南北アメリカへの日本人移民に関しては本ブログの「謎の作者佐藤吉郎と『黒流』」でふれてきたが、アメリカで生まれた日系二世、日系アメリカ人の物語にはほとんど言及してこなかった。ここではそれを取り上げてみたいと思う。
これまで様々に論じてきたように、戦後のGHQによる日本の占領は強制的混住ともいえるもので、それは前々回の日本の教育問題のみならず、戦後社会の至るところにその痕跡を残している。しかし戦前においては日本人が移民としてアメリカへ向かい、主としてヨーロッパを出自とするアメリカ人と混住することを宿命づけられた時代もあったのである。それは必然的に「JAP」と「Hakujin People」の混住を意味し、その帰結は太平洋戦争下においては日本人強制収容所へとつながっていく。「アメリカにおける日本人移民」というサブタイトルを付された、若槻泰雄『排日の歴史』(中公新書)などを参照し、その明治から始まる歴史を簡略にたどってみる。
一八六八年/明治元年は移民元年とされ、ハワイへの渡航。 一八六九年/カリフォルニア州ゴールドヒルへの移住。 一八九〇年/アメリカ国税調査により、フロンティアの消滅を告知。その一方で、日本人移民が本格化。 九〇年代前半は太平洋沿岸だけで四千人から七千人に増加。ヨーロッパにおいて黄禍論が唱え始められる。 一九〇六年/サンフランシスコ大地震、罹災者二十万人に対し、日本は五十万円の見舞金を送るが、日本人学童隔離問題が起き、公立小学校から東洋人学校への転校がカリフォルニア州学務令によって実施される。 一九〇七年/日本人移民制限を目的とする日米紳士協約が締結され、日本はこれまでの自由移民に対してのアメリカ本土行き旅券の発給を自主規制。 ただし再渡航者、及び在住者の両親と妻子は除外となるが、これとともに写真結婚による呼び寄せは認可される。この協定にもかかわらず、〇八年には在米日本人十万人を超える。 一九一三年/カリフォルニア州における排日土地法と帰化法の成立。 アメリカの帰化法に基づき、日本人はアメリカ市民となり得ないアジア人であるので、土地所有禁止と借地制限の実施。 カリフォルニア州だけでも日本人の農業者所有土地面積は二万六千ヘクタールにも及んでいたことから、排日土地法はその息の根をとめる致命的法律だった。 一九一九年/日本政府は排日運動緩和のために、写真結婚の禁止に踏み切る。 一九二〇年/第二次排日土地法成立。 これによって様々な便法も禁止され、日本人による土地所有は全面的に禁止となる。そして半年もしないうちに、ワシントン、アリゾナ、デラウェアなどの諸州でも制定される。 一九二四年/比例制限法が実施され、在留外国人人口に比例して、各国からの移民数が定められ、これが新移民法への施行へとつながっていく。 排日移民法と呼ばれ、日米新協約は破棄され、実質的に日本人はアメリカに移民としてわたることはできなくなった。 そして日本から花嫁を迎えたり、家族を呼んだりすることも、帰国して再渡米することも禁止され、帰化権、農地の所有権、借用権もなくなり、一世、二世からなる日本人社会は孤立していく。 一九四一年/真珠湾攻撃による太平洋戦争勃発。 一九四二年/カリフォルニアなどの太平洋沿岸三州とアリゾナ州居住に十二万人の日本人が強制収容所に送られる。
この太平洋戦争下の日系人の記録とのその後の生活については、実際に強制収容所での生活を描いたヨシコ・ウチダの『荒野に追われた人々』(波多野和夫訳、岩波書店)、そこで誕生したダニエル・沖本の『日系二世に生まれて』(山岡清二訳、サイマル出版会)などに異議申し立ても含んで語られている。またアメリカ人の側からも、D・S・マイヤー『屈辱の季節』、A・ポズワーズ『アメリカの強制収容所』(いずれも森田幸夫訳、新泉社)として提出されている。それらは日系人がまさに難民として処遇されたことをレポートしている。
ここで取り上げる『カリフォルニア州ヨコハマ町』(大橋吉之輔訳、原題“Yokohama,California”,1949)の著者であるトシオ・モリも、上記のような日本人移民クロニクルと強制収容所を経て、日系アメリカ人作家、「序文」を寄せたウィリアム・サロイヤンに従えば、「彼はカリフォルニア州のどこかに生まれた若い日本人で、最初のすぐれた日系アメリカ人作家」として、戦後になって登場してきた。トシオ・モリは世界文学辞典類にも立項されていないので、まず訳者の大橋によるポートレートを示しておきたい。
トシオ・モリは一九一〇年にカリフォルニア州オークランドに日系二世として生まれている。両親は広島県出身で、父は農業に従事していたが、妻と二人の息子を残してハワイに渡り、砂糖きび畑の労働者として三年間働き、カリフォルニア州に移住した。そして紆余曲折を経て、オークランドの風呂屋の経営者となり、日本に残した妻を呼び寄せ、三人目の子供としてトシオが生まれると、二人の息子も渡米してきた。それから一家はオークランドの郊外ともいうべきサン・リアンドロに移り、カーネーションや菊の栽培を始めた。その当時、サン・リアンドロは日本人移民が多く集まり、園芸栽培が盛んな農村地帯であった。
トシオはそこからオークランドの学校に通い、一九二六年の十六歳の時に古本屋でシャーウッド・アンダソンの『ワインズバーグ・オハイオ』(橋本福夫訳、新潮文庫、小島信夫・浜本武雄訳、講談社文芸文庫』)を見つけ、文学に開眼したという。そしてエマソン、ソーロー、サロイヤンなどにも魅せられ、作品を書き始め、それらをサンフランシスコの文芸同人誌『ザ・コースト』に発表するようになった。そのうちの一九三二年から四一年に書いたものを『カリフォルニア州ヨコハマ町』として、四九年に上梓するに至ったのである。
本来であれば、四二年に出版予定だったが、四一年の日米開戦により、四五年までトシオはユタ州トパズの強制収容所に送られ、解放後はサン・リアンドロの園芸栽培の立て直しの仕事に忙殺され、長きにわたって出版は宙吊りのままになっていた。それがようやく、その経緯と事情は不明だが、『わが名はアラム』の著者の序文を得て、四九年に刊行されたのである。邦訳にはサンフランシスコ湾をはさんだオークランドやサン・リアンドロとサンフランシスコ周辺の地図が収録され、タイトルとなっている架空の地名「ヨコハマ町」がこの地域の日系人社会であることを浮かび上がらせている。これは原書にも掲載されているのだろうか。
『わが名はアラム』はカリフォルニア州の架空の町フレズノを舞台としたアルメニア人移民の物語であり、『カリフォルニア州ヨコハマ町』と共通している。それに私はかつて「移民の町の図書館」(『図書館逍遥』所収)で、サロイヤンの同様の『人間喜劇』にふれた際に、「冬の葡萄園労働者たち」(古沢安二郎訳『サローヤン短編集』所収、新潮文庫)に日本人移民も登場していることを指摘しておいた。
それゆえにサロイヤンの物語の投影もしのばれるけれど、やはり『カリフォルニア州ヨコハマ町』に決定的な影響を与えたのはアンダソンの『ワインズバーグ・オハイオ』に他ならないだろう。アンダソンもオハイオ州ワインズバーグという架空の町を設定し、二十二編の短編からなる連作によって、そこに住む人々の生活や心象現象を描いた。そのアンダソンの作品と重なるように、トシオの『カリフォルニア州ヨコハマ町』も二十二編の短編によって構成され、それが『ワインズバーグ・オハイオ』を範として書かれた物語であることを示している。それは登場人物が『ワインズバーグ・オハイオ』を手にして現われる「アキラ・ヤノ」にも見てとれる。
しかしトシオがアンダソンと異なるのは、トシオがその物語において、日本からアメリカにわたってきた日本人移民とその二世たちを登場人物にすえ、それもあくまでカリフォルニアのヨコハマ町の生活として描いていることだ。それでいて、その生活が世界のどこにでも見受けられる普遍なものであることを伝えているかのようなのだ。それは「リトル・ヨコハマ」と題された一編のクロージングの文章にくっきりと表出している。ここには移民や日系人の存在は感じられないだろう。
そして今日――いつもと同じ日、太陽がまた出ている。主婦たちはベランダに坐り、老人たちは日蔭に坐って新聞を読んでいる。庭の向うでは、ラジオがベニー・グッドマン楽団の演奏をボリュームいっぱいあげて流している。子供たちがリンカーン中学校から帰ってくる。しばらくすると、年上の子供たちが工業学校やマックライモンズ高校から帰ってくる。それから、男の子たちが女の子たちと連れだって、どこかへ遊びに出かけて行く。老人たちは、ベランダや窓から、それを眺めながら、首を振り、にっこりほほ笑む。
世界中どこにでもある一日、リトル・ヨコハマの一日。
トシオが『ワインズバーグ・オハイオ』と出会ったのは一九二六年、そして『カリフォルニア州ヨコハマ町』としてまとめられる作品を書きためていくのが三二年から四一年とされる。それらの年月は彼が十六歳から三十一歳にかけてであり、先の日本人移民クロニクルと照らし合わせると、新移民法の施行の始まりと重なっていることになる。この事実は日系二世としてのトシオの少年時代から青年時代が最も困難な時期に相当し、さらにその先には強制収容所が待ち受けていたのである。。
しかしそうした中においても、トシオは淡々とヨコハマ町の肉親も含めた住民たちの生活を描き、それは作品によっては紛うかたなきアメリカ文学の一編として迫ってくる。例えば、「アメリカ娘ナンバーワン」は兄弟が街中にあるわが家の玄関先のベランダに坐り、その前を通る小柄な美人の日系人娘を目にするようになる。美術学校に通う画家の卵の兄は彼女を「アメリカ娘ナンバーワン」と呼ぶようになるが、弟のほうはよくわからず、時によってかよわい平凡な女にも見えたし、また稀に見る美女のようでもあった。だが二人とも彼女の名前は知らなかったけれど、彼女も見られていることに気づき、兄弟に微笑を送り、彼らも挨拶を返すようになった。ところがなぜか彼女は現われなくなり、しばらくして日系新聞で、彼女はロスアンジェルスの若い有望な医者と結婚するという記事を読んだ。それで彼女が現われなくなった理由、及びアヤコ・サイトウというその名前を知ったのである。再びアメリカ娘ナンバーワンの姿を見ることはなかったし、彼女の束の間の微笑と奥深い神秘に代わるものはないと信じていたが、それでも「ゲームはまだ終わっていない」と思い、兄弟はベランダにずっと坐り続けた。「私たちの目の前には、すべてが――事実、全世界が、あったけれど、彼女を忘れることはできなかった」からだ。
この短編は同じようにベランダに坐り、少年の子頃から崇高な人間を待ち受け、老境に入っていく人物を描いたホーソンの「大いなる岩の顔」(坂下昇編訳、『ホーソン短篇小説集』所収、岩波文庫)をも想起させる。こうしたアナロジーこそは『カリフォルニア州ヨコハマ町』がそうであるように、「アメリカ娘ナンバーワン」もまさにアメリカ文学の系譜上に出現していることを告げていよう。