羽生善治「決断力 (角川oneテーマ21)」

最近、ふたたび将棋に熱中しだした。しばらくの間離れていたのだが、久しぶりに触れてみると、いろいろと得るもの、考えるところがあっておもしろい。

棋界の第一人者、羽生さんのこの本は、2005年のもの。もちろん出ていることは知っていたが、当時は、立ち読みして、中身的にはシンプルだしそこまで面白いのかな、とあまり興味がなかった。ただ、将棋のおもしろさを久しぶりに感じだした今読むと、またこれが深いのである。

ビジネス書的な書き方に落とし込むとよく聞くような言葉になってしまう。しかし、十代のころから四十代の現在に至るまで、どんどん進化する最新戦法にまったく動じることなくトップに居続けている羽生さんが書くことは、少し意味がちがう。若さの勢いだけでこれだけトップに居続けられるわけではないのは、彼が十代の頃にものすごく強かった棋士も、同じ年数を経て必ずしも同じ立場を保っていない人が多数であることが証明している。
情報が過多になり、専門的知識の先端化がどんどん進むなかで、持続的に力を発揮し続けるためにはどうすればいか、という視点で読むと、同じ言葉でも全く良くあるビジネス書とは違った意味合いを持ってくる。

例えば、どういうスタンスで戦うかの話。最新戦法にも、全てについていくのではなく、戦法が自分に合っているか、深さがあるかなどの基準で絞り込んで研究したうえで(p75)、『自分の得意な形に逃げない(p137)』『敢えて熟知していない戦型に挑戦しようと思っている(p138)』と彼は言う。すなわち、

将棋では、自分がよく知った戦法ばかり同じようにくり返していると、三年、五年、さらに十年という長い目では、確実に今のポジションを落とすことになる。(p145-146)

というのである。
ビジネスでも、常に新しい技術を開発せねばならない、などと言われそうだが、実際に自分で考えて実践しながら三十年ポジションを落とさずやっている(そして周りはそれなりに落としている人もいる)彼の言葉には、自分で技術開発をやっているわけではない社長の言葉とは異なる説得力がある。

次々と変わっていく状況のなかで、新しいことをやり続けて、未開の領域を拓いていく。そういう分野にあって、同じこと、得意なことだけをやっていることは、すなわち衰退を意味する。研究に関わるものとして、これほど耳が痛い言葉もない。
一つ言えるのは、羽生さんのようにやらなくても、将棋棋士として生きていくことはできるということだ。同じように、新しいことをやりつづけなくても、大学で研究をして生きていくことはできる。そこで楽をせず、自分に負荷をかけて新しいことをやりつづけようとする動機はひとえに、その世界を理解してやろう、という好奇心なのだろう。

もう一つ、彼が将棋で戦う際に重要と思っていることで自分にあてはめてみたいと思ったのは、「最後に勝っていればいい」という大きな視点で勝負を見て、そのうえで余裕を持つことである。部分部分で勝っても最後に勝たねば意味がない。そういう意味で、「気力がしぼまない、一手の差のポジションをキープするのが大事(p109)」、「体力・根気がなくなると、結論のつかない状態に我慢できずに勝負を急いでしまう(p121)」という指摘や、「気持ちに余裕を持って「相手に手を渡す」ことの重要性(p38)」は、あることだけに集中して周りが見えなくなるとどうしても陥ってしまいがちなワナへの警鐘として常に気に留めたい。体力をしっかり維持して、根気良く気力を保って考え続け、ときには相手の(自然の、といってもいいかも)出方をしっかり見ること。それでしか、前進はないのだろうと思う。

最後に、勝ち負けではなく、こういうところが羽生さんのすごさだよなぁと思う部分を引用しておきたい。ただ勝てばいいのではない。その世界を理解しようとすること、それに少しでも寄与することが大事だという考えは、かっこいい。

むやみに趣向をこらすのが好きなわけではない。趣向には思想がなければならない。やたら目新しさで度肝を抜こうとするのではなく、その奇手が新たな地平を開拓する一歩でなければ、ただのこけ威しにすぎないだろう。(p65)