ひとつの街が衰退し始め、その代わりに郊外が成長していく現象は、一九八〇年代以後の日本において、全国各地で起きていた出来事であり、現在の私たちはそれらによってもたらされた社会の風景の変容の果てに佇んでいることになる。
そうした街とその周辺に生きる住民の視点と心象風景から、社会の変容の初期過程を描いた連作小説集というべき一冊があって、それは佐藤泰志の『海炭市叙景』として、九一年に刊行されている。「海炭市」とはもちろん架空の土地だが、佐藤の生まれ故郷の函館市をモデルとするもので、人口三十五万人の街とされ、次のような説明がある。
元々、海と炭鉱しかない街だ。それに造船所と国鉄だった。そのどれもが将来性を失っているのは子供でも知っていた。今では国鉄はJRになってしまったし、造船所はボーナスの大幅カットと合理化をめぐって長期のストライキに突入したままだ。兄の炭鉱でも、将来の見通しを一番身近に感じていたのは、おそらく組合員自身だったろう。街は観光客のおこぼれに頼る他ない。
この「海炭市」という命名にはかつての北洋漁業の全盛、及び実際には函館に炭鉱はないけれど、北海道が全国有数の炭鉱地帯だったことが反映されているのだろう。それに加え、引用文から、「海炭市」にも戦後社会のエネルギーや産業構造の転換に伴い、かつての公的基幹産業である炭鉱、造船、国鉄にも合理化、リストラ、民営化の波が押し寄せ、それらに関連する諸工業やビジネスにも不況が顕在化してきているとわかる。そして否応なく、「街は観光客のおこぼれに頼る他ない」という状況へと追いやられ始めているのだ。
戦後社会は一九七〇年代前半のオイルショックによって高度成長期に終止符が打たれ、工業社会から消費社会へと離陸しつつあった。そのような産業構造の変容は都市から始まって地方へとも波及し、それは八〇年代以後の郊外消費社会の隆盛へともつながっていく。「海炭市」に例をとれば、漁業とその関連産業、造船、炭鉱に伴う諸工業から「観光客のおこぼれに頼る」サービス産業への転換を意味していよう。
しかしこの『海炭市叙景』連作が発表されたのは八八年から九〇年にかけてで、まだバブル経済は崩壊しておらず、北海道の金融の要に位置する拓銀の破綻は九七年になってからであり、ひどく深刻な不況下に至っていなかったことに留意すべきだと思われる。すなわち『海炭市叙景』は九〇年末の佐藤の自死とも重なってしまうが、そのような来るべき風景を予見した作品集といっていいのかもしれない。それは第二章の「黒い森」の中に書きこまれた「何かがほんの少しずつ狂いはじめているのだ」という一節にうかがうことができる。
『海炭市叙景』にはこの土地で暮らす人々の十八の物語が収められているが、詩人の福間健二の「解説」によれば、佐藤の構想は三十六の物語から形成される作品世界となるはずで、第一章の「物語がはじまった崖」が冬、第二章の「物語は何も語らず」は春、さらに夏と秋の章が続くことになっていたという。また付け加えておくと、十八の短編のタイトルはすべて福間の詩から採られたもので、その事実は『海炭市叙景』の「叙景」が福間の詩と結びつくことによって成立し、織りなされていった事実を告げている。
このことを確かめるために『福間健二詩集』(思潮社)に目を通してみたが、それらの痕跡を見出せなかった。ここに収録されていない福間の他の詩集によっているのだろうか。
そうして先に引用した部分を含んだ、最初の「まだ若い廃墟」が書かれ、『海炭市叙景』の冒頭に置かれることになったのである。このタイトルは「海炭市」の現在を表象するものとして選ばれたと考えられる。まずはこの短編を見てみよう。
失業した若い兄妹がいて、妹の視点から「まだ若い廃墟」は語られていく。二人は六畳一間のアパート暮らしで、ありったけのお金の二千六百円を持って、兄が「初日の出を見に山へ行こう」と言い出し、妹もすぐに「素晴らしい思いつきだ」とそれに従った。夏の観光シーズンには夜景を見る目的で、よそから多くの人々が山を訪れるが、妹は一度しかなく、兄に至っては一度も夜景を見たことがなかったのだ。兄は山に登るどころか、鉱夫の父が事故で死に、その代わりに高校を中退して炭鉱に入り、地下で働く日々を送ってきたのである。母は二人が幼い頃に家を出てしまっていた。しかし去年の春、炭鉱は閉山し、一時的な組合による反対運動はあったものの、結局のところ残されたのはわずかな退職金だけで、職安には人があふれるようになった。兄は二十七歳、妹は二十一歳だった。
二人は除夜の鐘が鳴ってからアパートを出て、ロープウェイの発着所までの長い夜の雪道を歩いて行った。それは沢岻ーに夫婦の道行と見まがわれるほどで、妹は「幸福だった」し、「一番いい正月だと思った」。ロープウェイで頂上に着き、雪の深い山の展望台で兄はビールを一本注文し、おいしそうに飲み、妹にも勧めた。「特別な一日だった」し、「兄妹ふたりとも失業して、正月そうそうスカンピンなんて、素晴しい青春」だったからだ。
夜が少しずつ明け始めた。真新しい太陽に人々はあふれんばかりの喜びの声を上げ始めたが、兄は放心の表情を示し、沈黙していた。だが妹はわかるような気がした。新年の挨拶が飛びかう中で、街が雪に覆われ、家々の屋根や通りや街路樹が見えた。「わたしはこの街が本当はただの瓦礫のように感じたのだ。それは一瞬の痛みの感覚のようだった。街が海に囲まれて美しい姿をあらわせばあらわすほど、わたしは無関係な場所のように思えた」。それは兄も同じだったのだ。
帰りのロープウェイに乗る時、兄は切符を一枚しか買っておらず、山を歩いて降りるといった。もはや二人でロープウェイに乗る金がなかったのである。妹は下の発着所のベンチで待っていた。だが六時間待っても、兄は戻ってこなかった。彼は雪の中で道に迷ったにちがいない。そして次の2の「青い空の下の海」において、山の奥の船隠れと呼ばれる崖で青年が遭難し、死体となって見つかったという新聞記事が引かれている。それは正月気分に満ちた新聞の「二十行ほどの短い記事だった。まるでそれ以上は、青年や妹の人生に付け加えるべきことなどない、といった素っ気なさだった」。
(小学館文庫)
この「まだ若い廃墟」を始まりとして、第一章の八編が続いていくのだが、青年の死はトラウマのようにそれぞれの短編に覆いかぶさり、街と人々とを「廃墟」へと向かわせる物語の裂け目の役割を果たすことになる。それらの短編は兄妹の「廃墟」とは異なるにしても、その代わりのようにして立ち上がりつつある物語で、それらに登場する人々を追ってみる。
「青い空の下の海」は正月に首都から妻を連れ、両親に紹介するために故郷に帰ってきた青年、「この海岸」は同じく首都の団地から実家のある海炭市のアパートへと引越してきた若い夫婦と娘、「裂けた爪」は妻と息子の間に問題を抱える、プロパンガスを主とする燃料屋の若い主人、「一滴のあこがれ」は父が会社を倒産させたためにアパート暮らしをすることになった中学生、「夜の中の夜」は過去にさいなまれるパチンコ店員、「週末」はあと二年で定年退職を迎える路面電車の運転手、「裸足」は祖母の納骨のために帰省した学生と夜のバーで知り合った船員、「ここにある半島」は墓地公園の管理事務所に勤める男といったふうに、「海炭市」の過去と現在が、彼らの眼差しを通じて立体的に組み立てられていく。かつての基幹産業だった炭鉱や造船の衰退に伴い、「もう希望を持つことのできない街」の断面が浮かび上がり、そこでの日常のドラマが重ねられていく。
そのような中から出現してくるのは紛れもない郊外であり、「海炭市」においては「工業団地」とか「産業道路」とか呼ばれているところだ。「工業団地」への工業誘致はうまくいっていないにしても、それらの「新市街地」は空港の近くに位置し、合併した近隣の町村との境の地域で、かつては農村、砂丘、スラムだったりした。だが市の人口も移動し、住民と車が増えたことで、畑も林もなくなり、街として際限なくふくらみ、「新しい街作り」が進められ、首都のデパートと大手スーパーが進出してくることになっていた。そうして路面電車が通る街のメインストリートも旧市街地の繁華街と化しつつある。
この二年間で、産業道路にはさまざまなものが建った。マンション、プール、銀行、その寮、広い駐車場を持った二階建てのパチンコ屋、ファミリー・レストラン、本屋、喫茶店、中古車センター、歯医者。数えあげたらきりがない。歯医者は歯科クリニックとプレートを張り、誰もがクリニックと耳ざわりのいい呼び方をする。オーディオセンター、ずっと北へ行けばモーテルだ。だが映画館を作ろうとする酔狂な人間はいないし、開店してすぐ店をたたむ者も多い。とにかく表通りには街にとって必要なもの、精神病院以外は次々と作られ、軽々しくあてこんで作ったものはすぐ姿を消す。そして表通りから一歩入れば住宅街になり、団地が何棟か建ち、海炭市の人々があっという間に押しよせてきた。
まさに八〇年代における郊外消費社会の誕生であり、それは市の繁華街と趣きが異なり、専門の駐車場を持ち、チェーン店の建物は首都圏と同じで、新市街地を形成した。それでベッドタウンとしても発展し、首都の大手デパートの進出も決まり、今月から工事が始まろうとしていた。「もともと海炭市は、人が住みはじめて百三十一年の歴史しかない。その頃は、山裾の税関前あたりが繁華街だった。それが、駅と桟橋ができた頃から、古新開町一帯が繁華街にとってかわり、今ではそこも古くなりつつある街というわけだ」。
しかしこのような街の変容は「海炭市」だけで起きていた減少ではなく、八〇年代から九〇年代にかけて、全国の至るところの都市で起きていたものであり、私たちはそうした風景の変遷を見続けてきたことになる。それゆえに『海炭市叙景』に収められた十八の短編に垣間見られる風景と人々の生活は、そのまま八〇年代から九〇年代にかけての同時代を等身大に描いていたともいえるのである。
もちろんそれを佐藤は意識していなかったであろうし、「海炭市」特有のドラマとして描こうとしたと思われるが、現在になって読んで見ると、産業構造の転換と郊外消費社会の出現によって、姿を現わしつつあった、リースマンのいう「孤独な群衆」をいち早く描き出していたことになろう。
なお二〇一〇年に『海炭市叙景』は映画化され、それに合わせ、小学館から文庫として刊行されている。
DVD (小学館文庫)
また、福間健二の詩と『海炭市叙景』の出典との関係は、ブログ「批評祭アーカイヴス」に掲載されている。