かなり前のことだが、都市住宅学会関西支部長の舟橋國男から、同学会での郊外をめぐるシンポジウムの基調講演の依頼を受け、大阪へ出かけていったことがあった。当時舟橋は阪大大学院建築工学の教授だったと思う。確認してみると、それは前世紀の一九九九年のことで、あれからすでに十五年も過ぎてしまったのかという感慨を禁じ得ない。
このシンポジウムは同年の十月に第一回「郊外の歴史と役割」、十二月に第二回「郊外文化と郊外のことから」として開かれ、私が参加したのは後者である。だがこれらのことをよく覚えていたわけではなく、何か資料が残されていたはずだと探したところ、『「郊外」を考える』と題された、社団法人都市住宅学会関西支部発行の「1999年開催シンポジウム記録集」が出てきた。それでようやく確認することができた。そして自らの講演内容についても。
当時私は前年に出た渡辺京二の『逝きし世の面影』(葦書房、平凡社ライブラリー)を読み、幕末から明治にかけて日本を訪れ、その記録や回想を残した異邦人があまりにも多く、この時代に関して、異邦人による膨大な記述が残された国は日本だけではないかと考えていた。だがそこで問題とすべきは、異邦人たちの眼差しがどこからやってきたかということで、どうして彼らの眼に農業と手工業を基盤とする、閉ざされた小宇宙(ミクロコスモス)に他ならない日本がユートピアのように映ったのかを問う必要があった。
そのためにこちらの眼差しを異邦人たちの国に向けてみると、同時代において、イギリスでは産業革命が進み、公害を伴う工業社会が完成し、フランスではパサージュやデパートも出現し、新たなる欲望を喚起する消費社会が形成され始めていた。つまり幕末から明治にかけて来日した異邦人の背後にあるのは、前期資本主義を象徴する工業社会や消費社会に他ならず、それらについてはハンフリー・ジェニングスが『パンディモニアム』(浜口稔訳、パピルス)、ヴァルター・ベンヤミンが『パサージュ論』(今村仁司訳、岩波現代文庫)で描き、論じていたことになる。
また実際に一八七一年の岩倉使節団はそれらを目撃しているのだ。この幕末維新期最大の使節団は、新政府と幕府の双方を代表する人物が混在し、一年十ヵ月に及ぶ欧米をめぐる長い旅程を経てきた。その記録は久米邦武編『特命全権大使米欧回覧実記』(岩波文庫)として提出され、それは同時代の欧米のエンサイクロペディアともいえるが、そこにはロンドンの工業社会、パリの消費社会との遭遇も記されている。これらを通じて日本の近代化のイメージが造型され、農耕社会の日本は工業社会、消費社会をめざし、近代から現代にかけて進んできたのであり、それには産業構造の転換、都市への人口集中、郊外の誕生が必然的に生じたことになる。
私の講演はこのような前提から始まり、しかも郊外に関しては東京を中心とする関東を例とし、ロードサイドビジネスと文学をメインとしていたこともあって、都市住宅学会関西支部のテーマとしてはあまりふさわしくなく、まったく受けなかった印象が強い。それはまたこの学会が学際性や業際性を謳い、私のような部外者を招く見識はあっても、アカデミズム特有の専門領域に関するヘゲモニー問題も否応なくつきまとっているようにも思われた。ただこのシンポジウムに参加して教えられたのは、郊外のイメージが関東と関西ではかなりちがうのではないか、私が関西の郊外に関して無知であり、歴史も含めてトレースする必要があるということだった。
ちなみに第一回の基調講演は片木篤、第二回のパネリストの一人は角野幸博で、この二人が前回取り上げた二〇〇〇年刊行の『近代日本の郊外住宅』との編著であることは偶然ではないだろう。
そのような事情ゆえに関西の郊外文献も多くはないにしても、目に入る限り読み続けてきた。そこで今回は前回の小林一三との関連から、『宝塚市史』と「阪神間モダニズム」展実行委員会編著『阪神間モダニズム』にふれておきたい。なお後者には「六甲山麓に花開いた文化、明治末期―昭和15年の軌跡」のサブタイトルが付されている。
前回、日本近代の田園都市、及び私鉄と郊外開発の先駆けであり、範となったのが阪急電鉄の小林一三で、彼こそは日本のハワードと呼んでいいのではないかと記しておいた。
小林は鉄道から始まって、住宅地開発分譲と建設、それらに加えて郊外のエンターテインメントインフラである遊園地、動物園、温泉、劇場、ターミナルデパートとしての阪急百貨店をも設立し、日本版田園都市計画の範を示したことになる。そしてそれは東京の郊外開発へと継承されていったのである。おそらく映画『フラガール』のモデルとなった常磐ハワイアンセンターにしても、東京ディズニーランドにしても、そのコンセプトは小林の宝塚を抜きにしては語れないだろう。
前回は主としてそれらの軌跡を、小林の私史『逸翁自叙伝』などに見てきたが、今回は地方史誌としての『宝塚市史』からたどってみよう。『宝塚市史』第三巻は第三章「宝塚文化の開花」の中で、宝塚という「新しい街」の推移について、「宝塚における明治期の新しい街は湯の街であり、大正期の新しい街は少女歌劇とパラダイスの街であったが、昭和初期の新しい街は住宅街である」と述べている。これらは明治十年代における宝塚温泉の発見とそれに続く温泉場の建設、箕面有馬電鉄の開通に伴う大正初期の宝塚少女歌劇の公演から宝塚音楽歌劇学校の設立、昭和に入ってからの郊外の開発による新しい住宅地の出現へとつながる一連の流れをさしている。
これも前回既述しておいたが、郊外の出現は明治末期からの箕有電鉄、後の阪急による池田室町の新しい住宅地開発と販売を嚆矢としている。そして大正九年には神戸線、翌年には西宮北口宝塚間の西宝線が開通し、『宝塚市史』に収録の「阪急沿線別住宅地増加図」を参照すると、阪急沿線の住宅地は一九三二年頃には二十万坪だったが、急増し、三八年には百万坪を超え、わずか六年で五倍になっている。それに比べれば、戦後に入ってからは微増だといっていい。この事実からすれば、関西における郊外のイメージとパラダイムの成立は戦前にあったことになる。
とはいっても、『宝塚市史』が歴史的検証を行なっているように、明治初期段階における原初の姿は農家が集落を形成し、村定めなどの規範に基づき、一定の領域において生産と生活を営む自然村=村落であった。具体的に示せば、一八七九年の宝塚は十二の村からなり、戸数は六百四十余、人口は二千八百ほどだった。それが阪鶴鉄道に続く箕有有馬電鉄の開通によって、郊外住宅地が買収、開発されていった。そして宝塚には新しいホテル、梅園、ゴルフ場、植物園などが設立され、かつての自然村は新たに移ってきた住民たちの新しい街へと変貌していく。それは阪急電車の一日平均乗客数にも表われ、一九二四年に一万三千人強だった乗客数は、その十倍近い十三万人弱へと増加している。
住宅地開発は阪急のみならず、他の私鉄や土地会社も加わっていて、その「沿線土地案内図」が『阪神間モダニズム』に収録され、花屋敷土地会社住宅経営地、三楽園・苦楽園住宅経営地、大神中央土地株式会社夙川香櫨経営地、今戸土地区画整理組合地区、甲子園住宅経営地などのカラーパンフが示されている。それらの住宅経営地を論じた坂本勝比古「郊外住宅の形成」によれば、明治から昭和初期にかけての阪神間の住宅開発は二十にも及んでいて、小林以外にも多士済々だったとわかる。それらの家の六麓荘経営地区、精道村耕地整理地区、御影・住吉住宅地、雲雀丘住宅地などはモノクロ写真による街並みと住宅の紹介であるけれど、明らかに高級住宅地のイメージが伝わってくるし、否応なくロバート・フィッシュマンの『ブルジョワ・ユートピア』(勁草書房)を想起してしまう。
『阪神間モダニズム』はこのような郊外住宅地から始まって、近代和風邸宅、美術工芸的住宅、ヴォーリズ設計住宅や大学、スパニッシュ・スタイル住宅、それらに携わった多彩な建築家たちへの言及が続いていく。次にそうした郊外住宅地とオリジナルな住居を背景とする新しいライフスタイルが取り上げられ、スポーツ、ガーデニング、女性たちのカルチャー活動と百貨店を舞台とする消費生活、昭和のベル・エポックのファッション、ホテルという洋風文化装置、芸術家や蒐集家たちの存在と動向、出版と教育機関などにも証明が当てられていく。
したがって『宝塚市史』とは異なり、『阪神間モダニズム』が体現しているものは、鉄道の開通に伴った郊外住宅地の発展とともに歩んだ新しいライフスタイルの誕生であり、それは欧米文化のすみやかな影響と浸透に寄り添う現象だったことになる。その検証と顕彰が『阪神間モダニズム』という一冊の意図するところで、これは九七年に兵庫県立近代美術館、西宮市大谷記念美術館、芦屋市立美術博物館、芦屋市谷崎潤一郎記念館で同時開催された「阪神間モダニズム」展の公式カタログなのである。
つまりここで発見、表象されている阪神間の郊外住宅地とはあくまで公的美術館、博物館、文学館からの眼差しによるものであることに留意すべきだろう。もちろんそれが九五年の阪神大震災からの再生への願いがこめられていることを承知しているにしても。そして私も招かれた一九九九年の都市住宅学会関西支部の「『郊外』を考える」シンポジウムが、そのような関西における郊外の位相のもとに開かれたことを知るのである。そこで私が述べた郊外は、ロードサイドビジネスに覆われた画一的消費社会であり、『阪神間モダニズム』に示されたハイブロウな郊外ではない。それに加えて、建築や都市計画を専門としない私の基調講演は受けるはずもなかったことが了承される。
しかし『宝塚市史』を通読しただけでも、そこに至る過程において、つまり膨大な農地が郊外住宅地へと変貌する過程で、多くのドラマが起きていたと推測できるし、それはいわば原住民と植民者の闘争とも呼べるものだったであろう。私はフランス十九世紀後半の社会を描いたゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」の編集者兼訳者でもあるので、ゾラがその第二巻『獲物の分け前』(伊藤桂子訳、論創社)において、オスマン計画によってパリがそれこそ新しい街へと改造されていく過程で何が起きていたかを知っている。また梶山季之の小説『悪人志願』は堤康次郎をモデルとして、土地開発と買収の実態を描いている。
『阪神間モダニズム』はフィッシュマンのいう「クラシック郊外」の提出に成果を挙げているにしても、それらの郊外の起源に他ならないドラマや出来事を捨象しているのではないだろうか。