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岡田希雄氏發表論文目録 岡田希雄氏略歴

 

2011-05-01 俊頼無名抄の著者と其の著述年代(下)

  • 岡田希雄
  • 藝文 12(7): 368-385 (1921)

以上論じたやうな譯であつて博士が本書を以て俊頼の著述でないとせらるゝ論は博士の精緻なる學風から餘りに懷疑的態度をとりて疑ふ可らざるもの迄も疑はれた結果であるから其の論據は有力でない。然るにこの三論據を盾として深くも本書の内容を檢討する事なくて本書を僞書なりとして排斥せられたのはどんなものであらうか。少し輕卒に過ぎた嫌がありはしまいか。

かくの如くにして博士の説は否定せられ俊頼無名抄が俊頼の著述である事は立證せられたが、然しなほ突き進んで、も少し精細に本書の内容を觀察すると、案外にも本書の記事には本書の著述を俊頼とする事と甚しく矛盾する事がかなりにある。そしてそれらのものは本書の著者につきて、今迄述べた事を立派に根本から覆す事の出來さうに見えるのである。以下其の事について少し述べて見やう。

本書五十九頁上欄に「みつの江の浦島か子のはこなれやはかなくあけてくやしかるらむ」の歌につきて浦島の傳説をのせ、さてこの歌を解釋して居るが「(はこを)あけゝることをくやしく思ひてかへせどかひなし、それに心を得てよめるなり」と云つたゞけで、少しも夏の夜に言及して居ない。是で見ると「はかなくあけて」を文字の表面に現はれた通りに箱をあけた悔しさと解し、拾遺集夏部、綺語砂、〈歌學文庫本二十九頁〉和歌童蒙抄〈主頁〉などに「夏の夜は」としてのせられた意味を悟らないやうである。そして「みつのえの」は「なつのよは」の誤寫と見られないでもないが然も自分の見る事の出來た九種の本には皆「水のえの」とあるから是は層元來からかくの如くあつたものと見る外ない。然もこの歌は初句を「なつのよは」としなければ全く解けないものであるにも拘はらず、よし暗記の誤りにしてもあれ、平然と「みつのえの」と書いて意も通じたと考へ、又浦島傳説としては缺くべからざる事あるのに、浦島歸郷して見れば既にありしにもあらず變り果てゝ居つたと云ふ事も述べて居ない。自分はかゝる缺點のある記事の記者に對しては其の無識を責むるよりもむしろ其の沒常識なのに痛く驚くのである。而して俊頼ほどの人がこんな事を爲しさうにも考へられない。

次に能因法師の有名なる「天の川苗代水にせきくだせ天くだりますかみならば神」と云ふ祈雨の歌は本書〈十五頁上欄〉にも金葉集雜下にも見えて居るが、能因をして雨乞をなさしめた伊豫守の名は二書所傳を異にして本書は實綱とし能因の家集によつて書いたと云ふ金葉集は範國として居る。然も是は轉寫の誤から生じたものでない。この兩説の中どちらが正しいかは知る必要もないから問題外であるが、かゝる現象の生じたる以上は結果から推して理由を知る事は必要である。即ち同一人の著書ならば兩書で説が變る事もあるまいからこの兩書の著者は同一人ではなくて別人である、從うて本書は金葉集の撰者俊頼の著述ではあるまいと見るは合理的である。然し又飜りて案ずるに、是は事實に關する事であるから俊頼は本書を書いた後で、金葉集撰述の時になつて能因の家集を見て正しい事實を知り得たるが爲め兩書差を生じたのであるとも解する事も出來るから逃路がないではないが、一體能因法師は俊頼の父經信と親しくあつた人で當時には歌人として極めて有名であつたのだから、この能因に關して俊頼が書く記事にはよし傳聞のまゝ記したにしても誤りは傳へまいと考へられる。かつ又彼が金葉集を撰述した、文治二三年の頃には見る事の出來た能因の寫集を本書の著述せられた時〈永久三年だらう/是は後に述べる〉には見なかつたとも考へられない。何れにしても怪しむ可き事であつてこの兩書所傳の相違は是亦本書が僞書であつて金葉集撰者たる俊頼の著述でないと考へさせる材料の、一つになるものである。

次に又本書〈十八頁上欄〉の記事によると「老いはてゝ雪の山をばいたゞけどしもと見るにぞ身はひえにける」と云ふ歌は經信の母、高倉の尼上の許に仕へて居た老女房が和布の事により背をうたれんとした時詠んだと云み事である。そしてこの尼上は前にも一寸云つた通りに俊頼にも祖母に當る婦人だからこの尼上の許に居る女房に關する記事はよも誤りはあるまじく極めて正確である筈だから全く信じてもよいと何人も思ふだらうが、豈はからんやこの歌は早く拾遺集卷九雜下に、

大隅守櫻島の忠信が國に侍りける時こほりの司に頭白き翁の侍りけるを召しかむがへむとし侍りける時翁の詠み侍りける。老はてゝ雪の山をばいたゞけどしもと見るにぞ身はひえにける。此歌によりて許され侍りにける。

とあるもので今昔物語卷廿四、大隅國郡司讀和歌語第五十五にも見え、又、俊頼以後の諸書例へば奧義抄序、宇治拾遣物語、十訓抄等にも記載せられ歌辭の小異はあつても翁の歌とする點に於ては一致して居る。そして歌の趣より云うても女房同志の口諍のはてに背を打たれやうとした女房の詠とするよりも國司廳で筈をうけんとする翁の歌として解する方「しもと見るにぞ」の語も尤らしく聞えるから、是は何れの點より見ても拾遺集の説の方を正しとすべきである。然もかゝる面白い由緒づきの歌であるから一讀すれば何人も記憶するのが容易であるのに、まざ〳〵このやうな寛恕する事の出來ない僻事を敢てする事を俊頼程のものゝすべき事と考へられやうか。無智文盲な者と雖もかゝる沙汰の外なる誤りはなすべくもない。故に本書にかゝる誤りのある事はまた以て本書僞書説にとりては有力なる一論據であらう。この外本書中には聖武帝を女帝とし〈十二頁上欄〉いな舟の歌により名高い最上川を出雲の川とし〈八十五頁上欄〉山邊赤人の「和歌の浦に汐みちくれば云々」の名歌の第一句を誤りて「なにはかた」とし、〈二十二頁下欄〉又古今集に見えて居る「數ふればとまらぬものをとしと云ひてことしは痛く老いぞしにける」以下六首の歌をば七叟の歌とし〈十六頁上欄〉たるなど人口に膾炙せる古歌をあやまりて記し或は歌を解釋して荒唐無稽なる説をなすなどの事が極めて多くあつて到底勅撰集の撰者として歌人のよせ重かつた俊頼の著述と見られないのである。

さてこのやうに、本書を俊頼の著述とするについて矛盾する點があつてもやはり本書は俊頼の著述だと斷言する事が出來るであらうか。自分はそれでもなほ本書は俊頼の著述であると確信するのである。

それは何故かと云ふと自分が今あげた所の數個の矛盾點と云ふのは要するに本書の著者なる俊頼其の人について想像する事の出來る學識と本書記事の價値との矛盾に過ぎないのである。自分は是等の矛盾點を指摘するに當りては口にこそ出さなかつたが然し、暗默の中には俊頼をば、かなりの學才ある歌學者として認めて居たのであつた。だからかくの如くにして自分はこの歌學者なる俊頼がこんな亂暴な、沒常識な誤りをなす筈がないと考へて以上の如き矛盾點をあげたのである。この故に是等の矛盾點と云つても、俊頼が學者でも何でもなくて單に非凡な歌人であつて然もかなり淺慮な人であつたとすれば、もう矛盾でも何でもなくなつてしまふのである。さうなればこんな亂暴な誤謬のある本書でも、もとの如く俊頼の著述と認むるに何等の支障もなくなるのである。

然らば俊頼は一體學者だつたらうか。否、實は彼は學者と云へる人でもなかつたのである。それはどうしてゞあるか。

抑々平安朝末期頃の人は歌人にてもあれ、歌學者にてもあれ、古人を尊敬する事の甚しい割合には其の學識は皆驚く可き程貧弱で淺慮であつたのである。彼等は人の知らぬやうな耳遠い難しい事をば故意に歌によみ込んでわれかしこしと自惚れて物知り顏を裝ふ事はするが實を云ふと其の學問は案外に淺くて難しい事を知らぬ事は無論の事で極めて平易な事さへも知らない。例へば

  • (イ)隆源口傳に「或人云、ふせやとは野をいふともあり」とある。
  • (ロ)同じ隆源口傳によれば伊勢大輔の女で有名な歌人なる伯母は萬葉集によくある「たまゆう」を久しと解して居る。
  • (ハ)保安二年九月に關白内大臣忠通の第で行はれた歌合の庭露七番の歌の判辭や童蒙抄〈三十六頁上欄〉によると當時の人は「のら」と云ふ語の意味を知らぬ。
  • (ニ)奧義抄〈百十九頁上欄〉に「そのかみは當時とかけり、そのをりと云ことなり、さればすぎにしかたをも今ゆくすゑをもいはんにとがなし」と云つて居る。
  • (ホ)教長の古今集註〈六十六丁左〉には「やよやまて」を解して「ヤヨヤハ八夜也、フルクハヒサシキコトニ七日七夜トイフヲセメクヨノ中ニスミワビヌ、コレラモスギテヤヨヤトヨメリ」と云つて居る。
  • (へ)「櫻狩雨はふりきぬ同じくはぬるとも花のかげにかくれむ」と云ふ歌の「櫻狩」を「小暗さくらがり」と解く説がある。堂々たる大家顯昭でさへ「さくらがりとはくちがるといふ事なり、さは詞の助也、さわたるなど云がごとし」と云つて居る。〈袖中抄卷十九〉

顯昭すらこの通りである。あとは推して知れやう。だからこの種の例は歌合の判辭、歌學書等に於ては極めて頻々見出せるのであるが例をあげてもきりが無いから是で止めやう。扨是等は當時の人が古語に對する智識の淺慮なるが爲めに生じた滑稽な例であるが史實に關しても亦かくの如くである。彼等は事實の考證等といふ事には極めて大まかで興味をも有たなかつたと見えて、童蒙抄〈五十六頁上欄〉は長保寛弘頃の和泉式部を醍醐帝の皇子重明親王の寵をうけた婦人とし、教長は「ならのみかど」を桓武帝とし〈顯昭柿本人麿勘文〉素戔嗚尊傳説について奇怪な説を傳へ〈古今集註〉基俊は伊勢物語の八橋とすみだ川を混桐して噴飯すべき言を云〈雲居寺結縁經後宴歌合十一番判辭〉うたのである。然し是等はまだ其の誤りが寛恕せらるゝものであるが歌の風情を悟らないで曲解するに至りては驚くの外はない。然も是が曲解などの生ずべくもない平易な歌に多い。

  • (イ)清輔は春月をうたうた白樂天の「不明不暗朧々月」といふ詩句をもとゝしてよんだ大江千里の「てりもせずくもりもはてぬ春の夜のおぼろ月夜にしくものぞなき」を「夏の夜の」と改めて教長の拾遺古今に入れた。〈俊成正治奏状〉
  • (ロ)經信の難後拾遺に「さよ中に岩井の水の音きけばむすばぬ袖もすゞしかりけり」を難じて、「水は手にこそむすべ、そでしてやはいかゞあらむ、さてむすばぬとはよむぞかしとはいふべけれど、あるべきことをこそさもいはめ、とおぼゆるはいかゞ」と云つた。一體この書は經信が、己れが撰者となれなかつた腹癒せに通俊の後拾遣の疵瑕をあなぐり求めてさんざんに難じたもので其の解釋には故意の曲解と見える物が多いから皆まではあげない。
  • (ハ)然し大體が經信は歌の風情と解し得なかつた人と見えて、寛治八年の高陽院七番歌合には此種の曲解が多い。

なほこんな例は經信に限らず、當時の歌合を見るとざらにある事だから一隅をあげるにとゞめる。

扨當時の歌人歌學者として名聲嘖々たる人ですらかくの如くである。然も俊頼は學者であつたかと云ふに、彼の崇拜者さへ、俊頼の敵手基俊の學力は認めても、俊頼に學識ある事を認むるを得なかつた程の人である。金葉集の撰者としても清輔は袋草紙卷二、〈二十六丁右〉の中で「時有㆓基俊者㆒兼㆓和漢㆒尤便㆓撰者㆒」と云つて、基俊の方をあげて居る位な人である。それで基俊が俊頼の無學なるを嘲りて蚊虻の人と云つた時なども「文時朝綱よみたる秀歌なし、躬恒貫之作りたる秀日なし」と答へて〈長明無名抄十四頁下〉自ら其の學の淺きを認めて居たのである。畢竟ずるに彼は歌學者ではなく單に非凡なる歌人であつたに過ぎぬ。だから前にも云つたやうに、鬼の腰草や腰雨を歌によみ込み、又萬葉集の「水隱れて」と云ふ語を「身隱れて」と解して「とへかしな玉くしのはに身隱れてもずのくさくきめちならすとも」〈散木集卷下二十三丁左〉「雪ふれば青葉の山も身隱れてときはの名をやけさはおとさん」〈同集卷上七十九丁左〉等とよみ、萬藁集卷九にある菟原處女の處女墓をとめつかを誤りて「もとめつかおまへにかゝる柴舟の北氣になりぬよるかたをなみ」〈同集卷中十三丁右〉とよみ、又よく新造語を案して「もゝつてのいそしのさゝふ」、「松の玉枝」「さくらあさのをふのうら」「むろのをしね」等いふ事を云つたりしたのであつて、散木集中に煩はしきまであるこの種の例は彼が耳なれぬ奇物卑語、古語等を殊更によみこまんとした事にも起因するだらうが、同時に又彼の無識をも表白して居るのである。然しこんな例は流石に歌合の判辭には見當らぬ。蓋し判者としての彼は、學識を見すかされないやうに用心深い態度をとつて、馬脚をあらはす事なかつたからである。然し乍ら其の代りに、判者としては頭の解釋が絶對に必要な爲めこの方面で馬脚を表したものが多い。換言すれば歌の風情を語らないで曲解した事が極めて多いのである。

  • (イ)元永元年十月の内大臣忠通の第にて行はれた歌合の時雨八番の歌「神無月みむろの山の紅葉ばも色に出ぬべくふるしぐれかな」を俊頼は難して「神無月とは月日の月の名なり、御室山とて神無月といはむことおぼつかなし、證歌やあらむ」と云つた。自分は俊頼が何の爲めこんな事を云つたのかと判斷するに苦しむのである。
    かゝる例は同じ次の九番の左の歌に對する俊頼の難にもある。
  • (ロ)同じ歌合の時雨十番の歌に「波よする蜑の苫やのひまをあらみ漏にてぞしるよはの時雨は」と云ふ歌があるが、俊頼は難して「時雨すげなきやうにきこゆ、しぐれは起ゐてきゝ明すべき事ならねど是はもるに初て知といへば寢入りたるがもりて衣のぬれければ起さわぐとみゆ、若もらましかば又の日人傳に社きかまほしとおぼつかなくぞきこゆる」と云つたが、この解釋は當を得て居ない。つまり「波よする」とある初句に氣がつかないからである。音高く寄する波濤のため雨の音もまぎれてしまつた事をよんだこの歌の意を悟らないで、「衣のぬれけれは起さわぐ」等と解したるは拙い。
  • (ハ)同じ歌合の時雨十一番の歌「さ衣の袂はせばしかづけども時雨のあめは心してふれ」と云ふのは袂がせまいから雨を防ぎ兼ねる、故に心して降れと云つたのであるのに俊頼は「心してふれといへるはぬれん事のをしさにいへるか」と云つて居る、全く沙汰の外である。

この外時雨六番右歌、殘菊四番左歌、同九番左歌、同十二番右歌等に對する評は何れも曲解と見られる。而して是は唯一つの歌合につきて吟味した所であつて外の歌合に於てもこの通りである。

俊頼と云ふ人はこんな風で實に學力の乏しき人であつた。然も彼にしてもし愼重な態度をとる事の出來る人ならば、よもや實際の學力は乏しくとも、其の學力の乏しき爲め生ずるやうな過失は幾分防ぐ事も出來たらうに、彼は學力乏しきが上に加ふるに愼重な學術的態度のとれる人でなかつたのだから、この人にして、無名抄の中で今日の人の想像も出來んやうな誤りを傳へ、甚しきに至つては無智文盲の域を越えて沒常識と考へられるやうな誤りを敢てしたのも、時勢の勢と、彼自らの性質と學識とからの結果であつて怪しむに足らぬ事である。さしもの名高い歌學者公任も清輔が「此歌の論義はこれならずあやまりおほかる文也」〈奧義抄卷五〉と云つて居る通りに歌論義中しば〳〵誤りを傳へ、又古今集卷十二に見えてある躬恒の「たのめつゝあはで年ふるいつはりにこりぬ心を人はしらなむ」と云ふ歌を自ら撰べる三十六人撰と深窓集とにより作者をたがへ〈顯昭古今集註八十五頁下欄〉基俊もまた、歌を曲解したり、歌の作者の名を誤りなどしたる事はよくあるのではないか。故に本書に甚しい誤りがあつたからと云うて本書が俊頼の著述でないと云ふ事は出來ぬ。

要するに今日見る事の出來る俊頼無名抄はやはり俊頼の著述なのである。

扨無名抄の著者につきての考證は是位にして次に本書の著作せられた年代の考證にうつらねばならぬ。

俊頼無名抄の著述せられた年代の考證に關して多少なりとも材料を提供するのは今鏡すべろきの卷たまづさの章の記事であるが、然し是が示す所は單に本書が、關白忠實の姫君高陽院の入内以前に成つた事を云ふのみであつて餘りに漠然として居るからこの問題を解決する上に於ては役に立つ事は少い。だから一歩でも本書著述の正確な年代の眞相に近づかうとするには勢ひ直接に本書について其の内容の穿鑿を行ひ、記載せられてある記事中より本書著述の年代を確かむる材料となるものをあなぐり求めて考證せなければならない。然しこの場合も輕卒な態度をとつてはいけない。即ち本書が著述せられた當時の原形のまゝに傳つたのかどうかをよく吟味せねばならぬ。若し本書に脱漏竄入等があつたならばいかに精緻な考證をしても畢竟其の効がない事になるからである。然らば本書に脱漏竄入等がないかと云ふに強ちに否とは斷言出來ないかもしれないが大體原形を存して居る事及び今、本書著述の年代を考證するに際して使用する部分は全く竄入の憂はない事を校合の結果知り得たから考證の材料に供しても支障はないのである。扨本書の著述せられた年代はいつであるか。

まづ第一に本書は高陽院のために書かれたものである以上は高陽院の生れられた嘉保二年以後のものなる事は云ふ迄をないがなほ院が一定の年齡に達し和歌の教養をうけ初めた或る年以後に書かれたものなるべきは想像出來るから、少くとも院の十歳の年、即長治元年以後の著述と考へてよからう。

次に本書の序の中で俊頼は「わが君もすさめたまはず世の人もまたあはれむことなし」などゝ云つて自分の世にかずまへられぬ事に對して不平をならべて居るのを見ると本書は彼が金葉集撰進の院宣を蒙つた後の著述ではない事がわかる。即ち院宣を蒙つた天治元年以前に著述せられたものである事が知れる。

さてかうして大體に於て本書が長治元年より天治元年に至る略二十年の間に成つたものなる事はわかるが是だけでは餘りにばつとして居つて物足らぬから出來るだけ是を約めねばならぬ。所で九十三頁上欄に郁芳門院根合の時に周防内侍が詠んだ歌に關する話を掲げて扨「歌よみの内侍はその後久しくありてかくれ侍りし」と云つて居る。そして其の周防内侍の歿後が明かでないが金葉集卷五賀部に、

攝政左大臣中將にて侍りけるころ春日祭の便にてくだりけるに周防内侍も女便にてくだりけるに爲隆卿行事辨にて侍りけるがもとに遣しける。周防内侍。

いかばかり神もうれしとみかさ山ふたばの松の千代のけしきを。

とあつてこの時の祭は今鏡ふぢなみの卷みかさの松の章及び中右記により、天仁元年十一月二日に忠通が十二歳で祭使をつとめた時の事である事がわかるから、内侍は少くとも天仁元年の終りまでは健在して居た事となるから本書もこの年以後の著述であらねばならぬ。

次に九十二頁下欄に

おなじ御とき〈前文をうけて堀川の院の御時といふのである〉中宮の御かたにて花合といふことのありしにその宮の亮にて越前の守仲實が玉のみとのと云事をよみたりしを世にいまいましき事に人の申しが程なくとりつゞきてうせさせ給ひにしこそあやしかりしか。

とあるが、越前守仲實が亮であつた堀川院の中宮と申すは後三條院皇女篤子内親王の御事であつて其の宮で行はれた花合の事は諸書にも見えないから考へる由もないが、とにかく中宮の崩御あそばした永久二年十月一日以後の記事がある筈である。然も「うせさせ給ひにしこそあやしかりしか」と云つてかなり遠く過ぎさつた事を囘想するやうな口吻が歴々とあるからこの記事も崩御後直ぐに記されたものとは思はれない。必ずや何程かの時日を隔てた物らしい。

然るに又八十三頁に

中納言    かりぎぬはいくのかたちしおぼつかな

とししげ   わがせこにこそとふべかりけれ

と云ふ連歌があつて是は續詞花集卷十九連歌部にも「法性寺入道前太政大臣の歌はもとを申てはベりければ源俊重」としてのせられてあるし、袖中抄が本書の記事を引くにあたりても袖中抄卷四中納言の下に「私云法性寺入道殿也」と註して居るからこゝに中納言とあるは法性寺入道忠通の事で、從うて本書が忠通の中納言であつた頃に書かれたものなるべき事は明かである。そして忠通が中納言であつたのは、天永二年正月二十三日より永久三年正月二十九日に至る四年間であるからこの記事は必ず永久三年の一月二十九日迄に書かれたものであらねばならぬ。

扨以上述べた所を約言して見ると本書中には堀州院中宮篤子内親王の崩御あそばした永久二年十月一日以後に書かれた記事がありて然も其の崩御を記して居る口吻より察すれば崩御後多少の時日の隔つてあつた事も想像出來るのであるが、一方では忠通を呼ぶに中納言として居る以上必ずや忠通が中納言であつた頃の著述と考へられるから當然忠通が中納言より大納言に轉じた永久三年正月二十九日を以て本書著述の最後の年の限度としなければならぬ。故にかく考へると、本書は永久二年十月一日以後翌三年正月二十九日に至る約四ヶ月の間に完成した物と斷定出來るのであるが前にも云つたやうに例の中宮の崩御を記する書き樣から考へると出來るだけ十月一日と云ふ日を遠ざかりて見る方が穩當であると思はれるから自分は、本書の著述が始まつた時は知らないが、要するに其の完結したのは實に永久三年正月中であらうと信ずるのである。なほ強ひて云へばこの中納言と俊重との連歌のあるのは中宮の崩御を記した條よりもさきにあるからこゝ迄は永久三年正月二十九日迄に書き其の後の部分は二十九日以後に書いたと考へられないでもないし、又連歌の條も實は二十九日以後に書いたものであるがそれも叙目の日を去る事遠くなかつたので呼びなれた儘にふと元の通りに中納言と書いたものとも考へられないでもないが、かく解釋するのは所謂うがち過ぎた論でありこじつけた苦しい解釋とも云ふべきであつて穩當な見解ではなからう。

或る書の著述せられた年代を考證して、それが二三年の間に出來上つたらしいと云ふ風な結論に達せると、いかにも尤もらしく考へられて安心が出來るが、今の塲合のやうに餘りに年代が明確になつて來るとかへつてあぶなく思はれて來るが然し要するに俊頼無名抄の完成したのが永久三年の正月頃で高陽院が二十一歳の春で俊頼は六十歳位の頃であつた事は動かされないであらう。

2011-04-07 俊頼無名抄の著者と其の著述年代(上)

  • 岡田希雄
  • 藝文 12(6): 354-381 (1921)

平安朝末期より鎌倉初期へかけての時代は歌壇の状態が非常に活氣を呈した時で同時に歌學も是にともなうて隆盛であつたが、この時代のものであると一般に考へられて居る歌學の書に、元來定まつた名稱のない抄物と云ふ意味から無名抄と云ふ普通名詞で呼ばれて居るものが二種ある。一つは長明無名抄と呼ばれるもので是は疑ひもなく鴨長明の著書である。他の一つは即ち俊頼無名抄であつてこの書は寫本により俊秘抄、俊頼口傳、俊頼口傳集、俊頼卿口傳、俊頼髓腦などゝ云ふ名稱があるのによつても直ちに想像の出來るやうに、かの八代集の中で最も異彩ある、金葉集の撰者なる前木工頭源俊頼の著述と云はれて居るのである。本書が眞實俊頼の署述であると云ふ事を論定した學者は從來一人も無かつたが、然し多くの人は皆本書が俊頼の著である事は頭から無條件で認めてかゝり少しも疑ひを懷く事は無かつたやうである。所が唯一人本書の著者を傳説の通りに俊頼とするのは疑はしいと唱へ出した學者があつた。それは故文學博士藤岡作太郎氏である。博士は明治三十八年十月刊行の國文學全史平安朝篇の中で俊頼を論じ其の歌學に言及して『歌論の書に山木髄腦(俊頼無名抄)、莫傳抄、俊頼口傳等ありといへども果してその手に成りたるものなりや否やを知らず』と云ふて闕疑の態度をとられたが、尋で明治四十一年の講義では進みて本書が俊頼の著でない事を斷定せられた。今東圃遺稿に收められて居る日本評論史百九十五頁から博士の説を引用すると次の如くである。

無名抄 有名なれども多く行はれず。故事傳説などのある歌の由來を記せるものあり。浦島、姨捨山の説話などもありて面白きものなり。文體は平安朝とは思はれず第一に疑はるゝはこの書に現はれたる俊頼ど渠の歌に現はれたる俊頼とは全く別人としか思はれざることなり。無名抄に現はれし如き生優しき平凡なることは到底過激なる俊頼の言とも思はれず。飽くまでも二條式なり。俊頼の撰べる金葉集はまつ可とせんも、その散木集に到りては奇趣横溢せるを見れば、渠は決して平凡なる無名抄を書くべき人にあらず。而してこれにも異名、物名あり。その中に「天、中とみと云ふ」とあり。八雲御抄に「天、中とみと云ふ、俊頼抄」とあれど、後人が御抄に書き入れしか、また御抄にあるを以て後人僞作の俊頼抄に書き入れしか、何れとも見らるべし。また島松、根彦といふ」とあるも八雲御抄に出でゝ「松、根」とありて松島、根島と續くべきを寫し損ひしものなり。かゝる雨の「しづくしく」流のものは八雲御抄が本なるを見る。

博士が俊頼無名抄を山木髄腦の別名とし俊頼口傳とは別種の書と考へられたのはもとより誤りであるが、兎に角これで見ると博士は(一)本書の文體が平安朝の物とは見られない事(二)本書に現はれた俊頼と散木集に現はれた俊頼とは全く別人と考へる外なき程懸隔の甚しい事及び(三)八雲御抄以後の發生なる異名が本書中にある事の三點を主な論據として本書が俊頼の著述でない事を確信せられて居るのは事實である。一體博士は自ら日本評論史の中で云つて居らるゝやうに、古書、殊に平安末期より鎌倉初期へかけての間の著述と云はれる歌學の書には僞書が多い、よし僞書でなくとも傳記の通りの著書を肯定する事の出來る書は少いと云ふ信念を懷き總ての古書に對しては懷疑的態度の研究をなし、其の結果は古書に關する從來の説を肯定するよりも否定せらるゝ事が多かつたやうであつた。かくて博士は奧義抄、袖中抄、古來風體抄、長明無名抄等につきての從來の説を否定せられたのであつた。凡そ古書の研究は從來の説を肯定するか、それとも否定するかの何れかの態度によりてなさるべきであつて、大體に於て肯定的態度よりも否定的態度によりて研究が深くなる傾向がある。博士の態度はつまりこの否定的態度であつた。然し乍らこの俊頼無名抄の研究の場合に於ける博士の否定的態度ば間然する事出來ない程精緻もなのと云へるであらうか。博士は消極的に、本書を俊頼の著述とする場合に矛盾すると考へられる點を三つあげられたが、積極的に、本書を俊頼の著述として信用してもよい證據となる點は一つもあげられなかつた所を見ると、博士は其の點は認めて居られなかつたのではあるまいか。もし實際さうであつたとすれば博士が本書に對する態度は少し片手落ちではなかうか。自分は博士の説に驚かされて本書の研究をはじめたのであるが結論に於ては博士の説とは反對な説を得たのである。

凡そ古書の著者を明かにするのには第一に其の書中に見えて居る事實を各方面より觀察する方法がある。この場合にもし著者の名と見られるものが自稱の形式で記されてある時は容易に其の著者が知れるのである。第二には其の書の記事の一部分にてもあれ、記事のまゝならぬ説にてもあれ、他書に引用せられてある場合にもし其の著者の名を示してあるならば是亦容易に其の著者の何人なるがゞ明かになるのである。然しこの二種の方怯の中にも優劣があつて第一の方法は一寸見ると最も根據ありげに見えるが、古書には故意に、實際の著者でない或る人に假托して書かれたものもあるからこの方法にのみ縋る事は萬全の策とはいへない。然るに是に反して第二の方法は其の引用書が被引用書と同時代のものであるとか、或ひは又餘り遠くない時代のものであつて由緒正しく充分に信用がおける書であるとかした場合には、其の書に、某書曰く、某の説に云として引用した事に誤りのあるべき筈がないから、かくの如くにして引用せられた事により今知らうとする書の著書の名を知るのは極めて安全であるから、第一の方法に比べては勝る事数等であると云へる。そして第二の方法によつて得た結論の傍證として第一の方法を採用するならば其の結論は愈々確實性をます事であらう。されば今無名抄の著者を闡明する爲めにはまづ第二の方法によらなければならない。

俊頼無名抄の説、又は俊頼の書いた書物の説或ひは是に類似した語を以て諸書に引用せられたものが、現在の所謂俊頼無名抄と符合するものは實に澤山あるのであるが、其の中でも第一にあげらるべきは、藤原範兼の和歌童蒙抄に見えたものであらう。童蒙抄の著はされた年代は、まだ今の所ではわからぬが兎に角範兼のなくなつたのは二條天皇の永萬元年四月二十六日の事であるから、それより前に成つたものである事は云へる。そして範兼は尊卑分脈によると俊頼の孫娘を娶つた人である。さて童蒙抄卷十俳諧歌の條に〈國文註釋全書本百五十頁下欄。以下引用文は假字遣を訂正して引く。〉「俊頼無名抄に」として、

宇治殿の四條大納言にとはせ玉ひければ、これは尋ねさせ玉ふまじきことなり、先達どもにとひ侍りしにさらに申ことなかりきと、いひしことなりと、宇治大納言にかたらせ玉ひけるを、通俊の中納言後拾遺をえらべるに俳諧の歌を入たり、もしおしはかりごとにやとかきたり云々

と云ふ記事をのせて居るが是は今日の無名抄〈歌學文庫本六頁上欄〉にも見えて居る。尤も其の文句はこの兩書により精粗の差がかなりにあつて無名抄の方が遙に精しい。然し兩書を比較すれば誰も一見して容易に兩書の間に引用關係の存するのを認めるであらう。然らば何故兩善によつて文句に精粗の差があるのであらうかと云ふに、是は童蒙抄が無名抄を引用するに際し、本文通りに忠實に引かなかつだが爲めである事は、一體人が或る書を引用する時には、都合のよいやうに文句を勝手に切りつめて引用する事が一般に有りがちである事、そして童蒙抄の著者も其の例に漏れないで經文、漢土の書、國書の中でも日本紀の如き漢文のものを除きては、やはり引用が忠實で無かつた事が種々指摘せらるゝ事などより類推して考へられるし、又實際この俳諧歌の條がこの儘では一體誰が誰に向つて何と云ふたのかといふ事すら曖昧な程簡單すぎる事によりてもわかる事である。この俳諧歌の條は今日の無名抄では、

宇治殿の四條大納言にとはせたまひけるに、これはたづねおはしますまじき事也、公任あひとあひたりし先達どもに隨分にたづねはべりしに、さだかに申す人なかりき、しかればすなはち後撰、拾遺抄にえらべることなしとぞ申ければ、さらば無㆑術ことなりといひてやみにきとぞ、帥大納言におほせられける、それに通俊中納言の後拾遺といへる集をえらべるに、俳諧の欲をえらべり、もしおしはかりごとにや

となつて居つて、宇治關白頼通が俳諧歌の事について四條大納言公任に質し、後に其の事を俊頼の父なる帥大納言經信に物語つた筋通がよく通じて居り、この文句から童蒙抄の文句が生ずる事は考へられても逆に童蒙抄の文句を何か考ふる所あつて故意に増補して今日の無名抄の文句を得たものとはどうしても考へられないのである。兎に角この一事で以て、童蒙抄に云ふ所の無名抄なるものが現在の無名抄と同じものである事、從うて現在の無名抄は疑ひもなく俊頼の著述である事がわかる。

なほ童蒙抄には長歌短歌の區別をのべた所にも〈百四十九頁下欄〉

ちかくは俊頼朝臣無名抄と云物をかきとゞめたるには短欲とはおなじことをよみながさずしておきつなみあれのみまさるとおもひよりなば、そのうちのことにつきていひはつべきに、はなすゝきしてまねかせ、はつかりをなきわたらせなどあまたのものをいひつゞけたるによりていふなんめりとかけり

とあるが、是も現在の無名抄五頁下欄に見えてある説を引用したものである。然しやはり本文を忠實に引用したのではなくて採意の引用である。

童蒙抄が俊頼無名抄の説であると明言して引用したものは僅かに右の二條に過ぎないが、何れも現在の無名抄とは符合して居るのである。この外にも、書名を明示せずに引用したもので符合するものも少しあるが、然しそれはこゝに用事がないから述べない。

童蒙抄の次にあげらる可きは六條家の棟梁藤原清輔の袋草紙である。この書は清輔自記のものと見る外ない第一の奧書によると、平治元年十月より前にひとまづ成りて評判がよかつた爲めに、二條天皇の天覽にも入つたものであるが、何分書物の性質が雜記のものであるから後の加筆もあつた事が平治元年より四年後の應保二年三月の記事〈卷三・五十一丁右〉があるのに徴しても知れる。なほそればかりでなく隨分後の人の加筆もある事が指摘できるのである。さてかくの如くにしてこの書が應保二年頃に完成したものとすると、勢ひ童蒙抄との先後といふ問題も生ずるわけであるが其の邊の事はわからない。年齡に於ては清輔の方が範兼に三歳の長であつたが、清輔の方が十二年長生して居るから袋草紙を童蒙抄の次にあげたのである。さて袋草紙卷四〈四十一丁右〉に、

俊頼〈ノ〉朝臣〈ノ〉抄物〈ニ〉云うぐひすのかひこのなかにほとゝぎすひとりむまれてしやが父ににてなかずしやがはゝににてなかずうのはなの………此歌〈ノ〉句違亂〈セリ〉、若〈シ〉是長歌ノ旋頭歌歟云々、予見㆓〈ル〉數本㆒〈ヲ〉ニ全〈ク〉其句不㆓違亂㆒セ如何、件〈ノ〉歌在㆓〈リ〉〈ノ〉〈ノ〉第九卷㆒〈ニ〉家持〈ノ〉歌也

と云ふて、次に自らの正しと信ずる訓をのせて居るが、この「うぐひすのかひこのなかにほとゝぎす」の歌は萬葉集卷九の長歌であつて無名抄四頁下欄では短歌〈實は長歌の事である〉の旋頭歌としてあげられて居り、袋草紙の云ふ所と合ふ。是によつて現在の無名抄は袋草紙の所謂「俊頼〈ノ〉朝臣〈ノ〉抄物なるものである事が知れる。

次にこの清輔の弟である大歌學者顯昭法師が其の知遇を辱うせる仁和寺喜多院御室守覺法親王の御覽に入れる爲め、嶮惡になつて居る都の風雲をよそにして壽永二年五月八日に注進せる拾遺抄註を檢するに「淺みどり野べの霞はつゝめどもこぼれて匂ふ花ざくらかな」の註に、

俊頼朝臣無名抄云、京極殿ニ上東門院御座ケル時、南面ノヒカクシノ間ノホドニテ.ケダカクカミナビタル聲ニテ、此歌ノ末ヲ詠ジケリ、人ノ詠ズルカト御覽ジケレド全ク人影モセザリケリ、カヽル事コソ候シカト、ウヂ殿ニ忽ニ申給ケレバソコノクセニテ常ニナガメ侍ル也トゾ申サセ給ケル、靈物メデタキ歌トオモヒソメタルカ、而拾遺抄ニコソハ入タレ、イカチル事ニカト云々

とあるが是が無名抄九十八頁下欄の

京極殿に上東門院のおはしましけるとき、みなみおもて花ざかりなりけるとき、ひかくしのまのほどにけだかくかみさびたるこゑもてこぼれてにほふ花櫻かなとながめける聲を聞しめして、いかなる人のあるぞとで御覽じければとにも人のあるけしきにも見えざりければおぢ覺しめして宇治殿に急ぎ申させ給ひければそこのくせにて常にながめ侍るなりとぞ申させ給ひける、さればものゝ靈などのめでたき歌とおもひそめて常にながむらんは、まことによき歌なめりとおもへどわつかに拾遣抄ばかりにいりたり、ことものには見えず

と云ふ記事と引用關係のある事は否まれぬであらう。又「奧山にたてうましかばなぎさこぐ舟ぎもいまは紅葉しなまし」の註に、

俊頼朝臣無名抄ニモ思ヒカケヌフシアル歌トテ此歌ヲ出セリ

とあるが是も無名抄二十五頁上欄とあふ。煩はしいから文句は引用しないが「なのみして山はみかさもなかりけり朝日夕日のさまを云かも」「ひとなしゝ胸のちぶさをほむらにてやく墨染の衣きよ君」などの註に俊頼朝臣無名抄の説として引いてあるものは何れも皆現在の無名抄に見えて居るものであつて、しかも其の引用關係に於ては無名抄の方が源である事は容易にわかるのである。

以上述べた所は俊頼無名抄の説、又は俊頼の書いた書物の説、或ひに是に類似した語を以て、俊頼の時代を去る事除り遠くない時代の確かな書物に引用せられてあるもので現在の無名抄と符合するものゝ例の中の極めて僅かな一部を示したのに過ぎないががゝる例は甚だ多くあつて到底これをあげつくす事は出來ない。であるから今年代の順序に從うて簡單にのべると、かゝる例は、

  • (一)顯昭が守覺法親王の御爲に、壽永二年十月七日に注進した俊頼の家集散木集の註釋の書即ち散木集註には三條。
  • (二)同じ顯昭が同法親王の御爲に文治元年十月初旬から十一月十七日へかけての間に書いた古今集註には七條。
  • (三)壽永元年より文治三年に至る六年のうちに完成したものと考へられる顯昭の袖中抄には五十七條。
  • (四)建永二年五月に出來た顯昭の日本紀歌註に一條。
  • (五)時代はなほ不明であるが袋草紙遺編に加へられた顯昭の頭註に一條。
  • (六)六條家と二條家との間の歌學上の軋櫟を物語るものとして有名な建久四年秋に行はれた盛大な六百番歌合の時の俊成の判辭に二條。
  • (七)俊成が後白河院皇女式子内親王の仰により建仁元年五月に進覽した古來風體抄に五條。
  • (八)承元二年十二月九日に中將に任ぜられた飛鳥井雅經を呼んで二條中將といひ〈歌學文庫本十八頁〉承元四年七月二十一日に中將をやめた藤原定家を冷泉中將定家とよんで居る〈同十七頁上欄〉事よりして、多分承元三四年の頃に出來上つたらしく考へられる鴨長明の無名抄に二條。
  • (九)順徳院が承久役の前後に完成し給ひし八雲御抄に五十二條。
  • (十)貞永元年七月の奧書ある定家卿長歌短歌之説に一條。

あつて總てを合はすれば重複したものを除いた所で百十條程もある。是でも現在の無名抄が是等の書に引用せられたものと別種のものであるとし、從うて俊頼の書いたものでないと云ふことが出來るであらうか。どんなにかたくなな人でも是だけ云へば現在の無名抄が俊頼の著述である事を疑ふ事が出來ないだらうと自分は信ずるのである。殊に嘉應二年三月に書かれた今鏡すべらぎの卷たまづさの章にも、

木工頭俊頼も高陽院〈泰子〉の大殿〈忠實〉のひめ君ときこえ給ひし時つくりてたてまつり給へりとかきこゆる和歌のよむべきやうなど侍るふみには、道信の中將の連歌伊勢大輔がこはえもいはぬ花の色かなとつけたる事など、いというなることにこそ侍るなれば云々

とあつて現在の無名抄にも九十六頁下欄の所に道信と伊勢大輔との連歌がある事により、又無名抄の中には敬語を使ふ事が多くて其の上、

  • (一)さればまちかきことのかきりをこまかにしなしまうすべし〈二頁上欄〉
  • (二)これらはよしなきことなれど神の御歌のつゞきにさることありけりときこしめさんれうにかきて候也〈十五頁下欄〉
  • (三)御門の御歌は今はじめて書いたすべぎにあらず、延喜天暦の御集を御覽ずべし〈十一頁下欄〉
  • (四)させることなけれどもかやうのことゞもしろしめしたらむにあしかるまじきことなればしるし申せるなり〈五十五頁下欄〉
  • (五)さればかばかりおもふばかりの人の歌などはおぼつかなきことありともなむずまじきれうにしるし申なり〈九十三頁下欄〉

の如くいかにも誰か貴人を對象として書いたに相違ないと思はれる文勢語氣もあつて、高陽院の爲め書いたと云ふ事がいかにもとうなづかれる事とにより、この今鏡に云ふ所の書と現在の無名抄とが同じものなる事が明かとなり、從うて無名抄が俊頼の著述なる事は愈々確實となるのである。なほ自分は以上述べたやうな考證法をたどつた結果、無名抄が他書に引用せらるゝに際しては俊頼―、無名集、俊頼無名抄、無名抄、無名集、俊頼髓腦、俊頼朝臣抄物、俊頼朝臣の口傳、俊頼口傳、俊頼抄物、俊頼抄俊抄等ほゞ十種の名稱でよばれた事をしり、かくの如く種々名稱のある事及び六百番歌合判辭に「俊頼朝臣の書て侍る物」「俊頼朝臣書たる物」又古來風體抄に「俊頼朝臣の口傳と申すか髓腦と申すか」等と以てまはつて呼ばれて居る事などより推して、本書には元來定まつた名稱のなかつた事を確めん事が出來、又一方では古書に引用せられたものが皆現在の無名抄の中にある事より、今日の無名抄が脱漏なく傳りし事を知り得、從うて俊頼には無名抄の如き類の歌學書は無名抄以外には全く無かつたと云ふ事を知るのである。そして無名抄に脱漏のない事は無名抄の本文を校合した結果愈々確信を得たのである。

かうして現在の無名抄が俊頼の著述である事は證明出來たが、然しなほ是でも何所か物足らぬ所がありさうに思はれる。それは何かと云ふに俊頼の書いた物の説として古書に引用せられたものが總て現在の無名抄の中に存すると云ふのは餘り辻褄が合ひ過ぎはしまいか、若しかすると昔の無名抄は室町時代の頃にでも亡んでしまつたのだが古書に引用せられて其の面影の一部が殘つて居る所から、後に或る物好きな閑人が其の古書に引用せられた斷片をひとまとめにして作りあげたものが現在の無名抄ではあるまいかといふ心配であるが、然し是もそんな事は決して無いと信ずる。蓋しいかに時代がのんきであり人が物好きであつたにしても、そんな古書に引用せられたものを拾ひ集めて筋道の通つたものに作りげるといふは量の極めて少いものなら出來ない事もなからうが無名抄のやうなかなり大部の書に於ては事實あり得べからざる事であるからである。なほいへばよしやそんな事を行つたとしても、到底馬脚をあらはさずにすます事は出來ないからである。そして今日の無名抄は誰が見てもよく筋道の通つて體系の整つたものであつて、是が、今云つたやうな事情で編輯せられたものとは決して考へられないのである。

要するに右のやうな第二の方法による考證の結果現在の無名抄が俊頼の著述である事が疑ふ餘地もないやうになつたから更に第一の方法により別方面から傍證をあげて右の事實に一段の確實性を與へなければならない。以下便宜上個條書きにして述べやう。因みに是から後に出て來る本書と云ふ語は、既に俊頼の著述である事が大略證明出來た現任の俊頼無名物を指すのである。

(イ)本書には俊頼と云ふ固有名調を自稱に用ゐてある所がある、例へば次の例の如きがそれである。

あはれなるかなや、このみちの目の前にうせぬることをとしよりひとりこのことをいとなみていたづらにとし月をおくれどもわが君もすさめたまはず、よの人もまたあはれむ事なし云々〈一頁下欄〉

但ふるき歌の一見えねばとしよりが歌をしばしかきて候也〈四十三頁上欄〉

これを見ても本書が俊頼の著述である事は明かである。

(ロ)本書十七頁下欄に「故帥大納言の母高倉のあまうへと聞えし人のもとに參河守也ける人の云々」と云ふ記事があるが、この記事なども俊頼が其の高倉の尼上の孫なればこそ書けるものであつて外部の人には一寸書けない所である。

(ハ)本書八十三頁下欄に、中納言藤原忠通と俊重との間の連歌を記し、俊重が女をわかせこと云つた事につきて冗々しく辯解してやつて居るが是も本書が其の俊重の父の俊頼の著述であるからである。

(ニ)本書冒頭にある「やまとみことの歌」と云ふ語は珍らしい語であつて本書以前には絶對に見えないものであるが、ひとり俊頼の友なる藤原顯季の家の集〈木版群書類從本三十四丁右〉の中に載せられてある俊頼が顯季に答へた返信の中に「式島の大和みことのあそびのむしろ」と云ふ語があつて、この語は俊頼が始めて用ゐたものらしく考へられ、是から推してこの眼あたらしい語がある本書も俊頼の著述であるらしいと云ふ事が考へられる。

(ホ)本書六十五頁下欄に「おきなさびといふはおきなされといふことばなり」とあるが元永元年十月の内大臣家歌合殘菊三番右歌「けさ見ればさながら霜をいたゞきておきなさびゆく白菊の花」につきての俊頼の判辭の中にも「翁さびと云事は翁されと云詞とこそ承置たるに是は此こゝろたがへり」と云ふ解釋が見えて居る。

(へ)本書に解釋の見えたる語で他書の説、即ち俊頼と同時代の書、若しくは俊頼に後るゝ事餘り遠くない頃の書物の説と解釋を異にして居る爲め自づと耳に止まる如き物は散木集の中で實際よまれて居るのである。例へば本書三十四頁下欄に「久かたのはにふのこやにこし雨ふりこしさへぬれぬみにそへわぎもこ」と云ふ歌をあげて「こしあめといふはいたくふる雨なり、ぬれとほりてはかまのこしなどのぬるゝほどなるをいふ」と解釋して、其の意味で「誰と見て忍びかはせむつれ〳〵とこし雨降てすみれさくのを」〈散木集卷上、二十丁右〉と歌つて居るが、こし雨を袴の腰がぬれる程の大雨と考へたのは大變な誤解で實は其の反對に小兩の事であつて顯昭が散木集註で、

こし雨は微雨なり、小雨なり、こさめとも云なり、此人は腰雨と被㆑執たるにや髓腦〈即ち無名抄のこと〉にも、ひさかたの、はにふの、こやにこさめふりといふ萬葉の歌をもこしあめとかきて下袴の腰などのぬれとほる雨なりとかゝれたり、如何、

と云うて居るのは尤もな事である。又本書三十六頁下欄で萬葉集には鬼乃志許草シコノシコグサ鬼之志許草シコノシコグサとわざ〳〵假字書にまでしてあるものを「おにの腰草」と誤讀して、さて今昔物語卷三十一の兄弟二人殖萱草紫苑語第二十七をそつくりのせて居るが、散木集卷上、四十八丁左には「まくまのに雨そぼふりてこがくれのつかやにたてるおにのこし草」と云ふ歌がある。又五十八頁上欄には「芹つみし昔の人も云々」の歌につきて綺語抄などに比べてやゝ異なる説を出して面自く書いてあるが、散木集中「芹つみし」の語を用ゐた歌が三首もある。〈卷上、九丁左、卷中、四十一丁右、卷下三十一丁左長歌〉こんな事は同時代の他の歌人には見ぬ所である。この外六十頁下欄で「夏かりのたまえのあし」の「たまえ」を玉枝と解して居るが、現に歌にも「なきおごれこちこせ山の郭公きなせの里のまつのたまえに」とよんで居る。〈卷上三十二丁左〉そして是等の事も散木集の作者と本書の著者との間に關係のあるのを充分物語つて居るものである。

(ト)右に述べたものゝ外にも一つ本書には立派に奧書が添はつてある。其の文句は

壽永二年八月二月於紫金臺寺見合了、依知足院入道殿下命奉爲賀陽院俊頼朝臣所作云々、顯家朝臣本號俊秘抄

    自教懿御僧相傳之        智範之

          一校了

と云ふのであつて、最も明白に無名友の著者の俊頼なる事を物語つて居るのであるから是を確かなものと鵜呑みに信用してかゝれば、今迄述べて來たやうな冗々しい考證の必要も無くなるのだが、奧書にはよくうかとは信ずる事の出來ぬものがあるので、自分はこの奧書をも餘り重要視したくなかつたので、石橋をたゝいて渡つたあとでかく最後にあげるのである。然しこの奧書はどんな性質のものかと云ふと是は確實なものであるらしいと云ふのは、本書著述の動機に關する説も今鏡と符合して居るし、又紫金臺寺と云ふも顯家朝臣と言ふも何れも六條家殊に顯昭に極めて因緑の深いものであるからこの奧書の説の如きも必ず顯昭等より出たものと考へられて出所も正しいからである。(因みに云ふが紫金臺寺は覺性法親王の御室であつて、壽永二年には顯昭は仁和寺に居つて歌書の著述に餘念なかつたのである。そして顯家朝臣と云ふのは顯昭の甥である。)

さてかうして第一と第二の方法を併用した考證によつて本書が俊頼の著述である事は確實に證明せられたわけでみる。

然らばこの小篇の初めの所にあげて置いたやうな、本書の著者が俊頼でないと云ふ藤岡博士の説は如何やうに説明さればよからうか。

まづ博士は本書の文體が決して平安朝期のものでないと云つて是を論據の一つとせられたが然し、積極的にいつの時代の文體とも云はれない、かつかゝる斷定の出づべき理由をも示されない、奧義抄袖中抄の僞書なる事を論證せられた時に

奧義抄袖中抄に至りては源氏などを模せし柔かなる文章となる。されど後世國文學勃興後の擬古文とはまたおのづから趣を異にせり。時代は時代の臭味あるは何人も許す所なり。〈日本評論史百八十五頁〉

と云はれ又今日に傳はれる大抵の歌學書を僞書なりと決めて「鎌倉時代の末より室町時代に至りて無理に雅文めかして書きし如きもの多し〈同書百九十一頁〉と云はれた博士の意中を推量すれば本書も亦かくの如きものと考へられたのであらう。然し文體によつて古書の眞贋を定めるのは博士自らも云はれた通りに極めて困難であるが上に動もすると危險を伴ふものであつて充分な注意を要する仕事である。自分も博士の説の當否を確めやうとして、本書の用語文體を力めて懷疑的態度を持して吟味したけれども到底本書の文體が平安朝のものでないといふ結論に達すべき理由を發見する事は出來ない。博士は古來風體抄が俊成時代の文體でない事を論せられた所で

文章も近代的のものなり「云はく…………と」「笑ひて申し給はく…………と」「未だ聞かす…………と」の如き文體はこの當時の文體にはあらず、八雲抄にはかゝる時は必ず「いはく……といへり」とあり。〈日本評論史百九十八頁〉

と云はれたが「云はく……と」や「云はく……」「云ふやう……」式のものは早く竹取物語中にもあり、今昔物語にも多く見えるから「云はく……と」式が平安朝の文體でないとは云へない。又博士は本書の文を無理に雅文めかしてやさしく書かれたるものと考へらるゝ如くであるが是も強ちにさうとはいへない。然し事實やさしい文勢があるならばそは本書が后がねとしてかしづかれて居る關白家の女公子の讀物として書かれた物なる以上尤もな事である。又博士は鎌倉室町時代文學史二百三十頁に於て住吉物語の文體を考察して、

今の住吉物語の詞に「この姫君の御乳母子に侍從と聞ゆる侍りけり」の如く「侍り」

を三人稱に用ひたる所あり。かゝる用法は徒然草あたりよりのことなり。

と云はれたが、是より考へるに、本書の中にも侍りを三人稱に用ゐた例があるから,是も博士が本書の文體の平安朝の物でないと云はるゝ論の證據とせらるゝ所であらうと思はれるが、然し「侍り」を三人稱に使用するのは決して徒然草の頃になりて始まつたものではなくて俊頼に對抗もて歌壇の一勢力であつた藤原基俊の家集〈木版群書類從本五十六丁左〉にも「月のおもしろきよならに侍る子の戀しくはべうしかば永縁僧都のもとにいひやりし」と云ふ風な用法があり、少し後れて出來た今鏡の序にもしばしは見え又教長の古今集註にも屡見えて珍らしくはない。要するに本書の文體は決して鎌倉室町時代のものではない。然も平安朝末期の歌合判辭や顯昭の六百番歌合陳状等の文體とよく似たのを思へば、この文體が平安朝末期のものでないといふ博士の論はいよ〳〵成立しないのである。

博士が本書を以て僞書だとせらるゝ論據の第二は本書に現はれた俊頼と其の散木集に現はれた俊頼との懸隔の餘り甚しくて到底同一人と見なす事は出來ないといふ點にある。換言すると本書に見えた歌論と實際の作歌とのあはぬ事、即、歌論は平凡でなま優しいが歌は過激である上いふ點である。然し本書の歌論と散木集の歌との關係を明細に調べて博士の説の當否を吟味する必要があらうか。自分は其の必要は認めないでかへつて博士が歌論と實際の歌との相違せる事を根據としてこの平凡な歌論の書いてある本書の著者のこの過激な散木集の歌人との無關係な事を説かれた其の事が抑々妥當であるか否かを問ひたく思ふのである。そして自分は妥當な論法であるとは考へないのである。換言するとよしやこの二書の著者が別個の人なりと考へるの外ない程懸絶して居つてもこの事を理由として、二書の著者が別人であると斷定するのは當らないと考へるのである。其の理由はかうである。

一體右にあげた如き博士の結論が出る爲めには少くとも「或る書の著者は必ず絶對的に其の書の説を遵守するものである」と云ふやうな前提が無ければならぬ。然しながらかゝる前提が果して得られるであらうか。或る人が書を著はして自ら信ずる所を書いたにしても必ずそを遵守するものだとはどうして云へやう。遵守する人も固よりあるだらうが遵守しない人もある筈である。聖人又は徳行ある人が實踐道徳の綱領を示し自ら其を守る事はあるだらうが然し總ての書の總ての著者に於て是を望むも到底ありうべき筈がない。俊頼無名抄の場合でもさうであつて今假りに、本書は俊頼が自分の懷抱して居る歌論の總てを述べ盡したものとするならば俊頼が本書の所説を遵守して作歌の規範とする事も有りさうな事と考へられるので「俊頼は必ず自らの抱ける説を遵奉する」と云ふ事も云へるかも知れないから從うて其の實際の歌と本書の歌論との懸絶する道理も無ささうに思はれるから、今現に散木集の歌と本書の歌論とがはるかに相違して居る事を論據として、散木集の歌を詠める俊頼は決して,平凡な無名抄を著すべき人でない、と結論する事も或ひは出來るかもしれないが、よし俊頼が本書に於て自己の歌論をありの儘に發表したにしてもそを遵守し實行するか否かが既に疑はしい事ではないか。況んや本書は彼が其の所信を發表する事に努めて書いた書ではなくて、實は富家關白忠實の命をうけて其の女公子の爲めに通俗平易な歌學書を書かうとする態度をとりて書いたものだから〈本書成立の動機と著述の態度とに關する細い論證は煩はしいから今は述べない。〉彼の歌論がありの儘に現はれたる書でない事は斷言出來る。かくて本書が彼の眞の歌論の書でない以上彼が本書の説を實際の作歌の場合に臨んで實行するか否かはことごとしく論じなくともわかりきつた事である。俊頼が本書の歌論を實行しなくても何も怪しむ必要はない。だから散木集と本書との懸絶の甚しいのに驚いて二書の著者を別人と考へ本書が俊頼の著述でないと斷定するのはいはれのない事である。博士が平安朝文學史中で本歌とりの名人と云はれた公任も新撰髄腦の中では明かに「ふるく人のよめることばをふしにしたるわろし、一ふしにてもめづらしきことをよみいでむと思ふべし。」と云つた事を考へなければならない。

なほこの問題を別途から觀察するに自分の懷く歌論を忠實に思ひの儘に述べる事出來るだらうか。作歌と云ふ事は極めて複雜微妙な心的作用であるから、其の作歌と云ふ作用に關係した總ての考へ、即ち所謂歌論と云ふものも亦複雜微妙であつて、是を限りある言語の配列により寫し出さうこしても到底出來るものでない。要するに言志をつくさず書言をつくさずといふ憾みがあるのみである。又本書の説は本書の出來上つた時代に著者が考へて居た歌論であると云ふ事は云へやうが、是が俊頼の長い生涯を通じて懷ける持論であつたとはどうして云へやう。然るに散木集に集められし千五百餘首の歌は彼が三十歳頃の歌を含んで居ると假定すれば前後を通じて四十年の長日月の間の作品であるから、この長い間には彼の歌に關する考への變化する事もあつたであらうから、散木集の歌が本書の歌論と一致せずとも不思議ではない。

次に博士は異名の始まりを以て鎌倉初期の八雲御抄にありとして本書にしづくしく流の物のあるのは明かに、本書の成立が八雲御抄以後にあるものであるとせられたが然し異名と云ふものは顯昭の古今集序に「宇治山喜撰式出㆓八十八物異名㆒」とある通りに、遲くとも公任の時代には存して居つたと考へらるゝ喜撰式に早くも見えて居るもので斷じて八雲御抄以後の發生とは云へない。然し本書に見えて居る異名は、誤寫による小異を除きては全部喜撰式の異名と同じものである事により又顯昭が禰中抄卷二に「喜撰式にぞ女をはしけやしと云たれば俊頼のずゐなうにもその定に書て侍る」とある記事等により本書の異名は喜撰式を其の儘に寫したものである事がわかるのであつて何れにしても異名が俊頼時代のものでないとは云へない。現に俊頼は異名を歌によみこんで居るのである。

秋きぬと竹の園生になのらせてしのゝをふゝき人はかるなり〈散木集卷上三十九丁右〉

うれしくも心のまゝにきたるかなあまのみ空をたまぼこにして〈卷中三十七丁右〉

はしけやしなれこそ榮え否われは彌陀のみ國をこのもしと思ふ〈同四十二丁右〉

たまくらをくけでしくれはおそろしみはやはひましねみつのかどより〈同六十三丁左〉

是等の歌によみこまれて居るしのゝをふゝき、たまほこ、はしけやし、たまくら等は、喜撰式、又は無名抄等に見えてある通りに、それ〴〵風、道、女、夫、と云ふ語の、異名として見ないと解釋の出來ないものである。要するに異名の有る事により本書が俊頼の著述でないと斷定せられた事は初めから問題にならないのである。(未完)

2010-09-22 寛元本字鏡集の識語

  • 岡田希雄
  • 歴史と國文學 26(6): 9-21 (1942)

字鏡集は、部首類辭書としては、慶長の刊本倭玉篇までのものゝ中では最も大部のものであり、字鏡集以前の辭書たる新撰字鏡、世尊字本眞本字鏡、類聚名義抄に比しては最も日本化したものである。しかも異體の字を註記し、韻を示すなどの點では、古本和玉篇や刊本倭玉篇などよりも高級である。其の部首を天象部・地儀部・植物部・動物部・人倫部などゝ云ふ樣に意義分類して居るが、これは無秩序に部首を並べたのでは、某と云ふ部首が何の册に存するかを知るに苦しみ不便であるのを考慮して、檢索に便利であるやうに意義分類したのであつて、字彙・正字通・康熈字典の如き畫數順に並べるのに比べては劣るが、説文式に漫然と並べてあるのに優る事は云ふまでも無い。尤も其の説文でもところ〴〵に意義の似た部首を並べて居る事が指摘できる。だが漢土の部首分類辭書で意義分類せられて居るものとしては、現存のものでは宋末の六書故が最初のものであるが、著者の戴侗は南宋淳祐〈元年は我が四條天皇仁治二年〉年中の進士にて、其の孫の時、元の延祐六年〈後醍醐天皇元應元年〉に刊行せられたものであるから、著述の時代は、すでに寛元三年四月〈仁治二年よりは四年の後〉には存して居た字鏡集よりは後れるものである(其の分類も九分類にて粗である。此の後明に成りて海篇朝宗、海篇心境、海篇正宗、篇海類編などゝ云ふ名も内容も似たり寄つたりの俗書的意義分類辭書が簇出する。)また本邦に於いても、新撰字鏡で意義の似たものがところ〴〵纒められて居る趣であるのを除くと、やはり意義分類の部首分類書と云つては無いやうであるから、字鏡集の部首の配列は畫期的と云へるのである。但し斯う云ふ配列が本辭書の創案であるのか、現在では佚亡してしまつて居るために見る事できないが、字鏡集の時代には存して居た辭書に此の種のものがあつて、其れを模倣したのであるか何うかは判らぬ。此の意義分類は平安朝末の色葉字類抄(色葉分類と意義分類とを併用した國語辭書)の意義分類と似て居るが、字鏡集とほゞ同じ時代に、寛元・寳治の頃に出來たか、作者は時の大儒菅原爲長では無からうかと疑はれる和漢年號字抄〈本書の事、昭和十年末に考説を發表した〉の分類とも酷似して居る。寛元より十年程後の建長六年に、説話集として古今著聞集二十卷が作られて居るが、これも説話を意義分類して居る。これらから察すると、當時は、何かと云ふと意義分類する風があり、其の好尚に從うて、字鏡集の部首配例も意義分類體を採用したのではあるまいかとも考へられない事は無い。從うて、字鏡集の創案と見る事も必ずしも不可能では無い。とにかく本書の部首配列法は本書獨特のものである。(此の後のものとしては、古本和玉篇の一種たる玉篇要畧集がある。此の本、自分は自分の見る事できる京都大學國文學研究室本の書名が單に玉篇とあるだけであつて、他と區別するのに困り意義分類體玉篇と稱したものだが、其の後川瀬氏が新に安田文庫へ入つた本として、此の大永四年の奧書ある玉篇要畧集を紹介せられたのである。さて部首だけを意義分類したものとしては、吉利支丹版たる慶長三年刊行落葉集の「小玉篇目録」がある)

字鏡集の本文としては二十卷本と七卷本とが知られて居る。兩者は異本關係にある。二十卷本の代表は、前田侯爵家の應永古鈔本二十册であり、應永と呼ぶ人もある。應永二十三年六月頃から寫し出して、翌二十四年の八月か九月かに寫し了へたもので、一・二・二十の三卷以外には各册に書寫年月を記して居る。其の一番新しいものは第十九卷の「應永廿四年六月廿八日寫之」であるが、此の日附のところは各册ともに「日」字以下を切り抜いて列の紙を貼りつけて、其れに「爲之」の二字を書いてあるのだが、斯う云ふ事が、前田家本では比較的新しい時代に加へられたものである事は、同じ應永本の轉寫本たる醍醐慈心院本〈但し其の轉寫本〉其の他に「……日於慈徳寺隅寮書了」とあるのにより判る。前田家本に何故斯う云ふ無用の手が加へられたのであるかは理解できぬ。さて此の古鈔本には十三・十四・十六・十七の四卷以外には、卷尾に「爲長卿作」と記して居る。爲長は鎌倉初期の大儒菅原爲長である。

七卷本は、七卷に分卷せられて居るから此の稱があるのだが、寛元三年の識語があるから寛元本とも云ふ。尤も寛元の識語の無い本もあるのであつて、古寫本としてはむしろ識語の無い本の方が多いのではあるまいか。赤堀氏が國語學書目解題で擧げて居られる寛元本が、現存七卷本の何れの本であるかは判らぬが、黒川春村が狩谷棭齋所藏の古鈔本を轉寫した春村本による解説と見る可きやうだ。其の春村本の轉寫本は帝國圖書館や大和の天理圖書館にある。また寛元の識語の無い古寫本が、京都の龍谷大學圖書館にある。一體寛元本には、どこにも内題として字鏡集と云ふ名は無いのだから、書名が不明と成りやすいのであるが、龍大本の如きも書名が不明となつたために、現在では「和玉篇」と云ふ題箋が存する。斯う云ふ書名に成つて居る本は他にも存するのである。

二十卷本と七卷とが、宇鏡集の異本關係にある事は誰しも認めるところであるが、別に宇鏡抄六卷がありて、これが亦字鏡集の一異本と見るべきである。赤堀氏が國語學書目解題で擧げて居られるものは、史料編纂所の徳川中期以後の寫本である三卷九册本であるが、これは完本では無い。此の史料編纂所本の親本たる古寫本は前田家に存し、六卷六册本で、天文十六年五月に榮祐が表紙を變へて居る由の奧書があるのだから、其の榮祐が「先年」光祐和上が寫したと云ふのは、享祿か大永の頃の事であつたらしい。前田家には今一部字鏡抄がある。本文は上中下に別ち、さらに其れ〴〵本末に別つから六卷であるが、これに目録が別册として添ふので七册と成つて居る。「永正五年〈戊/辰〉八月日 權少僧都暹頼之」とあるから、先づ此の頃暹頼が寫したと見て可からう。永仁頃の本朝書籍目録に「字鏡抄」を録し、卷數は本によりて一卷としたり六卷としたりして居るが、これは六卷を正しとすべく、其の六卷の字鏡抄と云ふのは、右の前田家の本の如きを指すと見るべきだ(一卷といふ卷數は、然う云ふ卷數のものが、無かつたとは斷言し難いが、部首分類辭書としては、簡易辭書たる和玉篇の類でも三卷本が普通だから一卷と云ふは誤と見たいのである。)

要するに字鏡集の一類としては、二十卷本、七卷本、及び六卷の字鏡抄の三種を擧ぐべきであらう。但し相互關係を想像する事は困難である。

字鏡集の製作年代に就いて述べたものとしては、黒川春村、伴信友、昨非庵是翁、敷田年治、小中村清矩等の説がある。いま便宜上、春村の説は後に述べる事として、先づ信友の説から擧げて行くと、信友は比古婆衣卷五喚子鳥〈全集本百頁上〉の條に於いて、字鏡集には寛元の奧書のある事を云ひ、さて

此書撰たる世詳ならず、今京となりて延喜より後のものなる事は著けれど、其訓は希らしき言も多かり、舊く書傳たるものに據れるぞ多かりぬべき

と云つて居るのだが、其の「延喜より後」と云ふのが、何時頃を指して居るかは明瞭で無い。しかし此の口吻では、何うやら平安朝の中期頃の事でも考へて居るのでは無いかと考へられもする。

次ぎに昨非庵は、嘉永五年八月に字鏡考一卷を書いたのだが、此の人が見た玉川文庫本は七册であつたから、七卷本であると信せられるが、識語も何も無いものにて、此の本に就いて、延喜天暦以前の書なる事は明らけしと云つて居るのである。但し論據は知らぬ。

明治期の國學者敷田年治は、文久元年七月に、木村正辭所藏本〈白河本の轉寫本〉を轉寫せしめて、其れに漢文の序文を加へたが、其の中で字鏡集の訓註は元來眞字〈萬葉假名の義であらう〉で書いてあつたのだ、其れを後に片假名に改めたのだ、字鏡集は「字書之祖」であつて、新撰字鏡は字鏡集に對して新撰と標したのである、と云つて居るが、訓註が眞假名で書いてあつたとする事は、年治の主觀であるに過ぎない。新撰字鏡は字鏡集に基いた名であると考へたが爲めに、字鏡集の訓註が片假名であるのを似つかはしからず思ひ、さて眞假名を片假名に書き變へたのだと獨斷せざるを得くなつたのである事は容易に考へられる。年治には字鏡集の訓註の語史的考察も、音註に反切を以てする事の少い事も、問題では無かつたのである。書名のみからの立言は餘りに單純過ぎる。

小中村清矩は、「わが國の辭書」〈明治二十七年十月脱稿〉の中で、「作者、菅原爲長卿といふ説あれど、確ならす、おのれは今少し後のものにやと思はる」と云つたが、清矩は應永本の事は知り乍ら、寛元本の事は知らなかつたものと見える。寛元本を知つてゐたならば斯う云ふ事は云へなかつた筈である。尤も善意を以て解釋するならば、清矩は應永本と寛元本とを截然と區別し居り、寛元本は寛元三年に存在して居た事を認め乍らも、應永本を寛元本よりも後出のものとし、さて應永本は爲長の作に非ずと云つて居るのだと解釋できない事も無いが、清矩は寛元云々の事には全く言及しては居ないのだから、右の如き善意の解釋も出來ない。其れにしても清矩ほどの惠まれた地位のものが、寛元本も知らなかつたと云ふのはいぶかしい。

此の後のものとして佐村八郎氏の國書解題は、應永本によりて菅原爲長の著とし乍ら、しかも「應永二十四年丁酉の編成なり」と云つて居るのは時代錯誤が甚しいが、是れを生まじめに彼れ是れ云ふにも及ばぬ。但しこれが基と成つて、國語學史の類に、應永二十四年の作とするものが少くないから困つた事である。また大槻文彦博士の口語法別記〈大正六年四月刊〉五頁に「字鏡集 後嵯峨帝、寛元三年、菅原爲長作(帝國圖書館藏)」とあるは、寛元識語と、應永本に「爲長卿作」とあるのとにより斯う書かれたのであらうが、爲長作とする事はともかくもとして、寛元三年の作であるか何うかは明言できない事である。

立ちかへりて、春村の説を見るに、狩谷望之の歿後、其の本を天保十二年六月に轉寫せしめ、其の本の尾に、解説めく一紙を添へ、其の中で

抑この字鏡集は、いまだ世に著者の名を傳へず、故わが本の跋記に據ておもふに、小川僧正承澄の作なるべし……此僧正はいみじき悉曇の學匠なりしかば、此書はた編集せられけむとそおぼゆる………

と云ひ、また碩鼠漫筆〈二二一頁〉でも

此書は寛元三年に、小川長吏承澄僧正〈小川忠快法印弟子〉の手になれるよしの奧書見えて、六百餘年の古へに係れり…

と云つて居る。春村が寫した狩谷本は寛元本であつた、そこで春村は此の識語に基きて承澄の著述だと單純に決めたものであるが、其れは全く、識語の誤解から住じた誤斷でありて採るに足らない。春村は本人に取りては幸か不幸かは知らぬが、寛元の識語しか知らなかつたから。單純に寛元三年に承澄が作つたと云つてしまヘたのであるが、春村が若し、後に至りて應永本の如くに、菅原爲長の作であると明記――尤も爲長以外の人が記したのではあるが――した本を此の後に知つたとすれば、春村は從來通りに承澄説を採り得たであらうか。恐らく春村は、承澄説は直ちに捨てゝ、其の代りに爲長説を單純に認めたであらう。そして「此の卿はいみじき學者なりしかば、此書はた編集せられけむとそおぼゆる……」とでも書いたであらうと思はれる。

こゝで寛元の識語に就いて考へるに、此の識語を知つて居た平田篤胤、信友、木村正辭らは、此の識語を論據として承澄の作であるとする樣な事はせなかつたが、春村だけは其れを敢へてしたのである。信友らが承澄作とせなかつた理由は不明だが、案ずるに此の識語では承澄作とする事が出來るとは考へなかつたからであらう。以下私見を述べる。

一體

寛元三年四月二日小川法印〈承/澄〉示云、朱點東宮切韻、墨點唐玉篇也自支脂至干灰咍又舌内也

寛元三年五月十日尚成云、墨點不審字也、朱點詳之無不審字也

と云ふ識語は、無論同一人が施したものであるに相異無い。此の識語記者は、轉寫したか、又は、轉寫本を他より貰うたか購うたかして、とにかく字鏡集七册本を入手したが、本書の文字(標出の大字)に朱墨の二種の點が存するを見て、其れが、何を意昧するのであるかを知らなかつた。そこで、恐らくは懇意であつたらうと思はれゐ小川法印承澄〈此の年四十一歳〉に質した。積極的にこちらより質問したのであるか、質問も無いのに承澄が教示したのであるかは不明だが、とにかく承澄の教示を受けたのだ。ところが承澄は「朱點〈ハ〉東宮切韻〈ナリ〉 墨點〈ハ〉唐玉篇也」と教へてくれたと云ふのである。承澄の言は、朱點の施してある文字は、菅原是善の東宮切韻の文字、墨點の施してあるは唐玉寫――此の意味は、日本の東宮切韻に對する支那の玉篇〈江戸期では倭玉篇に對し漢玉篇と呼んで居る〉の義であるか、顧野王の原本を唐に成りて刪補した本を指すのであるかは判りかねるが、これは何れであつても可い事だ――の文字であると云ふのであるらしいが、其れ以上の明確な事はこれも判りかねる。だが、やはり今の論旨から云へば、斯う云ふ事は解決がつかなくても少しも支障は無い。自支脂至以下の十一字の事も論旨に無關係だ。

さて此の識語記者は四月二日に承澄の教示を受けて其の意見を記したが、其れより一月餘事後の五月十日に、また人を變へて尚成と云ふ人に、やはり同じく、朱點墨點に關して質問し、此の度は、「墨點のあるのは、不審字である、朱點のある文字は、これを詳らかにして居る文字であり、無㆓不審㆒字である」との解答を得て、其れを書き付けたが、是れで滿足したのであるか、も早や是れ以上別の人に質問する事は止めて居るのである。質問したかも知れないが、其の答を書きつけては居ないのである。其の尚成と云ふのは何う云ふ人であるか知らぬが、「尚成云」と云ふ風に、姓も書かずに極めて手輕に扱うて居るのを見ると、極めて親しい間柄であるか、若しくは、識語記者の身分が上で、尚成は、極めて低い身分であつたかの何れかであると見る可きであらう。尚成の名は分脈には見えないが、類從本和氣氏系圖に

清成〈侍醫、典藥頭、圖書頭〉――尚成〈從四上侍醫/大膳亮〉

と見えるので、春村は、此の人だらうとし、清成の名は明月記の建暦三年四月十八日、元仁二年四月廿七日、嘉祿三年二月十七日、天福二年七月十七日〈正四位下とあり〉の各條に見え、百練抄寛元二年十一月廿四日條に典藥頭清成の死去の事が見えるのを指摘し、且つ建長八年四月十四日の吉黄記除目折紙に、左少史尚成とある由をも述べて居るが、吉黄記の尚成はともかくとして、寛元識語の尚成が、和氣清成の子の尚成である事ば確實であらう。

寛元識語が書かれるに至つた事情と、其の内容とは右述の如きものである。要するに識語記者は、朱點墨點の性質が判らぬから承澄に質し、さらに尚成に質したのである。記者は此の兩人に質問し得る人であつたのだ。しかして承澄に先づ質問した。何故承澄に質問したのであるか。承澄が字鏡集の著者であつたからだと云ふのは一つの解釋である。そして春村は此の解釋に從うたのである。だが相手が字鏡集の著者で無くとも質問は出來る。現に識語記者は承澄以外に尚成にも質して居るのである。だから、承澄に質問したと云ふ事は、必ずしも承澄が著者であると云ふ事には成らないのである。ところで承澄の答へは、記者を納得せしめるには至らなかつた、だから記者は承澄の言に服する事できないで、別の尚成に確めたのである。そして承澄の言とは異る尚成の言を聞いてはじめて滿足したらしいのである。尚成の言に滿足せなかつたかも知れないのだが、とにかく承澄の後で尚成にも質問したと云ふ事は、大袈裟に云へば、承澄の言に對する不信任の表示である。そこまでは云はないにしても、承澄の言のみでは得心できなかつたのは事實である。ところで此の場合、若し承澄が、春村の言の如くに、字鏡集の著者であるとすれば、質問者は、著者に質問した事に成るのだから、承澄の言に不安を感じて、再び別人に確めると云ふ樣な事があるだらうか。著者の言を信せないと云ふのは、其の權威を認めないのである。悉曇の學匠にて漢字の事にも詳しくあつた筈の著者承澄の言を不安とし、著者に非る醫道の專門家たる尚成に質すなどと云ふ事があらうとは、常識上全然考へられない事である。故に、逆に云へば、識語記者の斯う云ふ態度は、承澄が字鏡集の著者では無かつた事を明示して居ると確言して憚らぬのである。〈如上の要旨だけはすでに昭和十年十一月に發表した拙稿「東宮切韻佚文攷」で言及して置いた〉

春村は寛元識語によりて、承澄作説を立てたが、其は全く誤解であつたのだ。承澄は著者では無かつたのである。但し字鏡集寛元本が寛元三年四月二日までに作られて居た事だけは確實である。從うて岡井博士の日本漢字學史が「黒川春村は、奧書に其の名が有るからして、小川承澄の作かと考ヘたが、澄ならば元久二年の誕生で、九十歳頃まで居られたから尚五十年程後れる……この書を一九〈三/四〉○年頃の物と爲すは不可なからう」と云つて、承澄の作と見る時は寛元同年より、なほも五十年程も後れて、弘安三年頃(此の年が紀元一九四〇年である)に字鏡集が出來たと考へて可いとするものゝ如くであるのは明かに不合理である。寛元三年四月に承澄に質問した以上は、寛元本が、寛元三年四月に存して居た事は云ふまでも無い。(因みに、春村は弘安版法華三大部跋記により、其年承澄が七十八歳であつた事を指摘し、「九十歳ばかりにて入滅せられけむとおぼしけれどいまだ卒年を考へず」と言て居るのだが、佛家人名辭書は、此の弘安五年十月二十二日に示寂したと記して居る。)

寛元三年の頃に問題と成つて居た朱點墨點の事は、今日でも判らないやうだ。伴信友は文政三年十一月、其の校するところの類聚名義抄に「附言」を加へて

字鏡集跋文云、朱點東宮切韻、今欲㆑爲㆓比校㆒見在字鏡集諸本、悉作㆓墨點㆒不㆑見㆑有㆓朱點㆒加㆑之施點麁漏、示聲配位乖別、盖不㆑辨㆓菽麥㆒者、漫然下㆑點、致㆓此紕謬㆒耳、不㆑足㆑爲㆑據、然以㆓本篇譯語㆒校㆑之合者十之七八、然則如㆑得㆘此書爲㆓卿作㆒之一證㆖

と云つて居る。これは、字鏡集跋文に、朱點は東宮切韻のであると記して居るに就いて、「字鏡集中の和訓で聲點の施してあるものは、東宮切韻の和訓の聲點に基き施したものだ、だが現在の字鏡集の諸本は、すべて朱點をば墨點に書き變へ居り、且つ其の施點も無學なものがよい加減に寫したと見えて亂れては居るが、本篇即ち類聚名義抄の和訓で聲點あるものに比べると十に七・八は合ふから、名義抄が東宮切韻と同じく是善の著であると云ふ一證とする事できる」と云ふ意味であるが、この解釋は實は全く正しくない。蓋し信友は、東宮切韻に和訓が存したと考へたから、斯う云ふ論も出たのだが、東宮切韻は高級な韻書であり、和訓の無かつたものであるからだ。だから、朱點は東宮切韻のだと云ふ承澄の言は、決して和訓の聲點に關するものでは無いのである。(清水濱臣の遊京漫録卷二(文政三年二月から九月に至る旅中の見聞を記す)の「和名抄古抄本」の條にも、大野廣城の言として「東宮切韻、唐玉篇の字訓にも點ありしこと 字鏡集跋に見え」とあるが、これもやはり朱點墨點を和訓に關したものと見て居るのである。)

朱點墨點が和訓の指聲に關係無いものであるとすると、支那の四聲關係のものでは無いかと云ふ事が一往は考へられるが、若し四聲關係のものであるとすると、東宮切韻所見のものと、唐玉篇所見のものとの間に相異があらうとも考へられないから、從うて、朱點墨點によつて其の典據を明示する事もできない筈である。だから四聲關係のものでも無い事は想像できる。

何れにしても寛元の頃に問題と成つて居た朱點墨點を、七百年後の今日に於いて考へるためには、先づ第一に、寛元三年當時の面影を忠實に傳へて朱點墨點の存する本を手にせなければならないのだ。ところで上述の如くに、信友は其の見た限りの字鏡集諸本において、和訓の指聲點に朱墨の別が無いにも拘らず――恐らくは一樣に墨筆で施してあつたのだらう――寛元識語に云ふところの朱點墨點をば、和訓の指聲點に關するものであるとして居るのみで、其の他の朱點墨點に就いては言及して居ないのである。此の事から察すると信友の見た字鏡集の諸本には和訓の聲點以外には點と名つくべきものが全然無かつたと見るべきであるが、若し事實無かつたとすれば、信友が朱點墨點をば和訓の指聲點の事だと考へたのも強ち無理では無いと云ひ得る(尤も、東宮切韻には和訓が無かつたのであるから、信友の考への誤である事は直ぐ指摘できるのである。)だが信友の見た限りの本に於いて和訓の指聲點以外に點と云ふべきものが果して無かつたのであらうか。これは何とも確め得ないのであるが、しかし七卷本字鏡集にして和訓の指聲點(この指聲點は朱筆で施してあるが、施點してある語は、極めて僅少である)以外に點と稱し得べきものを有し、しかも其の點が朱墨の兩筆と成つて居るものが存するのである。正辭の言に據ると狩谷望之の古鈔本が此の種のものであつたと信ぜられるが春村は何とも云つて居ない。井蛙たる自分は、然う云ふ種類の本としては龍谷大學所藏の本を指揃できるに過ぎないが、此の龍大本の例から推すと六卷本字鏡抄にも存するのである。(例へば、史料編纂所の江戸後期寫本に存する。前田家の二種の古鈔本の事は、うつかりして居て點の有無の事は何とも言へないが、史料編纂所本の親本たる光明寺本には無論朱點墨點が存する筈である。)其の朱點墓點とは何う云ふ點であるかと云ふと、標出文字の或るものや其の註文中の異體字の或るものゝ右肩に存する斜線の事であつて、これは嚴密に云へば點(星點)では無いが、歌や連歌などに施す合點の點と同種のものであるから、正に點と呼ぶべきである。此の點が、或るものは朱筆であり、或るものは墨筆である。寛元識語の筆者が問題とした朱點墨點は、正に此の點で無ければならぬ。(和訓の指聲點は朱筆使用が原則である、七卷本の指聲點に朱筆墨筆の二種が存するならば、指聲點の事かとも考へて見る必要はあるが、龍大本には墨筆の指聲點は無い上に、東宮切韻や唐玉篇の名が出て居り、其れらが何れも和訓と無關係の書であるから、いよ〳〵和訓の指聲點とは無關係である事が確實となる。)

さて龍大本に就いて、此の種の朱墨點を例示すると、卷一天象部「雨」の霹字の下には、異體字が五字書いてあり、其の五字には何れも點(斜線)が存するが、其の中の一字だけが朱にて他は墨筆で施してある。(史料本字鏡には、點が施してはない)日部の曝字には異體字を十三字も記すが、其の中朱點あるもの五字、墨點あるもの五字、點の施して無いもの三字である。(史料本字鏡では、やはり十三字あり、朱點五字、墨點四字、無點三字であるが、字形や點の有無には小異がある。)異體字だから寫眞版か凸版でも使用せない以上は例示しても無意味だから、これ以上は擧げないが、とにかく、龍大本では、標出字の或るものや、其の標出字の註文中の異體字の或るものには、朱點または墨點を施したものが存するのである。そして字鏡集の一異本たる字鏡にも此の種の朱點墨點が存するのである。寛元識語の朱點墨點が、此の種のものを指すのである事は、今は動かせない。

だが、其の朱點墨點が何を意味するかと成るとやはり全く判らない。朱點のある文字は東宮切韻所見のものであり、墨點のある文字は唐玉篇所載のものだと云ふのが承澄の説であるが、今試みに地儀部「石」の部で其の墨點ある標出文字(註文にも墨點あるものも存するが、今は便宜上標出の大字のみに限るのである。)十三字を神宮本原本玉篇石部一百六十字に比べると、一字が見えるのみで他は玉篇に見えない。また宋本玉篇の石部二百九十二字に比べると、たゞ三字だけが宋本に見えるに過ぎないのである。これでは墨點ある文字が唐玉篇に關係があると云ふ事は否定する他は無い。寛元識語筆者が承澄の言を認めなかつたのも首肯できる。とにかく、朱點墨點は今にしては、全く不明であり、尚成の言に從つて置く他は無い。(了)

2010-08-25 前田家藏傳爲相筆本閑居友を見て

  • 岡田希雄
  • 歴史と國文學 23(4): 11-24 (1940)

前田侯爵家の傳爲相筆閑居友上下二帖が、尊經閣叢刊戊寅歳配本として、本年四月二十日附けで複製せられた。たま〳〵先日藤井乙男先生の御宅へ參上したところ、「見たか」と云つて本を見せて下さつた。私が以前〈昭和五年九月の藝文にて〉閑居友と發心集の關係について述べた事があるのを、御記憶に成つて居られたからである。恩借してかヘり、拜見した。今までに刊行せられた諸本と同じく、まことに有難い複製本であり、池田龜鑑氏の執筆せられた綿密な解説〈五十五頁分〉があり、さらに諸本との校異表〈五十頁分〉も添うて居る。何れも勞作であり、此の解説と校異表とありて、此の貴重なる複製本は、いよ〳〵丸其の價値を増大せしめて居る。さて此の本を見たについて感じた事どもを記して、かねてより請求せられて居る本誌の埋草的原稿とする次第である。池田氏の解説を批判する事もあるが諒恕せられたい。

本書は何時頃よりか知らぬが、慈鎭和尚の作であると傳へられて來たが、烱眼なる契沖は、丁度、同じ樣に慈鎭作と傳へられて來た色葉和難抄をば、然に非ずと否定した如くに、本書も亦慈鎭の作で無い事を明言した。其れは本書の著者は渡宋僧である事が判るからであり、的確な論である。著者の渡宋の事は、木版本では「もろこしにまかりて侍しにも云々」〈上卷一六オ〉とあるものだけしか指摘できないのだが、他にも

もろこしに侍しと人のかたり侍しは云々

もろこしに侍しときゝ侍しは云々

と云ふ類の話句が、下卷〈一五オウ/一七オ〉、に三箇所見え、自分はこれらをば文意上必ず「もろこしに侍りしとき聞き侍りしは(かたり侍りしは)」で無ければならぬものと考へ、これらをも作者の渡宋を示す語句としてかつて擧げたのであるが、前田家本を見るとまさしく、「もろこしに侍し時云々」と云ふ風に、三箇所ともに「時」字を明記して居るのを知つたのである。なほ上卷〈三二ウ〉

されば、もろこしには、いかなるものゝひめ君も、くひものなど、しどけなげにくひちらしなどはゆめ〳〵せず、よにうたてき事になん申侍し也、この國はいかにならはしたりける事や覽、はやくせになりにたれば、あらためがたかるべし

と、慨歎して居るのも、渡宋を證明する材料に成るだらう。〈これも以前に擧示したのである〉

慈鎭説を否定した契沖は、松尾の慶政上人の作であらうとした。いかにも本書の作者が、下卷末で

西山のみねの方丈の草のいほりにてしるしおはりぬる

と自記し居るから、慶政に擬する事も可能に成る。だが積極的な證據は無いのであり、逆に池田氏が指摘せられた通り、反證さへ出て來さうである。即ち慶政は嘉定十年丁丑〈わが建保五年〉には支那泉州にて、南番文字と云ふを寫し居り、其の後間も無く歸朝したかして、建保七年一月には、續本朝往生傳や拾遺往生傳を、西峯の方丈にて寫して居るのである。ところが閑居友の作者は、承久四年三月頃を基準としたらしいが、「此あやしの山の中」に身を隱して「八とせの秋おをくりきぬ」と云つて居る〈上九ウ〉承久四年より八年前と云へば、建保二年と成る。だから閑居友の作者を慶政とすると、建保二年頃から「あやしの山の中」に隱棲して居ると云ふのと合はない。故に、これらの記事に誤が無いとすれば、慶政を作者とする事は出來ないのである。

慶政説を支持するにも、否定するにも、今少し慶政の傳記を明らかにせなければならないのだが、其れが今のところ困難である。

例へば、本書の作者の生地は、上卷末の記事に「からはしちかき川原」〈爲相本は誤寫して居る〉が作者の「ふるさと」に近かつたと記して居る事により、京の人であつた事が判るから、慶政の生地が他日判明して、京の人であつた事が判れば、本書を慶政に擬する一傍證〈傍證にならぬ場合も無論ある〉揚を得る事に成るし、地方の生れであるとすると、慶政否定の確證と成る。だが此の慶政の生地は今のところ不明である。(此の唐橋近き川原は、九條坊門の賀茂川原であらう。)

慶政は文永五年に歿して居る。建保五年よりは五十一年後である。渡宋僧で渡宋の時の年齡の判明して居る人に就いて云ふと、榮西の初度の入宋は二十八歳の時、俊芿は三十四歳、永平道元は二十四歳であつた。慶政は建保五年に二十五歳であつたと假定すると、七十六歳で歿した事に成り、三十歳であつたとすると八十一歳で歿した事と成り、承久四年は、それ〴〵三十歳、又は三十五歳であつた事に成る。ところで本書に現れた作者の年齡は何歳ぐらゐであつたらうか。明確に書いたものとては無論無いが、名聞を捨て、隱遁生活を讃美するところなど、何うも老人じみた面影が見えるのではあるまいか。三十歳や三十五歳の壯年の僧を想像するのは何うも困難なのではあるまいか。但し是れは全く、現代人としての自分の主觀に過ぎないから、斯う云ふ事は問題と成らぬであらう。

本書の本文としては、寛文二年四月版〈後摺もある〉と續類從中の活版本とが存したのだが、傳爲相筆と云ふ極札ある鎌倉末期の古寫本が、今度複製せられたのであるから、學界としては大變悦ぶべきである。校異表は、前田家所藏の譚玄本、其の他木版本、續類從本、神宮文庫の村井古巖獻納本等との校異を示したもので實に結構である。自分は木版本と爲相本との相異を版本へ記入したのであるが、自分が木版本でいぶかしく思うて居る條――それは多くは無い――を、爲相本にあたつて見た結果「とうとく」〈貴の義、上二二ウ、四二ウ〉「たとひとりたるとても」〈下一一オ〉「かみはそらけあがりて」〈下二五オ〉の校異が漏れて居る事を知つた。即ち爲相本では其れ〴〵「たうとく」「たとひとりたりとても」「かみはそそけあかりて」とあるのである。此の校異表は、假名遣や比較的重要で無いものは取り上げない方針らしく、(假名遣の如きは擧げる必要も無く、又擧げきれるものでは無い、但し、「お」「を」の混同甚しく、助辭の「を」を「お」で示す事の多いのは、注意すべきである)其れは認め得る態度であるが、「とうとく」の例は音韻史的に見て重要であるから、木版本の誤なる事を示して然る可く、「たとひとりたるとても」も爲相時代の語法としては(無論承久四年の語法としても)注意すべきであるから、爲相本では然うは成つて居ない事を、積極的に示してほしい所であつた。「そそけあがりて」に至りは見落しだらう。

前田家本は古寫本だから、木版本よりは無論勝れて居るが、中には惡い所もありて、其れは解説で指摘せられ居る。が其の中で一番大きな錯簡に關する説明が少し不充分であると思ふから左に述べる。其れは上卷眞如法親王傳の所であり、木版本で云へば一丁裏八行の「ことはりにもすぎてわづらひおほ」の下から、三丁表九行の「と侍る事思いでられて」の上までの三頁分に相當するものに於いて、爲相本に錯簡が生じて居る事であつて、譚玄本も此の通りであり、木版本、續類從本、神宮文庫本等は一類で同じ本文であると云ふ。池田氏は、「何故に、このやうな錯簡が生じたかは、今の所不明といふより外はない」と云はれるが、これは實は千慮の一失であつた。

今爲相本を見るに、四丁表より裏への續き、又五丁表より裏への續きは、文章も續いて居り、何ら異状は無いが、四丁裏より五丁表への續き具合は「異代にかへしなど」と、動詞・助動詞の接續は正しいが、文章としては連絡が無い。しかして斯う云ふ事は、三丁裏から四丁表へ續く所に於いても、五丁裏から六丁表へ續く所に於いても云ひ得る事である。だが、此の四丁二頁五丁二頁を、木版本とたゞ比較しさへすれば、爲相本の五丁裏から逆に四丁表へ文章が續き居る事が判るであらう。こゝまで述べて來たら今はも早や冗説する事は不要である。爲相本の四・五の兩丁は綴ぢ誤られて、表裏が逆に成つてしまつたのだ、即ち、今のまゝの丁附では、三丁裏、五丁表裏、四丁表裏、六丁表の順に改めれば、文は完全に續くのであつた。要するに、御物更科日記に見るに似た錯簡が、爲相本にも存するのであるに過ぎない。此の錯簡は前田家で、今の表紙を添へるため改裝する時に生じたものであるかも知れない。

こゝの文に、木版本〈三オ五〉では

この人菩薩の給はざる事なし。汝心ちいさし。………

と成つて居るのがあり、濁點も施してあるが、此の儘では此の文全く意が通せない。然るに爲相本にては「給」字が「行」字と成り居り、

この人菩薩の行はさる事なし、汝心ちいさし。………

とあるのである。是れでこそ意は通じる、こゝは「この人」即ち化人が親王のやり方を難詰して、「菩薩のぎやうる事無し」、菩薩行は然う云ふ事、であつては宜しくない。汝は心が狭小だ、そんな人間の施物は受けないぞと拒絶した事を云つて居るのである。解説が「この人菩薩の行はざる事なし」と濁點を施し、「おこなはざる事」と動詞の否定に讀んだのは誤であつた。菩薩行と云ふ名詞である。

因みに云ふ、眞如法親王が渡天の途中羅越國で、虎害のため遷化遊ばされたと云ふ事は、廣く傳へられて居るが、正史には見えない事で、學者は俗説として一蹴して居る。斯う云ふ俗説が何時頃より行はれ出したか知らぬが、大日本史は東大寺凝然の著述を擧げて居る。しかし凝然は仁治元年の出生にして、仁治元年は閑居友の出來た承久四年よりは十八年も後である。虎害云々の事は親王の傳にも書いてないから特に記すと特記して居るのを見ると、本書の如きは虎害説を記したものとしては古い方であるかも知れない。

なほ爲相本の本文について氣づいた事を述べると左の如き事がある。

  • ○下卷十一裏、例の長谷寺月詣女の條に「この事あやしむべき人にはあらで」とある「あやしむ」が、諸本此の通りであるのに、爲相本に限りて「あやむべき」とあるので、解説は「あやしむ」とあるのが正しいとして居るが、「かろむ」「かろしむ」と同じ關係で「あやしむ」に對する「あやむ」も存し、國語辭典は千載集や堀川百首の用例を擧げて居るから、必ずしも「あやしむ」を正しいとするにも及ぶまい。
  • ○上卷八表、善珠が僧房の壁に唾を吐きかけたので、死後せつかく兜率の内院に生れながら、此の土に歸された事を記し、さて「さま〴〵のもちものかへしろなへていみじき名香どもかひて、ゆにわかして、僧房のかべをあらひ給ひて、内院の往生とげたる人也」と記して居るが、此の「かへしろ」は國語辭典に「返代、つりせん(釣錢)に同じ」とあるものとは異り、替代即ち賣代の義であらう、所持品を賣り拂ひ、其の錢でいみじき名香など買うたと云ふのだが、「かへしろなへて」では意が通ぜぬ。爲相本にも此の通りにみるが、恐らくは、「かへしろなして」とあるべきものと思ふ。
  • ○上卷駿河の國宇都の山に家居せる信の條に、或る僧が、殊勝なる便宜坊に自分は僧侶であり乍ら出離の道に迷うて居るから教へてくれと頼んだところの文に「まうけ給ぬ」と云ふ語〈三五ウ八行〉がある、爲相本では「さうけ給ぬ」に作つて居るが、「さうけたまひぬ」では、こゝ意味が通ぜないやうに思ふ。「うけたまはりぬ」の誤ではあるまいか。「給ぬ」を謙遜の語として「うけたまへぬ」と讀めば、このまゝでもよいが、本書には、然う云ふ「たまふ」は見えないから、「たまへぬ」ではあるまいと思ふ。
  • ○下卷の怨み深き女が生き乍ら鬼に成つた話に、男に疎んぜられた女が恨みて食を斷つた事を述べ「またとしのはじめにも、なりぬべければ、そのそめきにも、この人のものくはぬ事も、さとむる人もなし」と記して居り、木版本〈六オ七行〉は「そめぎ」と濁點を施して居るが、こゝは、やがて正月にもならうと云ふので、歳暮の營みのゾメキ〈騷ぎの義だが、こゝは先づ、ゴタクサ、混雜位で可からう、沙石集に用例がある、但しこの頃はソメキであつたかも知れぬ、江戸期ではゾメキである。〉に取り紛れて、女の斷食を知らなかつたとか何とか云ふ意味であるらしいが、「さとむる人」が判りかねる。斷食に氣づかなかつたと云ふのであるならば「とがむる人」とでも有りたきところであるが、氣も付かず、從つて制止もせなかつたと云ふのであるならば、「然止さとむる人」と解すべきであり、これなら本文は此のまゝで可い筈だ。何れが可いのだらうか。
  • ○下卷の「やみのあきま」〈七オ九行〉「後のよの事をば、かけふれ思ひもよらず」〈三三オ二行〉は何れも爲相本でも此の通りであるが、私には此のまゝでは理解できぬやうに思ふ。がまだ考へ得ない。
  • ○上卷宇都の山の便宜房の條に、この僧の日常生活を記して「さてゆきとまる所にて。むしろこもめぐりにひきまはして。さるべきやうにいゑゐしつゝ。ひでものしてくひなどしける」〈三五オ〉と云つて居るが、爲相本には「いゑゐしつらひてものしてくひなどしける」とある。木版本の「ひでもの」の濁點や句讀は本のまゝに從つたのだが、「ひでもの」が判らぬ。爲相本によると、「家居しつらひて、物して、食ひなどしける」であるらしいが、「物して」が落ちつかぬ、「しつらひ、てものして、食ひなどしける」でも判りかねる。

野村博士が、近古時代説話文學論の中で、本書下卷に見える長谷寺へ月詣する女の話と、長谷寺靈驗記下第二十七話との關係を考察し、閑居友は靈驗記から取材したのであらうと論ぜられたについて、解説は鎌倉末期を下らざる古寫本靈驗記の本文を擧げ、且つ閑居友から靈驗記の文が出たとする永井義憲學士の説を擧げて居られるが、閑居友をかねてより研究して居られる神谷敏夫氏も「國學」第五輯〈日本大學刊、昭和十二年一月號〉の中で靈驗記と閑居友との關係を考へ、靈驗記卷上、第十七語に「後鳥羽院」の語のある事を指摘し、靈驗記が、後鳥羽院と申す御謚號の治定した仁治三年七月以後のものたるべき事を論じて居られる。氏は承應四年刊行の靈驗記により立論せられたのだが、論法は正しい、前田家の古鈔本では何う成つて居るだらうか。

下卷「なにがしの院の女房の釋迦佛おたのむこと」の條に、著者のほの知つて居る某の院の女房が、病氣と成つたのを、著者が見舞に行つて、いづくの淨土を心に懸けて居るかと問うたところ「なにとなくたのみなれにしかば、靈山淨土にむまればやとおもふ也」と答へたのに感激し、長々と釋尊讃歎の文句を書きつらね、さて衆生を見る事なほ子の如しと云はれた釋尊の慈悲心にそむくだらうから、今後は生きとし生けるものは、みにくき虫までも疎むまじ「いまよりは、かやうのくちなは、みゝすまでも、いたくうとしとは、さしはなたじよとおぼゆ、よゝへたる父母、むつ事のなからひにてもあるらん」〈木版本では三一ウ〉と云つて居るが、是れを見ると、堤中納言物語の「虫めづる姫君」が、模型の蛇で動くやうに成つて居るのを惡戲好きの或る上達部より贈られて、さすがに恐しと思ひ「なもあみだぶつ、なもあみだつ」と唱名し、それでも「生前の親ならむ、な騷ぎそ」と、恐れ惑ふ侍女共を制して居る語を思ひ出す。蛇を見て前世の親ならんと云ふ事、恐らく佛典に典據があるのだらう。

最後に本書中の語彙で注意すべきもの、を列擧する。淺學な私では理解できぬものも擧げて、識者の教示を乞ふと共に、私の備忘用ともする。

  • ○あやむ〈下一一ウ〉 諸本「あやしむ」に作るが、爲相本にのみ斯くある。怪しむだが、これで可い。既述。
  • ○あはたかし 「かしのみおなんとりおきて、くひものにはてうじける、まへに池お、てづゝげにほりて、それにいれをきて、あはたかしなどしけり」〈下一オ〉「あはたかす」と云ふ動詞らしいが意義不詳である。
  • ○あたる 上〈三三ウ、二度、三七ウ〉 下〈一六オ〉 などに見える。今の「辛くあたる」の「あたる」で珍しくないが、自分には珍しく見えるので擧げる。
  • ○ゑわらひ 上卷〈三〇ウ〉「たかきゑわらひもせず」。國語辭典は字鏡集と枕草子を引いて居るが、後者には本により相異がある。類聚名義抄に咲ヱワラフ。
  • ○かへしろ〈上八オ〉 替代であらう、賣代の義。既述。
  • ○かんぞり〈上三四オ〉 剃刀の義、國語辭典は此の形を擧げず、多武峯物語により「かうそり」を擧げて居る。木版本に「はんそり」とあるは誤。
  • ○かほたて〈下二六オ〉 國語辭典に擧げず、今のカホダチに相當するやうだ。
  • ○後世とる〈上三四オ三五ウ〉 此の云ひ方が珍しい。
  • ○これう 「さてしばしは、さるほどのこれうを、日に二たびくひけるが、後には一日に一合のこれうを一たびなんくひける」〈上二四ウ〉「日に一合のこれうをくひて、さらにそのほかのものもくはず」〈上二九ウ〉木版本は皆「かれう」に作るが爲相本に從ふべきだらう。簡易な糧食らしいが、語義不明である。
  • ○さかまたぶり〈上一六ウ一七ウ〉 「またぶり」の語は和名抄に見え、枝の分岐したものを云ふ。枝の先を二股にし、持つ所を丁字形にしたものを「またぶり杖」と云ひ、宇治拾遺卷十四「經頼蛇に逢事」の條に見え、實物は繪卷物に珍しく無く、僧俗男女使用して居る。鹿の角の形に似て居るから、鹿杖(かせづゑ)と云ひ、此の名和名抄にも見え、宇治拾遺卷八「下野武正大風雨日參㆓法性寺殿㆒事」の條にも見える。「さかまたぶり」と云ふと「逆またぶり」で、またぶり杖の逆のもの、即今の松葉杖のやうなものに聞えるが、乞食僧が「さかまたぶりといふことをたてゝ、ものをこひてよをわたるあり」と云ふ文句で見ると、普通のまたぶり杖をさかさまに立てゝ、占か何かでもして居たやうに思はれる。折口博士の古代研究に、昔は乞食房主が此の杖を持つて歩いた、西洋にもある形で、物を探つて行く爲めのものだ〈上六〇九〉とあるが、何うやら呪術と關係があるらしい。但し日本では何も乞食房主の專有物で無い事は上述の通りである。宇治拾遺の經頼は相撲取であり、武正は隨身である。
  • ○さうき 下卷の「もろこしの人馬牛の物うれうる聞て發心する事」の條に〈一八ウ〉親子三人が山の麓に隱棲して、「さうき」と云ふものを日に三つ作りて娘に賣らせたとあるものだが、何の事か全く知らない。
  • ○しのばし〈上三一オ四〇ウ〉 「忍ぶ」から出た形容詞で、慕はしいの義、國語辭典は撰集抄から用例を取つて居る。
  • ○そめき〈下六オ〉 木版本には「そめぎ」と濁點が施してあるがゾメキであらう、國語辭典は沙石集を引用して居る。既述。
  • ○それがし 上〈三ウ〉 下〈四ウ〉等に見えるが、前者は不定稱の某の義、〈「なにがし」も下二六ウに見ゆ〉後者は自稱である。自稱の用例としては擧げて可い方のものである。
  • ○そら物ぐるひ〈上一七ウ〉 伴狂の義、國語辭典に採取して居ない。
  • ○とりむすめ、とりおや〈下八ウ九オ〉 國語辭典は本書より此の語を採取して居る。「とり」は取であり、養女、養父母の義。同じ類の語にトリコと云ふのがあり、發心集にも見えるが、類聚名義抄に猶子をトリコと訓んで居る。
  • ○はしばみて〈下五オ〉 顯基中納言が捨てた室の遊女の事に關して「さやうのあそび人となりぬれば、さるべきさきのよの事にて、いかなれとも、はしはみてこそ侍を、あぢきなしよしなしとおもひさだめけむ事、たぐひなく傳へし」と述べて居る。「いかなれとも」も判らない言葉である。
  • ○びん〳〵なる事〈上三五オ〉 「つねには、そのさとのものどもにつかはれで、びん〳〵なる事をば、いみじく心してしければ、びんぎ房とぞ名づけたりける」とあるが、「便々なる事」「便宜房」の字をあてるべきだらう。
  • ○ひらかど〈下一三オ〉 長谷寺へ月詣する女房が、京へ上り、姉と成つてくれる人の家を物色する場面に「いたくむげならぬいへの、いとふるびてみゆるが、ひらかどに車よせなど、さるほどにしたるが、いたくさはがしくもなくて、うちしめりたるやうなるありけり」とある。「ひらかど」は平門らしいが、何う云ふのを云ふかを知らぬ。
  • ○ふところせばくなる〈下一〇オ〉 右の月詣の女が、幸福を望んで三年も月詣して、いよ〳〵錢が乏しく成つて行く事を記すに當り「さすがたやすからぬ道なれば、いよ〳〵そのふところも、せばくぞなりまさりける」とあるのだが、「懷があたゝかい」「懷がさびしい」などゝ云ふのと同じ類の云ひ方である。
  • ○骨を折る〈上五オ〉 如幻僧都の事を記して「くまのにこもりて、身をくだき、ほねをゝりて、ひとすぢにおこなひたまひけり」とあるもの、國語辭典は夫木抄所見信實の「さりとてもさせる事なき破れ傘骨を折りてぞ君につかへし」の歌を引いて居る。
  • ○むさう〈上四九ウ、下三オ、二三オ〉 無慚の音便化したもの、國語辭典は宇治拾遺を引いて居る。
  • ○むらなし〈上三六ウ〉 「むらなきがうのもの」とある、拔群の勇者の義であるやうだから、「むらなき」は群無きか。
  • ○めもはつかなるわざ〈上一七オ〉 清水のはしの下〈五條橋の事だらう〉に住む乞食僧が、時の大臣の修する盛大な佛會の説法の高座に無斷で上つた事を記し、さて參詣の人々について「あれはいかにぞと、めもはつかなるわざかなとあやしみあひたりけれど………」と述べて居るのだが、「はつか」が判りかねる。驚き呆れた眼で眺めた事を云ふらしく想像せられるに過ぎない。
  • ○目だゝし〈上二九オ〉 木版本に「かやうにふつに身をすて侍人には、をはりのとき、かならずめたしきほどの瑞相の侍なめり」とあるものにて、爲相本に「めたゝしき」とあるのが正しい。國語辭典は發心集の例を引いて居る。「めだゝし」は「目立つ」の形容詞形で、「腹立たし」「面だたし」と同じ云ひ方である。
  • ○山おくり〈上一四ウ〉 葬送の事で、野邊送りとも云ふ。野と山とで云ひ方がかはるだけの事である。國語辭典は撰集抄を引いて居る。

語法的な事について云ふと、格助詞「と」が承ける述語は係結の無い場合は當然終止形であるべきだのに詠歎か何かで、連體形と成つて居る例は珍しく無いが、地の文に於ける終止の「けり」が「ける」、と連體形になつて居る例が、

さて、その心ざしをとげたまひける〈上六ウ〉

わが身はやがて、その日出家して、しづかなる所しめて、いみじくおこなひ侍ける〈下四ウ〉

あるが、これも、他の動詞なら知らず、良變の「けり」では大して珍しくは無い事である。

「いはんや」「いかにいはんや」は、下に「をや」を取るが、「おいてをや」の例は全く無い、これも當然である、永平承陽大師の正法眼藏は、漢文調の文だが「おいてをや」の例は全く見えぬ。

下卷なにがしの院の女房が、釋迦佛を頼む事の話の末尾に「さてもこの佛〈○釋迦〉の御事のかきたく侍まゝに、なにとなき事のついでを悦侍ぬるにこそ」とある。「かきたく」は「書きたし」と云ふ希望を示すのであるが、爲相本は「かきたゑ侍………」と書き、「ゑ」の右旁に「く歟」と註して居る、當然「書きたく侍」とあるべきだ。さて斯う云ふ「たし」も此の頃としては、先づ注意すべき方である。

  • (八月二十三日)

解説は、書名の閑居の訓み方につき、カンキヨで無く、カンゴ又はゲンゴとよんだかも知れないと云つて居るが、これは從來誰も云はなかつた事であるが、いかにも緇徒用語としては、有りさうな訓み方である。だが閑居の二字をカンキヨと訓む事もあつた事を、前田家の三卷本色葉字類抄疊字門の記事により申し添へて置く。(校正の時記す)

2010-08-11 歌人藤原長能の歿年に就いて

  • 岡田希雄
  • 歴史と國文學 27(3): 41-44 (1942)

蜻蛉日記の記者との肉親關係や、(異父兄であるらしい事が吉川氏により推定せられた)公任の一言で悶死したと云ふ不名譽な逸話やらで、比較的よ−名の知られてゐる歌人藤原長能ナガヨシの歿した年についての考説が、すでに發表せられて居るのか何うかをわたしは知らないし、また確めようともせないが、吉川理吉氏の「藤原長能とかげろふの日記の記者ら」〈國語國文本年六月號〉によると、何も説は出て居ない樣である。當の吉川氏は、長能の生年を以て、天慶元年よりは前で、承平六年の出生と推定せられる蜻蛉日記記者よりは、少々の年長であらうと推定し、長能の晩年の任官たる寛弘六年の伊賀守就任も、七十餘歳である筈だとまで云つて居られるのだが、何うした事か、歿年の推定は全く試みては居られない。そこで私の臆案をこゝに述べようとするのであるが、實を云へば、吉川氏の文を見て思ひついたものである。其の推測の鍵は、寛弘六年の任伊賀守と云ふことであり、私は此の寛弘六年の二・三の兩月の中か、四月のはじめ頃までに、長能は死んだのでは無いかと想像する。


長能が花山院崩御の寛弘五年二月に、崩御を悼み奉る歌を詠み、四月十八日には老年ながらも左大臣道長の賀茂參詣(道長は内覽だから、關白の御賀茂詣でに相當する)の陪從を勤仕して居るから、翌六年正月廿八日に伊賀守に任ぜられたと云ふ中古歌仙傳の記事も、日記類には見えないがうべなひ得る。正月の普通の除目に於ける任官であつたのだらう。

正月末に長能の任ぜられた伊賀は、何うした譯であつたか、二ヶ月餘りの後の四月五日に成りて、源爲憲が任ぜられて居るのである。そして此の事は道長記や行成の權記に明記がある。

此の伊賀守は、二年餘り後の寛弘八年十月五日に、またもや交替があつて、藤原信通が任ぜられて居る。此の信通の事は權記に見える。要するに伊賀は

  • 寛弘六年正月廿八日、任藤原長能
  • 同 六年四月五日、任源爲憲
  • 同 八年十月五日、任藤原信通

と云ふ具合にて、交替が頻々である。そして爲憲の後の信通は、爲憲が此の時、七十歳以上、八十歳近くの高齡であり、また勅撰作者部類が、何う云ふ根據があつての事かは知らないが、寛弘八年八月歿と云つて居ることから考へると、多分は爲憲が死んだがために、死闕に對する信通の任官があつたものだらうと想像せられる(權記には死闕と云ふ樣なことは記して居らぬ)

さて溯りて爲憲の任ぜられた時の事情を考へるに、道長の日記には「伊賀國闕、被任爲憲」とあり(權記の記事は生憎にも抄記が手許に無い)、其の正月に長能が任せられて間も無い事であるから、臨時の闕である事は想像に難くは無い。ところで其の臨時の闕が何うして生じたかと云ふと、普通は死闕を考へてよいのだが、長能が此の時七十歳以上の高齡であつたことを思ひ合せると、此の時長能が死んだからであると想像するのが最も妥當ではあるまいか。しかして四月五日に後任の任命がある程だから、長能の死んだのは、其れより程近い頃であつた筈である(當時、地方長官が死んだやうな場合に、大體何ヶ月、又は何日目ぐらゐに後任が決定したのであるか、と云ふやうな事は、私は知らない)


ところで、こゝで想起せられるのは、長能が花山院で三月盡の歌を詠み、小の月の三月二十九日に春の盡きることを「心憂き年にもあるかな二十日あまり九日と云ふに春の暮れぬる」と詠んで、當時の歌壇の權威公任に「春は卅日やはある」と非難せられ、其れを苦に病んで不食と成り、結局其のために死んだので公任も後悔したと云ふ話〈袋草子卷二〉であるが、これが事實であるとすると、三淵盡と云ふ樣な歌であるから、大體此の歌を詠むのにふさはしい頃に詠んだと見たいところである(題詠と見れば必ずしも嚴重なことも云へないが)。しかして然う見ると云ふと、四月五日に爲憲が伊賀守に任ぜられて居る事と、極めて接近して居ていかにも、似つかはしい事と成る。即ち、三月盡の歌を三月の末にでも詠んだ、公任が其れを非難した、老齡の長能が、苦に病んで他にも病氣があつたのによらうが、ころりと歿した、そこで爲憲が伊賀守の後任と成つたと云ふ事になり、まことに事の順序がよろしい。しかして此の場合に、寛弘六年の三月が、小の月であれば、いよ〳〵誂へ向きと成るのであるが、此の點は殘念ながら一致せない。寛弘五年までの八年間は、三月は引き續いて小の月であるのに、生憎にも寛弘六年よりは大の月と成り、これが六ヶ年續くのである。

斯う云ふ譯で三月二十九日に春が盡きたと云ふ事は、寛弘六年の實際とは一致せないが、事實の如何は問はず、長能は寛弘六年に詠んだのだ、此の歌では二十九日で盡きると云ふのが眼目であり、長能としては、この眼目を誇示したのであらう、ところが意外にも歌壇の大御所公任により、其の眼目が無雜作に非難せられたのだから、老齡の長能には甚しくこたへたらしい、此のために死んだのか何うかは判らぬが、とにかく長能が晩春頃か、若しくは四月の月はじめにでも死んだものと見ては何うかと云ふにやはり、それは駄目である。

一體此の歌、長能の家集では「花山院に、三月小なりし時、春の暮惜しむ心、人々よみしに」とあつて、花山院の法皇御所にて、恐らくは法皇御存生中に、三月がまさしく小の月であつた時に詠んだと見るのが正しいから、いくら遲くとも寛弘五年三月か、それ以前で無ければならない事と成る。そして假りに法皇崩御後の寛弘五年三月の末頃に、花山院にて、法皇をしのびまつるために歌人共が集りて歌詠んだ事があつて、其の時に長能が此の歌を詠んだのだとすると、長能は其の年の四月十八日の御賀茂詣の陪從もつとめて居り、翌六年正月には伊賀守に任ぜられても居るのだから、公任の一言を苦に病んで死んだと云ふのは、事實では無いことゝ成る。長能集の編者は長能自身であるか、他の人であるかは知らないが、家集の詞書を信ずる以上は、公任の一言で長能が死んだと云ふのは、そらごとであつたのだ。だから、此の歌により長能の死んだ時期を考へるは無意昧となる。


とにかく、長能は正月末に伊賀守に任ぜられると、恐らくはまる二月も經過せない中に、三月中にでも死んだのではあるまいか。そこで源爲憲が四月六日に死闕に拜任したのであらう。

長能の歿年に關する私の臆案は以上の如きものである。

  • (七月十三日、病床上にて記す)
 
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