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2010-09-22 寛元本字鏡集の識語

  • 岡田希雄
  • 歴史と國文學 26(6): 9-21 (1942)

字鏡集は、部首類辭書としては、慶長の刊本倭玉篇までのものゝ中では最も大部のものであり、字鏡集以前の辭書たる新撰字鏡、世尊字本眞本字鏡、類聚名義抄に比しては最も日本化したものである。しかも異體の字を註記し、韻を示すなどの點では、古本和玉篇や刊本倭玉篇などよりも高級である。其の部首を天象部・地儀部・植物部・動物部・人倫部などゝ云ふ樣に意義分類して居るが、これは無秩序に部首を並べたのでは、某と云ふ部首が何の册に存するかを知るに苦しみ不便であるのを考慮して、檢索に便利であるやうに意義分類したのであつて、字彙・正字通・康熈字典の如き畫數順に並べるのに比べては劣るが、説文式に漫然と並べてあるのに優る事は云ふまでも無い。尤も其の説文でもところ〴〵に意義の似た部首を並べて居る事が指摘できる。だが漢土の部首分類辭書で意義分類せられて居るものとしては、現存のものでは宋末の六書故が最初のものであるが、著者の戴侗は南宋淳祐〈元年は我が四條天皇仁治二年〉年中の進士にて、其の孫の時、元の延祐六年〈後醍醐天皇元應元年〉に刊行せられたものであるから、著述の時代は、すでに寛元三年四月〈仁治二年よりは四年の後〉には存して居た字鏡集よりは後れるものである(其の分類も九分類にて粗である。此の後明に成りて海篇朝宗、海篇心境、海篇正宗、篇海類編などゝ云ふ名も内容も似たり寄つたりの俗書的意義分類辭書が簇出する。)また本邦に於いても、新撰字鏡で意義の似たものがところ〴〵纒められて居る趣であるのを除くと、やはり意義分類の部首分類書と云つては無いやうであるから、字鏡集の部首の配列は畫期的と云へるのである。但し斯う云ふ配列が本辭書の創案であるのか、現在では佚亡してしまつて居るために見る事できないが、字鏡集の時代には存して居た辭書に此の種のものがあつて、其れを模倣したのであるか何うかは判らぬ。此の意義分類は平安朝末の色葉字類抄(色葉分類と意義分類とを併用した國語辭書)の意義分類と似て居るが、字鏡集とほゞ同じ時代に、寛元・寳治の頃に出來たか、作者は時の大儒菅原爲長では無からうかと疑はれる和漢年號字抄〈本書の事、昭和十年末に考説を發表した〉の分類とも酷似して居る。寛元より十年程後の建長六年に、説話集として古今著聞集二十卷が作られて居るが、これも説話を意義分類して居る。これらから察すると、當時は、何かと云ふと意義分類する風があり、其の好尚に從うて、字鏡集の部首配例も意義分類體を採用したのではあるまいかとも考へられない事は無い。從うて、字鏡集の創案と見る事も必ずしも不可能では無い。とにかく本書の部首配列法は本書獨特のものである。(此の後のものとしては、古本和玉篇の一種たる玉篇要畧集がある。此の本、自分は自分の見る事できる京都大學國文學研究室本の書名が單に玉篇とあるだけであつて、他と區別するのに困り意義分類體玉篇と稱したものだが、其の後川瀬氏が新に安田文庫へ入つた本として、此の大永四年の奧書ある玉篇要畧集を紹介せられたのである。さて部首だけを意義分類したものとしては、吉利支丹版たる慶長三年刊行落葉集の「小玉篇目録」がある)

字鏡集の本文としては二十卷本と七卷本とが知られて居る。兩者は異本關係にある。二十卷本の代表は、前田侯爵家の應永古鈔本二十册であり、應永と呼ぶ人もある。應永二十三年六月頃から寫し出して、翌二十四年の八月か九月かに寫し了へたもので、一・二・二十の三卷以外には各册に書寫年月を記して居る。其の一番新しいものは第十九卷の「應永廿四年六月廿八日寫之」であるが、此の日附のところは各册ともに「日」字以下を切り抜いて列の紙を貼りつけて、其れに「爲之」の二字を書いてあるのだが、斯う云ふ事が、前田家本では比較的新しい時代に加へられたものである事は、同じ應永本の轉寫本たる醍醐慈心院本〈但し其の轉寫本〉其の他に「……日於慈徳寺隅寮書了」とあるのにより判る。前田家本に何故斯う云ふ無用の手が加へられたのであるかは理解できぬ。さて此の古鈔本には十三・十四・十六・十七の四卷以外には、卷尾に「爲長卿作」と記して居る。爲長は鎌倉初期の大儒菅原爲長である。

七卷本は、七卷に分卷せられて居るから此の稱があるのだが、寛元三年の識語があるから寛元本とも云ふ。尤も寛元の識語の無い本もあるのであつて、古寫本としてはむしろ識語の無い本の方が多いのではあるまいか。赤堀氏が國語學書目解題で擧げて居られる寛元本が、現存七卷本の何れの本であるかは判らぬが、黒川春村が狩谷棭齋所藏の古鈔本を轉寫した春村本による解説と見る可きやうだ。其の春村本の轉寫本は帝國圖書館や大和の天理圖書館にある。また寛元の識語の無い古寫本が、京都の龍谷大學圖書館にある。一體寛元本には、どこにも内題として字鏡集と云ふ名は無いのだから、書名が不明と成りやすいのであるが、龍大本の如きも書名が不明となつたために、現在では「和玉篇」と云ふ題箋が存する。斯う云ふ書名に成つて居る本は他にも存するのである。

二十卷本と七卷とが、宇鏡集の異本關係にある事は誰しも認めるところであるが、別に宇鏡抄六卷がありて、これが亦字鏡集の一異本と見るべきである。赤堀氏が國語學書目解題で擧げて居られるものは、史料編纂所の徳川中期以後の寫本である三卷九册本であるが、これは完本では無い。此の史料編纂所本の親本たる古寫本は前田家に存し、六卷六册本で、天文十六年五月に榮祐が表紙を變へて居る由の奧書があるのだから、其の榮祐が「先年」光祐和上が寫したと云ふのは、享祿か大永の頃の事であつたらしい。前田家には今一部字鏡抄がある。本文は上中下に別ち、さらに其れ〴〵本末に別つから六卷であるが、これに目録が別册として添ふので七册と成つて居る。「永正五年〈戊/辰〉八月日 權少僧都暹頼之」とあるから、先づ此の頃暹頼が寫したと見て可からう。永仁頃の本朝書籍目録に「字鏡抄」を録し、卷數は本によりて一卷としたり六卷としたりして居るが、これは六卷を正しとすべく、其の六卷の字鏡抄と云ふのは、右の前田家の本の如きを指すと見るべきだ(一卷といふ卷數は、然う云ふ卷數のものが、無かつたとは斷言し難いが、部首分類辭書としては、簡易辭書たる和玉篇の類でも三卷本が普通だから一卷と云ふは誤と見たいのである。)

要するに字鏡集の一類としては、二十卷本、七卷本、及び六卷の字鏡抄の三種を擧ぐべきであらう。但し相互關係を想像する事は困難である。

字鏡集の製作年代に就いて述べたものとしては、黒川春村、伴信友、昨非庵是翁、敷田年治、小中村清矩等の説がある。いま便宜上、春村の説は後に述べる事として、先づ信友の説から擧げて行くと、信友は比古婆衣卷五喚子鳥〈全集本百頁上〉の條に於いて、字鏡集には寛元の奧書のある事を云ひ、さて

此書撰たる世詳ならず、今京となりて延喜より後のものなる事は著けれど、其訓は希らしき言も多かり、舊く書傳たるものに據れるぞ多かりぬべき

と云つて居るのだが、其の「延喜より後」と云ふのが、何時頃を指して居るかは明瞭で無い。しかし此の口吻では、何うやら平安朝の中期頃の事でも考へて居るのでは無いかと考へられもする。

次ぎに昨非庵は、嘉永五年八月に字鏡考一卷を書いたのだが、此の人が見た玉川文庫本は七册であつたから、七卷本であると信せられるが、識語も何も無いものにて、此の本に就いて、延喜天暦以前の書なる事は明らけしと云つて居るのである。但し論據は知らぬ。

明治期の國學者敷田年治は、文久元年七月に、木村正辭所藏本〈白河本の轉寫本〉を轉寫せしめて、其れに漢文の序文を加へたが、其の中で字鏡集の訓註は元來眞字〈萬葉假名の義であらう〉で書いてあつたのだ、其れを後に片假名に改めたのだ、字鏡集は「字書之祖」であつて、新撰字鏡は字鏡集に對して新撰と標したのである、と云つて居るが、訓註が眞假名で書いてあつたとする事は、年治の主觀であるに過ぎない。新撰字鏡は字鏡集に基いた名であると考へたが爲めに、字鏡集の訓註が片假名であるのを似つかはしからず思ひ、さて眞假名を片假名に書き變へたのだと獨斷せざるを得くなつたのである事は容易に考へられる。年治には字鏡集の訓註の語史的考察も、音註に反切を以てする事の少い事も、問題では無かつたのである。書名のみからの立言は餘りに單純過ぎる。

小中村清矩は、「わが國の辭書」〈明治二十七年十月脱稿〉の中で、「作者、菅原爲長卿といふ説あれど、確ならす、おのれは今少し後のものにやと思はる」と云つたが、清矩は應永本の事は知り乍ら、寛元本の事は知らなかつたものと見える。寛元本を知つてゐたならば斯う云ふ事は云へなかつた筈である。尤も善意を以て解釋するならば、清矩は應永本と寛元本とを截然と區別し居り、寛元本は寛元三年に存在して居た事を認め乍らも、應永本を寛元本よりも後出のものとし、さて應永本は爲長の作に非ずと云つて居るのだと解釋できない事も無いが、清矩は寛元云々の事には全く言及しては居ないのだから、右の如き善意の解釋も出來ない。其れにしても清矩ほどの惠まれた地位のものが、寛元本も知らなかつたと云ふのはいぶかしい。

此の後のものとして佐村八郎氏の國書解題は、應永本によりて菅原爲長の著とし乍ら、しかも「應永二十四年丁酉の編成なり」と云つて居るのは時代錯誤が甚しいが、是れを生まじめに彼れ是れ云ふにも及ばぬ。但しこれが基と成つて、國語學史の類に、應永二十四年の作とするものが少くないから困つた事である。また大槻文彦博士の口語法別記〈大正六年四月刊〉五頁に「字鏡集 後嵯峨帝、寛元三年、菅原爲長作(帝國圖書館藏)」とあるは、寛元識語と、應永本に「爲長卿作」とあるのとにより斯う書かれたのであらうが、爲長作とする事はともかくもとして、寛元三年の作であるか何うかは明言できない事である。

立ちかへりて、春村の説を見るに、狩谷望之の歿後、其の本を天保十二年六月に轉寫せしめ、其の本の尾に、解説めく一紙を添へ、其の中で

抑この字鏡集は、いまだ世に著者の名を傳へず、故わが本の跋記に據ておもふに、小川僧正承澄の作なるべし……此僧正はいみじき悉曇の學匠なりしかば、此書はた編集せられけむとそおぼゆる………

と云ひ、また碩鼠漫筆〈二二一頁〉でも

此書は寛元三年に、小川長吏承澄僧正〈小川忠快法印弟子〉の手になれるよしの奧書見えて、六百餘年の古へに係れり…

と云つて居る。春村が寫した狩谷本は寛元本であつた、そこで春村は此の識語に基きて承澄の著述だと單純に決めたものであるが、其れは全く、識語の誤解から住じた誤斷でありて採るに足らない。春村は本人に取りては幸か不幸かは知らぬが、寛元の識語しか知らなかつたから。單純に寛元三年に承澄が作つたと云つてしまヘたのであるが、春村が若し、後に至りて應永本の如くに、菅原爲長の作であると明記――尤も爲長以外の人が記したのではあるが――した本を此の後に知つたとすれば、春村は從來通りに承澄説を採り得たであらうか。恐らく春村は、承澄説は直ちに捨てゝ、其の代りに爲長説を單純に認めたであらう。そして「此の卿はいみじき學者なりしかば、此書はた編集せられけむとそおぼゆる……」とでも書いたであらうと思はれる。

こゝで寛元の識語に就いて考へるに、此の識語を知つて居た平田篤胤、信友、木村正辭らは、此の識語を論據として承澄の作であるとする樣な事はせなかつたが、春村だけは其れを敢へてしたのである。信友らが承澄作とせなかつた理由は不明だが、案ずるに此の識語では承澄作とする事が出來るとは考へなかつたからであらう。以下私見を述べる。

一體

寛元三年四月二日小川法印〈承/澄〉示云、朱點東宮切韻、墨點唐玉篇也自支脂至干灰咍又舌内也

寛元三年五月十日尚成云、墨點不審字也、朱點詳之無不審字也

と云ふ識語は、無論同一人が施したものであるに相異無い。此の識語記者は、轉寫したか、又は、轉寫本を他より貰うたか購うたかして、とにかく字鏡集七册本を入手したが、本書の文字(標出の大字)に朱墨の二種の點が存するを見て、其れが、何を意昧するのであるかを知らなかつた。そこで、恐らくは懇意であつたらうと思はれゐ小川法印承澄〈此の年四十一歳〉に質した。積極的にこちらより質問したのであるか、質問も無いのに承澄が教示したのであるかは不明だが、とにかく承澄の教示を受けたのだ。ところが承澄は「朱點〈ハ〉東宮切韻〈ナリ〉 墨點〈ハ〉唐玉篇也」と教へてくれたと云ふのである。承澄の言は、朱點の施してある文字は、菅原是善の東宮切韻の文字、墨點の施してあるは唐玉寫――此の意味は、日本の東宮切韻に對する支那の玉篇〈江戸期では倭玉篇に對し漢玉篇と呼んで居る〉の義であるか、顧野王の原本を唐に成りて刪補した本を指すのであるかは判りかねるが、これは何れであつても可い事だ――の文字であると云ふのであるらしいが、其れ以上の明確な事はこれも判りかねる。だが、やはり今の論旨から云へば、斯う云ふ事は解決がつかなくても少しも支障は無い。自支脂至以下の十一字の事も論旨に無關係だ。

さて此の識語記者は四月二日に承澄の教示を受けて其の意見を記したが、其れより一月餘事後の五月十日に、また人を變へて尚成と云ふ人に、やはり同じく、朱點墨點に關して質問し、此の度は、「墨點のあるのは、不審字である、朱點のある文字は、これを詳らかにして居る文字であり、無㆓不審㆒字である」との解答を得て、其れを書き付けたが、是れで滿足したのであるか、も早や是れ以上別の人に質問する事は止めて居るのである。質問したかも知れないが、其の答を書きつけては居ないのである。其の尚成と云ふのは何う云ふ人であるか知らぬが、「尚成云」と云ふ風に、姓も書かずに極めて手輕に扱うて居るのを見ると、極めて親しい間柄であるか、若しくは、識語記者の身分が上で、尚成は、極めて低い身分であつたかの何れかであると見る可きであらう。尚成の名は分脈には見えないが、類從本和氣氏系圖に

清成〈侍醫、典藥頭、圖書頭〉――尚成〈從四上侍醫/大膳亮〉

と見えるので、春村は、此の人だらうとし、清成の名は明月記の建暦三年四月十八日、元仁二年四月廿七日、嘉祿三年二月十七日、天福二年七月十七日〈正四位下とあり〉の各條に見え、百練抄寛元二年十一月廿四日條に典藥頭清成の死去の事が見えるのを指摘し、且つ建長八年四月十四日の吉黄記除目折紙に、左少史尚成とある由をも述べて居るが、吉黄記の尚成はともかくとして、寛元識語の尚成が、和氣清成の子の尚成である事ば確實であらう。

寛元識語が書かれるに至つた事情と、其の内容とは右述の如きものである。要するに識語記者は、朱點墨點の性質が判らぬから承澄に質し、さらに尚成に質したのである。記者は此の兩人に質問し得る人であつたのだ。しかして承澄に先づ質問した。何故承澄に質問したのであるか。承澄が字鏡集の著者であつたからだと云ふのは一つの解釋である。そして春村は此の解釋に從うたのである。だが相手が字鏡集の著者で無くとも質問は出來る。現に識語記者は承澄以外に尚成にも質して居るのである。だから、承澄に質問したと云ふ事は、必ずしも承澄が著者であると云ふ事には成らないのである。ところで承澄の答へは、記者を納得せしめるには至らなかつた、だから記者は承澄の言に服する事できないで、別の尚成に確めたのである。そして承澄の言とは異る尚成の言を聞いてはじめて滿足したらしいのである。尚成の言に滿足せなかつたかも知れないのだが、とにかく承澄の後で尚成にも質問したと云ふ事は、大袈裟に云へば、承澄の言に對する不信任の表示である。そこまでは云はないにしても、承澄の言のみでは得心できなかつたのは事實である。ところで此の場合、若し承澄が、春村の言の如くに、字鏡集の著者であるとすれば、質問者は、著者に質問した事に成るのだから、承澄の言に不安を感じて、再び別人に確めると云ふ樣な事があるだらうか。著者の言を信せないと云ふのは、其の權威を認めないのである。悉曇の學匠にて漢字の事にも詳しくあつた筈の著者承澄の言を不安とし、著者に非る醫道の專門家たる尚成に質すなどと云ふ事があらうとは、常識上全然考へられない事である。故に、逆に云へば、識語記者の斯う云ふ態度は、承澄が字鏡集の著者では無かつた事を明示して居ると確言して憚らぬのである。〈如上の要旨だけはすでに昭和十年十一月に發表した拙稿「東宮切韻佚文攷」で言及して置いた〉

春村は寛元識語によりて、承澄作説を立てたが、其は全く誤解であつたのだ。承澄は著者では無かつたのである。但し字鏡集寛元本が寛元三年四月二日までに作られて居た事だけは確實である。從うて岡井博士の日本漢字學史が「黒川春村は、奧書に其の名が有るからして、小川承澄の作かと考ヘたが、澄ならば元久二年の誕生で、九十歳頃まで居られたから尚五十年程後れる……この書を一九〈三/四〉○年頃の物と爲すは不可なからう」と云つて、承澄の作と見る時は寛元同年より、なほも五十年程も後れて、弘安三年頃(此の年が紀元一九四〇年である)に字鏡集が出來たと考へて可いとするものゝ如くであるのは明かに不合理である。寛元三年四月に承澄に質問した以上は、寛元本が、寛元三年四月に存して居た事は云ふまでも無い。(因みに、春村は弘安版法華三大部跋記により、其年承澄が七十八歳であつた事を指摘し、「九十歳ばかりにて入滅せられけむとおぼしけれどいまだ卒年を考へず」と言て居るのだが、佛家人名辭書は、此の弘安五年十月二十二日に示寂したと記して居る。)

寛元三年の頃に問題と成つて居た朱點墨點の事は、今日でも判らないやうだ。伴信友は文政三年十一月、其の校するところの類聚名義抄に「附言」を加へて

字鏡集跋文云、朱點東宮切韻、今欲㆑爲㆓比校㆒見在字鏡集諸本、悉作㆓墨點㆒不㆑見㆑有㆓朱點㆒加㆑之施點麁漏、示聲配位乖別、盖不㆑辨㆓菽麥㆒者、漫然下㆑點、致㆓此紕謬㆒耳、不㆑足㆑爲㆑據、然以㆓本篇譯語㆒校㆑之合者十之七八、然則如㆑得㆘此書爲㆓卿作㆒之一證㆖

と云つて居る。これは、字鏡集跋文に、朱點は東宮切韻のであると記して居るに就いて、「字鏡集中の和訓で聲點の施してあるものは、東宮切韻の和訓の聲點に基き施したものだ、だが現在の字鏡集の諸本は、すべて朱點をば墨點に書き變へ居り、且つ其の施點も無學なものがよい加減に寫したと見えて亂れては居るが、本篇即ち類聚名義抄の和訓で聲點あるものに比べると十に七・八は合ふから、名義抄が東宮切韻と同じく是善の著であると云ふ一證とする事できる」と云ふ意味であるが、この解釋は實は全く正しくない。蓋し信友は、東宮切韻に和訓が存したと考へたから、斯う云ふ論も出たのだが、東宮切韻は高級な韻書であり、和訓の無かつたものであるからだ。だから、朱點は東宮切韻のだと云ふ承澄の言は、決して和訓の聲點に關するものでは無いのである。(清水濱臣の遊京漫録卷二(文政三年二月から九月に至る旅中の見聞を記す)の「和名抄古抄本」の條にも、大野廣城の言として「東宮切韻、唐玉篇の字訓にも點ありしこと 字鏡集跋に見え」とあるが、これもやはり朱點墨點を和訓に關したものと見て居るのである。)

朱點墨點が和訓の指聲に關係無いものであるとすると、支那の四聲關係のものでは無いかと云ふ事が一往は考へられるが、若し四聲關係のものであるとすると、東宮切韻所見のものと、唐玉篇所見のものとの間に相異があらうとも考へられないから、從うて、朱點墨點によつて其の典據を明示する事もできない筈である。だから四聲關係のものでも無い事は想像できる。

何れにしても寛元の頃に問題と成つて居た朱點墨點を、七百年後の今日に於いて考へるためには、先づ第一に、寛元三年當時の面影を忠實に傳へて朱點墨點の存する本を手にせなければならないのだ。ところで上述の如くに、信友は其の見た限りの字鏡集諸本において、和訓の指聲點に朱墨の別が無いにも拘らず――恐らくは一樣に墨筆で施してあつたのだらう――寛元識語に云ふところの朱點墨點をば、和訓の指聲點に關するものであるとして居るのみで、其の他の朱點墨點に就いては言及して居ないのである。此の事から察すると信友の見た字鏡集の諸本には和訓の聲點以外には點と名つくべきものが全然無かつたと見るべきであるが、若し事實無かつたとすれば、信友が朱點墨點をば和訓の指聲點の事だと考へたのも強ち無理では無いと云ひ得る(尤も、東宮切韻には和訓が無かつたのであるから、信友の考への誤である事は直ぐ指摘できるのである。)だが信友の見た限りの本に於いて和訓の指聲點以外に點と云ふべきものが果して無かつたのであらうか。これは何とも確め得ないのであるが、しかし七卷本字鏡集にして和訓の指聲點(この指聲點は朱筆で施してあるが、施點してある語は、極めて僅少である)以外に點と稱し得べきものを有し、しかも其の點が朱墨の兩筆と成つて居るものが存するのである。正辭の言に據ると狩谷望之の古鈔本が此の種のものであつたと信ぜられるが春村は何とも云つて居ない。井蛙たる自分は、然う云ふ種類の本としては龍谷大學所藏の本を指揃できるに過ぎないが、此の龍大本の例から推すと六卷本字鏡抄にも存するのである。(例へば、史料編纂所の江戸後期寫本に存する。前田家の二種の古鈔本の事は、うつかりして居て點の有無の事は何とも言へないが、史料編纂所本の親本たる光明寺本には無論朱點墨點が存する筈である。)其の朱點墓點とは何う云ふ點であるかと云ふと、標出文字の或るものや其の註文中の異體字の或るものゝ右肩に存する斜線の事であつて、これは嚴密に云へば點(星點)では無いが、歌や連歌などに施す合點の點と同種のものであるから、正に點と呼ぶべきである。此の點が、或るものは朱筆であり、或るものは墨筆である。寛元識語の筆者が問題とした朱點墨點は、正に此の點で無ければならぬ。(和訓の指聲點は朱筆使用が原則である、七卷本の指聲點に朱筆墨筆の二種が存するならば、指聲點の事かとも考へて見る必要はあるが、龍大本には墨筆の指聲點は無い上に、東宮切韻や唐玉篇の名が出て居り、其れらが何れも和訓と無關係の書であるから、いよ〳〵和訓の指聲點とは無關係である事が確實となる。)

さて龍大本に就いて、此の種の朱墨點を例示すると、卷一天象部「雨」の霹字の下には、異體字が五字書いてあり、其の五字には何れも點(斜線)が存するが、其の中の一字だけが朱にて他は墨筆で施してある。(史料本字鏡には、點が施してはない)日部の曝字には異體字を十三字も記すが、其の中朱點あるもの五字、墨點あるもの五字、點の施して無いもの三字である。(史料本字鏡では、やはり十三字あり、朱點五字、墨點四字、無點三字であるが、字形や點の有無には小異がある。)異體字だから寫眞版か凸版でも使用せない以上は例示しても無意味だから、これ以上は擧げないが、とにかく、龍大本では、標出字の或るものや、其の標出字の註文中の異體字の或るものには、朱點または墨點を施したものが存するのである。そして字鏡集の一異本たる字鏡にも此の種の朱點墨點が存するのである。寛元識語の朱點墨點が、此の種のものを指すのである事は、今は動かせない。

だが、其の朱點墨點が何を意味するかと成るとやはり全く判らない。朱點のある文字は東宮切韻所見のものであり、墨點のある文字は唐玉篇所載のものだと云ふのが承澄の説であるが、今試みに地儀部「石」の部で其の墨點ある標出文字(註文にも墨點あるものも存するが、今は便宜上標出の大字のみに限るのである。)十三字を神宮本原本玉篇石部一百六十字に比べると、一字が見えるのみで他は玉篇に見えない。また宋本玉篇の石部二百九十二字に比べると、たゞ三字だけが宋本に見えるに過ぎないのである。これでは墨點ある文字が唐玉篇に關係があると云ふ事は否定する他は無い。寛元識語筆者が承澄の言を認めなかつたのも首肯できる。とにかく、朱點墨點は今にしては、全く不明であり、尚成の言に從つて置く他は無い。(了)

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