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2004-10-31 藤沢周平

[] 隠し剣 鬼の爪  隠し剣 鬼の爪を含むブックマーク  隠し剣 鬼の爪のブックマークコメント


山田洋次による藤沢周平時代劇第二作『隠し剣 鬼の爪』(2004、松竹ほか)を観る。基本的には、前作『たそがれ清兵衛』の延長上にある。幕末、山形の「海坂藩」が舞台。下級武士であるが、武術にたけた技を備えている男。方言の使用。衣装や頭髪など、リアリズムに徹していること。



隠し剣 鬼の爪 特別版 [DVD]

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映画の冒頭で友人の狭間(小澤征悦)の江戸行きを見送る片桐宗蔵(永瀬正敏)と、島田左門(吉岡秀隆)。不安を抱く宗蔵の表情が、その後の展開を暗示している。宗蔵の家は、父が部下の経理責任を負い切腹、百石から三十石に減じられた典型的な田舎下級武士。老いた母(倍賞千恵子)と左門との結婚を予定している妹(田畑智子)、それに、けなげに働く清楚で美しいきえ(松たか子)。いかにも平和で穏やかな暮らし。


三年後、きえは商家へ嫁ぎ、妹は左門と結婚し赤ん坊もいる。宗蔵は独身で家のなかは、母の他界によって寒々としている。身分制度が、当然の世界にあって、下級武士といえども、農民の娘と婚姻することはできない。きえの病気が長引き、医者にも診せない商家へ、宗蔵は直接見舞いと称して乗り込み、きえを強引に自分の家に連れ帰る。


さて、予想どおり、狭間は謀反の罪で郷入り(座敷牢)の刑に処せられ、海坂藩へ帰ってくる。狭間と宗蔵は、武士を捨てた戸田寛斎(田中泯)の弟子であった。宗蔵は家老の命を受け、牢から逃亡した狭間を討つことになる。


このあたりから時代劇らしい様相を呈してくる。二人の決闘シーンは、長回しで撮られ友人同士の真剣の闘いが、リアルに迫力ある演出がなされている。いわゆるかっこ良さとか、豪快な黒澤明的な演出とは一線を画しており、山田時代劇藤沢周平の原作を得て、「寅さんシリーズ」のあとを補う世界を構築しつつあることを感じさせる。


かつての娯楽時代劇の要素を持たせながらも、現代の不安を幕末における若者たちの不安に投影しているところが、単なる娯楽作品を超えて、観る者に<生き方>を考えさせる良質のフィルムになっている。もちろん、『たそがれ清兵衛』の二番煎じであることは否定できない。極論すれば、真田広之宮沢りえを、永瀬正敏松たか子に置き換ええただけともいえる。しかし、ラストシーンの二人を、キャメラがじっくり捉えた光景は、愛の告白を主人から女中への「命令」という表現でしか伝えられないもどかしさとして、「恋愛」という概念が、近代の産物にほかならないことを示している。


映画が観るものにカタルシスをもたらす古典的な原則が貫かれており、爽快感を味わうことができる。山田洋次を批判することは、簡単だ。しかしながら、擁護することは難しい。切通理作の『山田洋次の<世界>』の次のことば、


一度誰かに「汚された」女性から、清冽な魂を救い出すのがヒーロの役目なのだ。(p230)


まさしく、セックスストレートに描かない山田洋次的世界の本質を言い当てている。「清冽な魂を救い出す」ことは、ヒーロとしての<寅さん>が繰り返し反復する行為であった。時代劇にかたちを変えていれけど、あくまでストイシズムに徹する山田洋次の世界が展開されている。さわやかな風に吹かれるような想いが余韻として心地よく残るフィルムだ。


隠し剣 鬼の爪

http://www.kakushiken.jp/


山田洋次の<世界> (ちくま新書)

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2004-10-28 ジョニー・デップ

[] シークレット・ウインドウ  シークレット・ウインドウを含むブックマーク  シークレット・ウインドウのブックマークコメント




ジョニー・デップ主演、デビット・コープ監督シークレット・ウインドウ』(2004、米)を観た。スティーヴン・キング原作といえば、『シャイニング』(キューブリック監督)や、『ミザリー』(ロブ・ライナー監督)の2作が直ちに、想起される。いずれも、作家の狂気や災難を描いているという点で、『シークレット・ウインドウ』と共通点がある。


妻の浮気が原因で離婚した作家モート(ジョニー・デップ)の前に、「俺の小説を盗んだ」と盗作ネタに脅迫するシューター(ジョン・タトゥーロ)が現われる。作家モートは、かつて盗作の経歴を持つ。白紙の原稿用紙を前に、作品を書く作家とは孤独な存在であり、一歩間違えば、『シャイニング』のジャック・ニコルソンになってしまう危険性がある。


ジョン・タトゥーロは、ジョニー・デップの分身であり、小説を書くという行為を共有する存在である。ジョニー・デップは、書くことについて完璧性を求める作家のようである。シューターが現れてから、次々と事件が起きる。探偵やシューターの目撃者が殺されるし、モート所有の家、現在は別れた妻が住む家屋が火災にあう。それも放火らしい。モートは、妻の浮気相手ティモシー・ハットンに異常なまでに嫉妬心を抱いている。ジョニー・デップに感情移入していると、浮気相手が犯罪者に見えてしまう。


以上が、『シークレットウィンドウ』の結末前の状況であり、作家モートを演じるジョー・デップの演技が際立っている。ハリウッド異端児であるジョニー・デップとは、その存在自体が、魅力的あり、どんな役を演じてもジョニー・デップであるが、同時に役柄に同化していることでも、貴重な俳優だといえるだろう。


無精ひげに、くしゃくしゃの髪、作家然とした茶色のフレームの眼鏡。アルコール中毒らしきふるまい。いかにも謎めいた存在である。ここから先は、ネタばれになるので、言及することは控えるけれど、事件後には金縁のフレームの眼鏡に変わっているし、暗い表情から、異様に明るい男に変身している。このあたりの役作りは秀逸という言葉に尽きる。


ティム・バートンシザーハンズ』に主演以来、エミール・クストリッツァの『アリゾナドリーム』、ラッセ・ハルストレムの『ギルバート・グレイプ』、ティム・バートンの『エド・ウッド』、ジム・ジャームッシュの『デッドマン』、テリー・ギリアムの『ラスベガスをやっつけろ』、ロマン・ポランスキーの『ナインスゲート』、サリー・ポッターの『耳に残るは君の歌声』、再びラッセ・ハルストレムの『ショコラ』など、個性的な監督と組み、映画史に残る作品に出演し続けている。


私生活では、ヴァネッサ・パラディという美しい女性と、結婚という形式にこだわらない共同生活を営んでいる。おそらく、女性から見て、理想的な男性像に写ることは間違いない。

俳優の名前だけで、一定の観客を招き寄せることができる稀有な存在なのだ。


シークレット・ウインドウ

http://www.sonypictures.jp/movies/secretwindow/site/contents.html


ジョニー・デップ主演作品

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2004-10-24 ウォン・カーウァイ

[] 2046  2046を含むブックマーク  2046のブックマークコメント



2046 [DVD]

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ウォン・カーウァイの最新作『2046』(2004)を観た。SF作品という前評判で、少し心配したのだが、『花様年華』(2000)の続編であり、『欲望の翼』(1990)を60年代の第一部とする、これは60年代三部作の完結編であることに、観始めてすぐに気づく仕掛けになっている。


トニー・レオンは、シンガポールを引き上げて香港へ戻ったチャウ・モウワンという名前の新聞記者であり、また売文作家でもある。 『花様年華』のマギー・チャン(ワン・ショットのみ登場)との関係の記憶を背負っていて、次の新しい一歩が踏み出せない、優柔不断な男として継続性を持っている。


ウォン・カーウァイは、いつも「愛の不可能性」や「愛のすれ違い」を反復する監督であることを、『2046』でも示している。トニー・レオンは、マギー・チャンとの愛の記憶を持つ故に、チャン・ツィイーやコン・リーとの関係も中途半端なかたちで終わるしかない。

欲望の翼』や『楽園の瑕』(1994)でおなじみのパターンだ。


それにしても、トニー・レオンマギー・チャンチャン・ツィイー三角関係とは、チャン・イーモウの『HERO』ではないか。関係の絶対性において、『2046』の撮影に5年要したことは、公開こそ前後したが、『HERO』は『2046』を踏襲していたことになるのではないか。チャン・イーモウによるウォン・カーウァイへのトニー・レオンマギー・チャンを起用することについての儀礼という見方はどうだろうか。


英雄 ~HERO~ スペシャルエディション [DVD]

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<2046>とは、トニー・レオンSF小説に書くタイトルであり、カリーナ・ラウ(残念ながらかつての輝きがない!)が殺された部屋であり、その後チャン・ツィイーが住むことになる部屋のルームナンバーが「2046」であることからつけられたタイトル。「2046」は、何も変わらないSF空間として設定されている。そこでは、木村拓哉トニー・レオンイメージの代役としての日本人青年役になって登場する。ホテル支配人の娘フェイ・ウォンは、現実には、木村拓哉恋人関係にあるが、「2046」ではアンドロイドとして、トニー・レオンの想像力の中で自身の分身と関係を持つことになる。


カンヌ版とは編集が異なるようであるが、例によって、時刻が物語のメルクマールとして働き、時間の経過が前後することは、彼の作品では、不自然ではない。観る者が、物語を再構成することで、個々人にとっての作品として完成されることになる。もちろん、そのように多様性・多義的に編集されている。


スローモーションの多用と、横長の画面を敢えて狭く見せる構図などは、ウォン・カーウァイ固有の世界であり、観る者に混乱をもたらせる。したがって、『2046』は決して集大成的な大作ではありうるはずもなく、撮影にいくら時間をかけても、カーウァイ的空間は変わらないといえるだろう。はっきり言って面白いとか、楽しい作品というものではない。


カーウァイ的空間を共有できる者のみが、その世界に共鳴できるような作り方に変わりはない。それでこそ、ウォン・カーウァイアイデンティティが保たれる。拡大ロードショー向きではない。単館ロードショーこそ、ウォン・カーウァイに相応しい。何を勘違いしたのか、配給会社の宣伝が、作品内容を明確に伝えていないことに無自覚であるといっておう。


それにしても、『欲望の翼』『楽園の瑕』『ブエノスアイレス』に主演した大スター、レスリー・チャン自殺による不在は、『2046』にも、暗い影を投げかけている。60年代香港三部作は、『欲望の翼』のレスリー・チャンを巡る三角関係マギー・チャンカリーナ・ラウ)から始まった。そして、ラストシーンは、外出前に髪を整えるトニー・レオンの登場で終わっていたことを想いだすべきだ。


その意味では、『2046』は不在の異性への愛を求めつづける作品といえるだろう。トニー・レオンは、かつての恋人で行方が解らないマギー・チャンを、フェイ・ウォン日本に帰国した木村拓哉を、チャン・ツィイーは眼前にいるにもかかわらず、心が不在のトニー・レオンへの不毛の愛を抱き続ける。三部作は完結しても、「愛の不可能性」というウォン・カーウァイテーマは、未完のままである。その彼方には、不在のレスリー・チャンがいることを想起して欲しい。


『2046』公式サイトhttp://www.2046.jp/


ウォン・カーウァイ作品

欲望の翼 [DVD]

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花様年華 [DVD]

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ahahaahaha 2005/09/08 19:31 ご無沙汰しています。
いやぁ、私はダメでした_| ̄|○
きちんと予備知識をもってみたら、また変わったかもしれませんが、男の美意識というか、自意識についていけませんでした(^_^ゞ

PreBuddhaPreBuddha 2005/09/08 20:17 ahaha さま。TBに対するコメント、ありがとうございます。
『2046』は、ウォン・カーウァイの作品と意識してみないと、面白くはないように作られています。男の美意識とか自意識と指摘されると、たしかにそんな側面は、
否定できないとはいえないでしょう。
拙文でも書いていますが、「愛の不可能性」がカーウァイ的世界の主題なのであり、『欲望の翼』『花様年華』に続く60年代三部作として、スクリーンで観てほしかったですね。

2004-10-23 龍樹

[] 龍樹『中論』(2)  龍樹『中論』(2)を含むブックマーク  龍樹『中論』(2)のブックマークコメント


黒崎宏『ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説「中論」』*1について、昨日に続き引用から始める。


第十二章  苦の考察

いかなるものにも「作られる」という事は成立しないのである。・・・

いかなるものにも「生じる」ということは成立しない、・・・

すべてのものの間には、「縁起の関係」が成り立っている。そしてこの「縁起の関係」が、

「作られる」とか、「生じる」とかいう関係と両立できないのである。(p109)

十三章  <形成されたもの>(行)の考察

空というものは存在しない。空とはもののありようなのである。

・・・

「空見」とは、「一切は空である」という主張である。しかしそう主張すると、却って<空>に囚われてしまう。(p115)

第十五章  <それ自体>(自性)の考察

常住に執着することなく、断滅にも執着することのない者には、<有る>(存在する)ということも<無い>(存在しない)ということもない。「一切は空」なのである。

(p124)

第十六章  束縛と解脱の考察

いかなる輪廻(生死)、いかなるニルヴァーナも、考えられない。そして、囚われを有しない人においては、そうであらねばならないのだ、と思う。

(p128)

第十七章  行為(業)と果報の考察

結論的には、煩悩煩悩を本質とする業)、(そのような業と煩悩を縁とする)身体、(そのような業の)報い、これらすべては蜃気楼のようであり、陽炎や夢に似ている、というのである。(p141)

第二十一章  生成と壊滅の考察

21 このように、三つの時(前世(過去)・現世(現在)・来世(未来))にわたって生存が連続する、というのは正しくない(理に合わない)。そして、そうであるとすれば、どうして(そもそも)三つの時にわたっての<生存の連続>が存在しうるであろうか。(存在しえない。)

輪廻は存在しないのである。(p165)

第二十二章  如来の考察

如来は本質を持たない。そして、この世界もまた、有為の世界も無為の世界もともに本質をもたないのである。ここで私は再び、後期ウィトゲンシュタインの「反本質主義」(本質主義批判)を思い出す。そして、それを可能にするのが、後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」なのである。「言語ゲームの世界」こそ、すべてのものの無自性(空性)を可能にする唯一の世界であろう。(p175)

第二十五章  ニルヴァーナ涅槃)の考察

<不得><不捨><不常><不断><不生><不滅>、これがニルヴァーナなのである。(p198)

・・・・・

『中論』を一応最後まで読んできて、自然と私に思い浮かぶことは、『中論』には二つの原理が貫いている、ということである。その一つは「縁起」の原理であり、もう一は「<去るもの>は去らない」という原理である。前者は、「一切は意味的に含みあっている」という原理であり、後者は、「事柄は二重におきることはない」という原理である。この後者は、「一重の原理」と言われてもよいであろう。すなわち、『中論』には「縁起の原理」と「一重の原理」が貫いているのではないか。そして「縁起の原理」は、「不一不異」と「不常不断」を可能にし、「一重の原理」は、「不去不来」と「不生不滅」を可能にするのではないか。・・・(中略)・・・

そして、後期ウィトゲンシュタイン意味論が「縁起の原理」をサポートしているのである。(p205)


論理哲学論考』(大修館書店*2は通読しているが、後期の『哲学探究』は未読であり、「言語ゲーム」というウィトゲンシュタインの思考について、言及することは困難だ。しかし、『中論』の核心は得られたように思う。


私流に解釈すれば、龍樹は、実体を否定し、すべてのものは現実には存在せず、単に言葉によるものであるということ。つまり、一切は「空」にすぎない、そして、「縁起」と「一重」による意味的関係にほかならない。


「悟達」にいたる道を探求することが、私の読書の究極の目的なのだから、『般若心経』*3や『中論』は、大いなる導きの書であることを確認できた嬉しい出会いであった。

tatartatar 2005/01/12 21:54 もしお読みでしたら、失礼ですが、この本とテーマに関して、いいのではと思われるものを書いておきます。『意識と本質』(井筒俊彦、岩波文庫)、『龍樹』(中村元、講談社学術文庫、日本の仏教学の極北)、『日本人のための宗教原論』(小室直樹、徳間書店、仏教の章に、小室流の龍樹の解説あり、整理になると思われます。)http://www.furugosho.com/nomadologie/izutsu1-resume.htm このurlで「井筒俊彦氏「事事無礙・理理無礙ーー存在解体のあと」 要約」が読めます。唯識哲学、種子の話し、自性、無性などの話が出てきます。どうぞ。

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2004-10-22 龍樹

[] 龍樹『中論』(1)  龍樹『中論』(1)を含むブックマーク  龍樹『中論』(1)のブックマークコメント


黒崎宏『ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説「中論」』*1読了した。うーん、何というか、宮崎哲弥のような「書評」はとても書くことができないが、別の意味での収穫があった。


『中論』の核心は、<生・滅・常・一・異・去・来>を主張する形而上学的(存在論的)議論を根底から否定することにある。それが、「不生・不滅・不常・不一・不異・不去・不来」の主張である。「帰教序」(p019)


二十五章の偈について、註釈・解釈を丁寧に進めて行く。


第一章  縁(四縁)の考察

事物は、縁(四縁)から生じること(発生)も、縁(四縁)から現れ出ること(出現)も、ない。また事物は、縁(四縁)が変化して現れ出ること(変成)もない。(p036)

第二章  運動(去ること)の考察

「先ず、<去る主体>と<去ること>と<行くべきところ>があって、その上で、<去る主体>は、<去ること>によって<行くべきところ>に行く」というのではないのである。そのような原子論的(要素論的)思考こそ、竜樹の最も忌み嫌ったものである。(p049)

第三章  (眼などの)認識能力(根)の考察

要するに、「五蘊は皆空なり」なのである。したがって、身と心によって構成された<人間>なるものも、空なのである。(p054)

第五章  要素(界)の考察

地・水・火・風・空(虚空)・識のすべてが「空」なのである。「一切皆空」という意味で空、なのである。(p062)

第八章  行為(業)と行為主体の考察

ここで特に注目すべきは「部分と全体」の場合である。・・・(中略)・・・<全体>なくして<部分>なし、なのであり、ここにおいて「原子論」は完全に否定される。

・・・(中略)・・・

意味」とは、言語の外にある何らかのもの(対象)ではなく、言語ゲームの中で説明されるもの、なのである。(p084−085)

第九章  先行するものの考察

文章をそれを構成する単語一つ一つに(原子論的に)分解してはならないのである。この反原子論的思考こそ、まさに後期ウィトゲンシュタインのものである。(p092)

第十一章  前後の究極に関する考察

あらゆるものに前の究極(本当のはじまり)が存在しないのみならず、同様に、あらゆるものに後の究極(本当のおわり)も存在しないのである。

(p104)

本日はここまで。

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2004-10-19 黒崎宏

[] ウィトゲンシュタインから龍樹へ  ウィトゲンシュタインから龍樹へを含むブックマーク  ウィトゲンシュタインから龍樹へのブックマークコメント


先週の日曜日10月10日)の朝日新聞宮崎哲弥書評黒崎宏『ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説「中論」』(哲学書房)*1を読み、強烈なインパクトを受ける。


朝日コム」http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=6805より引用する。


仏教悟りとは何だろうか。悟りとは一般に、禅定(ぜんじょう)に入って得られる言語を超えた境地とされている。

しかし「言語を超える」とはどういうことか。修行者がヨーガや禅といった心身技法を通じて、日常的な言葉や意味の「外部」を体感したとしても、それを意味づけるのは依然として言葉である。その解釈が誤っていれば、結局言語に囚(とら)われたままの、悟りとは程遠い心境に留(とど)まる。そう考えると、禅定で得られる経験もまた方便に過ぎないことがわかる。

・・・・・(中略)・・・

本書は『中論』の註釈(ちゅうしゃく)書の最新である。『中論』の註釈書といえば、月称(チャンドラキールティ)の『プラサンナパダー』をはじめ、様々な立場から数多く著されてきた。本書では、何とウィトゲンシュタイン研究の第一人者が、言語ゲーム論の視座から『中論』を読み解く。言語ゲーム論とは「一切を、心的なものも物的なものも、言語的存在と看做(みな)す」立場である。著者は、これが世界の非実体性、即(すなわ)ち、空=縁起を説く『中論』の世界像に直結するという。

西洋哲学を専門としながら『中論』を論じた学者はいままでもいた。本書の凄(すご)さは、(付加的に小乗の教えを説明した26章、27章を除く)すべての偈が掲げられ、それらに註解が施してある点だ。手前勝手な釈義ではない。出典が明記され、仏教学の通説とは異なる読みが示される場合にはその旨、特筆されている。 現代言語哲学を媒介として、仏教悟りに肉迫する。仏教者に限らず、哲学的な思索が好きな人なら、一度は挑んでみたい高峰ではあるまいか。

[評者]宮崎哲弥評論家


この書評を読み、早速、近くの書店に行くが、在庫がない。オンライン書店をチェックしたが、J書店のみ「在庫あり」の表示があり、早速注文するが、店頭品切れ、版元へ注文となる。で、やっと、本日手元に届く。


黒崎氏は、「はじめに」のなかで、


ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」の核心は、すべてのもの一切を、心的なものもおしなべて、言語的存在とみなす、ということである。


と書き、また、いきなり「おわりに」を引用して恐縮だが、


悟り>の世界とは、「縁起に身を任せる世界」だ、「縁起と一枚になる世界」だ、という事になる。それは、縁起による生滅に対して、更に生滅を言わない世界であり、更に生滅を思わない<無心の世界>なのである。「言わない」は即ち「思わない」であるから。そして、この世界ー<無心の世界>−こそ「自受用三昧の世界」ではなか。 (p207)

・・・・・・(中略)・・・

このことは、「それは、縁起による生滅に対して、更に生滅を言わない世界であり、更に生滅を思わない<無心の世界>なのである」というところに、見てとれるであろう。

(p208)


中村元の『龍樹』の「真実に存在するものはなく、すべては言葉にすぎない」という解説に触発されて、黒崎氏は、『中論』に挑戦したわけだ。


龍樹 (講談社学術文庫)

龍樹 (講談社学術文庫)


『大乗仏典』にも収録されている『中論』が、にわかに、オーラを発しているように思えた。これが、「縁」による出会いかも知れない。もともと『般若心経』に関心を持っていたので、「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是」に通じる世界、しかも、ウィトゲンシュタイン研究者が二十五章の偈(げ)を読み解くというのだから、惹かれないわけがない。


アフォリズム」という表現方法が、『中論』とウィトゲンシュタインの共通点といえるのかも知れない。ともあれ、この出会いを大切にしたい。


《関連図書》

ウィトゲンシュタインと「独我論」

ウィトゲンシュタインと「独我論」

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

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2004-10-17 徳永康元

[] ブダペスト日記  ブダペスト日記を含むブックマーク  ブダペスト日記のブックマークコメント


徳永康元ブダペスト日記』(新宿書房)を入手した。


ブダペスト日記

ブダペスト日記



徳永氏は、まさしく碩学と呼ぶに相応しい人であった。最初の出会いは『ブダペスト古本屋』(恒文社、1982)で、表題のエッセイや、「欧米古本屋小説」「ハンガリー史点描」などを読んでいることを想い出した。二冊目が『ブダペスト回想』(恒文社、1989)であり、後者は2000年プラハブダペスト旅行に際して、入手した本だった。


徳永氏は、昨年(2003)の四月に享年91歳で他界されていたことを、今回入手した『ブダペスト日記』ではじめて知った。山口昌男坪内祐三が「思い出の記」としてあとがきに「解説」を書いている。徳永氏こそ、古書をとおして知る人物だった。書くこと少なく、生前に二冊、死後『ブダペスト日記』が刊行され、ここにブダペスト三部作が出来上がったのだった。


古書店めぐりは、日本のみならず、東欧を中心に西欧の古書店に詳しい学者だった。最初のエッセイ集『ブダペスト古本屋』を上梓したとき、すでに70歳だった。古書と映画を愛した碩学・徳永康元は、真の学者たるにふさわしい。


それにしても、最近書店に行くことが少なくなった。ついついネット書店で注文してしまう。古書についても、「日本古本屋」などを覗いてしまう自分を反省している。本は、やはり、実物を見て買うべし。


などといいながら、紀田順一郎『私の神保町』(晶文社)がオンライン書店から届き、手にしているところなのだ。


私の神保町

私の神保町


徳永氏の『ブダペスト古本屋』の165頁と、紀田順一郎『私の神保町』の170〜171頁に同じ書物が紹介されている。生田耕作編訳『愛書狂』(白水社、1980)である。フローベールの『愛書狂』、父デュマの『稀覯本夜話』など五編が収録された「本好きが読んでも非常に面白い作品ばかりである。」(紀田順一郎


ついでに、同じ生田耕作編訳『書痴談義』(白水社、1983)*1も出ていることを付言しておきたい。一連の装丁とフランス装版のアンドルー・ラング/生田耕訳『書斎』(白水社、1982)もほぼ同じ時期に出版されている。いずれも、絶版であり、復刊が期待される本である。なお、『書斎』が復刊されていることが確認できたことを付け加えておきたい。


書斎

書斎

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2004-10-16 川西政明

[] 小説の終焉  小説の終焉を含むブックマーク  小説の終焉のブックマークコメント



川西政明『小説の終焉』(岩波新書読了


小説の終焉 (岩波新書)

小説の終焉 (岩波新書)


二葉亭四迷が『浮雲』を執筆してから120年。前半の60年が1945年の敗戦まで。後半は、戦後文学から現在までの60年。で、川西氏によれば、いわゆる<小説>と呼ばれるものは終わった、というのだ。


「私」「家」「性」「神」の終焉から、芥川龍之介志賀直哉川端康成太宰治大江健三郎村上春樹の終焉。そして、「戦争」「革命」「原爆」「存在」「歴史」の終焉へ。


それぞれのキーワードや、作家の具体的作品を引用しながら、おおむね、1970年前後の中野重治『甲乙丙丁』、三島由紀夫豊饒の海』、大岡昇平『レイテ戦記』、武田泰淳富士』、野間宏『青年の環』、福永武彦『死の島』。その後の埴谷雄高『死霊』や島尾敏雄戦争ものなどが、戦後60年を決算した作品であるという。


村上で、<小説>は終わりという考えは、一応首肯できる。一方では、柄谷行人浅田彰が「中上健次」で近代文学は終焉したといっている。小説らしい主題を持つ小説は、ここ最近見られないことは確かだ。


川西氏は、村上春樹について、こんな風な解釈をする。


村上は「私は私であるのはいやだ」という自同律の不快から出発し、「世界の終わり」にいた「僕」を救出する場所までやってきた。そのとき「僕」は『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の「世界の終わり」にいた「僕」とは違う人間に変身しているのがわかろう。最後に作者は「僕」に「風の歌を聞くんだ」と言わせている。これによって『海辺のカフカ』の「僕」が『風の歌を聴け』の「僕」の変身後の人間であることがわかろう。

(p129−130)


埴谷雄高『死霊』については、「存在の終焉」として次のように書く。


九章の最後で虚体を確認しあった「三輪与志と津田安寿子の二人は、月光のなかで、影と影こそが実体であるかのような私達の精神を光のなかに浮き出させながらなおも月光の奥へ踏み入っていった」のである。このとき、三輪与志と津田安寿子は虚体となって月光の奥へと消えていったのがわかる。(p195−196)


村上春樹埴谷雄高『死霊』の解釈については、川西氏に異論はある。にもかかわらず、柄谷行人は、「資本=ネーション=ステート」である近代国家の成立から、グローバル化している状況のなかで、近代文学そのものの終焉を説いている。一方、川西氏は、作品としての<小説>にこだわるが、基本的には、もはや、近代文学としての小説が成立していないことは自明だろう。


最近でいえば、高橋源一郎島田雅彦堀江敏幸川上弘美小川洋子よしもとばなな江國香織など、なるほど「小説」として書かれてはいる、けれども、その作品では、近代文学がもっていた、「私」「家」「性」「神」「戦争」「革命」「原爆」「存在」「歴史」のようなキーワードが成立していないことも事実だ。では、彼らの作品を何と呼ぶかは別の問題であり、近代文学としての小説以後の作品ととりあえずは言うしかないだろう。


近代文学としての小説については、基本的には「終焉」という考えに賛同できる。


柄谷行人は、「終焉」について『歴史と反復』の「あとがき」で次のように述べている。


私の考えでは、「終焉」は歴史における「反復」の一過程でしかない。

・・・思えば、私はこの時期「近代文学の終焉」に立ち会っていたのだった。そして、それが私的な感想でないことは、現在の時点では明白である。

(p276)


定本 柄谷行人集〈5〉歴史と反復

定本 柄谷行人集〈5〉歴史と反復


歴史は「反復」する。ただし、二度目はパロディとして。

tatartatar 2005/01/14 10:23 そして、笑えないパロディもあり得る。

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2004-10-12 切通理作

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山田洋次といえば、『男はつらいよ』の寅さんシリーズ。


山田洋次の<世界> (ちくま新書)

山田洋次の<世界> (ちくま新書)



切通理作山田洋次の<世界>』は、初期作品から、最新の時代劇まで丁寧に分析している。山田洋次を批判することは比較的簡単であるが、正しく評価することには、困難を伴う。なぜか?それは、国民的英雄であった「寅さん」をどのように捉えるかにかかわるからだ。

寅さんシリーズの初期作品を監督した森崎東氏のことばからの引用から


森崎は山田洋次の説くヒュマニズムは<逆説>であると書いている。

「人間というものが、自分たち同類以外の一切の生命を食用にするという、他の生物から見れば恐怖の対象でしかない存在であり乍ら、やれ人間性がどうとか、ヒュ−マニズムによって救われるとか、勝手なゴタクを並べる”いかがわしい”生き物である以上、それをサカナに料理したドラマというものが、相当に”いかがわしい”ことを、彼(山田)は先刻ご承知なのである」(『山田洋次作品集2』解説「『運が良けりゃ』について)

山田自身も『朝日ジャーナル』1978年3月31日号(No.220)でこう述べている。「ぼくらが目に触れることは極端にいえばいやなこと、醜いことばっかりじゃないんですか。だから、それを描かなきゃいけないということはぼくにはどうもわからない」(「映画は救いようのないもの、 慰めのようなもの? 山田洋次の世界を聴く」。)(p112)


どうも、この言葉のなかに、山田洋次の世界を解読する手がかりがありそうだ。切通理作は、結論的なものを回避している。にもかかわらず、80本近く作りつづけていて、つねに現役である山田洋次の作品を観続けることが必要であることを、伝えている。


私自身の山田洋次作品に対する評価は、アンビヴァレンツであることを申し添えておきたい。


肝心なことを忘れてるところであった。切通理作宮崎駿の<世界>』は、2002年度の「サントリー学芸賞」を受賞していた。


宮崎駿の“世界” (ちくま新書)

宮崎駿の“世界” (ちくま新書)

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2004-10-11 心の羽根

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ベルギー映画、トマ・ドゥティエール監督長編第一作『心の羽根』(2003)


簡単にストーリーを紹介すれば、ある若い夫婦がいて、幼い一人息子と三人で幸福に暮らしていた。ふとしたことでその息子が死亡する。妻はその事実を受け入れられない。妻は、次第に精神に変調をきたして行く。しかし、孤独なバードウオッチングをしている若者との交流のなかで、子供の死という事実を受け入れることになる。この一年間を、美しい自然と、自然のなかの鳥や魚を撮ることで、作品の主題補完的に映し出している。


実に静謐なフィルム。日常生活の部分は、陰影に富んだ深みのある映像として、自然の風景は青みががった色調で、ワンショットが、家族の生活の反映であるかのような撮り方がされている。


妻役を演じるのは、実生活でもパートナーである舞台女優のソフィー・ミュズール。その表情が彼女の置かれた立場を語っている。幸福とその幸福喪失した悲哀を表情であらわしている。この映画における妻=母役が要であり、彼女の心の移ろいがテーマといっても過言ではない。


全体にせりふが少なく、事実の経過を映像で淡々と見せて行く。特に凝った映像ではなくあくまで、ベルギーの田舎町と田園風景、水路や林や野原が、何ものも付加せず、自然のままで捉えられている。


敢えてこの作品の中でさりげなく提示されているのは、大人の空間とこどもの時空の差異が招く不幸とでもいえるだろうか。夫婦の愛情が、ときとして、こどもを疎外することもあり得る。でもそれは、社会として自然のことなので、そこから偶然に起きる事故は、不可避の問題であることを、作為(無作為の作為)なく示している。誰も夫婦を責めることはできない。そんな映画として構成されている。


そういえば、こどもが渡り鳥を追って行くとき、手に持っていたのはゴジラフィギュアだったような。



『心の羽根』

http://www.sanmarusan.com/hane/index.html

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2004-10-10 ジャック・デリダ(1)

[] ジャック・デリダの死  ジャック・デリダの死を含むブックマーク  ジャック・デリダの死のブックマークコメント


今日の朝日新聞を見て、ジャック・デリダの訃報を知らされた。


フランスの著名哲学者ジャック・デリダさんが8日深夜から9日未明にかけて、膵臓(すいぞう)がんのためパリ病院で死去した。74歳だった。AFP通信などが伝えた。

1960年代以降、プラトンからニーチェハイデッガーまでの西洋哲学全体を先鋭的に批判・解体し、西洋中心主義を問い直す「脱構築」の思想を展開。テキストを異なる視点から読み替える手法は、世界の思想・文学などの研究に大きな影響を与えた。(2004.10.10)


ウィキペディア』の「ジャック・デリダ」の項目から


ジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930年7月15日 - 2004年10月8日)は、アルジェリア出身のフランスのユダヤ系哲学者。高等師範学校 Ecole Normale Superieure 卒。

一般にポスト構造主義の代表的哲学者と目され、脱構築、散種、グラマトロジー、差延等の概念を生み出した。フッサール現象学から出発し(修士論文は『フッサール現象学における発生の問題』)、フッサールの『幾何学起源』に長大な序文をつけ注目を集める。ニーチェハイデッガーを批判的に発展させた。サールとの論争やハーバーマス、ガダマーとの論争でも知られている。ハーバーマスとは911テロ後共闘。脱構築哲学だけにとどまらず、文学理論法哲学等に影響を与えている。日本における代表的なデリダ研究者として高橋哲哉鵜飼哲などがいる。


フランスサルトル以後の哲学者たち、フーコードゥルーズデリダが他界した。三人は、エイズ自殺、そしてガンによる死亡。20世紀を象徴する死に方である。ポストモダン思想の終焉。日本では、彼らの著作すべてが翻訳されているわけではない。いわば、流行思想のように、<フーコードゥルーズデリダ>と唱えられた。丸山眞男ではないが、外来思想が定着・継承されないうちに<古層>に断片化されて行く。洋服を着替えるように、次々と新しい外来思想を取り入れてきた。


極端な例は、サルトルだろう。実存主義が大流行したあと、フーコーの『言葉と物』の出現以来、忘れられた過去の思想家になってしまった。フーコーの著作は、ほぼ順調に翻訳されてきている。しかし、ドゥルーズでは肝心の『シネマ1──映像=運動』(1983) 『シネマ2──映像=時間』(1985) が翻訳されていない。たしか、法政大学出版局から予告が出ていたような気がする。


『言葉と物』でつまずき、『アンチ・オイディプス』で立ち止まった者にとっても、フーコードゥルーズは、雰囲気的な理解は可能になってきた。だからこそ、せめて『シネマ1・2』はなんとしても読みたい。

  

デリダの著作も多くは翻訳されていない。サルトルのようにならないために、彼の著書の翻訳がすべて出て、正しく評価されることが要請される。デリダについては、率直にいって、ほとんど理解不能なのだ。(私が解らないだけ?)デリダに関しては、学者たちが勝手引用し、解釈してきたように思えてならない。


それにしても、ポストモダンのあとは、カルチュラル・スタディーズだの、ポスト・コロニアルだの、またぞろ新しい思想が輸入されつつある。懲りない思想界だ。カントヘーゲルマルクス、それにフロイトニーチェの思想で、世界を理解するには十分だと思うのだが・・・


マルクスと息子たち

マルクスと息子たち


ウィキペディア

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

tatartatar 2005/01/14 10:20 カント・ヘーゲル・マルクス・フロイト・ニーチェみたいな新しい思想家・哲学者を読まないとなりませんね。現代思想はそれをわからせるための入り口に過ぎなかったと思います。だからその入り口=メディアの表層で戯れてるのはクズでカスと見なしていいのかもしれません。表象文化とか、表層文化と聞こえてしょうがありません。悠長に、ポスコロだカルスタだと言ってられる時代的状況にない気もします。世界を解釈、批評してもしょうがない、世界を変えるための批判=吟味が必要だと思います。と柄やんのエピゴーネンぶってみました。しかし、間違っていないと思う。デリダの核心はなんとなく、わかった気になっていますが、子細な議論にはついていけません。。

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2004-10-09 車谷長吉

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愚か者―畸篇小説集

愚か者―畸篇小説集


最近、コンスタントに新刊書を上梓している。寡作であった私小説作家として、好調なのだろうか。平凡社新書として『反時代的毒虫』を、また、角川書店から『愚か者 畸篇小説集』をと快調に出版されている。『反時代的毒虫』はネット注文しているが、未着。『愚か者』の中の多くは、既刊の五冊に収録されている短編で、単行本初収録は、五編であった。車谷的な本音露出の世界である。


再録ではあるが、「ぬけがら」から北川氏のことば、


勤め人は毎日が徒労で、彼らの親分も決して安閑とした日々を過ごせるわけでもなく、商取引は欺き騙すことと大同小異で、金儲けも煎じ詰めれば犯罪の一種であることに変わりないでしょう。勤勉という似非倫理、真理という偽求道、愛というまやかし。それにしても煮ても焼いても喰えないのが、知識人という人種です。(p91)


車谷長吉の面目躍如たる表現である。


贋世捨人

贋世捨人


しかし、『贋世捨人』が『赤目四十八滝心中未遂』と一部重複するような自伝的作品であり、いささか期待はずれであったことは否めない。某小出版社に勤務していたとき、大江健三郎原稿依頼をしたときのこと。


大江氏が電話口に出た。用件を述べると、

「ぼ、ぼ、僕は新潮社講談社と、ぶ、ぶ、文藝春秋岩波書店。それから朝日新聞社以外には、げ、げ、げ、原稿を書きません。」と言うた。(p97)


いかにも大江氏がいいそうな言葉である。が、この種の暴露趣味はあまり感心しない。


■補記(2004年10月12日)

『反時代的毒虫』を、12日に入手した。内容は、対談集であり、第一部は、故人三人との対話で、江藤淳白洲正子水上勉が相手。第二部以下は、中村うさぎ河野多恵子奥本大三郎、そして最後は「嫁はん」の高橋順子さん。これなら、納得です。


反時代的毒虫 (平凡社新書)

反時代的毒虫 (平凡社新書)

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2004-10-08 読むことと書くこと

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インターネット時代、多くの人々は自分のことを語り始めた。ホームページからブログに移行し、容易にWeb上に書くことが可能となった。読むことから書く時代へ、変容しつつあるように見える。数万人の素人の人々が、自分のことを語り始めるようなことは、かつてはあり得なかった。一部の作家批評家や思想家研究者詩人随筆家たちが、商品としての書物を刊行してきたが、代価を求めない書き手が、大量に現れたことは、評価されていいだろう。


本とは、所詮、商品であり、いまや、『ハリーポッター』のような大ベストセラーと、きわめて数少ないファンが読む作家に分かれてしまった。資本主義のグローバリゼイションが、徹底してきたといえるだろう。


作家が、特権的人物ではなくなる日がくるかも知れない。誰もがWeb上に、自分の意見を堂々と発表できる時代がきた。9月22日共同通信系の新聞には、「近代文学の終焉」という見出し中上健次以後が、語られている。


浅田彰氏は、次のように述べている。


グローバル市場では、文学癒し商品として消費されるようになった。世界資本主義の中で、文学が扱ってきた内面の葛藤などは、単に薬物治療の対象と見なされるだけ。内面を忘れた平べったいコントロール社会で、『世界の中心で、愛をさけぶ』や『ハリー・ポッター』などが市場を席巻している。

(2004.9.22)


と述べている。ブログに多くの人々が「書く」ことをとおして、癒しを求めているのかも知れない。最近の文学賞なども、応募数の多さが指摘されている。文学は、もはや近代文学が持ちえたような特権的なものではない。文章が氾濫する。読むことよりも、書くことに時間が費やされている。21世紀とは、近代文学が終焉したあとの、荒廃した時代だ。20世紀は、文学芸術にとって最後の世紀だったのかも知れない。それは、映画(映像)の登場と、『複製技術時代の芸術』(ベンヤミン)がもたらした結果といえるだろう。


複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)


吉本隆明が依拠していた<大衆の原像>とは、まさしく虚像であった。本格的な大衆の時代が始まったのだ。


オルテガ・イ・ガセットの言う『大衆の反逆』の時代になったというわけだ。


大衆の反逆 (中公クラシックス)

大衆の反逆 (中公クラシックス)

tatartatar 2005/01/14 10:11 癒しより、救いと赦しを。ネットにはもちろん求めてませんが。

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2004-10-07 酒井順子

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負け犬の遠吠え

負け犬の遠吠え


講談社エッセイ賞に続いて、婦人公論文芸賞まで受賞した酒井順子負け犬の遠吠え』が気になり、一気に通読した。素直に面白かったといっておこう。


「未婚、子なし、三十代以上の女性」を、「負け犬」と呼ぶことで、いわば、自ら開き直り、素直に「負けました」といいながらも、負け犬は、高学歴高収入、自称美人という三要素があり、一般的に男性が近づきがたいと感じる女性。


「憧れの独身女」には二種類あるのです。一つが向田邦子的、つまりは「美しくて女っぽくて、異性のにおいはしつつも結婚しない」という、いい女系の独身女。もう一方は、「あまりにも一芸に秀でるあまり、異性がつけいる隙が無い」という孤高の人系の独身女。私は後者の独身女パターンというのも、割と好きなのです。してその代表例が、やはり故人ではありますが、長谷川町子なのだと思う。(p199)


このあたりに、酒井さんの本音が出ているのではあるまいか。エッセイスト作家として、向田邦子は理想像であり、また、サザエさん長谷川町子的存在にもあこがれる。


ところで、酒井さんがいうところの、「負け犬」女性、たしかにそんな女性は身近にいます。しかし、「負け犬」という表現は、あまりにも大げさではないか。第一勝ち負けの問題ではあるまい、と一般的に、普通の大人(男性)は思うのだ。


かつて、吉本隆明(あの吉本ばななの父)は、人間は生まれ、婚姻し、老いて死ぬ平凡さが一番幸福である、というような意味のことを言っていた。しかし、人は、その平凡なコースから多少ともズレて生きてしまうのだ、とも。


その点でいえば、「負け犬」と定義した時点で、平凡な幸せから疎外されたことになる。酒井さんが、自らの経験で述べていることは、説得力があり、いかにも、シニカルな教訓と読めないことはない。しかし、勝ち負けで判断する基準では、歴史的・空間的・民族誌的に規定された世界に私たちが生きていることが、視野に入っていないと言わざるをえない。非常に狭い世界の中で、自らを相対化(実は絶対化)しているに過ぎない。


人間、女であろうが、男であろうが、家族を持とうが、独身であろうが、根底的に孤独な存在であり、「負け犬」だから孤独なのではない。「絶対的な孤独」(坂口安吾)から、逃れることはできないのだ。


酒井さんの文章やユニークな発想法は、面白く、かつ生々しいが、どうも視点が保守的で、内向きなのだ。これでは、内田樹『街場の現代思想』のおじさん的コモンセンスと相互補完的的な関係にあるように思えてしまう。


街場の現代思想

街場の現代思想


狭隘な世界を突き抜ける発想が欲しいのだ。卓抜な発想ができる酒井順子氏には、「負け犬」を脱=構築した次元に進むことが可能であると、私は信じたい。


婦人公論』10月22日号で、酒井順子さんの写真を見た。丸顔で、ひっつめ髪に眼鏡をかけている。いかにも、知的美人エリートのエッセイストとしての印象が強く、「負け犬」を代表する女性にふさわしい。


枕草子REMIX

枕草子REMIX

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2004-10-04 柄谷行人(1)

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定本 柄谷行人集〈1〉日本近代文学の起源 増補改訂版

定本 柄谷行人集〈1〉日本近代文学の起源 増補改訂版


岩波書店から刊行されている『定本柄谷行人集』全5巻が完結した。第5回配本は、増補改定版『日本近代文学の起源』。

 

柄谷氏の『日本近代文学の起源』は、1980年初版、その後、英語版、ドイツ語版、韓国語版、中国語版が刊行された。英語版のときに増補した「ジャンルの消滅」に、外国語版の「序文」と本文の改稿、それに註を付した決定版というべきもの。

 

日本近代文学史ではなく、あくまで<日本近代文学の起源>について言及した批評であり、基本的なスタンスは変わっていないが、内容はより明晰になっている。絵画を比喩的な鏡として用いたことが、近代と近代以前を明確に区別する基準を容易にしている。「近代」ということばが、西欧からの輸入した言葉であることはひとまず置いて。


西洋中世絵画がすべて宗教画であったと同様に、日本の山水画は風景画ではなく一定のルールに従った「宗教画」のようなものであった。文学における「内面」「児童」などの発見も、「風景の発見」と同様の手法で解明される。日本近代文学の起源明治二十年代である。


明治国家が「近代国家」として確立されるのは、やっと明治二十年代に入ってからである。「近代国家」は、中心化による同質化としてはじめて成立する。むろんこれは体制の側から形成された。重要なのは、それと同じ時期に、いわば反体制の側から「主体」あるいは「内面」が形成されたことであり、それらの相互浸透がはじまったことである。

・・・(中略)・・・

国家」に就く者と「内面」に就く者は互いに補完しあうものでしかない。明治二十年代における「国家」および「内面」の成立は、西洋世界の圧倒的な支配下において不可避的であった。われわれはそれを批判することはできない。批判すべきなのは、そのような転倒の所産を自明とする今日の思考である。(p129)


柄谷氏独特のアイロニカルな言説によって、「近代」の両義性が浮かびあがる。文学に限定すれば、制度としての「文学」の歴史性がみきわめられねばならない、と氏は言う。今日の目から、文学史を見ることに誤謬が介在することを、20年前に柄谷氏は指摘していたのだ。この慧眼は、その後の柄谷氏が『トランスクリティークカントマルクスー』にたどり着くことを予見していたというべきであろう。


定本 柄谷行人集〈3〉トランスクリティーク―カントとマルクス

定本 柄谷行人集〈3〉トランスクリティーク―カントとマルクス

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日本精神分析

日本精神分析


柄谷行人テクストは、誤解を招きやすい。しかし、『日本近代文学の起源』と『日本精神分析』が、氏の思考法を理解するためには、 もっとも解り易く記されている。近代国家は、資本制=ネーション=ステートが、三位一体であるから強固であると主張する。


資本制=ネーション=ステートへの対抗の場を、この三位一体の「外部」、つまり、アソシエーショニズムに求めればよい、と私は思います。(p54)


さて、その実践運動であったNAMの挫折をどう見るか、理想主義の敗北だろうか。資本主義グローバリズム新保守主義)を揚棄することは、果たして可能なのだろうか。


NAM―原理

NAM―原理

可能なるコミュニズム

可能なるコミュニズム

tatartatar 2005/01/07 20:21 映画ベスト10でコメントさせていただいたものです。2004年11月号の「文学界」の討議はお読みになられたでしょうか。「耐えざる移動としての批評」(柄谷行人、浅田彰、大澤真幸、岡崎乾二郎)。少し長くなりますが、お許しください。
柄谷行人
NAMのネットワークは今でも続いています。そして実践的にはNAMはこれからだと思う。理論的には海外で評価が高まっています。たとえば、僕は来年クロアチアの活動家グループから講演に呼ばれているのですが、彼らは元ユーゴの労働者自主管理、生産共同組合をやってきた連中で、その経験を反省しつつ何とか活かしていけないかと考えているときに、NAMを知ったというのです。もちろん、『トランスクリティーク』を読んだからですが。」(160頁)

とあります。日本では挫折したも知れませんが、氏が日本NAMの解散で言っていたように、「NAM」的なものは広がっているのではないでしょうか。はてなも、その亜形とも見ることができるかもしれません。ポイントと「地域通貨」を重ねてみてみたり、連帯したり、協力することも用意だし、アンテナもあるし、などなど。はてなは、実験と実践ができる契機だとも思います。それにしてもクロアチアに呼ばれるって読まれ方も「郵便的」(良く意味知らない)と思ってしまいます。(とりあげる本も映画もセンスイイと思います。がんばってください。)

PreBuddhaPreBuddha 2005/01/08 19:25 再度のコメント、ありがとうございます。「文学界」は未読です。図書館でバックナンバーを確認してみます。柄谷氏のNAM運動がクロアチアに影響を与えているとすれば、嬉しいですね。tatarさんこそ、取り上げる本の多彩さ、範囲の広さ、博識さに脱帽です。「三色スミレ(野生の思考)の成長日記」は
5日間で、1年分の内容がありますね。Book’markに登録しておきました。
よろしくお願いいたします。

tatartatar 2005/01/09 00:31 そうでしたか。良かったです。新刊の「新潮」に柄谷行人、浅田彰、鵜飼哲の鼎談があります。デリダの「幽霊」を追悼?するためみたいです。全部は読んでませんが、後に読むと思います。ブックマークに登録ありがとうございます。大分大学の中野昌宏先生のブログでもヨタを飛ばしております。
http://nakano.main.jp/
がHPのメインですが、文献案内が本当に良心的です。
いやー、日記かどこかで書きたいと思っていますが、誰かの新書の『思想なんか要らない生活』というのがありまして、思想家や文芸批評家の本をけなしたりなんなりしてましたが、だったら本書くなと思いました。「思想が要らない」思想だろ、てめーは。バカだから読めない。だから黙る。中途半端に言葉先つまんで、グダグダ言ってんじゃねーよ、と思いました。PreBudda様もtrans-radical-Budda=弥勒?(石原完爾参照?)位に本と映画にまみれて、批評してください!5日で一年分なので、後は過去に書いたものを小出しに出して、「このバカを見よ」ってな感じで自己注釈つけていこうかと思います。。よろしくお願いします。

2004-10-03 カレンダー・ガールズ

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ナイジェル・コール監督カレンダー・ガールズ』(2003)は、田舎町の中高年女性が、ヌードカレンダーを出すという話題性だけで観たくなる映画イギリス映画では、田舎町の男性たちが、失業のためストリップを演じる『フル・モンティ』など、実話を基にした地味だが妙に納得させられる作品が多い。



ジュリーウォルターズの夫が白血病で急逝したので、友人のヘレン・ミレンが募金活動のため、婦人会で作るカレンダーを、自分たちのヌード写真で構成しようというアイデアを思いつく。


知人の男性カメラマンンの工夫で、家庭で働く光景を、ヌードで撮って行く経過が、サスペンスのようにはらはらドキドキさせられながら立ち会うことになる。一枚づつできて行く写真の素朴な美しさ。


田舎町の中高年女性が、保守的な婦人会の幹部を説得し、記者会見に望むあたりから、平凡な主婦たちが輝いてくる。カレンダーが飛ぶように売れ、やがて、ハリウッドへ招待される。女性二人はCMに出ることで、葛藤が生じる。有名になることが、平凡な日常生活、夫や子供との関係に変化が生じてゆくことに気づき、女性たちはもとの平穏な生活に戻る。


大きなことを成し遂げた満足感にあふれた女性たちの表情は生き生きとしている。いかにも、イギリス映画の落ち着いた気品あるコメディの雰囲気がややもすればエキセントリックになりそうな刺激性を抑制している。ローカル次元から、世界へ発信する心意気を感じさせる映画として、観る者を幸せな気分にさせ、映画としても大成功を収めたことが伺える内容だった。


イギリス映画(参考)



ブラス! [DVD]

ブラス! [DVD]

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2004-10-02 ペ・ヨンジュン

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冬のソナタ DVD-BOX vol.1

冬のソナタ DVD-BOX vol.1


ペ・ヨンジュンは、今や韓国ドラマの「微笑みの貴公子」として、あまりにも有名な俳優になってしまった。『冬のソナタ』を後半部分から観たが、このドラマがここまで話題になることが不思議だった。その後、TVの特集などで、ペ・ヨンジュンCM撮影風景など観ると、微笑みを絶やさない柔和な表情と、周囲のスタッフに対する心配りや誠実さなど、なるほど、現在日本芸能界の弛緩した連中に較べると、その存在が際立つことがわかってきた。で、初主演映画『スキャンダル』を観てみることにした。俳優の演技や存在感は、クロースアップが多いTVドラマでは、判断しがたいからだ。

[] スキャンダル  スキャンダルを含むブックマーク  スキャンダルのブックマークコメント


スキャンダル [DVD]

スキャンダル [DVD]


イ・ジェヨン監督『スキャンダル』(2003)は、ラクロの『危険な関係』の翻案ものであった。『危険な関係』は、ロジェ・バディム監督ジェラール・フィリップ主演で映画化されて以来、数え切れないほと、リメイクされてきた。ただ、韓国では、このペ・ヨンジュン主演の映画が最初らしい。


危険な関係 [DVD]

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時代を朝鮮の18世紀に移し、貴族社会のなかの儒教規範が支配する世界で、男女が愛を貫くことの困難な時代を背景としたことが、ストーリーの荒唐無稽さを補うに十分に機能した。衣装や小道具や、時代の雰囲気を感じさせる映像は実に美しい。貴族の領主ペ・ヨンジュンの初恋の女性で、現在は政府高官の妻になっているイ・ミスクとの恋の駆け引きから物語が始まる。


未亡人チョン・ドヨンをいかに篭絡させるかを、二人で賭けるゲームが開始される。ところが、自分たちも予想しなかった悲劇へ突き進むことになる。『危険な関係』自体はとりたてて、目新しい作品ではないけれど、朝鮮18世紀という舞台では実に新鮮に写るのがこの作品の良いとこころだ。様式美ということばを与えるに相応しいフィルムになっている。


冬のソナタ』とは180度異なるイメージで眼鏡のないプレイボーイ役は、おそらくペ・ヨンジュンにとっても大きな冒険であっただろう。しかし、ジェラール・フィリップを想起すれば、この選択は正解であり、ペ・ヨンジュンイメージの拡大につながった。相手役にも恵まれた。妖艶なイ・ミスクと、清純なチョン・ドヨンとの三角関係は、古典的なスタイルに収まっている。


ペ・ヨンジュンは、やはりドラマよりも、映画の分野でジェラール・フィリップを目指すべきであることが証明された。いわゆるスターらしいスターがいなくなってしまった映画界にあって、ペ・ヨンジュンは貴重な存在だ。軽々に、安易なドラマに出るのではなく、ジェラール・フィリップのように、あるいは、市川雷蔵のように、シリアスな役から、コミカルな役までこなす俳優として成長することを期待していいだろう。


薄桜記 [DVD]

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ペ・ヨンジュンの『冬のソナタ』は、韓国イメージを変えてしまった。しかし、「在日」の問題や、日韓関係の本質的な問題が解決されたわけではない。韓国が身近になったことの功績は大きい。しかし、「在日」や近代史における韓国植民地問題の本質的な解決は、これからである。『冬ソナ』ブームが終わったあとこそが、真の日韓関係が露呈してくると考えておくべきだろう。


冬のソナタ DVD-BOX vol.2

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