無敵の人へ何を伝える?

川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい→賛否両論が集まる https://togetter.com/li/1360507

 

これを読んで思ったことなど…

 

発端になったツイートをした藤田氏は、優しい人なのだろうと思う。そして、被害者や遺族に心を寄せ犯人への怒りから「1人で死ねばいいのに」と言う人々もまた、心ある人なのだと私は思う。

 

本題の前に藤田氏に一言。

"あの記事は大変美しいメッセージだと思いました。

ただ、「次の凶行を生まない為」という思いは解るし「控えて下さい」と発信する事で救われる人が居ないとは言いませんが、事件への遣る瀬無い思いを吐き出す事を抑えるよりも、『社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはある』という藤田氏が1番伝えたい事を、1番伝えたい人達すなわち「次の凶行を起こしそうな人」へ伝えた方がいいのに、と思ってしまいました。

まあ、藤田氏はそういう活動もしている方で、たくさんの人にそれを伝えて、たくさんの人を救っていらっしゃるのだろうけれど、であれば尚更、具体的な対策、例えば手を差し伸べて貰うにはどうするか、などをお書きになった方が有意義だったのでは?(散々お書きになっているのでしょうけど、注目を集め易いタイミングで書く事で、より多くの人の目に止まるでしょうし、Twitterで論争になるよりは意味がありそうに思えます)偉そうにごめんなさいね。

 

 

さて、ここからが本題。

 

今回の事件は、背景も動機も解らないので、無闇に結び付けたくはないのだけれど、ニュースを聞いた瞬間「無敵の人」のキーワードが頭を過ってしまった。

藤田氏のメッセージも、そのような人を想定して発せられていると思う。

無敵の人が凶行に走らない為に「社会はあなたを大事にしてる…」というメッセージを伝えることは、正しい事なのだろう。「伝えるべき」と言った方がいいのか。

でも、どうやって?

Twitterに優しく美しい愛の言葉が溢れれば、それは伝わるのだろうか?

私には、そう思えないのである。

 

「人の命は地球より重い」

「人は皆、平等」

「弱者を守ろう」

こういった言葉を一切知らずに育つ人が居るだろうか?

JPOPを聞けば「ひとりじゃない」の歌詞で溢れている。彼らだって耳にした筈だ。

でも、彼らにはそれは届いてはいない。

いや、届いているけど彼らは知っているのだ。

「そんなの嘘だ」って。

 

だって嘘でしょう?

「死んでほしいと思っている人間など1人もいない」なんて。

鈍感でバカな私ですら、そんなの嘘だと思ってる。

私の事を「死ねばいいのに」と思ってる人がいるだろうし、そもそも世間の大多数の人は、私が死のうがどうしようが知った事じゃないって、ちゃんと解ってる。

世間なんてそんなもんである。

 

世間なんてそんなもんだけど、それは建前という美しいラッピングに包まれている。

建前のラッピングは美しいけれど、薄いからよく見ると中身が透けて見えてしまうのだ。

「死んで欲しいなんて思ってない!(別に生きてなくてもいいけど)」みたいなね。

 

そんなラッピングの中身が見えてしまってかいる状況で、果たして優しく美しいメッセージは届くのだろうか?

届く人にはそれでいいけれど、問題は届かない人だ。

そのメッセージを目にしても「誤配された手紙」のように、自分に向けられた物だと感じられない人だ。

その人にとって『自分ではない誰か』に向けられた言葉が、優しく美しいものである程、疎外感や寂しさを感じさせられるのではないだろうか?

 

それは、「弱者を救おう」というスローガンから溢れ落ちる可視化されない弱者が、そのスローガンに追い詰められる姿に似ているように感じる。

 

メッセージを伝えるのは、難しい。

言葉は、受け止める側の状況や心境で、どうにでも取れるから。抽象的な言葉は特に。

そうしたメッセージも言わないよりは言った方がマシだけど、それよりも支援の受け方だとか相談窓口が何処にあるか?などの具体的な方法の方が、まだ有意義なのではないかと思う。

(身も蓋も無いけど1番有効なのは、金銭的支援でしょうけど)

 

 

最後に、役に立たないメッセージというか個人的見解を。

 

自分を大事に出来るのは自分しかいないと思うと、本気で自分を大事に出来たりします。

 

あと、独りなのは、恥ずかしい事でも、ダメな事でもありません。

独りでもいいじゃん。

でも、寂しいと感じた時に、それを吐き出すのも、誰かに頼りたいと思うのも、恥ずかしい事でもダメな事でもありません。

 

 

追記

助けて欲しいと思った時や、辛いと思った時に、誰もが(弱者とか関係なく)声を上げる事が出来るようにするには、どうしたらいいのか?

ちょっと真剣に考えたいと思いました。

 

 

 

 

 

ブックマークコメントへの勝手なお返事と追記

前回の記事はかなり読み難い悪文であったにも関わらす、多くの反響を頂き少々驚いております。
読み返してみたら本当にじめじめした文章だったので、誤解されるのも致し方ない所。

という訳で今回はその追記と、ブックマークコメントへのお返事をさせて頂きたいと思っています。
誠に勝手ながら、お返事したい方にしかお返事しておりません。
なお、IDコールの敬称は省略させて頂きました。


まずは追記から。


私はとてもいい加減でお気楽な人間なので「悩む」という事はしない。 今回の事だって「考えたい」とは思うけれど、悩んでいる訳ではないのである。 「考えても無理」って判断しちゃったら、速攻放り投げちゃうし。

で、今回偉い人の教えに従って、自分に引き受けて考えてみた訳だが、これがちっとも上手く行かない。 上手くいかないのは当然で、私はそもそも「誰かに何かを言われてするという事」が出来ないからである。 自発的に自分からしようと思った事はするけど、したくない事は全くしないという、社会性の欠片もない人間だからなのだった。

社会性のない私は世間からどう思われようと割と平気なので、女性的な抑圧も、セクハラ的な事例もほぼ平気である。 身に危険が及ぶような事態であれば、それなりの制裁を加えるだけだし、セクハラ発言は「バカなんだね」と返すだけし「セックスしよう」と言われたとしても「しません」って答えて済む話だし。もちろん実際はもっと婉曲な言い回しをする訳だが*1
私がここまで平気で居られるのは、もちろん私自身の性格によるところも大きいが、こうした「女性から男性へ」の物言いはある種の正当性を持って受け入れられるからである。 つまり「社会的な後ろ盾」がちゃんとあるからなのだ。
一方の男性にはそんな「後ろ楯」はない。 
女性から男性へのセクハラやDVは不可視化されているし、「男性から女性へ物申す」というような事は世間ではあまり受け入れられていない。 それこそネットでこそこそと(世間からは便所の落書きと言われる2ちゃんねるのようなところで)行われるくらいで、世間様に向かって堂々と言われるような事は殆どない。

その現状は問題ではないか? とかなり前から思っていたのだが、その解決の糸口はなかなか掴めなかった。
私は元々「自分は自分、他人は他人」という言う考え方なので「皆で一緒にやりましょう」というスタンスは取らない。
でも、自分に何か出来る事があれば、誰かがやってくれるのを待つよりも自分でやっちゃった方が速いな。と考えている。
前回の記事は、その「自分に出来る何か」を考える為のとっかかりだったのである。 人はそれをお節介と言うが別に良い。


ここからが、ブックマークコメントへのお返事です。

id:big_song_bird ジェンダー, 男女, * これはひどい 「セクハラは「相手がセクハラだと感じたらセクハラ」なので、反論の余地などないのだ」>こ れ は ひ  ど い 。それでは解決策を採ろうと歩み寄る余地が全く無いではないか(w。そうか、解決する気が無いのか
id:yining 「受け手側がセクハラと感じたらセクハラ」っていう認定基準は今更ながら甘すぎたよなー。王と言えども神と 法の下にあるというのに。

解決する気がなさそうな人も見かけなくはないです。
この原則自体たしかに如何なものか?と思わなくもないのですが「言い訳」を巧く用意して罪から逃れる人も居ますからね。
「ひどい」のはこれが現状ではほぼ「男性から女性へ」のケースで想定されており、男性の被害者が不可視化されている事です。


id:border-dweller 現状だと正解のないコミュの中で訓練してくしかないけど、玄人でもリスクそのものからは解放されないから社会的に失敗や錯誤のリスクを許容するか それとも共通のガイドラインをつくるか ダブルバインドはつらい
id:i666ka ジェンダー 本題とはズレていると思うが『「これが正しい女性への接し方です」などと言うものは存在しない』の辺りでこ の人とどう接するかを試行錯誤するのではなく「女性」全体を一括りにしないとつきあえん物かと思ってしまう

訓練や試行錯誤には失敗がつきものですが、今の社会は「失敗したら一発退場」な空気が蔓延していますからね。本当はそんな事ないのですが(ってこれは私がいい加減な人間だから言える事ですが)。 規則に忠実な人達にはガイドラインも効果的かもしれませんが、それこそ一括りにしてしまう事にもなります。多様性ってどこかで残しておきたいですし。 本当はどちらもが失敗を繰り返しながら成熟して柔軟に対応していけるのが一番だとは思っています。



id:monogragh gender ただ、個人的な意識のレベルに議論の重点が置かれすぎていないか、とも思う。経済的レベルや制度レベルでは 「男性であるメリット」「制度的特権」の存在感は依然として大きいように思う。

よく女性が「ブスは女性的な特権は得られない」と言いますが、そういう特権も、全ての男性に与えられている訳ではありませんし、そんな「特権いらない」と思ってる男性だっています。 社会から「持っているべき」というものを持たない人、持ちたくない人は辛いのですよ。(個人的な観測だと『幸せそうなブス』ってけっこう見かけますけどね、制度的な特権を得られなかった男性は大変そうな人が多いけど。どちらが良いとか言う話でもないですけどね。)



id:MersA はてな, ジェンダー, 心理 個人としての異性(別に同姓でも良いけど)との向き合い方の話と、社会的に男性女性が受けている抑圧の話を 無自覚に悪魔合体させてしまうと大抵悲劇が起こる気がする

本当はそうだとも思うのですが、セクハラとかって「社会問題」になってますしね。あと、男性のダブルバインドってやっぱり社会的な抑圧がかなり関係していますからね。それが「個人的なお付き合い」にも影響してしまうという。



id:namelesscult ジェンダー ジェンダーという鋳型が問題なんだと思うけどね。生育の過程で「こうあるべき」と言われたその規範に誤りがあった/自分に合わなかったために苦難の道を辿る羽目に陥るのは男女一緒。
id:shino-katsuragi 男女, 原罪 それでも生きてくんだよっ!という強さが求められるのもしんどい。/実際「女に生まれただけで全然ダメ」と 育てられたもんで「男だからダメなのよ」と言いたい気分は分かる。

育成の過程というのは、重い問題かもしれませんね。私は「こうしなさい」」とか「こうするべき」という言葉は殆ど使われませんでした。まず「あなたはどう思う?」というのが基本だったので。 
問題はそう育てられた人々が如何にして「自らの尊厳」とか「主体性」と言ったものを復元して行くかという事と、そのような過ちが繰り返されない事ですよね。



id:p_shirokuma 繁殖行動 社会全体の傾向としては、これはあると思う。例えば男性オタクが「やおい」に遅れまくって似たようなコンテンツ消費を発展させたのも、自分のジェンダーに対する抑圧が強まったことと関連していそう。

私は個人的には「やおい」の原点って「吉屋信子」的な少女小説にあると思っているのですが、そうだとすると「遅れまくって」ではすまないくらい遅れてると思います。
それは男性が「遅れてる」というよりは、これまでの社会では、男性の(というか男の子の)「内面」が無かった事にされていたからなのではないか?と思っているのです。
かくして「内面」を発見して、それを意識してしまった男性が「少女化している」と言われてしまうという。 まあ、あくまで個人的な見解ですけどね。



id:furukatsu 非モテ, ジェンダー, 社会 あきらめましょう

Twitterでそうつぶやくと、真矢みきさんbotが「あきらめないでー」と返してくれます。 私はあきらめたくはありません。



id:hatenkou001 オンナなんて性的客体でしかあるまい。それ以外なら同性の方がいいもん。

つまんない付き合い方してると、自分までつまんない人間になっちゃうので、私はそういう考え方はしませんね。あなたはご自由に。


id:mizukik 女性…というか、「不快です」とか「それは暴力です!」とか言ったら賛同してもらえる立場に産まれたかった
id:minakagami ジェンダー とりあえず、集団で「キモーイ」とか笑いながら虚弱男子を切り捨てるのはセクハラだと認めて欲しいよな〜。
id:h1romi 男女 どっちもどっちじゃないのかしら
id:himajin774 でもさ、セクハラで傷つく人は、絶対男女問わず居ると思うんだ。それが男だと無かった事になり、女だとあって当然になるみたいな、そこからして男性側も抑圧され…て、これこそ何度目だよって感じだな。

そうなんですよね。男性がこういう事を言うと「キモイって言われる方に問題が…」とか「キモイ人はそう言われて当然」みたいな人が必ず出てきますが、女性に向けてそんな事言ったら社会的には「セカンドレイパーのバカ」決定ですからね。
本当にどっちもどっちだし、男女関係ないはずなのに、と思うのですけどね。
こういう所も、男女平等に扱って欲しいものです。



id:alpinix 難しく考えすぎな気が。ハラスメントの中でセクハラだけに注目せず個人のコミュスキルの問題と考えるべき。 性に関わらず他者を傷つける人はいるし受取方が千差万別なのは自明。コミュ力高い人は自力で回避している。

なんという恐ろしい事を… 私はスキルで対応する派ですが「被害者女性」にはそんな事言えません。 些細な口喧嘩でも女性が被害者だった場合「被害者の声を封じるなんて!」と怒られそうです。 
危ないものには近づくな。これもスキルです。



id:waccher 社会 相手がセクハラだと感じたらセクハラ、というのは仕方ないとして、セクハラと感じたときに過剰に反応するか どうかが問題な気がします。訴える前にセクハラを辞めるように相手に直接言う必要があると思います。

私ならそうします。そうしますが… それを他者には言えません。私の場合はね。
ともあれ、セクハラについても男女平等に扱われる日が早く来て欲しいです。


id:god_eye 「私は自分の愛する自分に都合のいい女性像をあなた方女性自身でなく、AVやアニメやゲームの中に求める。 だからあなた方も男性に都合のいい男性像を求めるのはやめてくれ」と言う生き方も既にある
id:amaranthine いや、実際そうなってる。> もういっその事、男性は女性を相手に しない方が良いのかもしれない。そんな事すら思うがそうは行かない

それに対して文句言ってくるような奴はスルーって事が出来たら良いのですが、なにやら「正当性」のありそうな感じで文句言われちゃうって言うのと、そもそも勝負なんてしてないのに「負け」って認定されるのがむかつきます。



id:Naruhodius gender 性別云々の前になんでこんな極論に走っちゃうんだろうなー、女性に生まれてもこの人苦労してそう

ごめんなさい。私は「女に生まれて良かった」としか思ってません。だって楽しいですもの「女」って。
他の女性には「ずるい」とかいろいろ言われましたけど(ネットではなくリアルで)私自身は女である事の抑圧も感じた事は無かったし、一方で女の特権は享受してましたし。 確かに社会的に高い立場には居ませんが、それは私に能力がないからだと思っています。自分で選んだ道でもあるし。 私はそれを自己責任とは感じますが、男女差別のせいとは考えません。
なお、私は「自己責任論者」ではありますが、あくまで自分自身に対して思うだけで、他者には使いません。


id:inukorori 犬 のメモ 「あなたは私を傷付けてもよい。したがって私はあなたを傷付けてはならない」と大事な人には言いたい。

同感です。大切な人にだと自然とそう思ってしまいますよね。私にとって大切な人とは、その人がただ幸せで居てくれるだけで(例え近くに居なくとも)私に喜びを与えてくれる人なので。



id:NATSU2007 ジェンダー, 男女, 心理 一方、曾野綾子的史観では「女は男を誘惑し挑発する罪深い者」として断罪され自衛(という名の自己批判)を 要求されるのであった。/ヘテロ男性の性欲を肯定する社会構造等前提スルーで語ると色々噛み合わない気がする。

そのような「社会構造」が男性をダブルバインドに追い込んでいると考えています。良い指摘ですね。





id:temtan 男女 良くまとまってる感じ。/その包囲網の中で一番リスクが小さいのは女性を一切相手にしないで「最近の男性は 女性に積極的じゃない」って批判に耐えるだと思う

別に悪い事してる訳じゃないのに、一方的に耐えるなんて必要ないと、思ってしまうのですよ。




id:h935 考え方 ダブルバインドは誠実に聞く耳もつ人ほどやられますよ、お疲れ様です。信田さんは断罪はしてないよ。加害者 になりうる可能性を忘れるなと言ってるだけでしょ。

いい加減な私がハッピーに生きてるのに誠実な人は苦労するって、不公平ですよね。
信田氏の発言により「傷ついた」という人もいると思うのですが、信田氏はその可能性についてどう考えるのでしょうね。お伺いできないのが残念です。


id:harutabe 私女だけど男はブサイクでも楽勝で生きてゆけるからその点は得してると思いますね。

最近ブスも非モテと同じくアイデンティティな問題な気もしてきました。 ブスでも楽しんで生きてる人もいるし。
でも、ブスは禁句ですが非モテはあまり禁句じゃないような。


id:GEGE えーと……。プロフその他考慮せず文章だけ読むと、男が(いや女だとは書いてあるが)ヤケになって「もうい い、生まれてきたことが罪なんだからさっさと殺せ!!」って大の字に寝ているように見えて仕方がないんだが。

本当に男性が書いていたらバッシングを受けたでしょうね。
私は個人的には「自らの手で相手を始末して罰を受ける」くらいの覚悟がないと「お前は罪人だ」と糾弾できません。



id:watapoco とっっても同感です。/私が一生働こうと思っているのは、正にパートナーの男性の重圧になりたくないから。 男が「仕事やめたーい」って言える社会にならないと、全然男女平等じゃないよね。
なんて素敵な発言。watapocoさんは私に勇気をくれました。 こういう女性もいるのですよね。



id:paradichlorobenzene 男女, 心理 男と女の数だけ不正解があり正解がある訳で一部の断絶はもうどうしようもない、と私は思う。みんなが同じ方 向向いてるのも気持ち悪いしな←無論、犯罪はダメ絶対とした上で。

そうですよね。個人的にはそうした多様性や、不正解に柔軟にそして的確に対応できる人間でいたいです。

*1:要はその「言い回し」が大事で、今回のいろんな記事の盛り上がりは「言いたい事は解るけど、その言い方なんとかならないの?」ってだけの話な気がする

傷つける性として生まれた罪を知れ

「性的客体してだけ扱われる(いわゆるモノとして扱われる)」という事の恐怖感というか、嫌悪感のような話は、かなり前から繰り返されて来た事で、いまさらそう珍しい話でもないのだけれど、最近また盛り上がりを見せている。
「何度目だよ」と言いたくなるような話ではあるが、「何度も言わないと解らないバカがいるからだ*1」という事なのだろう。
私も女なので、そういう恐怖も嫌悪感も解らない訳ではない。セックスのリスクが女の方が高いというのは「事実」であるし、セクハラだって不快である。 私の場合は*2不快な言動をした人に対して「不快だ」と言ってしまうし、犯罪レベルの問題であれば犯罪として処理してしまうタイプの人間なのであまり深く考えないが*3、こうした事を大変重く受け取ってしまう女性もたくさんいるのである。 中には「女になんて生まれたくなかった」と思う人もいるだろう。

こうした女性達の「意見」は全く持って「正論」であり、男性としては黙って受け入れる他はない。
セクハラは「相手がセクハラだと感じたらセクハラ」なので、反論の余地などないのだ。
女性から男性に対してのセクハラだってあるが、男性がそれを訴えられる土壌というものがあまりないので、世間的には*4「男は加害者」「女性は被害者」なのである。
こうした問題では、とにかく男性は分が悪い。
とにかく女性がこうした恐怖感や嫌悪感を抱かないように「注意深く」「相手を尊重して」振る舞わなければならないのである。
でも、どうやって?

それは非常に難しい。 だって、受け取り方も許容範囲も人それぞれだからだ。
女をモノ扱いするのは男の仕様、あるいは男の性の脆弱性と所有欲についてid:ohnosakiko氏のように深く分析し、冷静に対応してくれる人も居るが、そのようには考えられない女性は多い(と思う)。中には「それは最早ミサンドリーではないか?」と思われる受け取り方をする人もいる。
例えば「脚が奇麗だね」という言葉を「セクハラ」と感じる人も居れば、それを「褒め言葉」と感じる人も居るのである*5。 また、同じ言葉であっても、その言い方で(あるいは雰囲気で)それを不快に感じたりする人は居るだろう。
しかし一方で「褒めて欲しい」という女性だって存在する。
昔、知人が「日本人男性は褒めてくれないから嫌。今付き合っている彼はアメリカ人なんだけど、会う度に『今日の君は奇麗だね』とか『セクシーだね』って言ってくれるの」と言っていたが、そのように何時も褒めて欲しい、と思っている女性もいる。
「それは、彼氏として承認されたからだよね?」という声もあるだろうが、彼氏や夫以外の男性からの「褒め言葉」の受け取り方だって人それぞれで、ポジティブに受け取る人は実際にいるし、欧米のように「挨拶代わりに女性を褒める」という文化が日本にないのはつまらない、と言っている人すら居る。 

まさに「受け取り方は人それぞれ」で、「女性だから」と言ってひとくくりには出来ない。
「これが正しい女性への接し方です」などと言うものは存在しないのである。

もういっその事、男性は女性を相手にしない方が良いのかもしれない。そんな事すら思うがそうは行かない。 
「最近の男性は女性に対して積極的じゃないからダメだ」という話はしょっちゅう出て来る。

ずいぶん前に、私はこうした「男性のダブルバインド」についての記事を書いた。 書いたが、私はそこで「ダブルバインドの状況にある」という事を指摘するだけで、その対策については書けなかった。 あれから度々考えているが、答えは出ない。「正しい振る舞い方」が自明ではない以上、どうしようもない。どんな振る舞い方をしても、「加害者」になる危険性からは逃れる事が出来ないのである。

「それは一般常識のない男性の問題なのだろう」という人も居るかもしれない。 だから「自分には関係ない」という男性も。
ところが、女性慣れして女性に優しい男性も無関係ではなさそうだ。 著作をたくさん出しているような偉い人がこんな事を言っているからである。
「僕なんか彼女を殴ったりできないよ」信田さよ子blog

これはDVに関しての記事なのだが、筆者はここで「DV加害者や性犯罪者と一緒にしないで欲しい」と、加害者男性を極端な例として排除して考える男性の話をしている。 そして最後はこのように結ばれる。

このような排除する姿勢が、DVは男性の暴力だという意見に対する反発につながる。どこか、フェミニズムへの反発と共通してはいないだろうか。
本来の対抗すべき相手とは向き合わず(なぜなら排除してしまっているから)、被害者として加害者を批判する言説への反発にエネルギーを注ぐ。
この奇妙で、お角違いの敵意がネットやさまざまな場所で噴出している。
その根底にあるのは、自分もその一員である男性カテゴリーの中に、見たくない現実、認めがたい男性を引き受けられないという脆弱さではないか、と思う。

と言う訳で「一部の男性の事だから」と排除してはダメなようだ。
もう「男として生まれたからには全てダメ」とでも言われそうな勢いである。 
男性だって、「男に生まれて来たくて生まれて来た」という訳ではないのに、男性であるというだけで背負わなければならないものはとてつもなく大きくなっているのである。
男性は相変わらず「きちんと社会参加すること」や「家族を養う為の経済力」は求められている。バブル時代の様に高額を望む女性は少なくなったが、それでも専業主婦願望の強い女性は居るし、共働き前提としても「出産」や「育児中」は男性に経済的に頼らざるを得ないため、ある程度の経済力は求められる事になる。 
これは社会的な問題でもあるので仕方の無い事ではあるが、非難を覚悟でぶっちゃけて言うと、それも女性次第だと「個人的には」思っている。私の母はいわゆる未婚の母だ。彼女は「紙切れ一枚で取り交わされる結婚という契約」に意味を感じなかったが、子供は欲しかったので私を生んだのである。しかしこれは母が自分で店(オートクチュールのブティックであったが、従業員もそれなりに居た)を経営していて、男性の手を借りずに経済的な基盤を確立出来たからであり、レアケースである事は間違いないが、やってしまう女性はやってしまうのである。だからと言って全ての女性がそうすべきという話ではもちろんない。 
という訳で、女性が男性に(ある程度)経済力を求めるというのも、残念ながら今の社会では「正当性を持った要求」なのである。
このように現代の男性は従来どおりの社会的な責任を負わされているのだが、昔は「男の特権」として許されて来たような振る舞い(いわゆる亭主関白的な)は、今ではあまり歓迎されない。 「男女平等」の世の中なのでそんな「前時代的な男らしさ」は求められてはいないのだ。 もはやそんなモノは「抑圧されるべきもの」として扱われている印象がある。女性をエスコートしたりというソフィスティケートされた振る舞いや、女性を守るというような男らしさは求められる事はあったりするが。
ここでもいわゆるダブルバインドの問題は浮上する(というよりダブルスタンダードか?)。
もう現代の社会では「男性であるメリット」なんて殆どないのではないのか? そんな事を個人的には思うのだ。

かつて男性が、女性を差別して追い込んでいたように、女性が(社会がと言い換えてもいいかもしれないが)男性を追い込んでいっているという事は全くないのだろうか? と私は考える。
もちろん、そんな事はしていないと思う女性も居るだろう。それはそれで構わない。

私は決して全男性を責めてなどいない。極論すればDV男性すら責めてはいない。責めることの無意味さと不毛な対立はよく知っているからだ。

と信田氏も書いているし*6、「モノとして扱われる」という事に恐怖感を抱く女性も男性を責めてはいないのだろう(たぶん)。
しかし、先の信田氏の記事を読んだ私は思うのである。
それを「責められている」と捉えてしまい「男性として生まれて来た事」に罪悪感を抱いてしまう人がいるのではないか?という事を。 そのように「私が」誰かを追い込んでしまう可能性を。
書いたのは私ではない。私ではないが「切り離してはいけない」という信田氏の主張を自分に置き換えればこうなるのである*7
あくまで個人的な考えではあるが、私はどこかで「人間は生まれて来た事自体が罪である」と感じている。だからと言って全世界に頭を下げて生きていかなければ、とは思わないけれど最低限引き受けなければいけない事もあるのではないか? と思っている。
傷つける性」として生まれながらに「罪人」の烙印を押される事に怯える人を「脆弱」などと切り離すのならば、そう追い込む可能性がある自分というものだって引き受ける事も必要なはずだ。 


しかし問題はそう引き受けたところで、一体どうするのか? という所である(信田氏も答えてくれていないし)。
私は信田氏の記事のメタブックマークにこう書いた。

Paris713 私自身が産まれて来た事事態が罪であると自覚は出来るけれど、他者に対して「お前は罪人だ」と言いたくはない。いい人ぶるつもりはないけど。補足/実際に罪を犯してない人に対しては言いたくない。

まずはこの「感覚」を少しずつ掘り下げてゆく事から始めるしかないかもしれない。
それは「傷つける性として生まれた私」の罪滅ぼしになるのだろうか?




 

*1:何度言っても解らないのは、伝え方が悪かったり、言う相手が間違っている可能性はないのだろうか?と疑問に思わなくもないが

*2:アセクシャルなのでセックスのリスクは置いといて

*3:まあ、あまりそういう類いのバカに遭遇した事がないから言えるのかもしれないが

*4:ネットでは多少そうした事に対する言及があるが、いわゆるTVなどで取り上げられたりするような「市民権」はまだ得ていない

*5:「手が奇麗だね」と言われてセクハラと感じる人は少ないかもしれないが(居ないとは言わないが)脚は結構居ると思う。私は平気だが

*6:責められている、と受け取ってしまう人はいるだろうと思うし、私もそう受け取ったが

*7:信田氏の記事に賛同は出来ないがある意味重要な視点を含むと考えているので

シロクマ先生のような大人になりたい。

長くなってしまったので、小見出しで整理してみました。
今回のお話はこの4本
非言語メッセージの重要性
こんな非言語メッセージは嫌だ
対人コミュニケーションが苦手な人の為の非言語メッセージ
私は大人になりたい

以上です。


非言語メッセージの必要性

私は非言語メッセージがあまり好きではない。
しかしそれは、非言語メッセージを「使わない」という事を意味しない。
対面によるコミュニケーションを取る場合には、それを使用する。むしろ積極的に。
何かを伝えたい時、非言語メッセージはそれを補助するものとなるし、また、発話内容が相手に伝わっているかどうか?を確認する術としての非言語メッセージも重要だ(これは相手の反応としての非言語メッセージ)。
初対面の人とも別に普通に話せてしまうタイプの私は、こうした非言語メッセージ付きのコミュニケーションが「苦手」ではない。非常に便利なツールだと捉えている*1


私は以前仕事で、企業の展示会やイベント等のお手伝いをしていた事があって、会場で司会をしたり「商品のプレゼン」みたいな事をやっていたりした事があったのだが(名古屋の小さな会社だったので、規模も小さく地味なものだが)そうした場合には非言語コミュニケーションはフル活用であった。
自分が話す時にはもちろんの事だが、重要なのは「お客様(聞いている側)」がどう反応するか? である。
司会などの1対多のコミュニケーションでは、言語はほぼ一方通行なので、相手に伝わっているか? 相手がどう感じているか? は非言語メッセージから読み取るしかない。それを読み取った上で、言語と非言語メッセージを駆使して場の空気をコントロールする、というのは基本中の基本で、そうした非言語メッセージをコントロールする事も私はそんなに「苦手」ではない。どちらかというと「得意な方」だ。

こうした事はいわゆる「コミュニケーション能力」のひとつであり、重要であるとは思うのだが、どちらかと言うと「向き不向き」の問題であり、慣れればなんとかなるとか努力でなんとかなる、とは思えないので、一概に「出来ないからダメ」とくくってしまうのはいささか問題があるのではないか?と思っている(ある程度はなんとかなるかもしれないが。*2

さて、冒頭で私は「非言語メッセージがあまり好きではない」と書いた。
理由はただ単純に「面倒だから」なのだが「面倒だから無くしてしまえ」と言えるものでもなく、また「対面コミュニケーションが苦手な人にこそ必要かも」と思っていて、自分でも非言語メッセージに対する気持に整理がつかないでいたのだ けど、シロクマ先生が非常に解り易く記事にして下さったので、私の中の謎は解けた(大袈裟だ…)

注目したのは記事の注釈部分である。

それと、非言語メッセージを伴わない言葉なんて、嘘がいくらでもつけるわけですから、非言語メッセージと言語メッセージが一致しない場合、人はたいてい言語メッセージに疑いを持ってしまうものです。尤も、非言語メッセージのマネジメントが得意すぎる人の場合、それを裏手に取って言葉で本当のことを話して、 表情や声音で嘘をついて逆ハメするという芸当をやってのけることもあるらしいですが、あくまで例外でしょう。

あなた、身体から情報が漏れてますよ?――非言語メッセージは隠せない
注釈2

私が「嫌いだ」とか「面倒だ」とか思っていたのはこの注釈部分にある「非言語メッセージのあり方」で、「対面コミュニケーション」が苦手な人に必要なのは、記事中で書か れている「非言語メッセージだだ漏れ」という行為(状態)だと思ったのである。

なんだか逆のようだけど、逆ではない(はず)。
どういう事か?
その前に注釈部分に出て来た「非言語メッセージをマネジメントする人」の話を少ししよう。

こんな非言語メッセージは嫌だ

シロクマ先生のような方の周りにはあまりいらっしゃらないかもしれなが、私の周りでは結構観測された例である。中学生時代に女子グループの中でそうした事態は度々観測した*3
グループ内で楽しくおしゃべりしつつ、特定のターゲットが居心地悪くなるような雰囲気を非言語メッセージで表す。
ある程度「場の雰囲気」を作り出せる(いわゆるリーダータイプの)女子ならば、周りを従わせるのはお手の物なので、気に入らないターゲットがしゃべり始めると全員でつまらなそうにしたり、「良かったね」などという肯定的な言葉の裏に否定や侮蔑を込める。
このようにグループ内で蔑みの対象にして玩具にしたり、居心地の悪い雰囲気を作り出して「空気が読めないお前が悪い」と非言語メッセージで伝えるのは、そういう事に向いている人にとっては案外簡単だ。 しかも言葉で攻撃するわけでも、ましてや肉体的な暴力を振るうわけでもないので、いじめとして告発もされ難いという便利なテクニックである。


そこまで悪質なケースでなくても、非言語メッセージをマネジメントして、非言語メッセージを重視したコミュニケーションを取りたがる人は居る。
例えば、ドライブ中やデート中に言う「ねぇ、疲れてない?」という言葉の裏に「私は疲れている、喉も乾いたからお茶にしたい」というメッセージが込められている事なんて普通にある事で、コレが読み取れなかったらデートは大失敗である。
よく知人が「彼氏が気が利かない」と言って怒っていたりして*4、怒るくらいなら口に出して言えばいいじゃないか、と野暮な私は思うのだが「非言語メッセージが大好きな人」は怒ったり、悲しんだりしながらも「私(俺)の気持を察しろ」とばかりに非言語メッセージで語ろうとするのである。その人のポリシーなのかもしれないが*5そこまで貫くとある意味立派である。
非言語メッセージが大好きな人達同士のコミュニケーションなんて、「お互いがお互いの非言語メッセージを読み取り合う」という高度な心理戦に突入しちゃってもう大変である。 こうしたコミュニケーションに適応しようとすると、常に相手の非言語メッセージに気を配らなければならないばかりか、こちらの非言語メッセージが曲解されないように気も配らなくてはならない。
面倒過ぎて私には出来ない*6

このような「空気読め」とか「察してくれ」のような非言語メッセージが過剰に働く空間は本当に面倒である。
しかし、私のようにいい加減な人間は「面倒だからヤダ」で済んでしまう問題ではあるが、社会に出る為にはそうばかりも言っていられない。個人的なコミュニケーションはスルー出来ても、社会的なコミュニケーションはスルーすれば良いという問題でもないからだ。
では、どうしたら良いのだろう。

対人コミュニケーションが苦手な人の為の非言語メッセージ

シロクマ先生の記事は本当に良くまとまっていて、まさに「仰る通り」の内容である。

言葉にすがりつこうと頑張った挙句、身体からは非言語メッセージダダ漏れ、情報ダダ漏れというパターンの人は、かなり多いのではないでしょうか。

私もそういうパターンは良く目にしている。
でも、それはある意味「対人コミュニケーションが苦手な人」に必要であるとも言える。
何故か? 相手が非言語コミュニケーションに長けている場合「自分自身の気持ち」を伝えるのに効果的だからである。

私が「対人コミュニケーションが苦手な人」と接する時に最も意識するのが「相手が今何を考えているか(思っているか?)」である。 口下手な人の場合、自身の心情をなかなか言葉に表してはくれないので、無理に聞き出そうとするよりも「察して」しまった方が簡単だったりする(非言語メッセージ大好きな人とは逆の手である)。
相手が「緊張している感じ」を読み取れば、緊張感を和らげる流れに持って行けばいいし、不愉快そうであれば会話の内容を変えるとか、相手が乗って(積極的じゃなくても)来れそうな話題にシフトしてみる、とか方法はいろいろ出てくるのだ。
それは「非言語メッセージだだ漏れ」な状態であれば、結構簡単で「リソースを割く」などと言うケチくさいものを持ち出して来るまでの事でもないし、「非コミュ」にアドバイスやお説教が出来る地位にいる方なら、なおさら簡単であろう。

出来る方がさっさとしちゃった方が合理的だ、と私は思うのだ。

しかし、ここで重要なのは「だだ漏れ」の非言語メッセージを読み取る側が、それを嘲笑って馬鹿にしたりしてはいけないという事である。
別に他人に命令するつもりはないが、そういう態度は大人として如何なものか?と私は思う*7

私は大人になりたい

対人コミュニケーションが苦手な人が「非言語メッセージだだ漏れ」状態になっているのを嘲笑ったり馬鹿にする人というのは、存在する。
「嘲笑って馬鹿にする」という事でストレスのはけ口にして、自分の精神状態をかろうじて保ちたい人は一生その不毛なお遊びをしていればいいのだけれど、そんな事はコドモのする事だと私は思っている。
大人だったら、しかも相手の非言語メッセージを読み取れて、なおかつ「コミュニケーション能力を磨け」などというお説教やらアドバイスが出来るくらい能力のある人だったら「出来ない人を馬鹿にする」なんて事してないで、苦手な人が少しでもやりやすくなる空気を作るくらいの事はしてもいいんじゃないか?と思っている。
少なくとも、私はそうしたいと思っている。
それは私にとってはリソースとか気遣いとか言う程大袈裟なものでもないからだ。


では「対人コミュニケーションが苦手な人」は何もしなくて良いのか?というと、そうでもない。非言語メッセージにある程度の免疫を付けておかないと、社会生活が困難になってしまう事もあるからだ。

「非言語メッセージをある程度コントロールはできるよう意識しつつ、完全にコントロールしようとするのは不健全と心得る」

と記事にあるが、これは社会生活を送って行くにあたって、本当に重要な事だと言える。簡単な事ではないが、少しづつでも習得しておいた方が良いだろう。

物事には順序というものが有って、ある意味面倒であるけれどそれをすっ飛ばしてしまうと成る事も成らないという事態も起こる。
私は、この「だだ漏れ状態」をある種の順序、ステップの一環として考えているのだ。
先程私は慣れれば何とかなるというものではない、と書いた。が、「ある程度はなんとか出来る事もある」とも思っている。

緊張なんて、周りが緊張感を引き起こさせる要因を取り除けば多少は緩和できるものだと思うし、それこそ「慣れる」事によって少しづつ解消して行けるケースだってある。

非言語コミュニケーションに苦手意識を持っていて敬遠している人も、ときには自分の身体から漏れずにいられない非言語メッセージを振り返ってみては 如何でしょうか。意外な盲点や、動揺している時の自分の癖などに気づくかもしれません。自分自身が今、どんな非言語メッセージを漏らしているのかを多少意識できるようになるだけでも、実際には、かなり重宝すると思います。

これは、とても需要な指摘で、苦手意識を持ってる人は実践するにこした事はない、と思う。いきなり実践しようとすると難しいかもしれないが、ある程度緊張感を緩和した状態に持っていければ、そうした「意識すると言う事」も多少は実践しやすくなると思う。
その「ある程度緊張を緩和した状態」にもって行くお手伝いくらいは、出来る方がさっさとした方が合理的だと思うのだ。
逆にそれを「嘲笑ったり馬鹿にしたり」するような事は、非言語メッセージを発する事すら萎縮させ、追いつめてしまう可能性もある。

実際に、意識や理性で非言語メッセージをコントロールしようと無理し過ぎた挙げ句、鬱病などの感情障害に罹患してしまう人は珍しくありません。
あなた、身体から情報が漏れてますよ?――非言語メッセージは隠せない
注釈3

とシロクマ先生も書いていらっしゃるし、そのとおりだと思う。

そんなふうに誰かを追い込んでしまわない為にも「だだ漏れの非言語メッセージ」くらいは受け止めて、対応できるくらいの「大人の余裕」を持ちたいものである。

シロクマ先生の言う「ロールモデル」にはほど遠いけれど*8

*1:逆に言語だけで伝えなければならない、文字だけのコミュニケーションの方がハードルが高く感じられる事の方が多いし、どちらかというと「苦手」である

*2:逆に文章力とか読解力等の「言語だけのコミュニケーション能力」は努力でなんとかなりそうだけど。高度なテクニックがあれば、言葉の裏に「メッセージ」を込める事も出来る(そんな文章力が私も欲しいが、努力嫌いの怠け者なので無理である)

*3:大人になってからもこうした集団での圧力を使う人達も結構いる。いわゆる「空気読め」なんてその最たるものだし

*4:彼女はほぼ全てを非言語メッセージで伝えようとするタイプだったので (その為、相手の非言語メッセージを勝手に解釈してしまうという事もあった)エスパー並に気の利く人じゃないと彼女の気持を察する事が出来ない、というお付き合い難易度の高い女性であった

*5:例にあげたケースは女性だが「察しろ」な人は男女問わずなので、「女性は物事を余りはっきり言わない方が…」的なジェンダーの縛りが関係してるかは謎。

*6:このような人の場合、あまりにも面倒になったら「気の利かない人」のフリをすると勝手に心情を事細かに吐露してくれるので、それはそれで扱いやすいとも言える。ただ大抵の場合怒っているのでアフターケアが必要なケースも生じるが、それも面倒だったら放っておけば相手から離れてくれるという便利な一面も

*7:本質的には「人間としてどうか?」と問うべきだが

*8:しかし、実際のところ私は年寄りの域に達しているので「大人になりたい」なんて悠長な事言ってないで、ちゃんとした大人になってなければ行けないはずなんだが、いろいろと困ったものである

再び「表現規制とミニスカート問題」


私は「表現規制とミニスカート問題」で「両者は同じだと考えている」と言った。

ただし、ミニスカートと性犯罪を関連付けて考える人もいるし、性的ファンタジーと性犯罪を関連付けて考える人もいる。ミニスカート問題と表現規制問題 を関連付けて考える人が他 にいるかどうかは解らないけれど、私は両者は同じだと考えている。両者とも確かなデータもないのに関連付けられ、問題視されているという事において。


今回はそれに対する私のスタンスの話を少し遠回りをしながらする事にする。
今回もブクマコメの引用から。

id:quix_que 責任, 本 題と関係ない、かも 概ね同意ではある(というか多分15年くらい前から同じことを言っている)のだが、「嗜好や好みや価値観」 と人格は不可分というか人格というものはそういうものの集合としか定義できないんじゃないかとも思う。
はてなブックマーク-表現規制とミニスカート問題-どうでもいいことかもしれない

全くもってその通りで、正論だと思う。 「嗜好や好みや価値観(付け加えるなら趣味も)は人格と結びついている部分も大きいだろう」と私も思うからである。 
というのは、そうしたものはしばしば「自己主張または自己アピール」のアイテムとして使われる事もあるからだ。 私個人としてはファッション*1なんて一番簡単な自己アピールだと思っていて、それをアイテムとして使う事だって良くあるのである。 だからと言ってそれが「私の全て」ではもちろんない。 同じように他者にとってのそれも、確かにそういうものの集合体がその人の人格形成に深く関わっていたとしても、それがその人の全てである、とは私には思えない。
「嗜好や好みや趣味や価値観」には、全てその背景というものが存在する。 であるから、「人格とある意味不可分」と言える訳だ*2
しかし、私はその「全て」を把握できる訳ではない、あたりまえの事だが。  それはある程度、その人と対話を重ねる中で少しづつ見えて来るものかもしれないけれど、それは語られた事などから「私が勝手に感じ取ったもの」なので、正確には「わからない」のである。
他者の価値観に対して、それにどのような背景があるのか考える事もあるし、相手に直接尋ねる事もあるかもしれないが、それでも、それは正確につかみ取る事は出来ないし、それでわかったとは言えない。

そう、私にとって「他者は解り得るとは言えない存在」なのだ。
なので、私にとってその人の「嗜好や好みや価値観や趣味の集合体」は、あくまでも「私から見たその人の一面(そういうものを好む人なのだという)」であり、「本当のその人自身の人格とは関係がない」少なくとも私はそう思っている。 つまりそんなに大きな意味をなさないのである。

ただ、その「嗜好や好みや価値観や趣味」というものは、その人と関係を持っていく上では、大きな影響を持つ事でもある。 人間には「好き嫌いの感情、感覚」という物があり、どうしても合わないものや好きになれないもの、嫌いなものもあるからである。

だから私はこの様に書いた。

その人の嗜好や好みや価値観をどう捉えるか?というのは基本的には「捉える側の自由」だと思っている*3。例え ば、誰かのファッションや映画や音楽の好みに対して「自分とは趣味が合わないな」と思う事は自由だ。ただ、そこに「善悪」をからめたり、ましてやそれでその人の人格を決定してしまう事はしてはいけないと思っている。「趣味」への評価は、純粋に「その趣味そのもの」への評価でなければならない、と。


つまり、たとえ自分と合わない価値観や嫌いな趣味がとしても「そんな嗜好を持っているから変な人である」とか、「そういう価値観の人だから悪い人」であるとか、「そういう趣味の人だから、バカなんだ」などと思ってはいけない。と私は思っているのである。
そんなふうに「その趣味とその人自身、その人の人格をつなげてしまってはいけない」と思う。
「趣味」への評価は、純粋に「その趣味そのもの」への評価でなければならない、というのは、そういう事だ。

なので、私は趣味や嗜好で勝手にその人を判断する、という見方は取らない。 
それだけで、その人を規定したりはしない*3。 
私にとってそれらは集合体というよりは、個々にバラバラに存在していて「そういう価値観は共感できないな」であったり「そういう嗜好は私にはないな」であったり「そういう趣味は私とは合わないな」する訳だけど、それだけの事である。 それだけの事なので、「趣味は合わないけど価値観には共感出来る」なんて事もあったりする。
また、それらの事柄からその人を「嫌いだ」と思ったとしてもそれはただ単に「私は」その人が嫌いというだけの事で、そこに正当性はないのである*4

ところが、往々にしてその人の「嗜好や好みや価値観や趣味」から人格を規定してしまう人がいる。
「そんな嗜好を持っているから変な人である」とか、「そういう価値観の人だから悪い人」であるとか、「そういう趣味の人だから、バカなんだ」などと思う人は存在するのである。
私はそのような『見方は』大嫌いである。

私は、「ミニスカをはいているのは男を挑発しているに違いない」とか「ロリコンまんがを読んでいるような奴は犯罪者予備軍」とか、そういう見方をとらない。
そう、表現規制とミニスカート問題はここでも繋がるのだ、両者ともその趣味嗜好から、その人を勝手に規定しているからである。
私はその見方、考え方が嫌いであり、嫌なのである*5
でも、ミニスカートと性犯罪を関連づけて考える人も、性的ファンタジーを性犯罪と関連づけて考える人もいるように、趣味嗜好から、その人を規定してしまう人も存在する。 そしてそれも個人の考え方の自由であるとも考える。

私は「ミニスカをはいているのは男を挑発しているに違いない」とか、「ロリコンまんがを読んでいるような奴は犯罪者予備軍」とか「処女を好むような男は僻み根性の固まり」だとかそういう見方はしない。嫌いだし、したくないから。


でも、私がいくら「大嫌いだ」と罵ろうが、そういう見方や考え方をする人は居なくならない。 そういう人が存在するのは事実なのである。 どんなに犯罪を憎んでも犯罪ががなくならないのと同じ事である。 もちろんこうした『見方』や『考え方』は犯罪ではない、だが犯罪ではないが故に犯罪をなくす事より難しいと思う。
私は独裁者ではないので「そうした考え方を持っている人」を抹殺する事は出来ない*6。 
そこまで極端な話ではなくても、その考え方を変える事を「強制」できない。
「その考えは間違っていると思う」と伝える事は出来ても、また説得する事が出来たとしても、無理矢理従わせる事はできない。 その人の考えはその人のものだから。
そう、私が「嗜好や好みや価値観や趣味で人格を規定してはいけない」と思うのが自由であるように、違う誰がか「規定してもいい」と思うのも自由だと思っているからである。

私は、私と正反対の意見だとしても、受け入れられない意見だとしても、相手にはそれを言う権利があると思っているから。

私自身の口を私自身の意思でつぐむ事はしても、相手の口を無理矢理塞ぐ事を私はしない。
そんな権利は私にはないのである。


それはすなわちこう言う事だ。

これを、または私の今までの言説を読んで、あなたがどう思うおうと、それはあなたの自由だ。
私の事を気違いと思おうがバカだと思おうが、卑怯者と思おうが犯罪者と思おうが、何を思って何を言っても、私はそれを止めない。

私がそれに対して反論や質問を返す自由はあっても、あなたの発言を止める権利はない。
自由に、あなたの思うがままに、発言すれば良い。 
私はそれを恐れないから。
「それを恐れちゃったら私が廃る」ってそういう事だ。

*1:これだって好みの一つだと思うが

*2:なのでこれらのアイテムは「自分自身を分析する」時には結構使える

*3:というのは、それは私の世界を狭めてしまう事になるから、という至って自己中心的な考え方から来るものであり、私が良い人だと言う事ではない。読んで下さる方は誤解しないように(はてなの中には純粋な方が多いので心配なのである)

*4:まれに、私の中の規範に合わせてそれを「悪」とする場合があるが、それも私が勝手に決めている事で、なんの正当性もないので、その人格そのものを悪として糾弾したりはしない。ただ一人で怒っているだけである(我ながら小さな人間だと思う)

*5:もちろんこれにも正当性はない。私の中では間違っている事でも、他者にとってそうである、そうであるべきだというスタンスを私は取らない

*6:独裁者であれば権力で抹殺も可能だろうと思われるが、その人が黙っていた場合、または嘘を付いていた場合は「わからない」ので完全に抹殺は出来ないのである

おせっかいなおばあちゃんとやっかいなコミュニケーション

前回の記事のコメントが非常に重要な視点を含んでいたので、コメント返しでは書ききれなかった事を書いてみる。

発端はこの文章から。

寒い日に外出する孫に「上着を着ていきなさい」というのは孫が風邪をひかないか心配する心、老婆心です。それに対して 「うるせぇな!」というのはもちろん自由です。

これは実は「年寄りめんどくせぇ」からの流れで書いたので、別におばあちゃんと孫の会話である必要はなかったのだが、幸い非常に解りやすいたとえになった。
こうした「あなたの為を思って」という老婆心的なものは、「正当性」を持っていると思われやすい(世に言う「正論」なんて正当性がありそうどころか、正当性の固まりみたいなものである。だから正論なんだけど)。
でも、私はあまりそういう事を重視しない。 それよりも私にとってどういうものであるか?を考える。
それは「重要な指摘、新たな発見!」だったり「おお、そうだった忘れてた、忘れちゃいけない事だった」とか「正しい事を言ってるんだろうけど、私には関係ないや」だったり「大きなお世話だよ、全く」や「そんな事、したくも考えたくもないね」や「なんだか意味がわからない」だったり様々だ*1

私は本当に自己中心的なので、それが正当性があろうがなかろうが、目上の人が言おうが年下の子が言おうが、好きな人が言おうが嫌いな人が言おうが、容赦なく「自分には受け入れられない」と思ったら切り捨ててしまうのである。また、「正しい事だし、受け入れたいけど、出来ない」から切り捨てざるを得ないという事も、もちろんある。

こんな感じで独善的に物事を切り捨ててしまう私にはあまり関係のない話だけれど、「正当性を持った意見」や「正論」は受け入れなければならない、と思ってしまう人もたくさんいるだろう。
もちろんそう言う視点も大切だけれど、あまりそう言う事に縛られなくてもいいじゃないか、と私は思っている。 「正当性がある(ように見える)」からと言ってそれを受け入れなければならない、と考える必要はないと私は考える。

ただ、正当性がある(ように見える)事や正論に反発するのは、結構風当たりが強かったりもする*2
おばあちゃんは「親切をだいなしにされて悲しい」と思うかもしれないし、それを聞いていた第三者には「心配してくれているおばあちゃんに『うるせぇな!』なんて酷いわ」と思われてしまう場合だってあるだろう。
それでも、自分にとってそれが「そう言い返す価値のある事」だったら言ったってかまわない。と私は思っているのだ。

たとえそれでおばあちゃんやまわりの人から非難されたり、嫌われたりしても、そんなの怖くない。「それを怖がっちゃったら自分が廃る」と私は思っているのである。

もちろん、コメント欄に書いたような「別の言い方」というのも選択肢の一つ。でも、それで非難される事をかわせるかどうかは解らない。言い方ひとつで印象も変わる。とよく言われるが、実際にはどんな言い方でも気に食わないと思う人もいる。
コミュニケーションはやっかいだ。

それでも「自分で決めるよ」と私は言うだろう。おばあちゃんにとって寒くても、私にとってはそうじゃないかもしれないから(逆におばあちゃんが言う通り寒くて風邪をひいてしまうかもしれないけど、それこそ私の「責任」だ)。 

ここで「私のためを思って言ってくれた」おばあちゃんの言う通りに上着を持っていっても、結局邪魔なだけだったという場合もあるかもしれない。でも、その場合、「邪魔だなぁ」と思っても当のおばあちゃんは上着を預かってはくれないのである。つまり何の責任も取ってはくれない。たとえどんなに私の事を思ってくれていたとしても、邪魔なものは邪魔だ。だったら自分で決めた方がいい。私はそう思う。



さて、コメント欄では「孫」と「第三者」の視点しか書かれてないが、おばあちゃんに視点を当てて、もう少しこの話を考えてみよう。

おばあちゃんは孫が心配で「上着を持っていきなさい」と言った訳だが、この発言で孫に「うぜぇ」と嫌われてしまう可能性がある。また、それを聞いていた第三者に「おせっかいなばあさんだ」と思われてしまう可能性もある。
でも、おばあちゃんが本当にそれを孫に伝えたかったら、伝えればいいのである。たとえ周りにどう思われようとも。 
ただこれも、言い方は自由自在。あまり押し付けがましく思われたくなければ、「今日は寒いから上着を持っていったほうがいいかもねぇ」という言い方も選択出来る訳だ。 ただし、それでも「おせっかい」と思われる場合もある。


ところで、この例では「親切なおばあちゃん」だが、そういう「老婆心的な」発言をする人がみんな親切という訳ではない。
「親切なおばあちゃんと思われたい」から言っているのかもしれないし「孫がひいた風邪を染されたら嫌だ」と思って言っているのかもしれない*3。でもいずれのケースであっても、おばあちゃんがそれを言いたければ言っていいと思う。それは彼女の自由だ*4


同様に、それを耳にした第三者だって、「その言い方はないんじゃない?」と(おばあちゃんに対してだろうが、孫に対してだろうが)言っていい*5
もちろんこの場合だって、「あんたに関係ないでしょ!」と思われてしまうケースがあるが、言いたければ言えばいいと思う。

まるで三つ巴の喧嘩みたいな状況が展開しそうだけど、お互いの意思を伝えるには必要な事だと思っている。殆ど喧嘩みたいに見えても、そういうのもコミュニケーションだと私は捉えているので、どんどんすればいいと思ってる。 なんだか最近はコミュニケーションと言うのが「皆で仲良くすること」みたいに思われているのが*6、私としては少し残念なのである。
コミュニケーションだって、もっと自由でいいじゃん、というのが私のスタンスだから。
「皆と仲良く出来ない」事なんて、私はちっとも怖くないから。

ちなみに、私も「上着を持っていきなさい」という発言はおせっかいだと思うけれど、上着を着ないでいる人に対して、その人が上着を持ってるか持ってないかを確認する事もなしに「上着を着ればいいのに」と言う人よりは、全然マシだと思う。

*1:もちろん、これは時間を経て変わる事もある。「よく解らなかったけど、そういう事だったのか!納得」とか「あのとき素直に言う事を聞いて、そうしておけば良かった」とか「正しいと思ってたけど、そうでもないのかなぁ」などと

*2:しかも今回のケースは相手は優しいおばあちゃん(弱者)である。これはかなり風当たりが強くなる

*3:このように同じ発言でも背景は様々なので、正当性や正論の見極めは慎重にした方がいいと思っている。ただしそんな背景から発せられたアドバイスでも、役に立つ事も有ったりもする

*4:ただ、私がおばあちゃんなら考える「孫の上着は預かってあげられない」という事を。 そして付け加えるだろう「邪魔になるかもしれないけどね。」と

*5:現実の場合は少ないがブログなんかだとよく有るケースである

*6:私は議論もコミュニケーションの範疇だと勝手に思っているので、「非コミュ」の人達の事を、ある意味『全然非コミュじゃないじゃん』と感じる。いわゆる「友達多いよタイプ」の人でも自分の意見が全然言えない人って居るし

表現規制とミニスカート問題


まずはこちらのブックマークコメント。

id:Francesco3 犯罪, 性 だいたい性犯罪に服装関係ないのにまだ責任がどうこう言ってるって……。年寄りめんどくせえって感想しか出てこない。年寄りかどうかしらないけど。

はてなブックマーク - 今更ながらのミニスカート問題 - どうでもいいことかもしれない

仰る通りです。「性犯罪に服装関係ない」のです。

では、何故いまさらミニスカート問題なんぞを出してきて、責任がどうこうとめんどうな話をしたのか?
今回はそんなお話。



前回の一連の記事は、諸事情によりかなりもってまわった言い回しになってしまったので、今回はストレートに結論から。

私はミニスカートと性犯罪は全く関係がないと思っている。
何故ならミニスカートと性犯罪を結びつける確かなデータがないから。

表現規制の問題もそれと同じだと考えている。
何故なら性的ファンタジーと性犯罪を結びつける確かなデータがないから。

ただし、ミニスカートと性犯罪を関連付けて考える人もいるし、性的ファンタジーと性犯罪を関連付けて考える人もいる。ミニスカート問題と表現規制問題を関連付けて考える人が他にいるかどうかは解らないけれど、私は両者は同じだと考えている。両者とも確かなデータもないのに関連付けられ、問題視されているという事において。
そしてもうひとつ。
両者ともに「責任」というものは何らかの形(その形の説明は後ほど)で存在はするが、それを「問う」事は無意味だと言うこと。
これが今回の結論である。


しかし、前回私はこのミニスカート問題の「責任」を問うた。多少トリッキーな形で。
設問自体がトリッキーであったので、記事自体も非常にトリッキーなものになってしまい、何が言いたいのかよく解らない事になってしまったのは、確かである。それをいまさら説明するのはみっともない事であるのは自覚しているが、ちょっと補足的に書いておくことにしよう。

流れはこちらを読んで頂くとして、私はその記事の中で「責任がある」とこんなふうに書いている。

「自由には責任が伴う*3」というのは至ってあたりまえの事だと私は考えているので「責任を取るのは彼女自身だ」と考えるのであるが、それは「そんな格好してたらどうなっても知らないよ」という非常に突き放した、冷たい態度である。

「自由には責任が伴う」というのをもう少し明確に書くと「個人の自由意思でなした決定または行動の結果に於いて責任を伴う」という事である。
これは、普通に読めば「ミニスカートなんてはいてたら性犯罪の被害にあってもしらないよ」と読み取れてしまうであろう。もともとそうした事に言及していた記事に対して書かれたもので「性的ファンタジー」や「被害者」「加害者」「傷つける」などのキーワードがあふれるものの中に書かれているのだから。
ただ、私は一言も「性犯罪にあっても」とは書いていない。「どうなっても」の「どう」とは一体どういう事なのか?というのは、具体的に一言も示してないのである。しかし、この文脈の中ではその「どう」と「性犯罪の被害にあうこと」が結びついても仕方がないのである。
私は意図的にそう書いたのだから。

実際はその「どう」はこちらのほうに結びついているのである。

ただ、私は優しい人間ではないので「だからそんな格好はおやめなさい」とは言わない。好きな格好をすればいいのである。他人からどう思われようとも。

「自分の魅力を最大限に見せる」という基準も「寒いか暖かいか」という基準も「上品か下品か」という基準も人それぞれだし、本人が「似合う」と思って着ているのなら、つまり自分の内面の自由においてそれを選択しているのなら、それは私が「しかし似合ってないな」とか「もうちょっとこの場にふさわしいファッションがあるんじゃないの?」とか「センス悪いな」と思ったとしても関係がないからである。 だから私はそれを口には出さない。余計なお世話以外のなものでもないから*2。

私が問うている「責任」はこの程度のものである。というのは個人の選択した自由に於いて個人が取れる責任なんてせいぜいこの程度のものだと思っているから*1
この程度、上記の場合はその服装を選択した結果、他者である私に「センスが悪い」と思われたりする程度の事なのである。回答者がくれた「暖かい国で」という前提を加えるのなら、寒いのにミニスカートをはいていたので風邪をひいた。というのも本人に責任があると私は考える。
「どうなっても知らないよ」の「どう」とは実はこんな事だったのだ。


ただ、風邪をひくうんぬんはともかくとして(でも風邪は万病の元とも言うのでどうでもいいとも言い切れないが)他者からどう思われるか?というのは大きな問題だったりもする。他者からの評価を自己評価に過剰に結びつけてしまう人がいるからだ。
もちろん、他者からの評価、または他者の視線を気にするのは悪い事ではない、必要な事である*2。問題はその他者の評価や視線のあり方や、その受け取り方である。

「センスが悪い」この一言を「人格の否定」として使う人も居れば、「人格を否定された」と思う人もいるのだ。
これは、とても恐ろしい事だと私は思う。その人の嗜好や好みや価値観をどう捉えるか?というのは基本的には「捉える側の自由」だと思っている*3。例えば、誰かのファッションや映画や音楽の好みに対して「自分とは趣味が合わないな」と思う事は自由だ。ただ、そこに「善悪」をからめたり、ましてやそれでその人の人格を決定してしまう事はしてはいけないと思っている。「趣味」への評価は、純粋に「その趣味そのもの」への評価でなければならない、と。

ただ「その人の嗜好や好みや価値観」を「善悪」で推し量ったり「その人の人格」を勝手に決定したりしてしまう人は存在するのだ。悲しい事だけど。そういう人が存在する限り、他者の評価を過剰に自己評価に結びつけてしまう人、はいなくならないのだろう。

出来ればそういう「趣味が合わない」「価値観が違う」という言葉を人格否定に捉えないで欲しい、と私は思っている。だが、実際にはそうした言説を「人格否定」と捉えてしまう人もいないとは言えない。なので、私は基本的にあまりそういう発言はしない。受け取り方は人それぞれでそれは私自身がコントロールする事は出来ないのだから*4

そう、他者の受け取り方はコントロール出来る事ではない、つまり自分の自由意志とは全く関係ない所にあるのである。
「個人の自由意思でなした決定または行動の結果に於いて責任を伴う」と先程書いたが、その結果である「どう思われるか?」は個人の領域を離れ、他者の手にゆだねられるのである。それに対して「あなたに責任が持てる?」と問えるのか?
ゆだねられた他者の受け取り方に責任は生じないのか?
私は問う事自体に意味がないと思える。


責任は問うのではなくて「持つ」のだ。誰の?「自分自身」の。
「自分自身の意思で選択した自由に於いて、他者からどう思われても怖くない」と思える事。
それが大人だと私は思う。
その結果を引き受けるという事が責任を持つという事なのではないだろうか?



最後におばあちゃんからひとこと。
寒い日に外出する孫に「上着を着ていきなさい」というのは孫が風邪をひかないか心配する心、老婆心です。それに対して「うるせぇな!」というのはもちろん自由です。

*1:この選択にしても責任にしてもこの言葉だけで伝えるのは非常に難しいと感じる。例えば一言で選択と言っても個々の置かれた状況でその選択肢の幅は変わる。私は選択肢の幅が大きければ大きいほど問われる責任の割合も変わって来ると思っている。そして本人に責任がある=本人が悪いであるとは思っていない

*2:私にはそれが無さすぎる。その方が一般的には問題だと思う

*3:私の場合、本気でどう思われてもいいや、と思っているので、この「捉える側の自由」はかなり大きく設定してある。例えば誰かが「お前なんか生きている資格はない、死ね」と面と向かって言って来たとしても「まあ、寿命が来たらそのうち死ぬから待っててね」と言うだけだ。実際に行動を起こされたら話は別。私には抵抗する自由も、法的に訴える自由もあるから。殺されちゃったらそれは天命だから仕方ないのかも

*4:もちろん、意図的にある程度の印象付けは可能である。例えば「個性的だと思われたいから、個性的な服を着る」とか「頭が良いと思われたいから、頭の良さそうな事を言ってみる(私はまさにそのパターン)」とか。ただしこれだって確実性はない。その通りに受け取ってくれる人もいるかもしれないが「ああ、そう思われたいだけなのね」と思われておしまい、という事はよく有る