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岡田希雄氏發表論文目録 岡田希雄氏略歴

2011-04-07 俊頼無名抄の著者と其の著述年代(上)

  • 岡田希雄
  • 藝文 12(6): 354-381 (1921)

平安朝末期より鎌倉初期へかけての時代は歌壇の状態が非常に活氣を呈した時で同時に歌學も是にともなうて隆盛であつたが、この時代のものであると一般に考へられて居る歌學の書に、元來定まつた名稱のない抄物と云ふ意味から無名抄と云ふ普通名詞で呼ばれて居るものが二種ある。一つは長明無名抄と呼ばれるもので是は疑ひもなく鴨長明の著書である。他の一つは即ち俊頼無名抄であつてこの書は寫本により俊秘抄、俊頼口傳、俊頼口傳集、俊頼卿口傳、俊頼髓腦などゝ云ふ名稱があるのによつても直ちに想像の出來るやうに、かの八代集の中で最も異彩ある、金葉集の撰者なる前木工頭源俊頼の著述と云はれて居るのである。本書が眞實俊頼の署述であると云ふ事を論定した學者は從來一人も無かつたが、然し多くの人は皆本書が俊頼の著である事は頭から無條件で認めてかゝり少しも疑ひを懷く事は無かつたやうである。所が唯一人本書の著者を傳説の通りに俊頼とするのは疑はしいと唱へ出した學者があつた。それは故文學博士藤岡作太郎氏である。博士は明治三十八年十月刊行の國文學全史平安朝篇の中で俊頼を論じ其の歌學に言及して『歌論の書に山木髄腦(俊頼無名抄)、莫傳抄、俊頼口傳等ありといへども果してその手に成りたるものなりや否やを知らず』と云ふて闕疑の態度をとられたが、尋で明治四十一年の講義では進みて本書が俊頼の著でない事を斷定せられた。今東圃遺稿に收められて居る日本評論史百九十五頁から博士の説を引用すると次の如くである。

無名抄 有名なれども多く行はれず。故事傳説などのある歌の由來を記せるものあり。浦島、姨捨山の説話などもありて面白きものなり。文體は平安朝とは思はれず第一に疑はるゝはこの書に現はれたる俊頼ど渠の歌に現はれたる俊頼とは全く別人としか思はれざることなり。無名抄に現はれし如き生優しき平凡なることは到底過激なる俊頼の言とも思はれず。飽くまでも二條式なり。俊頼の撰べる金葉集はまつ可とせんも、その散木集に到りては奇趣横溢せるを見れば、渠は決して平凡なる無名抄を書くべき人にあらず。而してこれにも異名、物名あり。その中に「天、中とみと云ふ」とあり。八雲御抄に「天、中とみと云ふ、俊頼抄」とあれど、後人が御抄に書き入れしか、また御抄にあるを以て後人僞作の俊頼抄に書き入れしか、何れとも見らるべし。また島松、根彦といふ」とあるも八雲御抄に出でゝ「松、根」とありて松島、根島と續くべきを寫し損ひしものなり。かゝる雨の「しづくしく」流のものは八雲御抄が本なるを見る。

博士が俊頼無名抄を山木髄腦の別名とし俊頼口傳とは別種の書と考へられたのはもとより誤りであるが、兎に角これで見ると博士は(一)本書の文體が平安朝の物とは見られない事(二)本書に現はれた俊頼と散木集に現はれた俊頼とは全く別人と考へる外なき程懸隔の甚しい事及び(三)八雲御抄以後の發生なる異名が本書中にある事の三點を主な論據として本書が俊頼の著述でない事を確信せられて居るのは事實である。一體博士は自ら日本評論史の中で云つて居らるゝやうに、古書、殊に平安末期より鎌倉初期へかけての間の著述と云はれる歌學の書には僞書が多い、よし僞書でなくとも傳記の通りの著書を肯定する事の出來る書は少いと云ふ信念を懷き總ての古書に對しては懷疑的態度の研究をなし、其の結果は古書に關する從來の説を肯定するよりも否定せらるゝ事が多かつたやうであつた。かくて博士は奧義抄、袖中抄、古來風體抄、長明無名抄等につきての從來の説を否定せられたのであつた。凡そ古書の研究は從來の説を肯定するか、それとも否定するかの何れかの態度によりてなさるべきであつて、大體に於て肯定的態度よりも否定的態度によりて研究が深くなる傾向がある。博士の態度はつまりこの否定的態度であつた。然し乍らこの俊頼無名抄の研究の場合に於ける博士の否定的態度ば間然する事出來ない程精緻もなのと云へるであらうか。博士は消極的に、本書を俊頼の著述とする場合に矛盾すると考へられる點を三つあげられたが、積極的に、本書を俊頼の著述として信用してもよい證據となる點は一つもあげられなかつた所を見ると、博士は其の點は認めて居られなかつたのではあるまいか。もし實際さうであつたとすれば博士が本書に對する態度は少し片手落ちではなかうか。自分は博士の説に驚かされて本書の研究をはじめたのであるが結論に於ては博士の説とは反對な説を得たのである。

凡そ古書の著者を明かにするのには第一に其の書中に見えて居る事實を各方面より觀察する方法がある。この場合にもし著者の名と見られるものが自稱の形式で記されてある時は容易に其の著者が知れるのである。第二には其の書の記事の一部分にてもあれ、記事のまゝならぬ説にてもあれ、他書に引用せられてある場合にもし其の著者の名を示してあるならば是亦容易に其の著者の何人なるがゞ明かになるのである。然しこの二種の方怯の中にも優劣があつて第一の方法は一寸見ると最も根據ありげに見えるが、古書には故意に、實際の著者でない或る人に假托して書かれたものもあるからこの方法にのみ縋る事は萬全の策とはいへない。然るに是に反して第二の方法は其の引用書が被引用書と同時代のものであるとか、或ひは又餘り遠くない時代のものであつて由緒正しく充分に信用がおける書であるとかした場合には、其の書に、某書曰く、某の説に云として引用した事に誤りのあるべき筈がないから、かくの如くにして引用せられた事により今知らうとする書の著書の名を知るのは極めて安全であるから、第一の方法に比べては勝る事数等であると云へる。そして第二の方法によつて得た結論の傍證として第一の方法を採用するならば其の結論は愈々確實性をます事であらう。されば今無名抄の著者を闡明する爲めにはまづ第二の方法によらなければならない。

俊頼無名抄の説、又は俊頼の書いた書物の説或ひは是に類似した語を以て諸書に引用せられたものが、現在の所謂俊頼無名抄と符合するものは實に澤山あるのであるが、其の中でも第一にあげらるべきは、藤原範兼の和歌童蒙抄に見えたものであらう。童蒙抄の著はされた年代は、まだ今の所ではわからぬが兎に角範兼のなくなつたのは二條天皇の永萬元年四月二十六日の事であるから、それより前に成つたものである事は云へる。そして範兼は尊卑分脈によると俊頼の孫娘を娶つた人である。さて童蒙抄卷十俳諧歌の條に〈國文註釋全書本百五十頁下欄。以下引用文は假字遣を訂正して引く。〉「俊頼無名抄に」として、

宇治殿の四條大納言にとはせ玉ひければ、これは尋ねさせ玉ふまじきことなり、先達どもにとひ侍りしにさらに申ことなかりきと、いひしことなりと、宇治大納言にかたらせ玉ひけるを、通俊の中納言後拾遺をえらべるに俳諧の歌を入たり、もしおしはかりごとにやとかきたり云々

と云ふ記事をのせて居るが是は今日の無名抄〈歌學文庫本六頁上欄〉にも見えて居る。尤も其の文句はこの兩書により精粗の差がかなりにあつて無名抄の方が遙に精しい。然し兩書を比較すれば誰も一見して容易に兩書の間に引用關係の存するのを認めるであらう。然らば何故兩善によつて文句に精粗の差があるのであらうかと云ふに、是は童蒙抄が無名抄を引用するに際し、本文通りに忠實に引かなかつだが爲めである事は、一體人が或る書を引用する時には、都合のよいやうに文句を勝手に切りつめて引用する事が一般に有りがちである事、そして童蒙抄の著者も其の例に漏れないで經文、漢土の書、國書の中でも日本紀の如き漢文のものを除きては、やはり引用が忠實で無かつた事が種々指摘せらるゝ事などより類推して考へられるし、又實際この俳諧歌の條がこの儘では一體誰が誰に向つて何と云ふたのかといふ事すら曖昧な程簡單すぎる事によりてもわかる事である。この俳諧歌の條は今日の無名抄では、

宇治殿の四條大納言にとはせたまひけるに、これはたづねおはしますまじき事也、公任あひとあひたりし先達どもに隨分にたづねはべりしに、さだかに申す人なかりき、しかればすなはち後撰、拾遺抄にえらべることなしとぞ申ければ、さらば無㆑術ことなりといひてやみにきとぞ、帥大納言におほせられける、それに通俊中納言の後拾遺といへる集をえらべるに、俳諧の欲をえらべり、もしおしはかりごとにや

となつて居つて、宇治關白頼通が俳諧歌の事について四條大納言公任に質し、後に其の事を俊頼の父なる帥大納言經信に物語つた筋通がよく通じて居り、この文句から童蒙抄の文句が生ずる事は考へられても逆に童蒙抄の文句を何か考ふる所あつて故意に増補して今日の無名抄の文句を得たものとはどうしても考へられないのである。兎に角この一事で以て、童蒙抄に云ふ所の無名抄なるものが現在の無名抄と同じものである事、從うて現在の無名抄は疑ひもなく俊頼の著述である事がわかる。

なほ童蒙抄には長歌短歌の區別をのべた所にも〈百四十九頁下欄〉

ちかくは俊頼朝臣無名抄と云物をかきとゞめたるには短欲とはおなじことをよみながさずしておきつなみあれのみまさるとおもひよりなば、そのうちのことにつきていひはつべきに、はなすゝきしてまねかせ、はつかりをなきわたらせなどあまたのものをいひつゞけたるによりていふなんめりとかけり

とあるが、是も現在の無名抄五頁下欄に見えてある説を引用したものである。然しやはり本文を忠實に引用したのではなくて採意の引用である。

童蒙抄が俊頼無名抄の説であると明言して引用したものは僅かに右の二條に過ぎないが、何れも現在の無名抄とは符合して居るのである。この外にも、書名を明示せずに引用したもので符合するものも少しあるが、然しそれはこゝに用事がないから述べない。

童蒙抄の次にあげらる可きは六條家の棟梁藤原清輔の袋草紙である。この書は清輔自記のものと見る外ない第一の奧書によると、平治元年十月より前にひとまづ成りて評判がよかつた爲めに、二條天皇の天覽にも入つたものであるが、何分書物の性質が雜記のものであるから後の加筆もあつた事が平治元年より四年後の應保二年三月の記事〈卷三・五十一丁右〉があるのに徴しても知れる。なほそればかりでなく隨分後の人の加筆もある事が指摘できるのである。さてかくの如くにしてこの書が應保二年頃に完成したものとすると、勢ひ童蒙抄との先後といふ問題も生ずるわけであるが其の邊の事はわからない。年齡に於ては清輔の方が範兼に三歳の長であつたが、清輔の方が十二年長生して居るから袋草紙を童蒙抄の次にあげたのである。さて袋草紙卷四〈四十一丁右〉に、

俊頼〈ノ〉朝臣〈ノ〉抄物〈ニ〉云うぐひすのかひこのなかにほとゝぎすひとりむまれてしやが父ににてなかずしやがはゝににてなかずうのはなの………此歌〈ノ〉句違亂〈セリ〉、若〈シ〉是長歌ノ旋頭歌歟云々、予見㆓〈ル〉數本㆒〈ヲ〉ニ全〈ク〉其句不㆓違亂㆒セ如何、件〈ノ〉歌在㆓〈リ〉〈ノ〉〈ノ〉第九卷㆒〈ニ〉家持〈ノ〉歌也

と云ふて、次に自らの正しと信ずる訓をのせて居るが、この「うぐひすのかひこのなかにほとゝぎす」の歌は萬葉集卷九の長歌であつて無名抄四頁下欄では短歌〈實は長歌の事である〉の旋頭歌としてあげられて居り、袋草紙の云ふ所と合ふ。是によつて現在の無名抄は袋草紙の所謂「俊頼〈ノ〉朝臣〈ノ〉抄物なるものである事が知れる。

次にこの清輔の弟である大歌學者顯昭法師が其の知遇を辱うせる仁和寺喜多院御室守覺法親王の御覽に入れる爲め、嶮惡になつて居る都の風雲をよそにして壽永二年五月八日に注進せる拾遺抄註を檢するに「淺みどり野べの霞はつゝめどもこぼれて匂ふ花ざくらかな」の註に、

俊頼朝臣無名抄云、京極殿ニ上東門院御座ケル時、南面ノヒカクシノ間ノホドニテ.ケダカクカミナビタル聲ニテ、此歌ノ末ヲ詠ジケリ、人ノ詠ズルカト御覽ジケレド全ク人影モセザリケリ、カヽル事コソ候シカト、ウヂ殿ニ忽ニ申給ケレバソコノクセニテ常ニナガメ侍ル也トゾ申サセ給ケル、靈物メデタキ歌トオモヒソメタルカ、而拾遺抄ニコソハ入タレ、イカチル事ニカト云々

とあるが是が無名抄九十八頁下欄の

京極殿に上東門院のおはしましけるとき、みなみおもて花ざかりなりけるとき、ひかくしのまのほどにけだかくかみさびたるこゑもてこぼれてにほふ花櫻かなとながめける聲を聞しめして、いかなる人のあるぞとで御覽じければとにも人のあるけしきにも見えざりければおぢ覺しめして宇治殿に急ぎ申させ給ひければそこのくせにて常にながめ侍るなりとぞ申させ給ひける、さればものゝ靈などのめでたき歌とおもひそめて常にながむらんは、まことによき歌なめりとおもへどわつかに拾遣抄ばかりにいりたり、ことものには見えず

と云ふ記事と引用關係のある事は否まれぬであらう。又「奧山にたてうましかばなぎさこぐ舟ぎもいまは紅葉しなまし」の註に、

俊頼朝臣無名抄ニモ思ヒカケヌフシアル歌トテ此歌ヲ出セリ

とあるが是も無名抄二十五頁上欄とあふ。煩はしいから文句は引用しないが「なのみして山はみかさもなかりけり朝日夕日のさまを云かも」「ひとなしゝ胸のちぶさをほむらにてやく墨染の衣きよ君」などの註に俊頼朝臣無名抄の説として引いてあるものは何れも皆現在の無名抄に見えて居るものであつて、しかも其の引用關係に於ては無名抄の方が源である事は容易にわかるのである。

以上述べた所は俊頼無名抄の説、又は俊頼の書いた書物の説、或ひに是に類似した語を以て、俊頼の時代を去る事除り遠くない時代の確かな書物に引用せられてあるもので現在の無名抄と符合するものゝ例の中の極めて僅かな一部を示したのに過ぎないががゝる例は甚だ多くあつて到底これをあげつくす事は出來ない。であるから今年代の順序に從うて簡單にのべると、かゝる例は、

  • (一)顯昭が守覺法親王の御爲に、壽永二年十月七日に注進した俊頼の家集散木集の註釋の書即ち散木集註には三條。
  • (二)同じ顯昭が同法親王の御爲に文治元年十月初旬から十一月十七日へかけての間に書いた古今集註には七條。
  • (三)壽永元年より文治三年に至る六年のうちに完成したものと考へられる顯昭の袖中抄には五十七條。
  • (四)建永二年五月に出來た顯昭の日本紀歌註に一條。
  • (五)時代はなほ不明であるが袋草紙遺編に加へられた顯昭の頭註に一條。
  • (六)六條家と二條家との間の歌學上の軋櫟を物語るものとして有名な建久四年秋に行はれた盛大な六百番歌合の時の俊成の判辭に二條。
  • (七)俊成が後白河院皇女式子内親王の仰により建仁元年五月に進覽した古來風體抄に五條。
  • (八)承元二年十二月九日に中將に任ぜられた飛鳥井雅經を呼んで二條中將といひ〈歌學文庫本十八頁〉承元四年七月二十一日に中將をやめた藤原定家を冷泉中將定家とよんで居る〈同十七頁上欄〉事よりして、多分承元三四年の頃に出來上つたらしく考へられる鴨長明の無名抄に二條。
  • (九)順徳院が承久役の前後に完成し給ひし八雲御抄に五十二條。
  • (十)貞永元年七月の奧書ある定家卿長歌短歌之説に一條。

あつて總てを合はすれば重複したものを除いた所で百十條程もある。是でも現在の無名抄が是等の書に引用せられたものと別種のものであるとし、從うて俊頼の書いたものでないと云ふことが出來るであらうか。どんなにかたくなな人でも是だけ云へば現在の無名抄が俊頼の著述である事を疑ふ事が出來ないだらうと自分は信ずるのである。殊に嘉應二年三月に書かれた今鏡すべらぎの卷たまづさの章にも、

木工頭俊頼も高陽院〈泰子〉の大殿〈忠實〉のひめ君ときこえ給ひし時つくりてたてまつり給へりとかきこゆる和歌のよむべきやうなど侍るふみには、道信の中將の連歌伊勢大輔がこはえもいはぬ花の色かなとつけたる事など、いというなることにこそ侍るなれば云々

とあつて現在の無名抄にも九十六頁下欄の所に道信と伊勢大輔との連歌がある事により、又無名抄の中には敬語を使ふ事が多くて其の上、

  • (一)さればまちかきことのかきりをこまかにしなしまうすべし〈二頁上欄〉
  • (二)これらはよしなきことなれど神の御歌のつゞきにさることありけりときこしめさんれうにかきて候也〈十五頁下欄〉
  • (三)御門の御歌は今はじめて書いたすべぎにあらず、延喜天暦の御集を御覽ずべし〈十一頁下欄〉
  • (四)させることなけれどもかやうのことゞもしろしめしたらむにあしかるまじきことなればしるし申せるなり〈五十五頁下欄〉
  • (五)さればかばかりおもふばかりの人の歌などはおぼつかなきことありともなむずまじきれうにしるし申なり〈九十三頁下欄〉

の如くいかにも誰か貴人を對象として書いたに相違ないと思はれる文勢語氣もあつて、高陽院の爲め書いたと云ふ事がいかにもとうなづかれる事とにより、この今鏡に云ふ所の書と現在の無名抄とが同じものなる事が明かとなり、從うて無名抄が俊頼の著述なる事は愈々確實となるのである。なほ自分は以上述べたやうな考證法をたどつた結果、無名抄が他書に引用せらるゝに際しては俊頼―、無名集、俊頼無名抄、無名抄、無名集、俊頼髓腦、俊頼朝臣抄物、俊頼朝臣の口傳、俊頼口傳、俊頼抄物、俊頼抄俊抄等ほゞ十種の名稱でよばれた事をしり、かくの如く種々名稱のある事及び六百番歌合判辭に「俊頼朝臣の書て侍る物」「俊頼朝臣書たる物」又古來風體抄に「俊頼朝臣の口傳と申すか髓腦と申すか」等と以てまはつて呼ばれて居る事などより推して、本書には元來定まつた名稱のなかつた事を確めん事が出來、又一方では古書に引用せられたものが皆現在の無名抄の中にある事より、今日の無名抄が脱漏なく傳りし事を知り得、從うて俊頼には無名抄の如き類の歌學書は無名抄以外には全く無かつたと云ふ事を知るのである。そして無名抄に脱漏のない事は無名抄の本文を校合した結果愈々確信を得たのである。

かうして現在の無名抄が俊頼の著述である事は證明出來たが、然しなほ是でも何所か物足らぬ所がありさうに思はれる。それは何かと云ふに俊頼の書いた物の説として古書に引用せられたものが總て現在の無名抄の中に存すると云ふのは餘り辻褄が合ひ過ぎはしまいか、若しかすると昔の無名抄は室町時代の頃にでも亡んでしまつたのだが古書に引用せられて其の面影の一部が殘つて居る所から、後に或る物好きな閑人が其の古書に引用せられた斷片をひとまとめにして作りあげたものが現在の無名抄ではあるまいかといふ心配であるが、然し是もそんな事は決して無いと信ずる。蓋しいかに時代がのんきであり人が物好きであつたにしても、そんな古書に引用せられたものを拾ひ集めて筋道の通つたものに作りげるといふは量の極めて少いものなら出來ない事もなからうが無名抄のやうなかなり大部の書に於ては事實あり得べからざる事であるからである。なほいへばよしやそんな事を行つたとしても、到底馬脚をあらはさずにすます事は出來ないからである。そして今日の無名抄は誰が見てもよく筋道の通つて體系の整つたものであつて、是が、今云つたやうな事情で編輯せられたものとは決して考へられないのである。

要するに右のやうな第二の方法による考證の結果現在の無名抄が俊頼の著述である事が疑ふ餘地もないやうになつたから更に第一の方法により別方面から傍證をあげて右の事實に一段の確實性を與へなければならない。以下便宜上個條書きにして述べやう。因みに是から後に出て來る本書と云ふ語は、既に俊頼の著述である事が大略證明出來た現任の俊頼無名物を指すのである。

(イ)本書には俊頼と云ふ固有名調を自稱に用ゐてある所がある、例へば次の例の如きがそれである。

あはれなるかなや、このみちの目の前にうせぬることをとしよりひとりこのことをいとなみていたづらにとし月をおくれどもわが君もすさめたまはず、よの人もまたあはれむ事なし云々〈一頁下欄〉

但ふるき歌の一見えねばとしよりが歌をしばしかきて候也〈四十三頁上欄〉

これを見ても本書が俊頼の著述である事は明かである。

(ロ)本書十七頁下欄に「故帥大納言の母高倉のあまうへと聞えし人のもとに參河守也ける人の云々」と云ふ記事があるが、この記事なども俊頼が其の高倉の尼上の孫なればこそ書けるものであつて外部の人には一寸書けない所である。

(ハ)本書八十三頁下欄に、中納言藤原忠通と俊重との間の連歌を記し、俊重が女をわかせこと云つた事につきて冗々しく辯解してやつて居るが是も本書が其の俊重の父の俊頼の著述であるからである。

(ニ)本書冒頭にある「やまとみことの歌」と云ふ語は珍らしい語であつて本書以前には絶對に見えないものであるが、ひとり俊頼の友なる藤原顯季の家の集〈木版群書類從本三十四丁右〉の中に載せられてある俊頼が顯季に答へた返信の中に「式島の大和みことのあそびのむしろ」と云ふ語があつて、この語は俊頼が始めて用ゐたものらしく考へられ、是から推してこの眼あたらしい語がある本書も俊頼の著述であるらしいと云ふ事が考へられる。

(ホ)本書六十五頁下欄に「おきなさびといふはおきなされといふことばなり」とあるが元永元年十月の内大臣家歌合殘菊三番右歌「けさ見ればさながら霜をいたゞきておきなさびゆく白菊の花」につきての俊頼の判辭の中にも「翁さびと云事は翁されと云詞とこそ承置たるに是は此こゝろたがへり」と云ふ解釋が見えて居る。

(へ)本書に解釋の見えたる語で他書の説、即ち俊頼と同時代の書、若しくは俊頼に後るゝ事餘り遠くない頃の書物の説と解釋を異にして居る爲め自づと耳に止まる如き物は散木集の中で實際よまれて居るのである。例へば本書三十四頁下欄に「久かたのはにふのこやにこし雨ふりこしさへぬれぬみにそへわぎもこ」と云ふ歌をあげて「こしあめといふはいたくふる雨なり、ぬれとほりてはかまのこしなどのぬるゝほどなるをいふ」と解釋して、其の意味で「誰と見て忍びかはせむつれ〳〵とこし雨降てすみれさくのを」〈散木集卷上、二十丁右〉と歌つて居るが、こし雨を袴の腰がぬれる程の大雨と考へたのは大變な誤解で實は其の反對に小兩の事であつて顯昭が散木集註で、

こし雨は微雨なり、小雨なり、こさめとも云なり、此人は腰雨と被㆑執たるにや髓腦〈即ち無名抄のこと〉にも、ひさかたの、はにふの、こやにこさめふりといふ萬葉の歌をもこしあめとかきて下袴の腰などのぬれとほる雨なりとかゝれたり、如何、

と云うて居るのは尤もな事である。又本書三十六頁下欄で萬葉集には鬼乃志許草シコノシコグサ鬼之志許草シコノシコグサとわざ〳〵假字書にまでしてあるものを「おにの腰草」と誤讀して、さて今昔物語卷三十一の兄弟二人殖萱草紫苑語第二十七をそつくりのせて居るが、散木集卷上、四十八丁左には「まくまのに雨そぼふりてこがくれのつかやにたてるおにのこし草」と云ふ歌がある。又五十八頁上欄には「芹つみし昔の人も云々」の歌につきて綺語抄などに比べてやゝ異なる説を出して面自く書いてあるが、散木集中「芹つみし」の語を用ゐた歌が三首もある。〈卷上、九丁左、卷中、四十一丁右、卷下三十一丁左長歌〉こんな事は同時代の他の歌人には見ぬ所である。この外六十頁下欄で「夏かりのたまえのあし」の「たまえ」を玉枝と解して居るが、現に歌にも「なきおごれこちこせ山の郭公きなせの里のまつのたまえに」とよんで居る。〈卷上三十二丁左〉そして是等の事も散木集の作者と本書の著者との間に關係のあるのを充分物語つて居るものである。

(ト)右に述べたものゝ外にも一つ本書には立派に奧書が添はつてある。其の文句は

壽永二年八月二月於紫金臺寺見合了、依知足院入道殿下命奉爲賀陽院俊頼朝臣所作云々、顯家朝臣本號俊秘抄

    自教懿御僧相傳之        智範之

          一校了

と云ふのであつて、最も明白に無名友の著者の俊頼なる事を物語つて居るのであるから是を確かなものと鵜呑みに信用してかゝれば、今迄述べて來たやうな冗々しい考證の必要も無くなるのだが、奧書にはよくうかとは信ずる事の出來ぬものがあるので、自分はこの奧書をも餘り重要視したくなかつたので、石橋をたゝいて渡つたあとでかく最後にあげるのである。然しこの奧書はどんな性質のものかと云ふと是は確實なものであるらしいと云ふのは、本書著述の動機に關する説も今鏡と符合して居るし、又紫金臺寺と云ふも顯家朝臣と言ふも何れも六條家殊に顯昭に極めて因緑の深いものであるからこの奧書の説の如きも必ず顯昭等より出たものと考へられて出所も正しいからである。(因みに云ふが紫金臺寺は覺性法親王の御室であつて、壽永二年には顯昭は仁和寺に居つて歌書の著述に餘念なかつたのである。そして顯家朝臣と云ふのは顯昭の甥である。)

さてかうして第一と第二の方法を併用した考證によつて本書が俊頼の著述である事は確實に證明せられたわけでみる。

然らばこの小篇の初めの所にあげて置いたやうな、本書の著者が俊頼でないと云ふ藤岡博士の説は如何やうに説明さればよからうか。

まづ博士は本書の文體が決して平安朝期のものでないと云つて是を論據の一つとせられたが然し、積極的にいつの時代の文體とも云はれない、かつかゝる斷定の出づべき理由をも示されない、奧義抄袖中抄の僞書なる事を論證せられた時に

奧義抄袖中抄に至りては源氏などを模せし柔かなる文章となる。されど後世國文學勃興後の擬古文とはまたおのづから趣を異にせり。時代は時代の臭味あるは何人も許す所なり。〈日本評論史百八十五頁〉

と云はれ又今日に傳はれる大抵の歌學書を僞書なりと決めて「鎌倉時代の末より室町時代に至りて無理に雅文めかして書きし如きもの多し〈同書百九十一頁〉と云はれた博士の意中を推量すれば本書も亦かくの如きものと考へられたのであらう。然し文體によつて古書の眞贋を定めるのは博士自らも云はれた通りに極めて困難であるが上に動もすると危險を伴ふものであつて充分な注意を要する仕事である。自分も博士の説の當否を確めやうとして、本書の用語文體を力めて懷疑的態度を持して吟味したけれども到底本書の文體が平安朝のものでないといふ結論に達すべき理由を發見する事は出來ない。博士は古來風體抄が俊成時代の文體でない事を論せられた所で

文章も近代的のものなり「云はく…………と」「笑ひて申し給はく…………と」「未だ聞かす…………と」の如き文體はこの當時の文體にはあらず、八雲抄にはかゝる時は必ず「いはく……といへり」とあり。〈日本評論史百九十八頁〉

と云はれたが「云はく……と」や「云はく……」「云ふやう……」式のものは早く竹取物語中にもあり、今昔物語にも多く見えるから「云はく……と」式が平安朝の文體でないとは云へない。又博士は本書の文を無理に雅文めかしてやさしく書かれたるものと考へらるゝ如くであるが是も強ちにさうとはいへない。然し事實やさしい文勢があるならばそは本書が后がねとしてかしづかれて居る關白家の女公子の讀物として書かれた物なる以上尤もな事である。又博士は鎌倉室町時代文學史二百三十頁に於て住吉物語の文體を考察して、

今の住吉物語の詞に「この姫君の御乳母子に侍從と聞ゆる侍りけり」の如く「侍り」

を三人稱に用ひたる所あり。かゝる用法は徒然草あたりよりのことなり。

と云はれたが、是より考へるに、本書の中にも侍りを三人稱に用ゐた例があるから,是も博士が本書の文體の平安朝の物でないと云はるゝ論の證據とせらるゝ所であらうと思はれるが、然し「侍り」を三人稱に使用するのは決して徒然草の頃になりて始まつたものではなくて俊頼に對抗もて歌壇の一勢力であつた藤原基俊の家集〈木版群書類從本五十六丁左〉にも「月のおもしろきよならに侍る子の戀しくはべうしかば永縁僧都のもとにいひやりし」と云ふ風な用法があり、少し後れて出來た今鏡の序にもしばしは見え又教長の古今集註にも屡見えて珍らしくはない。要するに本書の文體は決して鎌倉室町時代のものではない。然も平安朝末期の歌合判辭や顯昭の六百番歌合陳状等の文體とよく似たのを思へば、この文體が平安朝末期のものでないといふ博士の論はいよ〳〵成立しないのである。

博士が本書を以て僞書だとせらるゝ論據の第二は本書に現はれた俊頼と其の散木集に現はれた俊頼との懸隔の餘り甚しくて到底同一人と見なす事は出來ないといふ點にある。換言すると本書に見えた歌論と實際の作歌とのあはぬ事、即、歌論は平凡でなま優しいが歌は過激である上いふ點である。然し本書の歌論と散木集の歌との關係を明細に調べて博士の説の當否を吟味する必要があらうか。自分は其の必要は認めないでかへつて博士が歌論と實際の歌との相違せる事を根據としてこの平凡な歌論の書いてある本書の著者のこの過激な散木集の歌人との無關係な事を説かれた其の事が抑々妥當であるか否かを問ひたく思ふのである。そして自分は妥當な論法であるとは考へないのである。換言するとよしやこの二書の著者が別個の人なりと考へるの外ない程懸絶して居つてもこの事を理由として、二書の著者が別人であると斷定するのは當らないと考へるのである。其の理由はかうである。

一體右にあげた如き博士の結論が出る爲めには少くとも「或る書の著者は必ず絶對的に其の書の説を遵守するものである」と云ふやうな前提が無ければならぬ。然しながらかゝる前提が果して得られるであらうか。或る人が書を著はして自ら信ずる所を書いたにしても必ずそを遵守するものだとはどうして云へやう。遵守する人も固よりあるだらうが遵守しない人もある筈である。聖人又は徳行ある人が實踐道徳の綱領を示し自ら其を守る事はあるだらうが然し總ての書の總ての著者に於て是を望むも到底ありうべき筈がない。俊頼無名抄の場合でもさうであつて今假りに、本書は俊頼が自分の懷抱して居る歌論の總てを述べ盡したものとするならば俊頼が本書の所説を遵守して作歌の規範とする事も有りさうな事と考へられるので「俊頼は必ず自らの抱ける説を遵奉する」と云ふ事も云へるかも知れないから從うて其の實際の歌と本書の歌論との懸絶する道理も無ささうに思はれるから、今現に散木集の歌と本書の歌論とがはるかに相違して居る事を論據として、散木集の歌を詠める俊頼は決して,平凡な無名抄を著すべき人でない、と結論する事も或ひは出來るかもしれないが、よし俊頼が本書に於て自己の歌論をありの儘に發表したにしてもそを遵守し實行するか否かが既に疑はしい事ではないか。況んや本書は彼が其の所信を發表する事に努めて書いた書ではなくて、實は富家關白忠實の命をうけて其の女公子の爲めに通俗平易な歌學書を書かうとする態度をとりて書いたものだから〈本書成立の動機と著述の態度とに關する細い論證は煩はしいから今は述べない。〉彼の歌論がありの儘に現はれたる書でない事は斷言出來る。かくて本書が彼の眞の歌論の書でない以上彼が本書の説を實際の作歌の場合に臨んで實行するか否かはことごとしく論じなくともわかりきつた事である。俊頼が本書の歌論を實行しなくても何も怪しむ必要はない。だから散木集と本書との懸絶の甚しいのに驚いて二書の著者を別人と考へ本書が俊頼の著述でないと斷定するのはいはれのない事である。博士が平安朝文學史中で本歌とりの名人と云はれた公任も新撰髄腦の中では明かに「ふるく人のよめることばをふしにしたるわろし、一ふしにてもめづらしきことをよみいでむと思ふべし。」と云つた事を考へなければならない。

なほこの問題を別途から觀察するに自分の懷く歌論を忠實に思ひの儘に述べる事出來るだらうか。作歌と云ふ事は極めて複雜微妙な心的作用であるから、其の作歌と云ふ作用に關係した總ての考へ、即ち所謂歌論と云ふものも亦複雜微妙であつて、是を限りある言語の配列により寫し出さうこしても到底出來るものでない。要するに言志をつくさず書言をつくさずといふ憾みがあるのみである。又本書の説は本書の出來上つた時代に著者が考へて居た歌論であると云ふ事は云へやうが、是が俊頼の長い生涯を通じて懷ける持論であつたとはどうして云へやう。然るに散木集に集められし千五百餘首の歌は彼が三十歳頃の歌を含んで居ると假定すれば前後を通じて四十年の長日月の間の作品であるから、この長い間には彼の歌に關する考への變化する事もあつたであらうから、散木集の歌が本書の歌論と一致せずとも不思議ではない。

次に博士は異名の始まりを以て鎌倉初期の八雲御抄にありとして本書にしづくしく流の物のあるのは明かに、本書の成立が八雲御抄以後にあるものであるとせられたが然し異名と云ふものは顯昭の古今集序に「宇治山喜撰式出㆓八十八物異名㆒」とある通りに、遲くとも公任の時代には存して居つたと考へらるゝ喜撰式に早くも見えて居るもので斷じて八雲御抄以後の發生とは云へない。然し本書に見えて居る異名は、誤寫による小異を除きては全部喜撰式の異名と同じものである事により又顯昭が禰中抄卷二に「喜撰式にぞ女をはしけやしと云たれば俊頼のずゐなうにもその定に書て侍る」とある記事等により本書の異名は喜撰式を其の儘に寫したものである事がわかるのであつて何れにしても異名が俊頼時代のものでないとは云へない。現に俊頼は異名を歌によみこんで居るのである。

秋きぬと竹の園生になのらせてしのゝをふゝき人はかるなり〈散木集卷上三十九丁右〉

うれしくも心のまゝにきたるかなあまのみ空をたまぼこにして〈卷中三十七丁右〉

はしけやしなれこそ榮え否われは彌陀のみ國をこのもしと思ふ〈同四十二丁右〉

たまくらをくけでしくれはおそろしみはやはひましねみつのかどより〈同六十三丁左〉

是等の歌によみこまれて居るしのゝをふゝき、たまほこ、はしけやし、たまくら等は、喜撰式、又は無名抄等に見えてある通りに、それ〴〵風、道、女、夫、と云ふ語の、異名として見ないと解釋の出來ないものである。要するに異名の有る事により本書が俊頼の著述でないと斷定せられた事は初めから問題にならないのである。(未完)

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