前回見たように、フランスにおいてパリがパサージュや流行品店や百貨店によって消費社会の幕開けを迎えていた頃、日本はどのような社会であったのだろうか。
これも佐貫利雄の『成長する都市 衰退する都市』から抽出してみる。それによれば、一八七〇年段階で、第一次産業83.6%、第二次産業4.9%、第三次産業11.5%であり、産業革命を経ていた欧米と比べ、純然たる農耕社会だったことがわかる。まだ人口は三千万人で、農業と手工業を中心とするミクロコスモスのような極東の島国だった。
これは本連載76で少しだけふれているが、幕末から明治にかけて日本を訪れ、その記録や回想を書き記した異邦人はあまりにも多く、この時代に関して異邦人による膨大な記録や回想が残された国は日本だけではないかと思われる。それらの中にはまだ未邦訳のものが多くあるようで、現在に至るまで翻訳出版され続けている。そうした異邦人の著作はセピア色の写真にも似て、もはや異国のような日本の過去を想起させ、彼らの記録や回想などの資料を抜きにして、この時代の復元ができないことも示唆している。
そうした意図も含めて、異邦人たちの記録や回想をもとに、失われた日本の原風景を素描しようとしたのは、二〇世紀末に刊行された渡辺京二の『逝きし世の面影』(葦書房)であった。同書は幕末から明治にかけての異邦人たちの訪日記録を博捜することによって、近代以前の文明が何であったかを問おうとしていた。そして大森貝塚の発見者E・S・モースが『百年前の日本』『モースの見た日本』(いずれも小学館)として残したかつての日本の風景や生活が、モノクロのドキュメンタリー映画のように再現されていく。近代以前の農業と手工業をベースとする日本の社会と何よりも美しい風景、異邦人たちはことごとくその風景の中にある人々の穏やかな生活に魅せられていた。
それらの記録や回想について、渡辺は異邦人たちのオリエンタリズムやジャポニスムといった批判を注意深く排除し、彼らの眼に映った近代以前の日本、すなわち「逝きし世の面影」を忠実に復元しようとする。するとそこに浮かび上がってくるのは、ひとつのユートピアの風景である。
それゆえに異邦人の一人は日記にしたためている。「(……)おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人びとが彼ら重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない」(ヒュースケン『日本日記』(青木枝朗訳、岩波文庫)。だが問われなければならないのは、このような異邦人の眼差しの出自である。彼らは産業革命を経て、工業社会から消費社会へと向かおうとしていた欧米から、農耕社会の日本へとやってきたのだ。
ちなみに同時代に突出した工業社会を出現させていたのはイギリスで、こちらの一八八〇年のデータを挙げておけば、第一次産業13.0%、第二次産業50.0%、第三次産業37.0%となっている。この事実に関しては、本連載59 のハワード『明日の田園都市』のところで取り上げているが、このような社会状況を背景にして、二〇世紀に入ると、田園都市計画が立ち上がってくることになる。ハワードは来日していないけれど、異邦人たちの日本訪問記を読み、田園都市計画のヒントを得た可能性も否定できないように思える。
それはともかく日本のことに戻ると、その時代に岩倉使節団が欧米に向かっていた。これは岩倉具視を特命全権大使とするもので、幕末維新期における最大にして最後の遣外使節だった。この使節団は明治政府の重要メンバーである木戸孝允、大久保利通、伊藤博文といった薩長の実力者たち、それに書記官として福地源一郎を始めとする旧幕臣たちが加わり、五十名に及んだとされる。また中江兆民、団琢磨、金子堅太郎などの五十九人の各国への留学生も同行していて、幕末と維新、幕府と新政府、明治を担う思想家や実業家たちが、それこそ混住するような使節団だったことになる。
この岩倉使節団は幕末時の条約の改正を目的とし、明治四年、すなわち一八七一年の十二月二十三日に横浜からサンフランシスコに向けて出発し、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、スイスなどの十二ヵ国をめぐり、一九七三年九月に日本へと帰ってきた。使節団は来日異邦人たちとは逆に、農耕社会から工業社会や消費社会へと向かったのである。この一年十ヵ月に及ぶ長い旅程は、その後の七八年に久米邦武編『特命全権大使米欧国回覧実記』として、来日異邦人の記録や回想と同様に出版された。これは明治初期における世界各国のほぼリアルタイムでのレポート、及びエンサイクロペディアでもある。それゆえに広く様々に読み継がれたと思われるが、ここでは田中彰校注による全五巻の岩波文庫版を使用し、前回の『ボヌール・デ・ダム百貨店』との関連もあるので、第三巻所収の使節団とパリの消費社会との出会いに言及してみる。
(第三巻)
使節団は一九七二年十一月十六日にドーバー海峡を渡り、イギリスからフランスへと入り、パリに到着した。久米邦武の記述はイギリスと比べ、フランスに至ると明らかに異なる精細を帯び始める。それは彼がパリという消費社会の魅惑を肌で感じたゆえなのであろうか。彼は次のように記している。
仏国製作ノ巧ナルハ、欧州第一ニテ、其伎倆精粋機巧ニシテ、風致ヲキハメ、美麗ヲ尽シ、ヨク人ノ嗜好ニ投合ス、故ニ欧洲ノ流行物(ハヤリモノ)ハ常ニ仏邦ニ源ス、(……)
また「百貨ノ都会タリ」とも述べている。そして慧眼にも、「其伎倆」が「英国ノ工業ハ器械ヲ恃ム、仏国ハ人工ト器械ト相当ル」と見て、「百貨ノ都会」の生産インフラとクォリティに関してもふれている。おそらくアメリカやイギリスを経てきたことで、工業社会における「器械」の意味と位置づけを見抜くことになったのであろう。そしてさらに消費社会の背後にも「器械」の存在を察知したことを意味している。つまり「百貨ノ都会」の成立も、「器械」を抜きにして語れないことを理解したのだ。それに加えて、同時代における「百貨ノ都会」の誕生と隆盛が繊維産業の工場生産への移行と密接な関係があるにしても、「百貨ノ都会」が求める「美麗」「嗜好」「流行物」は「人工ト器械ト相当ル」ことに注目したのも、「伎倆精粋」な手工業の日本からやってきたことに起因しているのではないだろうか。
さらにロンドンは「世界ノ天産ヲ輸入シテ」、それを加工し、再輸出するけれど「世界天産物ノ市場」というべきものだが、パリはヨーロッパの工芸の地で「流行ノ根」なので、「世界工産物ノ市場」と呼ぶべきである。したがって「将来日本ニ於テ、欧米輸出ノ途ヲ開カンニハ、此ニ注意ヲナスコト緊要ナルヘシ」とも述べている。これは近代日本の殖産興業に関して、「欧米輸出」をメインとするクオリティを備えた「世界工産物ノ市場」へと進むべきだという見解に他ならず、ここでも使節団の鋭利な観察と未来予測のアナロジーに賞賛を与えたくなってしまう。
前回、同時代のフランスの産業構造を挙げておいたが、それを先述のイギリスの例と比べると、十九世紀後半のフランスはイギリスのように工業をベースに置くというよりも、パリという都市の成長と繁栄を受け、商業や貿易を中心とし、流通と消費をコアとする第二の産業革命に時代を迎えていたのではないだろうか。まさにヴェブレンが『有閑階級の理論』(小原敬士訳、岩波文庫)でいうところの都市住民の「衒示的消費」の時代に入りつつあった。つまりいってみれば、岩倉使節団は近代以前の農耕社会からやってきて、フランスで初めて「流行物」と「百貨」のあふれる消費社会と出会ったのだ。一八七〇年のパリ人口は百八十二万人を数え、「其壮麗ナルニ至リテハ、実ニ世界中ノ華厳楼閣ノ地ナリ」とされ、馬車の中から見た市街の風景が描かれていく。
蔣蔣タル層閣、街ヲ挟ミテ聳ヘ、路ミナ石ヲ甃シ、樹ヲウエ、気燈ヲ点ス、月輪正ニ上リ、名都ノ風景、自ラ人目麗シ、店店ニ綺羅ヲ陳ネ、旗亭ニ遊客ノ群ル、府人ノ気風マタ、英京ト趣キヲ異ニス、(……)
「蔣蔣タル層閣」にして、「店店ニ綺羅ヲ陳ネ」とはあたかもボヌール・デ・ダム百貨店の風景のようにも思えてくる。それにその中央踊り場には日本製品売場もあったし、またモネが描いた「ゾラの肖像」の中には一枚の浮世絵、歌川国明の力士絵が見えていたことを付け加えておこう。ちなみにそのモデルとされるボン・マルシェの新館がオープンしたのは、岩倉使節団がパリを訪れた一八七二年でもあった。それ以前の六〇年代に、ボン・マルシェに続いてプランタンやサマルテーヌなどの百貨店も開店していたのである。
そして翌日の十一月七日には次のような街に遭遇する。
此小街ノ上ヲ、玻璨(がらす)ニテ上宇ヲ覆ヒタル所アリ、常ニ日光ヲ透シテ、風雨ヲ漏サス、常晴ノ街路ナリ、両側ノ廛(みせ)ニ、百貨ヲ雑陳シテ売ル、陳ヲ化シ新トナス、是ヲ巴黎風ノ街トテ、白耳義(ベルギー)、及伯林(ベルリン)府ニモ模ス、亦一ノ繁華市場ニテ、往来ノ人、ミナ車ヲステ、此ニ集リ、陰晴風雨ノ日モ、徐歩徘徊、物ヲ買フヘシ、(……)
これはいうまでもなくパサージュの光景であり、「徐歩徘徊」する者とはベンヤミンが『パサージュ論』で一章を設け、言及している「遊歩者」(フラヌール)のことだ。彼は「遊歩者というタイプを作ったのはパリである」ともいっている。パサージュを歩き、その「遊歩者」をも目撃する岩倉使節団の一行はそこに何を見たのか、あるいは何を幻視したのであろうか。
これらのパサージュはゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』だけでなく、「ルーゴン=マッカール叢書」の第九、十巻『ナナ』や『ごった煮』(いずれも拙訳、論創社)でもお馴染みのトポスだった。それに久米によるパサージュの記述の隣のページには「ブルース」と「マーケット」の銅版画が掲載されていて、前者は第十八巻『金』(野村正人訳、藤原書店)の主要舞台の株式取引所、後者は第三巻『パリの胃袋』(朝比奈弘治訳、同前)の背景となる中央市場に他ならない。また第十九巻『壊滅』(拙訳、論創社)は普仏戦争とパリ・コミューンとテーマとしていて、使節団がフランスを訪れたのは、普仏戦争とパリ・コミューンの余燼さめやらぬ一八七二年だったから、久米の筆はパリ・コミューンにも及んでいる。それらもあって、『特命全権大使米欧国回覧実記』のフランス編は、ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」やベンヤミンの『パサージュ論』の近傍にあるといっても過言ではないように思われる。
そして岩倉使節団は「逝きし世」の宿命を負った農耕社会に帰国し、工業社会や消費社会への建設へと向かう。それが日本の近代化でもあったのだ。百貨店は一九〇四年に三越が誕生したことで実現し、それに松坂屋、高島屋、そごうが続き、それらを中心とする都市の商店街が形成され始める。そして大正時代の郊外住宅地の開発を背景にして、阪急や東横などの電鉄系百貨店(ターミナルデパート)も出現していく。それから遅ればせであったにしても、戦後の高度成長期には全国各地方都市にも、日本のパサージュとでいうべきアーケード商店街が建設されていった。岩倉使節団が目撃してから一世紀後に、近代消費社会のインフラが完了したのである。
しかしアメリカに起源を持つ、一九八〇年代の郊外消費社会の誕生によって、地方の百貨店は次々に倒産に追いやられ、アーケード商店街壊滅状態にある。私たちはおそらく岩倉使節団によって、発見された近代消費社会の終焉に立ち会っているのだ。