魂花 X 啞蟬 – 談運動的音樂 / 音樂的運動

魂花 X 啞蟬 – 談運動的音樂 / 音樂的運動
http://pnn.pts.org.tw/main/2013/10/07/%e9%ad%82%e8%8a%b1-x-%e5%95%9e%e8%9f%ac-%e8%ab%87%e9%81%8b%e5%8b%95%e7%9a%84%e9%9f%b3%e6%a8%82-%e9%9f%b3%e6%a8%82%e7%9a%84%e9%81%8b%e5%8b%95/

以下、日本語訳。



ソウルフラワーユニオン×シカラムータ--運動としての音楽/音楽としての運動を語る
記者 鐘聖雄

ソウルフラワーモノノケサミットと聞けば、ほとんどの台湾人にはなじみがないだろう。事実、1995年の阪神淡路大震災から2011年の東日本大震災及び福島原発事故に至るまで、彼らは古典・民謡の演奏で無数の被災者たちを慰めてきただけでなく、ソウルフラワー震災基金を設立し、震災後の復興を助けてきた。これは日本の社会運動と震災後の復興において欠かす事のできない音楽の力である。

今年の「流浪之歌音楽祭」では「吟遊人」を主題とし、主催者である大大樹音楽は中国、韓国、フィリピン、ギリシャカメルーンフィンランドなどから「底辺の声」を発するミュージシャンを招聘し、日本からはソウルフラワーモノノケサミットが9年の年月を隔てて、再度台湾に到来した。

厳密に言えば、ソウルフラワーモノノケサミットはバンドというよりは、組合と呼ぶ方がよいかもしれない。彼らは主にソウルフラワーユニオン中川敬伊丹英子、奥野真司(ママ)などから編成され、その他には、主旋律であるクラリネットを演奏する、シカラムータの中心人物大熊亘がいる。ソウルフラワーユニオンであれシカラムータであれ、この2バンドは日本の社会運動上、重要な役割を演じ、かつ日本の伝統音楽、歌謡、鼓楽の復興に力を注ぎ、同時に世界の音楽を押し広めてきた。

今回の流浪之歌音楽祭で、ソウルフラワーモノノケサミットは、日本の被災地で演奏してきた古典歌謡を演奏するだけでなく、歌謡形式に編曲した抵抗の歌も披露した。更に重要な事は、メインボーカルの中川敬が舞台上で、中国語で「原発ゼロ」「原発要らない」と叫び、台湾の観衆に向かって、311原発事故後の彼らの反原発の立場を表した事だ。

以下のインタビューは、ソウルフラワーユニオンのメインボーカル中川敬と、シカラムータのバンドリーダー大熊亘を訪問したものである。このインタビューにより、台湾の音楽ファンたちがこの2つの日本の左翼バンドに通ずるだけでなく、日本の目下の反原発運動の脈絡をより理解してくれる事を期待している。

◎ロックから民謡へ ソウルフラワーが音楽で被災者の心を鼓舞する

中川敬は1966年に生まれ、若い頃はイギリスのロック、パンクに親しみ、ローリングストーンズ、ビートルズ、クラッシュなどのバンドを崇拝するようになる。16歳の年に、彼は人生で初めてのバンドLemon Squeezerを設立し、その後19歳の年に奥野真哉、河村博司らとソウルフラワーユニオンの全身となるニューエストモデルを立ち上げる。そして1993年にソウルフラワーユニオンが正式に誕生し、主にロック、パンク、ファンクを作風として活動していく。

90年代に入り、日本ではワールドミュージックブームが到来し、大型チェーン店タワーレコードにおいても世界の民族音楽を販売し始め、日本のバンドのスタイルも多元化していく。中川自身も若い頃は、民謡は時代遅れの戯れで、ロックこそがクールな音楽だと思っていたが、90年代の流れの中で沖縄民謡に触れてから後、民謡が面白いと感じ、そののちはワールドミュージックをロックの楽風の中に取り入れていった。

ロックやパンクといった音楽の「薫陶」なのかも知れない、中川いわく、十代の頃の自分は「極端な左翼(無政府主義者)」で、宗教、権威、資本主義などに強く反対し、同時に反戦、反原発の立場は明確で、ソウルフラワーの作品にも権威、資本、戦争に反対する楽曲が多く見られる。

1995年に阪神大震災が起こり、大阪の人間である中川は、ミュージシャンとして震災後の復興に力を注ぎたいと強く思い、他のメンバーとエレキギター等のロックで用いる楽器を下ろして、ソウルフラワーモノノケサミットとして、三線、太鼓、チンドン太鼓など伝統楽器を用い、当時電気がまだ復旧していない被災地へ入り、伝統歌謡を演奏して被災者に元気を与えた。

中川いわく、被災地で演奏する事を決めた時、まず考えたのが、エレキの楽器を使わないという事の他に、曲目の選択が重要な点であった。演奏時の事を考えると、聴衆との相互の掛け合いをし、当地の老人たちと一緒に音楽を楽しみたいと考えた。結果、中川たちは日本の古曲、民謡を編曲し、ひいては在日コリアンが多く住む地域ではアリランを演奏するなど、住民たちと互いに楽しむ事を念頭においた。

「あの時のロックミュージシャンで、古い民謡をやるという人はとても少なかった。自分ができるという以上、それは一つのチャンスだろう」「被災地の住民は毎日の生活が大変で、ずっと苦しい事を考えている。我々が演奏している一時間だけでも、日頃の苦しみを忘れてほしいと思った。特に老人たちは、昔の唄を聞くという機会も少ないだろうから」

中川は思い出す。震災後それほど経っていない頃、仮設テントで被災した家族と話した時、ある人が、地震が起こった日の夜は満月で、満月を見ると地震の恐怖を思い出すと言った。その事が中川に「満月の夕」を書かせる事になり、この曲に亡くなった魂を慰める鎮魂の意をこめた。その後、満月の夕は意外にもソウルフラワーを最も代表する曲となり、2011年に発生した東日本大震災の後にも、ソウルフラワーはこの曲で被災者を元気づけている。

中川いわく、満月の夕は十数年の間、何度も演奏してきたけれども、不思議な事に飽きる事がない。彼はよくメンバーに言う。この唄は始めは震災で亡くなった人たちを鎮魂する曲であったが、これだけ多く唄って後、聴衆たちと一緒に唄い、ひいては踊って、全ての鬱屈とした気持ちを一時でも無くしてほしいと願うようになった。

阪神大震災であれ東日本大震災であれ、避難所生活はストレスで、我々の音楽を借りて「やっと泣くことができた」という人がいた。心から笑い、心から泣き、もう鬱屈とする必要はないんだと」

中川敬原発は将来への犯罪

日本の左翼運動は70年代以降から武力抗争へと発展し、人々の反感を買い、反原発運動を含む多くの議題が、人々の普遍な支持を得る事が難しくなっていった。

中川いわく、80年代にパンクロックに親しんでいた時に、反原発運動に参加した事があったが、当時の社会の雰囲気は、一方では左翼を怖がり、一方ではメディア、財界の資本化によるエネルギー問題の利権問題化があり、反原発運動を発展させる事は難しかった。

福島原発事故が起こって後、日本の人々は原発事故の恐怖を直に感じる事となり、(不幸にも)反原発運動が再び発展するきっかけとなった。中川はこの機会を用い、ツイッターで人々を反原発デモに呼び掛けるなどし、近年の日本における反原発運動の中心人物の一人となった。

2011年の夏、日本政府は国内の54基の原発を全面停止させ、日本は半世紀以来の得がたい、且つしばしの原発ゼロの夏を過ごす事になった。日本政府が大飯原発を再稼動、そして停止させたが、現在も大飯、柏崎刈羽などを再稼動させようとしており、日本の反原発運動は再度難しい局面を迎えているのだが、
中川いわく、状況が楽観であろうとなかろうと、反原発はやらなきゃならない事だ。

「福島がまだ解決していないのに、日本政府は再稼動しようとしている。全くクレイジーだ。日本列島は地震が多く、また同じ様な事故が起こりうる。どうしても原発を止めなければならない」。中川は強調する:「今回の反原発運動は意識情態を超えている。70年代以降の得がたい機会だ。成し遂げられるか?もちろんそう願うし、成し遂げなきゃだめだ。多くの問題を次の世代に残す事はできない」

今回のソウルフラワーモノノケサミットの演奏の中で、中川は舞台上で中国語にて「原発ゼロ」「原発要らない」と叫び、自身も台湾における反原発の情報を度々耳にしてはいたが、台湾の原発の状況に詳しいわけではなかった。

このインタビューの中で、私は中川に話した。台湾で稼働中の3つの原発、ひいてはまだ稼動していない第4原発は、全て世界で最も危険な原発の範疇にあると、世界のメディアに評定されている。台湾の人々と台湾政府へのあなたの考えを聞かせてほしいと。

中川はこの事を聞いて、こう話した。「台湾の原発もひどいものだ。原発は将来への犯罪。中国はこれから沢山建設するんでしょう?停止できるところはすぐ停止すべき。台湾が先を行って、中国や日本みたいに狂った国々に止めるよう言ってほしい」

◎音楽はどのようにして運動の媒介になるか?

大熊亘はバンドシカラムータの中心人物で、その自在なるクラリネット演奏、ひいては同時に二本のクラリネットを吹くという巧妙なる技術を持ち、その演奏を見た観衆は印象を深くするだろう。同時に、シカラムータの楽器編成は非常に独特で、彼らの楽風をジャズ、パンクと定義する人がいたとしても、彼らが同時にチンドン太鼓、クラリネット、バイオリン、オルガン、ギターや各種管楽器を併せ持つ事に気付いたら、自らの音楽の分類に疑問を持たざるを得ないだろう。

ユーチューブにてシカラムータの動画を検索すると、彼らが近年の反原発デモの中に度々登場している事に気付く。彼らはお祭りの楽団のような形で存在し、声を上げるスローガンに演奏と歌声を合わせ、頭の中でよく思い描くつまらない印象のあるデモを、にぎやかで艶やかなものしている。事実、シカラムータは日本で最も重要な左翼バンドとして、常々この様な方式を用いて、社会運動を忌避する人々の気分を緩和している。

大熊は1960年生まれで、1970年代、日本で社会運動が盛んな時、彼はただ「大人の世界は全く信じられない」という考えを持つ子どもであった。彼が大学生になった時、日本の左翼運動は厳しい内部闘争を始め、かつ武力闘争に向かって発展し、大衆はこれを受け入れる事が出来なくなっていった。

彼いわく、「当時の主流な価値は個人の発展だけにあり、たとえ社会問題が存在し、解決していなくても、街に出て抗議をしようという人は少なくなった」。当時の大熊は一方でパンクロックに触れ、同時に運動の外にいる「奇妙な」大人たちと知り合い、もう一方で日本の左翼抗争が面白くなくなったため、自身は結局、社会運動を組織する者とはならず、音楽でもって自らの念頭にある運動に携わっていった。

1979年、大熊は東京にて前衛ロックバンドに加入し、彼の音楽活動を開始した。1985年、大熊のパンクロックの人生に大きな転機が訪れる。それは、元々は商業宣伝に使われていたチンドン太鼓というものに魅了され、ミクスチャー音楽を押し広め、同時にクラリネットを学び始めた。

9年後の1994年、大熊は志を同じくした友人たちとシカラムータを結成、4年後にやっと一枚目のアルバムを出すことになるのだが、2000年にはヨーロッパ8カ国20都市に赴き演奏、ひいてはロンドンにて、ブラーと共にロイヤルフェスティバルホールにて演奏を行った。大熊亘はこの期間も、ソウルフラワーモノノケサミットの度重なる演奏に参加しており、同時に各地のデモの現場にも姿を現している。

大熊いわく、福島原発事故前は、東京の様な大都市でも、500人をデモに呼び掛けるのは難しい事であり、1000人も集まれば、それは大変な事であった。よって、国外のデモの現場では、何万人もの人々が街に出ているという事が羨ましかった。

もちろん、大熊が闘い続けている人々を軽視しているわけではない。彼は、行動を起こしている人々は常にまじめで、厳粛で、しっかりとした人々であると思っており、だから彼は一つの媒介になり、大衆に運動をより知ってもらい、議題を理解してもらいたいと思っている。だが、彼は音楽がただの運動の道具だと考えているわけではない。観衆にもう一つの音楽形態を提供し、同じ空間で観衆と共に分かち合う、これも一つの行動であると。

大熊はこう考える。日本の特色というものが多くのスローガンを単調にしているのかもしれない。デモの現場では「原発反対」「○○反対」という類の単調なスローガンで、傍らで見ているものだけでなく、行動している側もつまらなく思えてしまう。大熊は台湾に来た時、台湾のデモでのスローガンに躍動感がある事に気付き、日本に帰ってから彼は、音楽をスローガンに合わせて演奏しようと考えた。日本には他にも、ドラム音やサンバのリズムをスローガンに合わせるミュージシャンがいる。大熊は、いかに音楽を用いて運動を後押ししようかと絶えず思考している。

大熊亘原発は無責任な政策だ

福島原発事故後、日本社会は半世紀来の厳しい試練に直面している。多くの民衆はメディアは真相を明かさないと考え、みな不安かつ憤りを感じ、反原発運動が再度関心を持たれるようになった。2011年4月、素人の乱松本哉ツイッターフェイスブック上で人々を反原発デモに呼びかけ、第一回目のデモではなんと15,00人(ママ)の人々が街に出て、人々を驚かせ、大熊もその例外では無かった。

原発は仮に事故を起こさなくとも、人類はこの技術をコントロールし切る事はできない。なぜなら排水はずっと太平洋に排出され続け、他の国々にも影響を与える。日本はベトナム原発技術を輸出しようとしている。これはみなが望まない状況だ」

大熊は考える。日本はこのような重大な事故を経験し、反原発運動もまだまだ楽観できないが、次の世代の為に努力し続けなければならない。さもなければ、40年後、日本は原発廃炉の問題に対応できないだろう。

原発は一種の無責任な政策だ。原発技術は元々成熟したものではなく、使用済み燃料も永遠に僻地に捨てられ、補助金制度は地域の対立を生む。全く無責任だ。可能ならば、台湾政府はこれ以上原発を推し進めるべきではない」

大熊亘インタビュー:張建元