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古本夜話525 南条文雄『忘己録』と井冽堂

本連載512で光融館の南条文雄の『梵文阿彌陀経』を始めとする「通俗仏教講義」シリーズを紹介し、それらの内容が学術的なもので、シリーズのタイトルとしてふさわしくないように思えると述べておいた。

だがその一方で、ほぼ同時代に南条は「通俗仏教講義」と銘打たれていないけれど、それに見合うようなシリーズを刊行していた。それらはいずれも「文学博士 南条文雄師著」とある『修養録』『感想録』『『忘己録』『人道』などで、そのうちの『忘己録』が手元にある。これも光融館本と同じ菊判和本仕立て、百七十余ページに及び、巻末の内容紹介は次のようなものだ。

 仏教の振興は己を忘れて仏陀の大慈悲に帰命するにあり、本書は博士多年の霊的実験に徴し、他力宗教の真髄を説術したる者(ママ)なり、行文平易にして、所説懇篤面たり、博士の謦咳に接する思ひあり、一読よく煩悶憂鬱を慰む。 

南条自らも「序」を記し、「此一冊も輓近井冽堂主人の発行に係りし修養感想の二録及び人道と同じく、友人舟橋水哉擬講の編集せられるもの」と述べている。七章からなる内容は「修養感話」「古人の慈訓」「仏語の解釈」といったもので、明治後期における啓蒙的な仏教説話と見なしていいだろう。

巻末には七ページにわたって、近刊予告を含めた「井冽堂発売日」が収録され、それらは四十点に及んでいる。その中で最も多いのは「加藤咄堂先生著」で、「増補死生観」など八点が掲載され、井冽堂との関係の深さをうかがわせている。加藤は『日本近代文学大事典』によれば、仏教学を修めた後、民衆教化を念願とし、仏教や修養に関する著述をなす一方で、明治三十二年以降新仏教運動に参画し、権力に迎合する仏教道を廃せと叫び、著書の発禁処分も受けたとされる。
日本近代文学大事典

その新仏教運動に関連しているにちがいない一冊も掲載されているので、その書名を挙げておこう。それは新仏教徒同志会編『来世之有無』で、「現代の名士一百余家が来世の有無につきて回答せられたるものにして実に之空前の珍品たり」とある。井冽堂の著者としては南条の他に、前田慧雲、村上専精の名前も見えている。

しかし前回の光融館と異なり、大正七年の『東京書籍商組合図書総目録』を繰ってみると、井冽堂の名前がない。光融館はまがりなりにも経営者が変わって存続していたのだが、どうも井冽堂は消えてしまったようなのだ。そしてこの版元も近代出版史の溶暗の中に消えてしまったのかとも思われたが、少しばかり奥付にヒントが残されていたので、それを書いてみる。まず明治四十年発行、再版日付と著者の南条の名前は省略する。

発行者  山中孝之助/東京市京橋区築地
印刷者  河本亀之助/ 〃
印刷所  株式会社国光社/ 〃
発行発売所  上宮教会出版部井冽堂 山中孝之助/ 〃
関西売捌所  合資会社積文社/大阪市東区南本町

まず発行発売所とされる上宮教会出版部井冽堂についてだが、これは井冽堂が上宮教会出版部井冽堂として発足したことを意味していよう。そこで上宮教会とは何かということになるけれど、先の加藤咄堂の『日本近代文学大事典』の立項に、雑誌『精神』『こころ』『三宝』を主宰し、上宮教会長の要職にあったと記述されていた。これらのことから考えれば、井冽堂は加藤の主宰する雑誌の発行所であり、主として加藤の民衆教化のための雑誌や書籍を販売するために設立された出版社だったのではないだろうか。おそらく南条たちの著作もこれらの雑誌に連載され、それが単行本化されたのであろうし、山中孝之助は加藤の側近として、出版者の役割を担ったように思われる。

このような井冽堂をめぐる出版事情も興味深いが、それ以上に関心をそそられるのは、印刷者の河本亀之助と印刷所の国光社のことである。私は以前に「洛陽堂河本亀之助」(「古本屋散策」95、『日本古書通信』平成22年2月号)を書いているが、国光社の河本とは明治四十二年に竹久夢二の『夢二画集』を処女出版して、洛陽堂を創業することになる人物で、後に武者小路実篤たちの『白樺』の発売所も引き受けている。だが河本は『日本近代文学大事典』や鈴木徹造の『出版人物事典』にも立項されておらず、その詳細なプロフィルと洛陽堂の軌跡が判明したのは、本連載230でふれた『山口孤剣小伝』の著者田中英夫による『洛陽堂雑記』の六年間に及ぶ刊行を見てからだった。

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田中が様々な資料を博捜して明らかにした河本のプロフィルを簡略にたどってみる。彼は慶応三年に広島県沼隈郡に生まれ、明治二十四年に上京し、師である高島平三郎の縁故から教科書印刷所の国光社に入り、支配人となるが、同四十一年に退社する。その主たる理由は金尾文淵堂の金尾種次郎と深く親交し、その予約出版『仏教大辞典』のつまずきにより、国光社に大きな負債が生じ、引責辞職したとされる。その翌年に金尾の協力を得て、また高島を顧問として洛陽堂を設立に至る。大正九年に五十四歳で亡くなっている。

田中の『洛陽堂雑誌』にも井冽堂のことは出てこないが、おそらく国光社の教科書印刷、高島平三郎や金尾種次郎との関係から、井冽堂の印刷も河本が引き受けるようになり、『忘己録』に見るような奥付が生じたと思われる。

なお田中の『洛陽堂雑記』は年内に『河本亀之助伝』として刊行されるようなので、それを鶴首して待ちたい。
洛陽堂河本亀之助小伝(『洛陽堂河本亀之助小伝』)

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