出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1531 中央美術社『現代漫画大観』、『日本巡り』、田口鏡次郎

 『漫画六家撰』の版元である中央美術社に関しては拙稿「田口掬汀と中央美術社」(『古本探究Ⅲ』所収)において、もうひとつの漫画円本企画『現代漫画大観』 を挙げ、このうちの二冊に言及している。だが最近もう一冊入手したこと、及び前回の『裸の世相と女』の巻末に全点がラインナップされていたので、再び取り上げてみよう。まずはその明細を示す。

(「漫画六家撰」)(『現代漫画大観』)

 1 『現代世相漫画』
 2 『文芸名作漫画』
 3 『漫画明治大正史』
 4 『コドモ漫画』
 5 『滑稽文学漫画』
 6 『東西漫画学』
 7 『日本巡り』
 8 『女の世界』
 9 『職業づくし』
 10 『近代日本漫画集』

 今回入手したのは7の『日本巡り』で、これは本州、四国、九州、北海道、樺太、朝鮮、台湾という植民地を含んだ「日本巡り」に他ならない。それは東京の「丸之内ビルデング」から始まり、一ページにそれに関する一文と漫画が添えられ、田中比左良の名前が記載されているので、双方が田中の手になるとわかる。それにまた田中以外の多くの漫画家たちが参加し、ほとんどのページがそのようなかたちで埋められ、全国各地の名所旧蹟、事物、風景などが紹介されていく。まさに様々な漫画家による「日本巡り」ということになろう。

  (『日本巡り』)

 その一例として、国内ではなく、『近代出版史探索Ⅱ』363の北沢楽天による樺太を取り上げてみよう。それは「樺太見物」と題され、五ページに及ぶが、その(二)である。

 大泊(樺太の玄関口――引用者注)の夜を漫歩(ある)く、商家と青樓と軒を並べるも植民地の情調だ紅燈の下に朝鮮服の遊女が人待顔に街路を眺めて居るのは寧ろ哀れを誘ふ、亜庭神社祭礼で高い石段は人で埋つてる、拝殿のあたりから街を瞰下すと東京に負けない賑かだ岡野屋といふ料理屋では四人連の客に一度に酒を四本づゝ運ぶのには驚いた寒国の風ださうな、内芸者が二十人も居る。入る時半玉を叱り飛ばして居た手拭浴衣の女中が紋付に着換へて座敷に出た、此に於て知る女中兼芸者なるを。

 この一文の横には「亜庭神社祭礼で高い階段は人で埋つてる」漫画が添えられている。また『近代出版史探索Ⅳ』750の宮尾しげをによる「色刷漫画地図」の「北部日本」には樺太も描かれ、北海道の稚内から大泊へ連絡船が出ているとわかるし、夜の十時半に出発すると、樺太着は朝の七時だったようだ。これは想像するしかないけれど、この漫画を特色とする『日本巡り』は様々に興味深いし、それなりに読者もいたのではないだろうか。

 この『日本巡り』の奥付にある編纂兼発行人は田口鏡次郎との記載からすれば、彼自らが企画し、編纂したと考えられる。全巻は見ていないが、1と8において、田口は発行人だけを務めているからだ。彼は『日本近代文学大事典』においてはペンネームの田口掬汀として半ページ以上の立項があり、また筑摩書房の『明治家庭小説集』(『明治文学全集』93)には主要作品『女夫波』と詳細な年譜が収録され、孫に当たる高井有一によって『夢の碑』(新潮社、昭和五十一年)という伝記小説も書かれている。

明治文學全集 93 明治家庭小説集  新潮現代文学 (74) 高井有一 夢の碑,真実の学校

 それらにおいて、田口は家庭小説家や劇作家として立項され、トレースされているけれど、近代出版史においても重要な人物なのである。だが『出版人物事典』などにはその名前を見出すことができない。かろうじて『夢の碑』と先の拙稿が出版者としてのプロフィルを描いていることになろう。それゆえに拙稿と重なってしまうが、簡略な田口の出版者としての軌跡を提出しておきたい。

 田口は明治八年に秋田県角館町に生まれ、小学校卒業後、郡役所などに努め、『新声』の投書家として才を認められ、新声社に入り、編集者となった。これはいうまでもないが、『新声』は明治十一年生まれで同県同町出身の佐藤義亮が三十九年に創刊した文芸雑誌である。『新潮社四十年』は「田口掬汀氏――が三十三年の冬入社、二十六歳。氏は『新声』がでゝから初めて文章を書きだしたのだが、往くとして可ならざるなき才人で、間もなく、小説の力量を認められるやうになつた」と述べられている。その一方で、やはり同郷の平福百穂が入社する。百穂に関しては『近代出版史探索Ⅵ』1095でもふれている。『夢の碑』の構図において、この三人をモデルとして、明治時代後半の文芸出版や編集状況が描かれていくことになる。

 

 しかし明治三十六年に新声社は実質的に倒産し、田口は『万朝報』に移り、家庭小説家の道をたどり、その関係から劇作家も兼ねるようになるのだが、一方で美術関係の事業へ傾斜していく。そして大正二年に日本美術学院を設立して美術出版を始め、四年に美術雑誌『中央美術』を創刊するに至る。これは『日本近代文学大事典』の解題によれば、「内容の豊富さと充実度において、大正美術の研究に欠かせないもの」とされ、編集兼発行人は田口鏡次郎、発行所は中央美術社だったのである。


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古本夜話1530 中央美術社「漫画六家撰」、下川凹天『裸の世相と女』、金子文子

 これも浜松の時代舎で入手したのだが、下川凹天の『裸の世相と女』が手元にある。同書は昭和四年に中央美術社から「漫画六家撰」シリーズの一冊として刊行されているので、はやり円本時代の企画のひとつに数えられるだろう。それゆえに、この「漫画六家撰リスト」を先に挙げておこう。

   「漫画六家撰」

1  田中比左良 『女性美建立』
2  和田邦坊 『退屈世界』
3  下川凹天 『裸の世相と女』
4  細木原青起 『ふし穴から』
5  宍戸左行 『ユーモア錠剤』
6  河盛久夫 『尖端を行く』

 私が所持する3はタイトルにふさわしい函無し裸本だが、表紙に凹天による女性の彩色した顔と胸部ヌード、裏表紙には裸の資本家らしき男の姿とサタンのような覆面の怪人が描かれていることからすれば、おそらく函にしても、それなりに目をひく装幀に仕上がっていたように思われる。またそれがこの「漫画六家撰」の特色だったかもしれないので、『裸の世相と女』がまさに裸本なのは残念な気がする。また見返しのヌードスケッチや本文の多くの漫画を見ても、そのことを連想してしまうし、昭和初期の漫画の位相とはそうした事象と不可分のようにも感じられるからだ。

 その「序」はそれらを暗示させるように書かれている。

 漫画の面白さは、漫画家自身の観察の妙味と其れから火花の如く発するユウモア、ウイツト、お可笑味が相まつて価値づけられるものである。故に単にユウモア、ウイツト、お可笑味のみをもつて価値づける可きものではない。漫画家自身の観察力、乃ち社会観人生観等の鋭い思想的背景に重きを置くべきである。如何にユウモア、ウイツト、お可笑味が華々しくともそれは所詮根も無い造花に過ぎない。根有る花は例へ華々しき花は咲かなくとも必ず人の心の奥へ触れる何ものかがあるものである。何と云つても漫画家の愉快さは漫画的効果にある。自分の描いた一枚の画の為めに多数の人々が不安を感じたり痛快を感じたりする其快感は例へ様なきサタンの喜びであらう。

 ということは裏表紙に資本家らしき男とサタンのような覆面の怪人が描かれていることを先述したが、その「サタン」とは凹天に他ならないことになる。

 『裸の世相と女』は政治、社会、生活、婦人のそれぞれの漫画篇と論文篇から構成され、「政治漫画篇」から「サタン」もどきということもあり、「文子が若槻首相のイスへ移る!」と題する故金子文子がガイコツ姿で若槻首相の膝に乗っている漫画を取り上げてみよう。それはかつて「春秋社と金子ふみ子の『何が私をかうさせたか』」(『古本探究』所収)を書いてもいるからだ。

 その前に所謂朴烈事件にふれておくべきだろう。朴烈と一緒に金子文子は関東大震災後の大正十二年九月に保護検束の名目で捕えられ、十月に治安警察法違反で市ヶ谷刑務所に起訴収容、十三年に爆発物取締罰則違反で追訴、十四年に大逆罪容疑で起訴、十五年三月に大審院法廷で死刑宣告、後に無期懲役に減刑となったが、その七月に栃木県女囚支所房で縊死している。その後予審調査で朴烈と金子の同席抱擁している写真が国家主義者たちの手によって各方面に配布され、野党の立憲政友会と政友本党は当局の取り調べが生温いとして、若槻内閣の倒閣運動に利用したのである。

 漫画「文子が若槻首相のイスへ移る!」はその風刺といえる。その下には「文子が朴烈のイスへ移つた、それが怪写真の原因! 今や怪写真は政争の具となつて文子が若槻首相の椅子へ移つてイスをグラツカせて居る」とのキャプションが置かれ、倒閣運動に利用されたことを浮かび上がらせている。

 戦後になって瀬戸内晴美が『余白の春』(昭和四十七年、中央公論社)を書いた。これは金子文子を主人公とするモデル小説というよりも、ノンフィクションの色彩が強く、金子の『何が私をかうさせたか』の成立、及び怪写真の真相も明らかにされるに至った。それによれば、そこに「序文」を寄せている立松懐清予審判事のすすめで金子は裁判の参考資料を目的として手記を書き出したのだが、長らく立松の手元にとどめられたことで、その出版が没後五年を過ぎてしまったのである。しかも写真も立松が撮り、立松と朴烈の合意の上で流出したものとされる。

  何が私をこうさせたか 新版: 獄中手記

 それが巡り巡って政争の道具にしようされることになったのであり、「サタン」としての「漫画家自身の観察力、乃ち社会観人生観等の鋭い思想的背景」を有する凹天にとって、その「漫画的効果は弱者の味方になつて強者へ打突かる時にのみ最大の力を発揮する」と考えたにちがいない。

 なお最後になってしまったが、『現代人名情報事典』(平凡社)に凹天の立項を見出したので、引いておく。こちらも最後のところに『裸の世相と女』が置かれ、通底しているように思われるからだ。

 現代人名情報事典

 下川凹天 しもかわおうてん
 漫画家 【生】沖縄1892.5.2-1973.5.26 本名貞矩 【学】1907青山学院中退 【経】1906北沢楽天に師事、大阪朝日新聞、読売新聞、毎夕新聞等で似顔絵やエロチックな漫画、風俗漫画を描く。他方、17動画フィルムを作成、漫画映画のパイオニアでもある。【著】1930《男やもめの巌さん》、他に《剛ちゃんの人生日記》《漫画人物描法》《凸凹人間》《裸の世相と女》

 なお平成二十九年に韓国で、イ・ジュンイク監督、チェ・ヒソ、イ・ジェフン主演の映画『金子文子と朴烈』が公開され、日本でもロングランとなったことを付記しておく。

 金子文子と朴烈 [DVD]


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古本夜話1529 平凡社『川柳漫画全集』と『寸鉄双紙(明和の巻)』

 百科事典や大部の辞典類が続いてしまったが、昭和円本時代には漫画シリーズもすでに企画出版されていたことにもふれておこう。

 出版における戦後のコミックの隆盛の中にいると、それが当たり前のように錯覚するけれど、昭和三十年代まではまた「ポンチ絵」とよばれていたし、とりわけ貸本漫画などは悪書追放運動の対象になったりしていたのである。『近代出版史探索Ⅱ』292の白土三平の『忍者武芸帳』すらもそうだったのだ。出版ニュース社編『出版データブック1945→96』でも、昭和三十年の「10大ニュース」の2に「悪書追放旋風、出版・読書界を吹きまくる」として挙げられているほどだ。

忍者武芸帳影丸伝 1 復刻版 (レアミクス コミックス)  

 これは当時のよく知られたエピソードで、塩澤実信も『戦後出版史』(論創社)の中に書き止めていることもあり、それを紹介しておこう。黒崎勇は講談社の編集者で、戦後光文社に移り、『少年』の編集長を務め、さらに『少女』を創刊し、マンガと付録に力を入れ、日本一の少女雑誌へと仕立て上げた。塩澤は「戦後の四十年間に、マンガは出版界の庶子から嫡子の認知を受けるまでになったのだが、マンガの魅力をいち早く雑誌面に登場させたのが、黒崎勇だった」と指摘している。だがその黒崎にしても、悪書追放対象の張本人と目され、衆議院の文教筋に呼び出され、集中砲火を浴びたのである。塩澤はその時のことを次のように記している。

 戦後出版史: 昭和の雑誌・作家・編集者

 腰の低い黒崎ではあったが、したり顔の年増女の批判に、とうとう我慢ができなくなって、「そのうちに、大学に漫画科ができますよ」と捨てぜりふを残して引きあげてきた。

 まさに現在ではそのとおりになったのだが、そこに至り着くためには貸本も含めたマンガ出版史がたどられなければならないだろう。戦後の貸本マンガに関しては論創社HP「本を読む」で連載中である。私見によれば、それも円本時代を抜きにして語ることはできないと思われる。それまで漫画は赤本業界の出版物と見なされてきたからだし、『近代出版史探索Ⅱ』289などの中村書店も例外ではなかったのである。

 そうした漫画出版環境の中で、『近代出版史探索Ⅱ』365に既述しておいたよう、に昭和四年に先進社から『一平全集』全十五巻が刊行され、ベストセラーとなった。それによってもたらされた多額の印税が岡本夫妻の洋行と息子の岡本太郎のパリ留学を可能にしたことも付け加えておこう。もちろん『同Ⅱ』363の北沢楽天や『近代出版史探索Ⅴ』805の小杉未醒などの先人たちによるマンガ出版史の系譜上に、『一平全集』の企画も成立したとみなせよう。だが、そのベストセラー化は当時の漫画出版の実情からすれば、予想外の大成功は事件といっていいはずで、青天の霹靂のように受け止められたにちがいない。そしてそれは他の出版社にも波及し、円本時代の類似企画となって刊行され、現実化したのである。

  (『一平全集』)

 それは平凡社も例外ではなく、昭和五年に『川柳漫画全集』全十一巻が出されている。だが『平凡社六十年史』において、この全集はタイトルに上がっているけれど、その企画の経緯と事情は詳らかでない。これも端本を一冊拾っているだけで、全集を見ていないが、元禄・宝暦から現代にいたるまでの各時代の代表的川柳に漫画を添える構成である。所持しているのは第二巻の『寸鉄双紙(明和の巻)』で、その扉には矢野錦浪、川上三太郎編輯と記され、「はしがき」が「編者識」としてあり、次のような文言が見える。

     川柳漫画全集 第九巻 ウルトラじんた(明治の巻)(9巻『ウルトラじんた』)

 武江年表といふ根のいゝ本を見ると、明和といふ年は面白い。先づ三井親和の書を図案化した親和染が流行り、細見の脇差が行はれ、金六といふ人が板木(見当をつける事を工夫して四五遍の彩色摺りを発明した。(中略)すべてがしつとりして居た時代、いぶし銀のやうな時、その間を針目高のやうに縫つて行つた川柳が何でこれを見逃さう筈はない。
 茲に明和時代八年間の川柳を摘出して、或は現代的に表現し、或は昔の風俗で描いた漫画の色とりどり、題して寸鉄双紙といふ。ほゝゑみたまへ。


 この巻の明細は『平凡社六十年史』にも収録されていないので、章題と漫画家名を示しておこう。ナンバーは便宜的にふっている。

 1 心魂に徹して(田中比左良)
 2 銭のない非番(前川千帆)
 3 碁会所と医者(水島爾保布)
 4 女房が来ても(宮尾しげを)
 5 雨宿りの見栄(清水対岳坊)
 6 長いものから(代田収一)
 7 一生の顔と顔(池部釣)
 8 洗濯をした飯(池田永一治)
 9 畜生め畜生め(服部亮英)
 10 頼んだ馬の尻(細木原青起)

 なおこの巻の装幀は10の細木原によっているし、彼の『日本漫画史』(岩波文庫)も出たばかりなので、細木原の章から川柳と漫画のコントラストを示してみる。漫画のほうは生きのよさそうな鰹があふれんばかりの桶を天秤棒にかついだ一心太助のような魚屋が、小判模様の着物を身につけ、ミニチュアの倉を持っている男を蹴飛ばしている漫画が描かれ、その左上に「江戸者の/生れ損なひ/金を貯め」との川柳が置かれている。これは江戸っ子であれば、初鰹は女房を質に置いても競って食べるのに、高いといって買わなかった地方出身の成り上がり者を揶揄しているのだろう。まさに漫画と川柳のコラボといっていい。

日本漫画史: 鳥獣戯画から岡本一平まで (岩波文庫 青 582-1)

 なお編集の矢野と川上は大正時代に吉川英治が入社した『毎夕新聞』の記者で、後者は井上剣花坊に師事し、川柳を文学の地位に高めることを念願とし、詩的川柳の先駆をなしたとされる。吉川との関係から、平凡社の『川柳漫画全集』の企画も成立したのかもしれない。だが成功した全集とはいえず、第十一巻は未刊のままで終わってしまったようだ。


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古本夜話1528 三省堂『日本百科大辞典』

 かつて拙稿「三省堂『ウェブスター氏新刊大辞書和訳字彙』と教科書流通ルート」(『古本屋散策』所収)において、三省堂の『日本百科大辞典』はそれとは別の物語になると記したことがあった。だが本探索で平凡社の『大百科事典』を取り上げたし、『近代出版史探索Ⅱ』238で、冨山房の『国民百科大辞典』に言及してきたこともあり、ここで三省堂の『日本百科大辞典』にもふれておくべきだろう。

   (『国民百科大辞典』) 古本屋散策

 明治時代の事柄に関しては最初にできるだけ『日本百科大辞典』を引くことにしていたこともあり、第一巻などは背の部分が剥がれ始めている。この全十巻を入手したのは昭和の終わりの頃で、筑摩書房の『明治文学全集』を読むためには必要だろうと考えたからだ。確か古書価は三万円で、全巻揃いをよく見かけたものだが、現在はどうなっているのだろうか。

 (『日本百科大辞典』)明治文學全集 1 明治開化期文學集(一)

 『三省堂書店百年史』はその一章を「日本百科大辞典刊行の記録」に当て、「出版から蹉跌 ・復活から完成」までをトレースしていて、次のように始まっている。

 三省堂出版史の中で、最もドラマ的経緯をたどった出版物は、やはり『日本百科大辞典』全十巻である。その感銘に値する記録をここにつづっておく。
 これは不運にも中途で蹉跌し、爾後幾多の困難に遭遇するもそれを耐え抜き、約二十年の歳月を費やした後に完成を遂げたからである。(中略)
 とにかく、この出版事業は、日本においては本格的百科辞典の最初のものであり、最終的には全十巻、総ページ一万五千余の膨大な内容になったが、その実体は最初の計画からすると、全く桁外れの分量となったことになる。

 これを補足すると、先の『ウェブスター氏新刊大辞書和訳字彙』の編集の際に、専門語の解明に困難を生じ、近い将来に多くの専門語を網羅する百科的辞書一巻を刊行できればと考えたのである。それは明治三十一年のことだった。しかしそれから巻数が増え、四十一年の第一巻を刊行時には全六巻、索引一巻となり、その第一巻が予想外に好評を博したこともあり、さらに大規模な百科辞典へと至り、第十巻完結は大正八年を待たなければならなかった。
 
第一巻に「編修総裁」として、「序」を寄せているのは大隈重信で、それは三省堂創業者の亀井忠一との関係からである。二人は明治維新の元勲と旧幕臣の立場にあったけれど、双方の夫人が親類だったこともあり、お互いに認め合い、評価する関係になったとされる。そこで亀井の三省堂創業以来の大事業としての百科辞典刊行に際しても、大隈は協力を惜しまなかった。明治四十一年十一月の第一巻刊行に際して、早稲田大学の大隈邸で祝賀の園遊会が開かれ、その二千人に及ぶ壮観さは「顔ぶれの方が百科辞典のようであった」と新聞で評されたという。その苦労を重ねてきた三省堂の人々にとっては「わが世の春」にも思われた。

 しかし出版大事業に悲劇はつきもので、その数年後の第六巻まで刊行した大正元年に資金繰りが困難となり、近代出版史にも伝えられる「三省堂の百科」倒産が起きてしまう。それでも同年末には日本百科大辞典完成会が発足し、編纂主任の斎藤精輔も理事の一人となった。その完成会発足とほぼ同時に日本百科大辞典普及会も成立している。私の所持する第一巻は大正三年五月第三版で、配本所が日本百科大辞典普及会とあるのは、発売が三省堂ではなく、そちらに委託されていたことを示している。

 しかもこれも偶然の暗合というしかないが、二つの会に尽力したのは『近代出版史探索Ⅳ』665などの佐伯好郎で、大隈と亀井ではないけれど、それは斎藤と親友の関係にあったからだという。佐伯の「景教碑」研究にしても、斎藤の『日本百科大辞典』とどこかでリンクしていたといっていいかもしれない。斎藤は『三省堂書店百年史』でもプロフィルが紹介され、「斎藤精輔、百科大辞典を語る」という小項目もあり、また『辞書生活五十年史』(図書新聞社)の刊行も承知しているが、ここでは『出版人物事典』のコンパクトな立項を引いてみる。

 出版人物事典: 明治-平成物故出版人

[斎藤精輔 さいとう・せいすけ]一八六八~一九三七(慶応四~昭和一二)三省堂編輯所長。山口県生れ。岩国中卒。一八八六年(明治一九)上京、三省堂創業者亀井忠一と出会い三省堂に入社、辞書編纂に従事。まず、『ウェブスター氏新刊大辞書和訳字彙』を初仕事に、各種の辞典、中等教科書、さらに畢生の大事業『日本百科大辞典』へと続く。『日本百科大辞典』の編集長として一九〇八年(明治四一)第一巻を刊行、大好評を博したが、三省堂は資金が続かず、第六巻を刊行して破産した。しかし斎藤の奔走により完成会が組織され一九年(大正八)全一〇巻が完成した。現在もその歴史的意義は高く評価され、苦労が偲ばれている。自叙伝『辞書生活五十年史』(昭和一三年刊)が九一年(平成三)再刊された。

 

 この斎藤の『日本百科大辞典』の特色は先の「記録」にも第一巻の図版「鳶尾科植物」が示されているように、ただこれはモノクロ写真ではわからないが、カラー図版で、その美しさはまさに百科大辞典に華を添えている。それは他の「有毒植物」「薔薇か植物」にしても同様である。ただ私としては最初のカラー図版「アイヌの服飾及日用品」が興味深いし、これが『近代出版史探索Ⅲ』418などの坪井正五郎撰によることを付記しておこう。


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古本夜話1527 巌谷小波編『大語園』

 本探索の平凡社は『大辞典』によって第二次経営破綻を迎えてしまうのだが、同時期にやはり売れ行きが芳しくなかったと思われるシリーズを刊行していた。それは昭和十年に始まる『大語園』である。まずは『平凡社六十年史』を引いてみる。

 巌谷小波編の『大語園』全十巻は、日本、中国などアジア圏にひろく流布した神話、伝説、口碑、寓話等をあつめ、それを二十五の部門に大別した説話集成だった。いわば「今昔物語」の現代版とでもいったねらいのものであり、小波お伽噺以来の渉猟がそこにまとまっている。編集には巌谷小波、栄二の父子があたり、実際の執筆は木村小舟が手がけた。それほど成績はよくなかったが、今日ふり返ってみてユニークな出版物であったことは明らかだ。熊田葦城の『日本史蹟大系』全十二巻などとともに、編纂ものの中で特異な位置をしめている。

 私が架蔵しているのは全巻が裸本だが、菊判八百ページという大冊である。だが残念ながら、小波は昭和八年に亡くなっているので、『近代出版史探索』167でふれた「巌谷小波伝」の巌谷大四『波の跫音』(文春文庫)にも『大語園』に関する言及はない。それゆえに『大語園』についての詳細は小波に終生師事した、これも『近代出版史探索Ⅱ』315の木村小舟による『大語園』1に寄せられた「大語園の発刊に際して」を参照するしかない。この「凡例」と合わせて九ページに及ぶ、いわば「序文」は『大語園』の成立事情を語って余すところがないからだ。それをたどってみよう。

波の跫音: 巖谷小波伝 (文春文庫 い 15-5)

 明治四十年頃、小波は「伝説大全編纂の希望と抱負」を語り、小舟にその「前人未墾の新地域」の執筆を委託した。小舟はそれに約五年を要し、博文館から『東洋口碑大全』第一巻として刊行された。『博文館五十年史』を確認してみると、これは大正二年の刊行である。小舟はそこでの小波の「序文」を引用している。それは次のようなものだ。

 「子供が好きで(中略)子供の情緒、子供の趣味」が自分と同じで、「事実を描いた歴史や、人情を描いた物語より、想像を原として神話や、夢幻を主とした伝説」を面白く感じる。それゆえにこの二十年来、日本と世界各国の神話や伝説を整理蒐集してきた。しかしこれらの研究は「優に一代の事業」で、「此の議は漸く学者間にも認められて、既に帝国大学などには、それを専門に修めやうとする、篤学の人さへあるやうになつた」。だがもはや自分の仕事とするには荷が重く、小舟がそれを引き受けることになったのである。

 ところが第二巻の原稿は関東大震災によって灰燼に帰し、中絶の悲運を迎えてしまったのだが、大正十四年の夏に至って、先生は「極めて厖大なる計画の下に、最も完備せる物を作成せむとの希望」を述べられ、小舟も「欣然として、粉骨砕身、万事放擲、専心之に従事して必らず其成果を保つべく誓つた」。それというのも、参考資料のほうは実存していたからだ。したがって、『日本近代文学大事典』の小波の立項にも見えるように、木村小舟を執筆者とする 『大語園』の編集に着手したのは大正十四年だったことになる。

 その一方で、昭和三年に小波は千里閣出版部を設立し、小舟を編集長として、独力で『小波お伽全集』全十二巻を刊行し、五年に完結させている。それらの編集と経営に携わりながら、小舟は九年の夏までに予定量の三分の二までを執筆に至り、そのタイトルも 『大語園』の名を冠することに決まった。だがその完成を心にかけながら、昭和八年に小波は癌で亡くなってしまう。そこで小舟は東京帝大国文科を卒えたばかりの小波の次男栄二を協力者とし、その後の二年で一期事業の完了を見たのである。それは日本、支那、朝鮮、天竺に流布する神話、伝説、口碑、譬喩談などの結集大成だった。その一万を収録した「説話大集編纂過程」の最後を小舟は次のように締めくくっている。

(『小波お伽全集』)

 さて思ふに、日本古来の典籍中にて、彼の宇治大納言の今昔物語すら、其集輯する所の三国の説話は一千数百章を出でず、又外人の手に成れる仏本生譚の如きも、精々四百に過ぎなからう。然れば即ち其収録材料の当否は別とし、之を数量の点より見れば、我説話大集は正しく日本第一、否世界第一と称するも、敢て不当とは認め難い。殊に此の編纂事業が、父子相伝に依つて成されしてふ一事は、比類なき学界の美談として、永く後生に貽さるべきもの、先師在夫の英霊も、必ずや満足の意を表されると信ずる。斯くして私は十余年間の重責を果し、安慰一番、頭髪の既に白きを加へしを知つた。
 事や下中平凡社社長の識認する所となりて、之が出版を引受け、且其体様も取捨宜しきに塩梅し、五十音順を以て排列し、一冊一部の浩瀚なる書籍として世に出ることゝなつた。
 勿論先師当初の抱負たる、有りとあらゆる説話を余さず、悉く、結集するまでには、稍道遠き感もあれ、其第一期の事業としては、先づ此の程度にて遺憾あるまい。

 『大辞典』と同様に九牛の一毛的例を挙げるつもりでいたが、 『大語園』はいずれも長いので断念した次第だ。


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