「子育ては、軽い死刑だ。でも、死んだら天国へ行ける。」

 僕が中学に入りたての頃、小説家になりたくて、色々なアイデアを思いついてはそれをメモ帳に記録していた。今でも実家の片隅にあると思うのだが、大人になってからそれを見返したときに、以下のような印象深い記述があった。

「近所のジョナサン、騒ぐ子供、怒る母親『リョウ君いい加減にしないとママ怒るよ!』=低俗」

 低俗て。
 当時僕は自分のことを21世紀を代表する偉人になると思っていたので、生活臭にまみれた日常が堪え難かったのだろう。他にもこんな記述もあったと記憶している。

「ご飯を食べてお味噌汁を飲んでお漬物食べたらおなかが一杯になるって覚えておけばいいのよ、1足す1が2になるなんて覚えなくていいの by近所のおばさん」

 味噌汁て。
 こちらは生活を大事にしろという意味合いの言葉に強い反発を覚えたのだと思う。
 いずれにせよ思春期を迎えたての僕にとって、生活とは唾棄すべき存在であり、生身の人間として生きるにせよ、生活臭などは以ての外、モデルルームのような清潔で洗練された部屋で、高度に洗練された思考をめぐらし、社会に大きな影響を与えるアウトプットをすることを望んでいた。近所のジョナサンで自分の子供を叱り飛ばす人生など、決して受け入れられないし、心配するまでもなくそんな人生に「転落」することはないと信じきっていた。

 そんな自分は、子育てで死んだ。
 死刑に処されて死んだのだ。

 「魔の2歳児」と呼ばれる息子の最初の反抗期。近所のファミレスで機嫌を損ねおこさまカレーセットを投げつけようとする息子との死闘。2歳児にも彼なりの意思があり、それを汲み取ってやれればそう簡単に機嫌を悪くすることはないのだが、これが結構難しい。たくさんの客がいる店内で泣き叫び食事を投げつけようとする彼を押さえつけながら僕はたまりかねて叫んだ。
「◯◯君いい加減にしないとパパ怒るよ!」
 中学生の時にメモに記録するほど憎んだ、あの悪魔のような生活臭にまみれた呪いの言葉を、僕は20年後、自分の息子に向かって投げつけていた。生活を憎む思春期の僕からすれば、もはや人生の全否定だ。あの頃の僕は死んだ。子育てによって死刑に処されて死んだのだ。

 もちろん、死刑といっても本当に死ぬわけではない。「価値観がすべて覆される」という意味の比喩だから、死ぬというよりは「ちょっと死ぬ」というくらいが適当かもしれない。
 だから死刑は言いすぎたと思う。「軽い死刑」だ。
 「痛くないからねー、ちょっと死ぬだけだよー、チクリ!はい死んだ!思春期の価値観、死んだ!」という感じだ。

 長男が生まれたのが2015年2月なので、子育てをはじめて2年4ヶ月経ったということになる。無我夢中でやってきたので2年も経過した感じはなく、あっという間だったけど、フェーズ(段階)は次々と入れ替わる。すべてにわたり安全衛生の確保に砕心した新生児段階もあったし、ワンオペ(1日まるごと妻の助けなしで子供をみる)出来るようになることが目標だった乳児期もある。母乳を与えるのをやめる「卒乳」というプロセスに夫婦で苦労して疲れ切った時期もあったし、悪名高い「夜泣き」に苦しめられ、深夜に近所の公園まで抱っこベルトに入れて連れていき、夜風に吹かれながら寝かしつけをしていた時期もあった。
 こういう時代なので、そういった各種の苦しみを受けながら、同時にスマホで「1歳児 夜泣き ひどい」とか「2歳児 ニューブロック 父親を殴る」とかGoogle先生に入力して助けを求めることになる。そうやってたくさんの育児に関するブログや知恵袋を読み、救われたり救われなかったりしながらやってきた。救われた分は社会に返さないとなと思って、ざっくばらんだけど記録を残しておこうと思って、ブログを書いている。

僕が育児をしてきて、気づいたことのうち、特に「これは書いておかねーと独身男性には一生伝わんねーな」と思った「経験しなきゃわからない点」を重点的にまとめておきたい。

1.子育ては、軽い死刑だ=自分の人生を自分の自由にできる時代の終焉

 ブログのタイトルに死刑などとネガティブな言葉を入れることには抵抗があったのだけど、どうやればこのフェイクニュースとヴァイラルメディアが溢れる時代に読者に印象を残せるか考えた結果、このタイトルにした。J-POPのサビ頭のようなものだと思って許してほしい。大前提として妻も息子も愛しているし、子育ては楽しいです。
 何が死刑かというメッセージがもちろんあって、自分の人生が自分の自由にならないという意味で、自由を奪われるのが子育ての辛さの本質だということ。学生時代に付き人として付いていたミュージシャンの先輩が、「殺された人は人生を奪われたということ。人の時間を奪うのは、部分的にではあるけど殺人と変わらない。俺の時間を奪う出来損ないのお前は、部分殺人者だから、部分死刑にしてやる」とよく言われ、殴られていたことにインスパイアされた。そう、子育てをしている間、人生は何もかも自由にならない。男性の僕はまだしも、産む立場である女性ならばなおのことだろう。
 自由の奪われ方にはマクロとミクロがある。マクロでは例えば、女性は子育てのためにキャリアを諦めなければならなかったり、諦めることはしないまでも時短で働くなど制約を受けたりする。そんな風に女性のマクロな自由が奪われることを看過できないと思って、男性が一生懸命育てようと思えば思うほど、当然ながら男性も身を粉にして仕事と育児を両立することになりかなりつらい。
 ミクロでは例えば、トイレに行けなかったりスマホを触れなかったりする。笑わないでほしい。想像してほしい。トイレに行きたいときに自由に部屋を離れられず(子供が泣いていて何かを壊すかもしれないから)、スマホを操作したいのだが子供のオムツ替えと着替え、さらには遊んでとせがまれて何時間も手があかないといった状況。その間にも仕事のメールがやってきて、早く返さなければいけないのに返せない。僕は音楽を職業にしているので、音を聴かなければ判断できないメールがとても多い。こうなると子供が保育園に行っている間と、寝ているとき以外はまともに仕事をすることはほぼ難しい。(その時間があるだけでも恵まれているのだが・・・)
 このように、自分の人生を自由に生きることができるというのは、実はかなり恵まれた条件のもとでしか実行できない幸せな生き方なのだということを学んだ。大学卒業後は6年ほどサラリーマンをしていたから、働くのがつらいという気持ちもわかる。
 でも、自由に働けないのはもっとつらい。

2.はじめて社会福祉を受ける側にまわった

 子供が生まれると、いろいろな手続きに追われる。出生届からはじまり、特に保育園に預けるための手続きはなかなか大変だった。(大変だったため、僕の低レベルな知力では理解できず、妻に全面的にまかせてしまったことを告白しておく)さらに地味に大変なのが予防接種だ。保育園を昼過ぎに早退して、病院で注射をしてもらって、その後は家で過ごす(保育園では予防接種後の子供を預かれないため)。時間もさることながら、次はどの予防接種をいつまでに受ければよいかというのがかなり複雑で、これを管理するためのスマホアプリまであるくらいだ。(大変だったため、僕の低レベルな知力では理解できず、妻に・・・以下同上)とはいえ、こういった手続きの結果として僕らはめでたく「社会福祉」を受けることができる。ありがたいことに保育園にも入れたし、僕が住む自治体では子供の医療費の助成も手厚い。
 このことは僕にとって、生まれて初めて「社会福祉を受ける側にまわった」という意味があった。大卒成人男性で都市部在住の独身男性というのは、いうなれば福祉からもっとも遠い存在だ。しかし子供が生まれることによって、否応なく社会から守られる存在になる。こうなるとこれまで意識しなかった福祉制度の存在がありがたいし、そういった制度の未来についても自然と考えるようになる。SNSなどでの政治的な発言を見るたびに、「政治的な発言するなよ」とすら考えていた僕だが、それは政治と無縁でいられるくらい自由で強い存在だったからできたことだ。守るべき、守られるべき存在が身近に生まれると、「こいつの将来はどうなるのか」という視点が加わる。今までよりもずっと社会や政治に対する関心が高くなったと思う。

3.世界の半分しか知らなかったことに気づいた

 これは僕が子供が生まれるとほぼ同時に会社員を辞めて作曲家としてフリーランスになるという超ウルトラCな人生を歩んだことにも起因しているのだが、会社勤めをしていると見えなかったことがたくさんある。我が家は妻が大手企業に勤める総合職で、僕がフリーランスの作曲家なので、必然的に家事・育児といった主夫的なポジションも僕が担当することになる。子供が生まれる前はそれでも家事は「やれば終わる」ものなので楽勝だったのだが、子供が生まれると様相は一変する。子供はすぐに熱を出して保育園から返されるし、夜家事を終わらせようと思っても泣きながら遊んでくれと走り寄ってくる。そんな中家事を全部終わらせて育児まで、となるとかなりの負担だし、冒頭も書いたように「軽めの死刑」を食らっているので、何事も自分の順序やらタイミングで実行するのが難しい。
 だがある日気づいた。僕だけが苦しんでいるわけじゃない。いや、それどころか、世の母親の皆さんは昔からずっとこの大変さを抱えて生きてきたのだ。毎日まったく暇がなくて、一日中眠くて仕方なくて、それでも子供は思うようにならず、だけど亭主は仕事で家にいない。そんな中で女性は評価もされず光もあたらずとも、黙々と生活を、僕があれほど唾棄していた生活臭を出しながら、生活を支えていたのだ。
 僕は世界の半分しか知らなかったのだ。世界の半分にはビジネスや文化が華やかに咲いているが、それは世界の半分を生活臭が支えているから成り立っていたのだ。こうやって書くと「そんな事もわからなかったのか」と言われそうだが、わかっていたつもりでいたから恐ろしい。実際、自分が家庭で育児をしてみるとよくわかる。世界は思ったよりも倍の広さがあった。そして多分、もっとずっと広いのだろう。

4.軽い死刑で軽く死んだら、天国に行ける=2つの意味で

 最後に、ブログタイトルの後半の話をしたい。死んだら天国へ行けるというやつだ。何をやばいことを言っているんだと思われそうだが、ここでいう「天国」には2つの意味がある。「幸せになれる」という意味と「自分を俯瞰して客観視できる」という意味だ。
 まず一つ目。子供はやはりかわいい。手がかかるし悪魔の所業もするがかわいい。軽めの死刑で軽く死んだら、その代償として我が子の成長を目の当たりにすることができる。これは正直うれしいし、ありがたい。幸せだなと思う。死んだら天国へ行けると唱える宗教は多いが、案外こういうことかもしれないと思ったので、うまいこと言ったつもりで「死んだら天国」と表現したことをご理解いただきたい。
 そしてもうひとつ。天国へ行けるというのは高いところから自分の人生を俯瞰しているという意味も込めた。社会に守られる側になり、世界の知らなかった半分を目の当たりにする。こうやって視野が広がると、今までになかった視点を持つことができるようになる。視点が増えるというのは視座が高くなるということに近いと思う。だから空から俯瞰するように大きな視野で物事を考えられるようになると思う。そういう意味でも天国だ。

 長々と書いたこのブログが誰かの役に立てばいいなと思うし、役に立たないかなとも思う。育児に関して発言することの難しさは、子供はひとりひとり全く違うため、どれだけ実体験を元に切実に語っても「n=1とかそんくらい」のサンプルしかないため、客観性のある発言がしにくいところにある。このブログの内容もn=1でしかない。だから相当偏りもあるし、いや、それは言い過ぎだろとか、それは事実に反すると思うむきもあるだろう。ただn=1なりの事実を書いたつもりではあるし、変に盛ったり歪めたりはしてないことは約束します。誰かの役に立つことを願ってます。

 愛する妻と我が子というかけがえのない「n=1」に感謝を。