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2017-04-18 古本夜話650 日本評論社『楚人冠全集』と小林康達『七花八裂』

[] 古本夜話650 日本評論社『楚人冠全集』と小林康達『七花八裂』

かなり間が開いてしまったけれど、ここに日本評論社のもう一冊を付け加えておきたい。浜松の時代舎で、昭和十二年に日本評論社から刊行された『楚人冠全集』第一巻を購入してきた。美作太郎の『戦前戦中を歩む』の中では、「明治から大正にかけて活躍したジャーナリストの業績を語る『楚人冠全集』(十八巻・一九三七−四三年)」とあるだけで、詳しい説明はなされていない。

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同巻の巻末広告には『楚人冠全集』全十二巻とある。好評のために増刊の運びとなったのだろうが、数巻ではなく、六巻も増えたということは楚人冠の著作や仕事も多岐にわたっていると同時に、売れ行きもよく、人気があったことを示しているのだろう。それはともかく、私も美作ではないけれど、ずっと楚人冠のことを「明治から大正にかけて活躍したジャーナリスト」と思いこんでいた。

それは『明治文学全集』にしても、杉村楚人冠『明治新聞人文学集』に収録されていたし、手元にある朝日新聞社の円本といえる『朝日常識講座』においても、杉村広太郎として、その第十巻『新聞の話』を担当していたからだ。しかしそうした先入観が覆されたのは、小林康達の「明治の青年杉村広太郎伝」とある『七花八裂』現代書館、平成十七年)の出現によってだった。そのことは安藤礼二『折口信夫』講談社)においても述べられている。『七花八裂』とは明治四十一年に杉村縦横名で丙午出版社から刊行された著作タイトルからとられている。同時に楚人冠は有楽社からロンドン通信『大英游記』を出している。小林は仏教語辞典などを参照し、「七花八裂」は禅宗用語で、「微塵に粉砕される」と「自由自在」の二つの意味があると記し、その言葉に杉村の青春を託すつもりで、このタイトルを採用している。

明治新聞人文学集 七花八裂 折口信夫

実は『楚人冠全集』第一巻の内容は『へちまのかは・白馬城』なのだが、前者の『へちまのかは』は『七花八裂』の改版で、大正三年に至誠堂から同タイトルで刊行されたものを収録している。そこに「旧版『七花八裂』自序」や「改版『へちまのかは』自序」は収録されているけれども、丙午出版社版『七花八裂』にあった結城素明が描いたところの楚人冠の漫画的肖像の裏に示された「著者自伝」はカットされている。だがそれこそは自らの前半生の「七花八裂」を語っているようでもあり、小林の伝記のほうから再引用してみる。

 姓は杉村、名は廣太郎、縦横と号す楚人冠は其の別号也。

 明治五年七月二十五日を以て日本に生る。身の丈五尺六寸七分也。

 医を志して遂げず、法を学んで得ず、政治経済を修めて達せず、文学宗教を究めんとして其の業を卒へず。学校には入るもの前後十八、其中卒くも所定の学科を卒へたるもの僅に一。新聞記者となり、学校教師となり、俗吏となり、又記者となる。五たび洋行を企て、四たびならず、五たび人を恋うて四たび敗る。もと和歌山市の出、今東京大森に在り。くはしくは郵便切手封入にて尋ね合すべし。

このように記された楚人冠の青春が小林によってたどられていく。それは一人の「明治の青年」の多彩な「明治の青年」たちと出会う物語でもある。

まず生まれ故郷の和歌山にあって、小、中を同じくする南方熊楠に親交し、その後アメリカに渡った同時代のヒーローに他ならぬ熊楠と文通を続けた。また中学の同級で最親の友である古河勇は京都西本願寺普通教校へと転じ、沢井洵たちが結成した「禁酒進徳」を掲げる反省会に加わった。この沢井が本連載121104などでふれてきた、後の高楠順次郎であり、またその機関誌『反省会雑誌』がこれも後身が『中央公論』であるのはいうまでもないだろう。

その一方で、杉村は上京して英吉利法律学校を経て、これも上京してきた古河とともに、アメリカ人イーストレーキが設立した国民英学会に入り、首席卒業する。古河のほうは明治二十二年に仏教の世界流布を目的とする仏教青年協会を結成し、杉村も加わることになる。この協会を支援したのは、これも本連載513などの島地魚雷と彼が主宰する『令知会雑誌』であった。

また明治二十三年には徳富蘇峰や坪内逍遥を世話役とし、杉村たちを発起人とする青年文学会が発足し、『青年文学雑誌』(『青年文学』)が刊行される。四五〇名に及ぶ会員の中には宮崎湖処子、国木田独歩、徳富蘆花、小栗風葉などの他に、津田左右吉や田岡嶺雲たちもいた。

その後古河は帝大文科大学選科に進み、仏教の核心に向かおうとしていたが、明治二十六年に杉村は古河の勧めを受け、京橋にある日本ユニテリアン協会設立の自由神学校に入った。『世界宗教大事典』平凡社)によれば、ユニテリアンとはキリスト教の正統教義であるイエスを神とする三位一体説をとらないこと、人間の原罪を認めず、道徳的進歩の可能性を認めること、聖書を無謬としないことを特徴とする教派である。アメリカでは思想界において、合理主義と人道主義の代表的系譜を形成してきたが、日本では宗教学や社会主義運動への先駆的貢献を果たしたとされる。杉村は自由神学校、後の先進学院の責任者で、宗教哲学を講じるマッコレイと社会学のドロッパーズの影響を受け、明治二十九年卒業に至っている。

世界宗教大事典

その間に杉村はイーストレーキとの再会を機とする翻訳の仕事、彼との東京学院の設立とその講義、雑誌『英学』の発刊などを経て、明治二十七年の古河たちとの新しい仏教運動である大日本仏教青年会の結成へと向かっていく。とりわけこの新しい仏教運動は、杉村を介して得られたユニテリアンの教義の影響を受けているはずだ。小林は『七花八裂』において、これらの「新仏教を唱えた人々は、ユニテリアン教から、仏教革新のための理論や方法の多くを学び、その糧としたことは疑いない」と書いている。そして古河の没後の三十二年に仏教清徒同志会が結成され、『新仏教』が創刊されていくのである。

そうした動向とパラレルに、杉村は鎌倉の円覚寺で釈宗演のもとに参禅し、古河と帝大選科で一緒だった鈴木大拙にも出会う。そして『へちまのかは』の「例言」にあるように、京都本願寺文学寮に教鞭をとり、次に米国公使館に勤めた後、東京朝日新聞社に入り、明治四十一年に初めて渡欧するに至る。

これまで私たちはそれ以後のジャーナリストとしての楚人冠しか認識していなかったのであり、小林康達『七花八裂』によって、初めて「明治の青年杉村広太郎伝」を知らされたのである。そのような「明治の青年」たちの波紋の行方はさらにたどらなければならない。


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