万葉集仙覚抄所引古辞書に就いて

岡田希雄 藝文20(4): 249-277 (1929) 権律師仙覚の万葉集研究は、其の本文校訂事業が画期的であつたと同様に、註釈即ち仙覚抄の著述も、従来の諸研究の結果を集大成して、其の晩年に於ける蘊蓄を傾倒したものである故に、亦画期的なものであり、代匠記以前に…

俊頼無名抄の著者と其の著述年代(下)

岡田希雄 藝文 12(7): 368-385 (1921) 以上論じたやうな譯であつて博士が本書を以て俊頼の著述でないとせらるゝ論は博士の精緻なる學風から餘りに懷疑的態度をとりて疑ふ可らざるもの迄も疑はれた結果であるから其の論據は有力でない。然るにこの三論據を盾…

俊頼無名抄の著者と其の著述年代(上)

岡田希雄 藝文 12(6): 354-381 (1921) 平安朝末期より鎌倉初期へかけての時代は歌壇の状態が非常に活氣を呈した時で同時に歌學も是にともなうて隆盛であつたが、この時代のものであると一般に考へられて居る歌學の書に、元來定まつた名稱のない抄物と云ふ意…

寛元三年の頃に問題と成つて居た朱點墨點の事は、今日でも判らないやうだ。伴信友は文政三年十一月、其の校するところの類聚名義抄に「附言」を加へて 字鏡集跋文云、朱點東宮切韻、今欲㆑爲㆓比校㆒見在字鏡集諸本、悉作㆓墨點㆒不㆑見㆑有㆓朱點㆒加㆑之施…

立ちかへりて、春村の説を見るに、狩谷望之の歿後、其の本を天保十二年六月に轉寫せしめ、其の本の尾に、解説めく一紙を添へ、其の中で 抑この字鏡集は、いまだ世に著者の名を傳へず、故わが本の跋記に據ておもふに、小川僧正承澄の作なるべし……此僧正はいみ…

字鏡集の製作年代に就いて述べたものとしては、黒川春村、伴信友、昨非庵是翁、敷田年治、小中村清矩等の説がある。いま便宜上、春村の説は後に述べる事として、先づ信友の説から擧げて行くと、信友は比古婆衣卷五喚子鳥〈全集本百頁上〉の條に於いて、字鏡…

字鏡集の本文としては二十卷本と七卷本とが知られて居る。兩者は異本關係にある。二十卷本の代表は、前田侯爵家の應永古鈔本二十册であり、應永と呼ぶ人もある。應永二十三年六月頃から寫し出して、翌二十四年の八月か九月かに寫し了へたもので、一・二・二…

字鏡集は、部首類辭書としては、慶長の刊本倭玉篇までのものゝ中では最も大部のものであり、字鏡集以前の辭書たる新撰字鏡、世尊字本眞本字鏡、類聚名義抄に比しては最も日本化したものである。しかも異體の字を註記し、韻を示すなどの點では、古本和玉篇や…

寛元本字鏡集の識語

岡田希雄 歴史と國文學 26(6): 9-21 (1942)

語法的な事について云ふと、格助詞「と」が承ける述語は係結の無い場合は當然終止形であるべきだのに詠歎か何かで、連體形と成つて居る例は珍しく無いが、地の文に於ける終止の「けり」が「ける」、と連體形になつて居る例が、 さて、その心ざしをとげたまひ…

最後に本書中の語彙で注意すべきもの、を列擧する。淺學な私では理解できぬものも擧げて、識者の教示を乞ふと共に、私の備忘用ともする。 ○あやむ〈下一一ウ〉 諸本「あやしむ」に作るが、爲相本にのみ斯くある。怪しむだが、これで可い。既述。 ○あはたかし…

下卷「なにがしの院の女房の釋迦佛おたのむこと」の條に、著者のほの知つて居る某の院の女房が、病氣と成つたのを、著者が見舞に行つて、いづくの淨土を心に懸けて居るかと問うたところ「なにとなくたのみなれにしかば、靈山淨土にむまればやとおもふ也」と…

野村博士が、近古時代説話文學論の中で、本書下卷に見える長谷寺へ月詣する女の話と、長谷寺靈驗記下第二十七話との關係を考察し、閑居友は靈驗記から取材したのであらうと論ぜられたについて、解説は鎌倉末期を下らざる古寫本靈驗記の本文を擧げ、且つ閑居…

なほ爲相本の本文について氣づいた事を述べると左の如き事がある。 ○下卷十一裏、例の長谷寺月詣女の條に「この事あやしむべき人にはあらで」とある「あやしむ」が、諸本此の通りであるのに、爲相本に限りて「あやむべき」とあるので、解説は「あやしむ」と…

前田家本は古寫本だから、木版本よりは無論勝れて居るが、中には惡い所もありて、其れは解説で指摘せられ居る。が其の中で一番大きな錯簡に關する説明が少し不充分であると思ふから左に述べる。其れは上卷眞如法親王傳の所であり、木版本で云へば一丁裏八行…

本書の本文としては、寛文二年四月版〈後摺もある〉と續類從中の活版本とが存したのだが、傳爲相筆と云ふ極札ある鎌倉末期の古寫本が、今度複製せられたのであるから、學界としては大變悦ぶべきである。校異表は、前田家所藏の譚玄本、其の他木版本、續類從…

慶政説を支持するにも、否定するにも、今少し慶政の傳記を明らかにせなければならないのだが、其れが今のところ困難である。例へば、本書の作者の生地は、上卷末の記事に「からはしちかき川原」〈爲相本は誤寫して居る〉が作者の「ふるさと」に近かつたと記…

本書は何時頃よりか知らぬが、慈鎭和尚の作であると傳へられて來たが、烱眼なる契沖は、丁度、同じ樣に慈鎭作と傳へられて來た色葉和難抄をば、然に非ずと否定した如くに、本書も亦慈鎭の作で無い事を明言した。其れは本書の著者は渡宋僧である事が判るから…

前田家藏傳爲相筆本閑居友を見て

岡田希雄 歴史と國文學 23(4): 11-24 (1940) 前田侯爵家の傳爲相筆閑居友上下二帖が、尊經閣叢刊戊寅歳配本として、本年四月二十日附けで複製せられた。たま〳〵先日藤井乙男先生の御宅へ參上したところ、「見たか」と云つて本を見せて下さつた。私が以前〈…

歌人藤原長能の歿年に就いて

岡田希雄 歴史と國文學 27(3): 41-44 (1942) 蜻蛉日記の記者との肉親關係や、(異父兄であるらしい事が吉川氏により推定せられた)公任の一言で悶死したと云ふ不名譽な逸話やらで、比較的よ−名の知られてゐる歌人藤原長能{ナガヨシ}の歿した年についての考…

以上で大體眞草本と元和版との關係を略述したつもりだが、斯う云ふ寛永版眞草倭玉篇としては、自分の見うるものは次ぎの如く三種ある。三種の中一つは後摺で刊行所の異る本であり、版種としては二種である。しかし其の二種は、冠彫關係にあるため、不注意で…

なほ眞草本が元和本の本文、但し主として訓注を破壞して居るか、其れとも訂正して居るかを檢するに、すでに眞草本の親本が元和版であるか何うかを考へる時に述べたやうに、元和版の良くないところを訂正して居る事が多い。なほ然う云ふ例としては次のやうな…

眞草本が元和版に據つたものである事が判明したから、さらに兩者の關係を詳述して見る。先づ部首について云ふと、眞草本は元和版(及び其の親本たる慶長版)の部首と、數及び種類に於いて一致して居り四百七十七部であるが、順序に於いては、僅か二箇處の相…

寛永版眞草倭玉篇攷(下)

岡田希雄 書誌學 14(4): 1-9

さて斯う云ふ眞草本の最初の刊行が何時であつたかは知らぬが――岡井博士が二十年本を最初とせられたのは宜しく無い――現存本では寛永四年九月のが最古である。ところで眞草二體節用集は慶長十六年に例があるが、二體節用集と稱するものが出たのは寛永三年六月…

さて中島翁本は寛永四年九月版、寛永二十年四月摺本、寛永二十一年七月版〈此の年十二月二十三日に正保と改元せらる〉の二版三種であるが、前二者は何れも第五卷のみの零本であり、二十一年本のみが完本である。だが此の四年版(及二十年本)とニ十一年版と…

倭玉篇の一類に眞草倭玉篇と云ふのがある。眞體即ち楷書體に草書體を添へたもので、節用集の二體節用集〈草を主、眞を從とした二行節用集にて、二體節用集の名のあるは、寛永三年六月刊の三卷横本が最初であるが、實質的には、既に慶長十六年九月刊行の美濃…

寛永版眞草倭玉篇攷(上)

岡田希雄 書誌學 14(3): 1-6

(編者附記)

聖徳堂刊本は内閣文庫に二部あり、一部は蒹葭堂舊藏本である。四卷本は杭城徐龍峰刊本で、目録には四言雜字とあるが、實は四言・五言・六言・七音雜字各一卷である。静嘉堂文庫所藏松井本は票山本である。複製會本の原本を見ないから、斷言しかねるかも知れ…

對相四言雜字について

岡田希雄 書誌學 14(6): 1-8 對相四言、又は對相四言雜字と云ふ貧弱低級な繪入讀本がある。何れも支那製の簡單低級な童蒙用繪入單語讀本の日本版であるが、是れが本邦の繪入百科辭書たる訓蒙圖彙と關係を有するのでは無いかと疑はれる點で注意せらる可きもの…