『SPY×FAMILY』Season 1
この調子だとSeason 10くらいやっても大して進展しなそう。
いずれ完結するにしても、デズモンドとの接触を得るというオペレーション〈
横から思いがけない仕方で状況が打開される。暗殺者の面を省かれ半ばおもしろ要員になってしまっているヨルが、意識的にか無意識的にかそれを為す。そんな想像をしている。
アーニャもボンドも、無論ロイドも、それぞれの仕方で寄与するだろうが、とりわけヨルは、このままではただただ哀しみの怪力人間であるから。
この調子だとSeason 10くらいやっても大して進展しなそう。
いずれ完結するにしても、デズモンドとの接触を得るというオペレーション〈
横から思いがけない仕方で状況が打開される。暗殺者の面を省かれ半ばおもしろ要員になってしまっているヨルが、意識的にか無意識的にかそれを為す。そんな想像をしている。
アーニャもボンドも、無論ロイドも、それぞれの仕方で寄与するだろうが、とりわけヨルは、このままではただただ哀しみの怪力人間であるから。
友達がいっぱい欲しいというルイの願いを聞いたウッコモンは、世界中の人をルイと同じ境遇にすることが、ルイの願いを叶えることだと思い込み、すべての人にパートナーデジモンを与えようとする。
4歳の誕生日のルイは、動き回らないでじっとテレビを見ているよう母親から言われると、漏らしてしまうまでテレビの前に居続けた。
会話が下手で、似た者同士のふたり。
そうだ!
もしも 言いたくないことが あったら
私たち ネコ語を使って 話そうよ!
(p.28)
こう言ってふたりは、ときに神妙な面持ちで、ときにしたり顔で、しばらくネコ語のやりとりをする。「ミャオ……? ミャオミャオ~」「ミャオミャオ! ミャオ~」
ふたりの表情の移ろいは生き生きとして、さも何ごとか、意味内容をともなった会話が成立しているかのようだ。しかし、かといって、ここでネコ語のふたりが話す言葉の、その内実をわれわれが求めることは、詮ないことだ。
というのは、ここで交わされるのが、ふたりだけが通じあえる言葉だから、ではない。ふたりはおそらく、言葉では通じあっていない。何らかの思いを込めて喋っているにしても、そうして表情や声音から何らかのニュアンスを嗅ぎとることはあるにしても、それらはいずれも一方的なものにすぎない。
当初の取り決めが、「言いたくないことはネコ語で話そう」ではなく、「言いたくないことがあったらネコ語で話そう」であったことに留意すべきではないだろうか。ふたりはネコ語で、言いたくないことを言っているわけではない。言いたくないことは、言わなくてもいい。人間の言葉では何も言えない、言いたくない、そんなときにも話せるためにこそのネコ語であり、そこで何が言われているかに関わりなく、ネコ語で話すことそれ自体によって、ふたりは通じあう。これはそういう約束だった。
だから、ふたりが最後に通じあえたのは、疑いがないことだ。
その本を読みたくなるような書評を目指して十年間、たくさんの本に出会った。読み返すとその時々の悩みや不安や関心を露呈してしまっているようで少し恥ずかしい。でも、生きることは恥ずかしいことなのだ。私は今日も元気に生きている。
(「はじめに」p.11)
端書からして、しっとりと味わい深く、また胸を打つ文章で、ちょっと参ってしまう。「生きることは恥ずかしいことなのだ」という言葉に太宰治好きの面をちらと覗かせるサービスも心憎い。物書きとしての小泉今日子の唯ならなさが溢れ出している。
本編の書評もこの期待に違わず良い文章揃いで、特に心に留まったものについて、以下に触れてみる。
*
[……]誰かと繋がっていると感じることも、孤独を感じることも、空中で繋がっている微かな絆が見えたり見えなくなったりしているだけなのかもしれない。
立ち止まっていた場所から一歩前へ進む登場人物達だが、彼らの孤独はきっと解消されない。それでいいのだと思う。私も今、少しだけ孤独を感じている。でも、その孤独は慣れ親しんだ、すごく当たり前のもののような気もするのだ。[……]
(「かもめの日●黒川創」p.107)
「唐突な当たり前の孤独」とは『グラスリップ』の言葉だが、ここで著者が語る孤独は、唐突ではない当たり前の孤独だ。
孤独を厭わない。かといって孤独の内に逃げ込むでもない。孤独を特別視することなく、あるままの孤独と慣れ親しんで付き合っていく。ここには、孤独を感じることへさえ、どこか懐かしみとでもいうようなものを抱く著者の姿が窺える。
*
[……]子供がいようがいまいが、大切な人に惜しみない愛情を注げる人になりたいと思った。形のあるものじゃなく、誰かの心の中に、ほんのりと温かい小さな光のような思い出をいくつか残すことが出来たら、自分の生きた人生にようやく意味を感じられるような気がした。
「四十歳を過ぎた私の人生の中で、やり残したことがあるとしたら自分の子供を持つことだ。」というドキッとする書き出しから始まる書評は、このように締めくくられる。
形あるものに意味を求めようとすれば、その願いは必ず成就を見ない。形はいつか消えてしまうから。子供だってそうなので、子供を持った持たないという囚われを超えたところにこそ何かがあって欲しい著者の、淡く哀切なこれは希望だ。
*
本を閉じて目を瞑り、彼女が成長して大人になった時、悲しみを享受して素敵に笑う姿を想像してみる。祈るように想像してみる。
(「これからの誕生日●穂高明」p.173)
人の人生とは計り知れないものだ。傍から安易に想像する以上の、あるいは想像とは真逆の過酷さ、重苦がそこにはありうる。そうであると知ったとき、二つの道があるだろう。一つは想像をやめて無関心になること。もう一つは、想像を諦めないこと。
諦められない想像は、祈りに近づく。
*
尾崎豊と私は同い年。でも私は彼の音楽をちゃんと聞いたことがなかった。もちろん知っている曲はたくさんあるし、いい曲だと思うものもあるけれど、なぜかあまり身近に感じていなかった。同い年だからこそ自分が感じているリアルな感覚しか認めないような気持ちがあったのかもしれない。勉強なんかしたことない劣等生だった私には進学校に通う優等生のように見えた彼の言葉は少し遠くの方で響いていた。
(「NOTES●尾崎豊」pp.186-187)
「盗んだバイクで走り出」したり、「夜の校舎窓ガラス壊してまわっ」たりするからには、尾崎豊の歌は不良の歌だと考える人も多いらしいが、同い年で同じ時代を過ごしてきた著者には、彼(の言葉)が優等生に見えたという。
これは勿論そのとおりなので、不良は「チャイムが鳴り教室のいつもの席に座」ったりなんかしないし(「いつもの席」というからには、いつもちゃんとそうしているのだ)、「行儀よくまじめなんて出来やしなかった」という内省は、叶うならそうしたいと一度は思った者にしか生まれないものだ。