2010-04-22 「内心の自由」ってなんなんだ?

http://d.hatena.ne.jp/kutabirehateko/20100421/Second_Rape
一般的なものであれ、特定の人間に対するものであれ、人間の様々な行為や行動に対する批判的な言及は、人間の意識、つまりはその内面に対する問いかけを伴わざるを得ない。いささか型にはまったものが多いとはいえ、「差別」はいけない、「いじめ」はよくない、というような、よくある一般的な啓蒙だってそう。人間の意識=内面への問いかけを伴わない批判など、なんの現実的な変革ももたらさない、無力な批判にすぎない。
たとえば、アメリカでの黒人差別に反対し抗議した人らの活動は、なによりも、そのような差別を当たり前のもの、自明のこととしていた人らの意識=内面への問いかけを伴うものであったはず。そして、そのような批判を多くの人が正当なものとして受け入れた結果、現在では、少なくとも、公然たる「人種差別」は非難されるものという合意が社会的に成立したということだ。
もちろん、だからといって個々人の「差別」意識までが解消されたとは言えまい。だから、「差別」は正当と思っている者がいまなおいたとして、非難を受けたり、社会的不利益を被りたくなければ、それは「内心」にしまっておけ、と呼びかけるのには、一応の合理性はある。だが、だからといって、人の心の中にしまわれている、そのような「差別」意識への問いかけが無用となるわけではないし、ましてや禁止されるわけでもない。
そもそも人の「内面」そのものが罰せられないのは、「内面」が「内面」に留まっている限りでは、他者の内面など、神様か超能力者でもない限り、誰にもわからないからだ。どんな絶対的権力者にだって、分からないものなど罰しようも裁きようもないのは、当たり前の話にすぎない。
だから、そこで「『内心の自由』は保証されている」などと言い出すことは、ほとんど無意味な戯言か、でなければ、そのような言葉を盾にとって、ただ他者の声に耳をふさぎ、「あーあー、聞こえない」状態に閉じこもることを、自ら正当化しているにすぎない。
言葉を含めて、人間の表現行為とは、他人の心のドアをノックすることだ。人間は、言葉を含めた表現によって、互いに影響し影響される。それは当たり前のことであり、人間の「コミュニケーション」とは、もともとそういうものだ。そこで「『内心の自由』は保証されている」などと言い出すことは、ただの無意味な冗言にすぎない。
むろん、そこでの「コミュニケーション」のありようはひとつの問題である。ずかずかと、他人の内面に踏み込もうとすれば、非難されることもあるだろう。だが、それは、なにも他人の心のドアを無理やりこじ開けて、ひとりひとりの「内心」を検閲してまわろうという話と同じではない。そうだというのなら、「差別はやめましょう!」というような、ありふれた一般的なキャンペーンだって、他人の「内心」の検閲であり侵害だという話になる。
それでもなお、「内心の自由」は保証されるべきだというなら、それは結局のところ、他人の「心」への働きかけ、言い換えるなら、政治的社会的な言論はもちろん、あらゆるおたがいの「コミュニケーション」そのものを禁圧すべきだということになるだろう。むろん、そんなことは誰も望むまいし、そもそも不可能なことでもある。
論理的に言うならば、保証する者とは、保証される者より上位の優越者でなければならない。国家や政治的権力が、「表現の自由」だの「結社の自由」だのを保証できるのは、裏返して言うならば、国家にはその気になれば、そういった自由を規制し、あるいは蹂躙するだけの現実的な力があるからでもある。それは、むろん歴史が証明している。
「内心の自由」は保証されているというならば、そのような保証を与えてくれる者は、いったいどこにいるのだろうか。もしいるとすれば、それこそ、人間の隠された「内心」もすべてお見通しという神様以外にありえないということになる。
そもそも、他者に自分の自由を保証してほしいというのは、自分の自由に関する生殺与奪の権を、その他者に預けるということとほとんど同義なのではあるまいか。人間の「内心の自由」などというものは、そのような他者から保証を受けられるようなものではない。
もっと根源的には、政治や社会へのコミットメントの忌避(趣味人としてのオタクは、一般人よりもこの傾向は強いのではないか)という問題も出てきそう。前にチラッとブコメで書いたけど、例の件、個人の趣味と見なされているがゆえに政治や社会とは関係ないもの(あるいはフィクションであるがゆえに『現実の』公共性とは関係ないもの)というコンセンサスが広く共有されている気がする。
私は別に「非社会的」であることが悪いことだとは思わないし、「社会的意識」とか「政治的意識」だとかに目覚めることが、それほど偉いことだと思ってるわけでもありません。ただ、好き嫌いに関わらず、人間は「社会」の中に放り込まれ巻き込まれている。そのことは、一方的な「拒絶」の身振りだけで否定できるものではないでしょう。
個人的嗜好というものは、本来は私的なものなのでしょうが、現代ではそれも「社会化」されており、製作から宣伝・流通、消費まで、社会的過程の中に巻き込まれている。そもそも「欲望」自体も社会的に生産されています。そういう状況の中では、個人の趣味だから「現実の」公共性とはまったく無関係というわけにはいかないでしょうね。
長くなりそうなので、こちらでお返事
「保証」か「保障」かってのは、ややこしいですね。
そもそも、この言葉を使ってる人らが、どこまでその違いを意識しているかも不明なので。
ただ、一般的に言うなら、国家や社会は、個人の思想・良心、あるいは思想・宗教の自由といった「内面の自由」を保障すべきということは、個々人の内心は尊重されるべきであり、強制的な内心の告白や踏み絵を迫るような行為は行うべきではないということですね。
そういう意味であれば、「我々の社会がそれを「保障」するのも自明」ということに同意します。それはつまり、yellowbellさんが仰ってるように、憲法の人権規定は「国家権力の強制力に対する担保」ということであり、国家はそういう問題に介入しないということです。
憲法の規定がどこまで及ぶかはややこしい問題ですが、国家やその他の公的組織ではなくとも、個人に対してなんらかの権力を行使しうる組織は、当然そのような行為を行うべきではないでしょう。政治団体とか宗教団体とかになると、また話がややこしくなりますが。
“保証などされていない”と“保障などされていない”は明らかに違うので、気をつけたいですね。前者については、かつさんの言うとおりだと思うのですが、後者のごとく言い募り国家権力の規制を呼び込む行為には、私は徹頭徹尾、懐疑的でありたいと思っています。前者のごとき愚かな強弁もまた、規制を呼び込む。頭が痛い話です。
全然余談ですが、「保険」と「保健」とか、同音異義で問題になる言語も少なくありませんね。ここ数十年の新自由主義的潮流で「公共性」はずいぶん劣化したような気がします。憲法12条の規定をおろそかにしてはいけないですね。
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それでもなお、「内心の自由」は保証されるべきだというなら、それは結局のところ、他人の「心」への働きかけ、言い換えるなら、政治的社会的な言論はもちろん、あらゆるおたがいの「コミュニケーション」そのものを禁圧すべきだということになるだろう。むろん、そんなことは誰も望むまいし、そもそも不可能なことでもある。
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このロジックは、陵辱表現などへの対抗言論の肯定を意味することはもちろんだけど、陵辱表現の流通そのものも否定できないということになりませんか? いや、最近は僕もそう考えつつあるのだけれど。
力のある表現とは他者の内心に踏み込むものであり、表現の自由とは互いの内面に踏み込んだり踏み込まれたりするものでしょう。それがいやなら表現行為など行うべきではない。
自分たちは「表現の自由」をうたいながら、「内心の自由」によって自分を防衛しようとするどうしようもない欺瞞はこの問題でさんざん見てきました。
もともと憲法とは公権力の行使を規制するのが大きな目的のひとつなわけで、そこで規定されている種々の自由とは、私人によるそういった権利の行使に国家は介入しませんよ、という宣言以上ではありませんね。それ以上に、その自由を「保証」する義務までは直接負わないし、ましてや「内心の自由」など、どんな権力にも「保証」しうるものではない。
そのへんで、いろいろな無理解とか誤解とかが重なって、「内心の自由」は保証されている、みたいなへんてこなことを言う人もいたりするのでしょう。
ただ、そうはいっても、文字が読め、言葉が理解できる限り、いくら自分の「内心の自由」を盾にとっても、なんらかのものは伝わる。とりあえず、そう思っておく以外にしょうがないのでしょうか。たしかに、ひとが作った「心の壁」というものはなかなか頑丈なもので、ラッパのひと吹きで壊れるというものでもないですが。
流通を規制するとすれば、根拠としては「公共の福祉」か「他者危害」ということになるでしょうね。都が言っていた「青少年の健全育成」とか、刑法の「猥褻物」とかは前者でしょうが、たしかにこれは抽象的で、線引きが恣意的になりやすいという問題があります。
当然ながら、一般的な検閲は憲法違反なわけで、規制するとすれば、可能な限りの基準の明確化と運用の透明性、実効的な異議申し立て手続きの確保とかが、条件になるでしょう。そのへん、とりわけ執行権を拘束する市民の力がそもそも弱く、法的規制とかがいったん成立すると、そのまま権力への丸投げ状態になりかねない、という懸念もありますね。
具体的な法の運用というものは、つねに利害関係者間での綱引きの中にあります。そのための場所が、ちゃんと成立し機能しているかどうかがそもそもの問題なのでしょう。それがとうてい十分とは言えないところに、現状に問題は感じながらも、強制力を伴う規制そのものには慎重にならざるを得ないという立場があるというところでしょうか。