拙著『〈郊外〉の誕生と死』の中で、一九七〇年に発表された古井由吉の『妻隠』(河出書房新社)に言及し、郊外における都市と地方の混住のフォークロア的なゆらめきにふれたことがあった。若い夫婦が郊外のアパートに暮らす五年間のうちに、夫は東北地方出身の妻が、娘から「家刀自」へと変容していったことに気づく。そして妻がアパートの隣に住む同郷の職人たちと外の流し場で酒盛りする場面に、それが顕著に表出するのであり、都市出身の夫は加わらずにその場面をアパートの窓から覗き見ている。その酒盛りの場面は、巫女と神官による古代の宗教儀式のようにも映り、混住がもたらす郊外の新しい物語の出現に立ち会っている思いに捉われるのだった。
それからほぼ二十年後に書かれた多和田葉子の『犬婿入り』は、『妻隠』の物語の新たなヴァージョンのように読むことができる。しかもそれは古井の作品よりも民俗学的色彩が濃くなり、伝承文芸、神話や伝説を導入して組み立てられている。だがその舞台となるのは、山田太一の『岸辺のアルバム』や鎌田敏夫『金曜日の妻たちへ』に続いて、またしても多摩川沿いの公団住宅のある郊外の町だ。『犬婿入り』はその憂鬱な新興住宅地の団地の一角の、風のない七月の静まり返った午後二時の風景の描写から始まっている。その一角の電信柱に〈キタムラ塾〉という半分破れた汚らしい張り紙が剥がれ落ちずに残っていた。このキタムラ塾が『犬婿入り』の物語の発生するトポスなのである。この塾は成績が上がるかどうかは個人差があったけれど、子供たちに愛され、子供たちが行きたがるということで流行っていた。ただ妙な噂も流れていたが、母親たちは気にしないようにしていた。そのキタムラ塾は子供たちの住む新興住宅地とは異なる古い地区にあった。
そもそもこの街には北区と南区のふたつの地区があって、北区は駅を中心に鉄道沿いに発達した新興住宅地、南区は多摩川沿いの古くから栄えていた地域で、今では同じ多摩に住んでいても南区の存在すら知らない人が多いけれど、北区に人が住みはじめたのはせいぜい公団住宅ができてからのこと、つまりほんの三十年ばかり前のことで、それに比べて多摩川沿いには、古いことを言えば、竪穴式住居の跡もあり、つまりそのような想像も及ばない大昔から人が暮らしていたわけで、稲作の伝統も古く、カドミウム米の出た六〇年代までは堂々と米を作っていたし、また〈日本橋から八里〉と刻まれた道標の立っているあたりは、小さな宿場町として栄えたこともある。空襲を免れた古い家も多く、そんな南区に団地の子供たちが出かけて行くのは、以前は写生大会とカエルの観察の時くらいだったのが、キタムラ塾ができてからは、子供たちは塾へ行く日が来ると、まるで団地の群れから逃れようとでもするように、せかせかと多摩川の方向へ向かい、(……)。
(文庫版)
多和田特有のセンテンスの長い文体ゆえに引用が長くなってしまうこともあり、中断するかたちをとってしまったけれど、新興住宅地のかたわらには大昔の古代人の住居跡があり、三十年ほど前は農村や宿場町に他ならなかったことが浮かび上がってくる。つまりかつてはこの地域も郊外ではない町や村だったのである。このようにして空間軸を広げ時間軸を遡行することで、キタムラ塾にたどりつくのであり、それは塾とそのトポスが新興住宅地と「古い地区」のボーダーに位置していることを告げているようだ。そしてイントロダクションに示された「死に絶えたような憂鬱な新興住宅地の団地」の風景から遠ざかり、そことは異なる物語を内包している。それを期待して、子供たちも「せかせかと」出かけていくのだ。
キタムラ塾の先生は北村みつこという三十九歳の女性だった。彼女がこの土地へやってきたのは二年ほど前で、昔からの農家が土地を売り、その金で駅の近くにマンションを建て、自分たちもその一室に移り住み、その家を取り壊そうとしていたところ、「親戚の誰それの〈親友〉」を名乗って現われ、家を貸してほしいと頼みこみ、それが受け入れられて塾を始めたのである。白いワンピース姿でマウンテンバイクに乗って現われたみつこは、元はヒッピーで、東南アジアやアフリカを放浪していたとか、指名手配されていたテロリストじゃないかとか、様々な噂が流れていた。だがもんぺのようなものをはき、洒落たサングラスをかけ、桜の木の下でポーランド語の小説を読んでいるのを見ると、「どんな育ち方をしたどんな家柄の人間なのか見当がつけにく」かった。それでいて「嬉しそうな顔をした美人」だった。これらの説明から、キタムラ塾と北村みつこが、郊外における一種のアジールにしてまれびとのような位置づけにあるとわかる。
しかも北村先生は次のように語り出すのだ。「君たちは動物と結婚する話と言えば〈つる女房〉しか知らないかもしれないけれど、〈犬婿入り〉っていうお話もあるのよ」と。その話は次のようなものだった。昔、王宮に面倒臭さがりやの女がいて、この女は小さなお姫様の身の周りの世話をする役目を追っていたが、お姫様が用を足した後、お尻を拭いて上げるのが面倒臭いので、お姫様のお気に入りの黒犬に「お姫様のお尻をきれいになめておあげ。そうすればいつかお姫様と結婚できるよ」といつもいっていた。
その後の話は聞いた子供たちによってばらばらで、黒い犬がお姫様をさらって森に入り、嫁にしてしまったとか、両親がお姫様の尻を舐めている犬を目撃し、黒い犬とお姫様を無人島に島流しにしてしまったとかで、それらのヴァージョンにもいくつもの異なる後日譚が添えられていた。この〈犬婿入り〉の話は子供たちのソフトクリームや手のひらの舐め方にも反映され、子供たちを通じて母親たちにも伝わったが、カルチャーセンターに通う母親が民話の本にも載っていたと主張したので、「教科書にさえ出てこないような話を子供にうまく話すことができる先生はユニークだ」という安心感へとつながっていった。
そのキタムラ塾に扶希子という三年生の女の子が新しく入った。彼女は太っていて髪の毛も洗わず、靴下もはいておらず、父親も変人と囁かれ、みんなとしゃべらなかった。扶希子に続いて、夏休みに二十七、八の男が現れた。革のトランクを手にして、刈り上げた髪の毛、真っ白なワイシャツ、折り目のついたズボン、磨き上げた革靴などはみつこの服装と対照的で、太郎と名乗り「お世話になります」、さらに「電報、とどきましたか」と繰り返しいうのだった。もちろん電報はついていなかった。
そしていきなり〈犬婿入り〉の儀式にとりかかるのである。「男は、みつこのからだをひっくりかえして、両方の腿を、大きな手のひらで、難なく摑んで、高く持ち上げ、空中に浮いたようになった肛門を、ペロンペロンと、舐め始めた」。その後、「みつこは魅せられたようにその頭を撫でまわしていた」。すると男は台所で食事の支度を始め、みつことの食事をすますと、家の掃除をするのだった。
その男を子供たちも目にし、母親たちも彼が草取りをしているのを見つけた。それに男の生活のリズムは尋常ではなく、日中は眠ってばかりいたが、夕方になると起き出し、掃除と夕食の後、暗くなると外に出て走り回り、夜中になると帰ってきて、みつこと交わりたがるので、彼女も朝起きることができなくなり、「北村先生は〈男ができた〉」という噂が広まった。
それで母親や子どもたちも太郎を見たくなり、庭にいる太郎と見ると、心が躍り、何かいけないものを見てしまったように思った。太郎は活字も読まず、テレビも見ないで、料理、洗濯、掃除などをする以外に、みつこの「からだのニオイを嗅ぐこと」だけに執着していた。しかし母親の一人である折田さんが、太郎は夫の部下で、三年前に蒸発した「イイヌマ君」ではないかと言い出した。飯沼太郎は大学を出て、折田氏の薬品会社に勤め、職場の同僚で狐に似た良子と結婚したが、一年後に会社からも家庭からも姿を消してしまっていた。そこで良子が太郎を確認するために、みつこのところにやってきた。
良子の話によると、太郎は確かに自分の夫だが、まったく手がかりがなかったわけではなく、松原利夫と〈夜遊び〉をしているのを知っていた。実は松原なる人物は扶希子の父親だったのである。三年前に太郎が変身したきっかけは、丘陵の寂しい林道で犬に襲われ、かまれたことにあった。
九月に塾が始まり、扶希子はみつこの家で太郎が作った夕食を食べるようになり、みつこに可愛がられるようになった。そのことで、父親に関して陰で悪い噂が囁かれるようになる。それは「扶希子の父親がゲームセンターでよく〈腰を振っている〉」というものだった。また子供たちがゲームセンターというのは〈ゲイバー〉のことだとみつこは知った。九月末に折田夫妻は上野駅で、飯沼と松原が旅行用トランクを持ち、ぴったり身を寄せ合っているのを見た。折田氏が追いかけたが、逃げられてしまったので、みつこに知らせようとした。すると、もはや家には誰もおらず、マジックペンで〈キタムラ塾は閉館されました〉と書かれていた。そして次の一文で、『犬婿入り』は閉じられている。
翌日、折田家にみつこから電報が届き、そこには、フキコヲツレテヨニゲシマスオゲンキデ、と書かれていた。みつこの住んでいた家は間もなく壊され、そこにはアパートが建つことになり、その工事が始まった頃には、どの子もそれぞれ、新しい塾を見つけて通い始め、南区に足を踏み入れることはほとんどなくなっていた。
アレゴリー的に考えれば、この物語の展開はみつこが子供たちに語った〈犬婿入り〉の話を反復していることになろう。昔の王宮がキタムラ塾、面倒臭がりやの女が扶希子、お姫様がみつこ、犬が太郎で、飯沼良子、折田夫妻、松原利夫などの出現は唐突であるゆえに、お姫様と犬が無人島に流されてからの後日譚を担う人々のようにも思える。
もちろんこの『犬婿入り』はみつこ自身が〈つる女房〉と並ぶ「動物と結婚する話」と語っているように、柳田国男の『桃太郎の誕生』(『柳田国男全集』第10巻所収、ちくま文庫)や『昔話と文学』(同第8巻所収、同前)などに挙げられている「異類婚姻譚」のパターン、すなわち人間以外のもの=主として動物が人間と結婚する物語に則っている。これには異類の男性が人間の女性と結婚するものと、異類の女性が人間の男性と結婚するものがあり、〈犬婿入り〉は前者、〈つる女房〉は後者に属するのだが、多和田の『犬婿入り』の何よりの特色は、この「異類婚姻譚」を様々にクロスさせていることにあると思われる。狐に似た良子と太郎の結婚は、狐を妻とする信太妻説話を想起させるし、折田という名前は「信太妻の話(『折口信夫全集』第二巻所収、中公文庫)を書いた折口をこれまた連想させる。また飯沼太郎と松原利夫のホモセクシャルな関係の暗示も、折口をめぐる弟子たちとのことを思い浮かべてしまう。このように考えてみると、多和田の『犬婿入り』はいくつもの「異類婚姻譚」が重奏的に絡み合い、交差することによって成立した物語のようにも読めるのである。そしてそれがありふれた新興住宅地の風景の中にも埋まっている物語でもあるかのように提出されているのだ。
『犬婿入り』で、太郎がみつこに「電報、届きましたか」と問う場面が書きこまれているが、それはパゾリーニの映画『テオレマ』からの引用ではないだろうか。イタリアの郊外のブルジョワの邸宅に電報が届き、テレンス・スタンプが扮する謎の青年が現われ、それを機にして家族全員がおかしくなっていく。『犬婿入り』はイタリアならぬ、多摩川沿いの郊外、犬ではあるが、電報の到着を問いながら出現した太郎は、『テオレマ』の謎の青年と重なってしまう。そして謎の青年が理由も明かすことなく去っていったように、『犬婿入り』の太郎たちも謎のように失踪してしまうからだ。両者の謎、異類婚姻譚的関係、セックスとホモセクシャルもまたオーバーラップしてくるし、その通底性に関して想像を逞しくしてしまうほどだとここに記しておこう。