ちすくみながら、眼の前にあるアスファルトの道路を凝視めた。もうほとんど人通りはなく、先程までの人混みは夢のようだった。道路は今無防備のまま雨に打たれて行くだろう。薄すらと埃を被り、さっきまで白っ茶気ていたアスファルトに雨が突き刺さって行くのが見えた。それは最初は小さな黒い点であったが、次第ににじんでその円周を拡げて行く。

 そしてぼくは髪の毛から雨滴が顔に流れるのを感じながら、アスファルトが次第に真っ黒に塗られて行くのを見ていた。

(おわり)

 次回は「塚本邦雄私論―〈虚無への供物〉としての短歌」


[関連リンク]
 過去の[同人誌]の記事一覧はこちら

「眩暈としての序章」その2       

 『VOLO』第4号 昭和51年9月10日発行


       Ⅱ

 

 目覚めの時は今日もやって来た。重苦しい覚醒の回路を巡りながら、闇に塗り込められた風景の中に、夢とも現ともつかぬ象で存在していた幻覚と幻聴をいつものように反芻しながら、目覚めようとするのだった。悪夢との戦いの痕跡のように、身体の皮膚は生暖かい汗に蔽われ、シーツが身体に貼り付いていた。

 暑かった。レースのカーテン越しに、夏の光が射しこみ、寝起きのけだるさがゆらゆらと立ち上って行くかのような熱気を感じた。だが身体は慢性的な疲労から抜け切らず、もはや少年期の爽やかな睡眠からの解放とは無縁だった。そして毎日の過度の酒と煙草のために、口の中にはそれらの独特の残滓がこびりついていた。

 頭上の開け放たれた窓から、時折吹く風によってカーテンがひらひらと揺れ、夏の熱気と共に、遠くから子供たちの遊んでいる声と自動車の響きが聴こえて来た。ぼくは緩慢に起き上がり、机の上に置いてある煙草を取り、火を点けて、一日の始まりの最初の一服を吸う。その一服がまたいつものように嘔吐感をもたらすのを知っているのに。

 立っているのがけだるく、窓際に置いてある机の前に座って、ぼくはぼんやりとした視線を、窓によって四角く区切られた風景に投じた。それは何の予感も予兆もなく、相変わらず自然の中で樹々や草々の緑は青く、ぼくの眼を射た。太陽はその上に懶気な熱気の籠もった光を浴びせかけていた。何のこともない、ありふれた夏の一日だった。

 ぼくの部屋にも何の変化もなかった。本棚に乱雑に積み重ねられた書物、埃が薄っすらと被っている机、その上に拡げられている読みかけの本、脱ぎ捨てた衣類のかかっている椅子、ベッドカヴァーがずり落ちそうになっているベッド、もう久しく聴いていないレコード類、サイドテーブルや机の上、至る所に吸殻で一杯になっている幾つかの灰皿、飲み残しのウィスキーの入ったグラス。そして永遠に止まってしまったかのように見える目覚まし時計、それは久しい間同じ時刻を指し続けている。

 何も変わってはいなかった。全てが存在し、全てが欠落しているようなこの狭い空間、それがぼくの部屋だった。窓越しに見える外界の風景が季節によって、天候によって変化して行くのに比べて、この部屋の中は少しも変わらず、何事も起こりはしなかった。いやそう考えるのは早すぎるかも知れなかった。ひょっとして、ぼくの無意識の裡に、全てが始まり、全てが終わってしまったのではないかという疑惑に取り憑かれることもあった。

 だがこの住み慣れた部屋の中では、時間というものが停止しているかのようだ。ぼくの記憶の中では、この部屋は時間の浸蝕に耐え、その変らぬ光景を常に保っていた。そして今も部屋は静謐に時間を止めて、ぼくを包み込み、無気味なまでの沈黙の裡に沈んでいた。

 ぼくの生活、そこにも何の変化もなかった。長い間、ぼくは硝子一枚隔てられた部屋の中で毎日を過ごしていた。この部屋の中で、一本の煙草と一杯のウィスキーの中に、あらゆる物を押し込めていた。一本の煙草が灰になって行き、グラスの中の氷がウィスキーと戯れながら溶けて行く、そんな現象を凝視めて、ぼくは時を過ごしていたのだった。

 いつも目覚めるのは黄昏時に近かった。眠りの時間の恐怖のために、眠りにつくのはほとんど朝方だった。泥酔した状態でベッドに入る時、ぼくはいつも怯えるのだった。夢の暗黒の中でのっぺらぼうの顔をした夢魔の如き者に襲われる恐怖ゆえに。
 それは例えばこんな風にやって来る。

 《半睡んでいたのだろうか。睡魔と覚醒のせめぎ合いの中で、ぼくは彷徨っていたのだろうか。
 視界の中には、まだ何も見えてはいなかった。そこにはただ闇があるだけだった。しかし身体には奇妙な蝕知感があった。闇の中を翔んでいる意識の断片が交錯し、そして凝縮しながら、ぼくの体内へと落下する。ぼくは目覚めた。意識はいまだ朦朧としていたが、ぼくは何者かの気配を感じていた。闇の中で、何者かが蠢いている。その時すでにぼくの意識は、不意打ちにも似た怯えを感じていた。瞬間的に、ぼくはその奇妙な感触と気配の正体を確かめようと、その気配のする傍らに顔を向けると、ぼくの隣に誰かが臥せになって寝ていて、ぼくの腕を掴んで離そうとはしない。

 そうしているうちに、そいつはぼくの努力を嘲笑うように笑い声を上げた。その笑い声は、ぼくには無限に続くかのように思われ、闇の中に響き渡った。そしてそいつは笑い声を上げながら、ベッドの上に臥せにしていた顔を上げて、ぼくの方へ向けた。

 ぼくは思わず声にならない声を上げた。そいつの顔は、眼も口も鼻もなく、のっぺらぼうであったのだ。闇の中で浮き上がって見えるほど、そいつの顔は白く、また逆に頭髪は漆黒で顔に垂れていて、男とも女とも区別がつかなかった。

 云い知れぬ恐怖と不安は絶頂に達した。ぼくはそいつから身をひねって逃れようとした。その時、ぼくはまた奇妙な感覚を覚えた。それは自分の身体が宙に浮いていると云う感覚だった。いやそんな筈はない、ぼくは今までベッドの上に寝ていたのだからと思って、ベッドを見るとそれは消滅していた。

 そしてぼくの身体とのっぺらぼうの身体は、暗黒の宙に浮き、ぼくは闇の中を自由なもう一方の手で、つかまることの出来るような物を捕えようとするのだが、何も手に触る物はない。ただ闇の中で、のっぺらぼうの笑い声だけが響いている。

 ぼくは次第に意識を喪って行く自分を感じていた。のっぺらぼうに腕を取られて、自分の身体が無限に落下して行くのを感じたそのスピードが加速され、無限とも思える暗いトンネルの中へ堕ち込んで行きながら、ぼくは意識を喪って行ったのだった。》

 また目覚めの時も同じだった。いつ目覚めても、その瞬間に遭遇する時の苦痛は眠りに対する恐怖と等しかった。暗闇がそこにあり、ある瞬間一点の光が次第に膨張して行って、チカチカと眼球を擾乱させ、ぼくの脳裡でせめぎ合い、目覚めの時の暗鬱な風景がフラッシュ・バックのように次々と浮かび上がり、その速度はやがてスローモーになり、ぼくの意識の上に固定されて行くのだった。眠りの恐怖から目覚めの苦痛へとぼくの日々は廻転した。

 その二つの狭間の時間をぼくはこの部屋でほとんど何もせず、ぼんやりとして過ごすのだった。かつて貪るようにして読んだ小説や詩もほとんど読まなかった。ただ唯一読むものと云えば、全て精神分析に関する本だった。時折ぼくはビンスワンガーやミンコフスキー、ヤスパース、それから精神分裂病者の手記等を開いた。それもほとんど晦渋なよう本に充ち本文を読むのではなく、ひたすら挿入されている病者たちの症例だけを何度も何度も拾い読みするのだった。そしてそこに示されている事例の中に、自らの事を発見し、遠い異国に存在した病者たちに限りない親近感を覚えると同時に、自己の裡に感応する奇妙な衝動に畏怖するのだった。

 一冊の書物に封印された狂者たちの奔放に錯乱する心象の群れが、熱いウィスキーの塊と共に体内に流れ込む時、ぼくは思わず慄然とし、二十ワットの電球のあかりの下で自分の背後から何者かが忍び寄り、這い上って来るような気配に襲われるのだった。そんな時ぼくはゆっくりと首を廻して背後を覗いてみる。だがそこには何もなく、薄闇の中に見慣れた光景があるだけだった。

 ぼくの意識は現実と幻覚の境界を揺曳していた。しかしそのうちにその境界線は明確な輪郭を失い始め、ぼくの存在自体もその象を溶解し始め、ぼく自身が次第に幻そのものへと転移しつつあるのではないだろうか。


(つづく)


[関連リンク]
 過去の[同人誌]の記事一覧はこちら


【お知らせ】
 小田光雄の70冊目の著書『近代出版史探索外伝Ⅱ』がいよいよ刊行になります。本書は論創社のホームページに連載されたコラム「本を読む」100編に未発表原稿10編、生田蝶介『原城天帝旗 島原大秘録3』と新木正人『天使の誘惑』の「解説」などを加えて単行本化したものです。
 小田光雄の著書ではめずらしく、「本を読む」のタイトルどおり、少年期の農村の駄菓子屋兼貸本屋、町の商店街の貸本屋や書店、隣市の古本屋、そして中高生時代の学校図書室での読書体験などがふんだんに織りこまれています。
 4月28日刊行です。お手に取っていただければ幸いです。

近代出版史探索外伝Ⅱ   原城天帝旗 (島原大秘録)  天使の誘惑

ronso.co.jp

「眩暈としての序章」その1

 『VOLO』第4号 昭和51年9月10日発行


 アスファルトの道路から立ち上る陽炎の中に、熱気を籠めて夏は顕現れていた。揺らめく陽炎は道路を疾走する自動車によって、一瞬の間破壊され、自動車の通過と共にその揺らめきを取り戻していた。破壊と再現、再現と破壊、その単調な繰り返しの中に、陽炎は初夏の時間を抱擁している。

 街は抜け上がるほどの青い空と錯乱する夏の陽射しと色とりどりの服装をした人々によって彩られ、その原色の氾濫は、街の中に佇立する色の濁った無数の建築物との間で、奇妙なまでの調和の裡に沈んでいた。

 そしてその街を通り過ぎる人々の群れ。腕を組んで楽しそうに歩いて行くアヴェック、子供を真中に挟んで、デパートの買物袋を下げた夫婦連れ、陽焼けした顔を綻ばせながら駆けて行く少年たち、あるいはそんな中を忙し気に通り抜けて行く単独者たち――。

 夏の錯乱の中で、街は今豊穣の時を迎えようとしているのだろうか。街の外面的喧噪とは逆に、その風景はサイレント映画の映像のようにぼくの目に映る。音がないというのではないが、そこで発せられる言葉は遠い異国の原語のようにぼくの耳には聴こえるのだ。

 そんな静謐とも横謐ともつかぬ書割のような街の中をぼくは歩いていった。ぼくは歩くにつれて、自分の身体の内奥から緩慢に湧き上がって来る疲労に呪縛されて行くのを感じていた。その云い知れぬ疲労と共に、足下から伝わって来る夏の胎動と街を横切る群衆のエネルギーが、ぼくの歩行を息苦しいものとして行く。そして頭上から照りつける熱い光線は、ぼくの裡の説明することの出来ない何物かに投射され、それが病原菌のように膨れ上がり、中枢神経を侵触し、歩く度に苛立ちと焦燥感となって蠢いている。

 迷路のような街を彷徨い歩き、何処をどう巡って来たのだろうか。街の風景は変容してしる。いつの間にか街外れまで来てしまったらしい。ぼくは今遮断機の前に立ち尽くしている自分を発見する。

 陽炎の揺らめいている線路の上を向こうから電車がやって来る。赤茶気た線路の上を走る電車の車輪を思わず見ていると、自分を轢殺するために車輪か廻転しているのではないかという妄想に捉われる。その瞬間、陽炎が飛散し、電車は音を立てて眼の前を通り過ぎる。その時緑の車体の横腹に、ぼんやりとぼくの姿が映る。その映像は何か脆弱な人形のように思われる。何秒かの後、その電車は通過してしまい、前方にぼくの姿は見えず、白昼の風景がまた荒涼と拡がっているのだった。

 ゴオと云う震動の中に身を沈めて、ぼくは儀式に赴くような気持で遮断機の上るのを待つ。何故か堪え難く、背後から殺意の籠った視線で射抜かれているような強迫観念に襲われた。そう云った間にも太陽はサンサンと照りつけていた。踏み切りを渡りながら、そうした形象のない強迫観念は眩暈となってぼくを不意討ちにする。それはぼく固有の幻覚なのだろうか。

――だがオルフェウスよ、ぼくは今お前の衝動を理解出来る。お前もこうした眩暈の瞬間に遭遇した時、お前は背後を振り返ったのだ。

「立ち止まれ!」と何処からか命令を受けたような気がする。踏み切りを通り越した時、ぼくは立ち止まる。そんなぼくの傍らを人々は何の声も聴かなかったかのように通り抜けて行く。

 気を取り直そうとポケットから煙草を出して口に咥え、最初の一服を肺の奥まで吸い込むと、今自分の立っている道路が傾斜し、眼前の風景が揺れ、蒼ざめて行くのを感じた。その寒色系の画面の中で、ぼくはしばらく立ちすくむ。それから煙草を捨て、深呼吸をして、格にするように眼前の風景を凝視めると、前を歩いている人々の華やかな服の色彩の中に吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥った。だがその錯覚は一瞬の事で、それはすぐ自分の身体の内部での変化として表われ、気づいた時ぼくの身体は揺れ始め、道路ごと自分が無重力の状態のまま沈下して行くのを感じた。ぼくはその沈下に耐え切れず、そのまま道路の傍らに眼をつむり身体を丸めてしゃがみこむ。

 眩暈と意識の旋回のうちで、こう云った状態に遭遇したのはこれで何度目だろうかとぼくは自問した。だが幾度問うても、原初の記憶の細糸はぼくの裡に蘇って来ない。その初発の瞬間は暗闇の彼方に封じ込められたままだ。

 しばらくして、ぼくはそのしゃがみこんだ姿勢からゆっくりと立ち上がり、眼を開くと風景は元通りに回復していた。しかし身体にはまだその余燼が残存していてけだるい。側にある電柱に軽く身体を凭せ掛け、視線を空に向けると、太陽の光と青い空が眼に沁みた。ぼくは再びゆっくりと眼を閉じる。

 だがこうしていると微かな風のそよぎと共に、微かな心象の群れとあの声がルフランとなって擦り抜けて行くのを感じる。かつて確かに聴いたような気がする。それは何時だったろうか。何処だったのだろうか。それとも未だ起ってはいない未だ存在もしないような幼年期における、なかったところの既視体験に過ぎないのだろうか。いやそれとも、それは寝苦しい夜に見た夢の中の一情景に過ぎなかったのだろうか。

 だが確かに何処かで聴いたような気がする。視たような気がする。幻点だ。

《あの時、サン・グラスの奥に深く沈んでいたあの風景の中を、あの声が風と共に吹きぬけて行った時、ぼくは立ちすくんでいたのだった。蒼ざめて行く視界の中で、時間が溶け始め、化石のような沈黙が襲い、ぼくは為す術もなく風化して行く自分を感じていた。》

 夢とも現ともつかぬあの時とは、ぼくの存在にとって一体何を意味するのだろうか。あの時は限定し定義づける事の不可能なまま、宙づりの状態で放置されるべき出来事に過ぎないのだろうか。あの時とは夢か現か幻か、だが確かに幻点は存在するに違いなかった。


(つづく)


[関連リンク]
 過去の[同人誌]の記事一覧はこちら

「ロス・マクドナルド論――ハードボイルド派の〈神話〉」その13

 『VOLO』第3号 昭和50年10月1日発行


   ⅩⅢ 優しさと諦念と

しっかりしていなかったら生きていられない。
やさしくなれなかったら、生きている資格がない。①
                    
(チャンドラー『プレイバック』 
 
                                                   

 「失われた父の伝説」と「偉大なる母親の物語」、そしてエディプス・エレクトラの子供たちを果核として、謎の失踪に始まり殺人が起こる。しかし今、全ての真相は明るみに出され、リュウ・アーチャーは暗い諦念と優しさを持って、犯人たちの前に立ち尽くす。アーチャーの心を横切るものは次のような想いに他ならない。

 悪漢もいなければ英雄的主人公もいない。ありふれたお話だ。賞められるべき人間も、責められるべき人間もいない。みんな辛い目をみているのだ。
                             (『魔のプール』

                     
 そして中編『ミッドナイト・ブルー』の中で、「わたしたちはみんな哀れな生き物だった」と悲痛な呻きを洩らす。アーチャーにとっては殺人者たちさえ、かかる哀切の対象なのである。アーチャーには他の探偵たちのように、犯人を前にした自己の能力に対する満足も思い上がりもなかった。そして「この連中の良心が何処へ行こうと俺の知ったことではないとひとりごちる」②こともなかった。アーチャーの心に存在するのは、殺人者たちに対する憎悪や怒りではなく、ただ共犯感情と同情だけだった。

ミッドナイト・ブルー (創元推理文庫 132-7 ロス・マクドナルド傑作集)

 なぜなら、「失われた父」と「偉大なる母」の世界で、「父」や「母」や「子」であることも、になることも拒否され、存在の在処を失い、アイデンティティを喪失し、失われた存在の一瞬奪還を企てるために、幻惑の一瞬の裡に、殺人を犯すことを強いられた人々こそ、マクドナルドの世界の殺人者たちに他ならない。アーチャー自身もかかる殺人者たちと同じ意識、同じ渇望に捉われていることに覚醒し、彼らに対する共犯感情と同情を隠すことが出来ないからだ。そして本来ならば探偵と殺人者とは正反対の位置にあるのだが、アーチャーの場合には、意識的には密通の回路によって繋がっていると云ってもいいのである。例えばいくつかのクロージングを見てみよう。

 「俺は君を憎んでないよ。反対だ」
 私はかつて警官だったので、この言葉はやっと出て来たのだった。しかし、私はそう言わねばならなかったのだ。この世には善人と悪人しかいないという考え、そして、もし善人が悪人を監禁したり、小さな個人的核兵器といったもので根絶しにすれば万事大平だというような昔からの単純な社会通念に対して今後も戦って行くことを望むかぎり、私はそう言わねばならなかったのだ。
                               (『運命』

 署名のあとに、トレヴァ(註―殺人者)は付けたしてあった。
 「わたしの魂に神のお慈悲がありますように」わたしの魂にも、とわたしは思った。それから、便箋のその一ページを裂きとり、トレヴァの手の届かない棚の上にのせた。洋服箪笥の扉のむこうには、さまざまな影が眠りこけた犬のように横たわっていた。くらやみとしずけさ。わたしたちはもう喋らなかった。
                             (『ウィチャーリー家の女』                        

  わたしたちが通りすぎる時、女乞食が手を差し出した。わたしはもう一度金を恵んでやった。だがハリエット(註―殺人者)に恵んでやれるものは、何一つ持ちあわせがない。私たちは刻々と変る日没の光を浴びながら、水の涸れた河床のような道を歩き出した。
                               (『縞模様の霊柩車』) 縞模様の霊柩車 (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-2)

 殺人の真相が発覚した後、殺人者たちに残されているのは、「くらやみとしずけさ」、即ち〈死〉に他ならず、アーチャーは「俺は君を憎んでないよ。反対だ」と云いながら、「恵んでやれるものは、何一つ持ちあわせがない」と云う悔恨にも似たものが去来するのである。深い悲しみと優しさで、アーチャーは殺人者たちを凝視する。その視線には「わたしたちは皆同じ世界に生きているのだ」と云う声が含まれているような気がしてならない。そしてアーチャーの心の中には、「慈悲」と云う言葉が知らず知らずのうちに浮かび上がって来るのである。

 「あなたは、正義に対するひそかな情熱を抱いている。正直に認めたらどう?」「いや私は、慈悲に対してひそかな熱情を抱いているのだ」
                               (『別れの顔』別れの顔 〈リュウ・アーチャー・シリーズ〉(ハヤカワ・ミステリ1101)

                    
 しかしアーチャーはなぜ憑かれたように事件を追い求めて行くのか。「慈悲」に対する熱情を抱きながら、アーチャーが検証しようとして止まないもの、それは殺し、殺され、死んで行く者たちが強いられた〈運命〉と云う〈神話〉をひたすら確認するためであり、その終局としての〈死〉に呪縛された人間の悲劇的な存在の行方に他ならないのである。

 そして、アーチャーは優しさと諦念と慈悲を秘めて、ロス・マクドナルドの見出した〈運命〉と云う〈神話〉を生きる人々の「悲しみを悲し」みながら、失墜と崩壊と喪失と云った強迫観念に捉われ、暗く蒼ざめた世界の中に立ち尽くすしか術はなかったのである。そうだ、失われた人であるアーチャーにとって他に何が出来よう。〈運命〉に強いられた人々の「悲しみを悲しむこと」以外に。


 註① フィリップ・マーロウのセリフ
 註② ボオドレール『火箭』
 註③ 『ウィチャリー家の女』「私はウィチャリーの悲しみを悲しむことになるだろう」より

 引用文は創元推理文庫、早川ミステリブックスの翻訳を利用しましたが、所々私訳した部分もあることを断わっておきます。


『VOLO』第3号 【編集後記】
 部屋から出ると太陽が眩しく眼を射る。ぼくはサングラスをかける。すると眼前の風景は寒色系の画面に変わり、口にくわえた煙草の煙が何かの合図のように立ち登る。そしてぼくは陽炎の立ちこめる舗道の上を歩き始める。一体何処に行こうとするのだろうか。ぼくはいつになったら翔ぶことが出来るのだろうか。――そして遠い空にいるSよ、君は今どうしているだろうか。(光)

~~~~~

 この後も小田光雄は同じ視座から一貫して同じテーマを追い求め、2010年(つまり35年後)にはシリーズ「ゾラからハードボイルドへ」を書き、それは『近代出版史探索外伝』として結実している。(小田啓子)

odamitsuo.hatenablog.com

 近代出版史探索外伝


次回は「眩暈としての序章」


     [関連リンク]
 過去の[同人誌]の記事一覧はこちら