「高嶺格:とおくてよくみえない」展 分かりやすい答えこそ最も疑うべきもの

「高嶺格:とおくてよくみえない」展 分かりやすい答えこそ最も疑うべきもの

 1968年生まれ。初期作から最新作まで14作品を展示した。大規模な個展は首都圏初という。実は、高嶺と横浜美術館には因縁がある。同館は、04年開催のグループ展で、高嶺の映像作品の展示を直前に中止したのだ。障害者の性を取り上げた作品だった。

 それから7年。高嶺が「大人の対応」をするならば、個展の開催で過去を水に流すこともできたはず。だが、展示を見る限り、そうは取れない。

 入り口に展示中止作の主人公「木村さん」の写真を掲げた。続く新作「緑の部屋」では、一つ前の「ドガ展」の会場をそのまま使い、ドガの絵画の代わりに約20点の毛布や布をかけた。一部には、柄をもっともらしく解説したものも。美術館という制度を冷やかしているとも取れる。

 過去の代表作も並ぶ。粘土で作った巨大な顔に米国の愛国歌を歌わせるクレイアニメ「God(ゴッド) Bless(ブレス) America(アメリカ)」(02年)、在日韓国人の妻との結婚を機に、在日の人たちと自分との関係を考えた「ベイビー・インサドン」(04年)などだ。同館の木村絵理子学芸員は「分かったふりをせず、子どものような疑問を一つ一つ追究している」とみる。

 新作「とおくてよくみえない」が展示を締めくくる。投影した影絵は、7年前の作品を連想させる。しかも、出口に書いた自作の詩にこうある。「舌ですべてを融(と)かしてしまえ/そしてきみの復讐(ふくしゅう)を成し遂げよ」と。

 横浜美術館は、カタログの代わりに高嶺へのインタビューや年譜をまとめた本を出し、個展の開催と合わせて傷ついた名誉を回復しようとしている。それでも高嶺が「大人の対応」をしないのは、「厄介な職業」と自覚しつつ、分かりやすい答えこそが最も疑うべきものだと、肌で感じているからなのだ。

 展覧会に行きました。おおむね素晴らしかったです。「大人の対応」に対する抵抗についてはその通りだと思いましたが、毛布のエリアは、美術館という制度を冷やかしている、というような「子どもっぽい」感じでもなかった気がします。「毛布や布を掛けた」というだけでは伝わりづらいかもしれないのですが、あれは、毛布文字通りカンバスを毛布や布で包み込んで、絵画のように壁に掛けたものだったのです。
 あの毛布の画面たちは、冷やかし、というよりは少しのアイロニーと同時に、もっとポジティブに作家さんのなかの大切なものを発信していたように思います。それは、毛布の質感が喚起する強い意味で個人的なぬくもりであったり、その場を包み込むような柔らかい光であったり、そういったものです。それは、僕にとっては、モダニズムの絵画でも、そのあとのミニマリズムのソリッドな物質性を現前させるものでもない、「なんだかよくわからないけどもふもふしている絵のようなもの」でした。そこがよかったんです。

 「God Bless America」と「ベイビー・インサドン」は最高でしたね。特に「ベイビー・インサドン」。メディアにこだわらずに良い作品を作れるのは、作家さんの内側に言葉にならないながらも確固としたテーマがあることの証です。
 みんなが賛同するような簡単な言葉で表せないもやもやとした想い。そういったものをぼそぼそとためらいがちに、しかし確固とした信念で語っている、そんな印象の展覧会でした。ずっと見ていきたいです。