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2004-12-31 いしいひさいち

[]現代思想の遭難者たち 現代思想の遭難者たちを含むブックマーク 現代思想の遭難者たちのブックマークコメント


現代思想の遭難者たち

現代思想の遭難者たち


いしいひさいち現代思想の遭難者たち』(講談社、2002.6)が、現代思想家をパロディとして紹介しつつ、すべての思想家について読む時間など持つことのできない一般の凡庸な市民である私にとって、マンガに付された註釈で必ずしも十分ではないけれど、一言にして思想家を言い得るための導きの本として、年末大晦日にとりあげるにもっとも相応しい本。

いしい氏のアイロニカルなマンガにこそ、思想の真実は隠されている。


機…兇┐罎思想家たち

  ハイデガー

  フッサール

  ウィトゲンシュタイン

  カフカ

  ニーチェ

  マルクス

  フロイト

  ユング

供ー清遒垢思想家たち

 ・レヴィ=ストロース

  アルチュセール

  バルト

  ラカン

  フーコー

  ドゥルーズ

  レヴィナス

  デリダ

掘」牌咾い罎思想家たち

  バタイユ

  ジンメル

  ベンヤミン

  アドルノ

  アレント

  ガダマー

 ・ハーバーマス

  ロールズ

 ・クリステヴァ

検^貎佑罎思想家たち

  ホワイトヘッド

  バフチン

  バシュラール

  ポパー

  クーン

  クワイン

  メルロ=ポンティ

  ルカーチ

 ・エーコ


以上、34人のうち、2004年にジャック・デリダと、そしてこの本には取り上げられていないスーザン・ソンタグの二人が他界された。


34名のうち存命するのは、レヴィ=ストロースハーバーマスクリステヴァエーコの4名のみとなった。現代思想家としては、エドワード・サイード、ベネディクト・アンダーソン、ウォーラーステインゲーデルスラヴォイ・ジジェクソシュールベイトソンアントニオ・ネグリ、それにゴダールを追加した、『現代思想の冒険者たち・増補版』が出版されるべきだろう。


それにしても、フロイトラカン的思想が、19世紀に成立した「小説」という概念を中心とする近代文学終焉のあとの、現代文学を解読するには有効であるようだ。たとえば、村上春樹は、フロイトラカン学者ではなく、なぜユング派の河合隼雄に会いに行ったのか。なぜ、謎を残すような書き方をするのか。書かれていないことが解読の手がかりだとすれば、それは、ラカンの「シニフィアン」に鍵がありそうだ。


昨日も記したが、とりあえず、ラカンの『精神分析の四基本概念』を年越しに読むこと。


[]韓国ドラマの傾向と対策 韓国ドラマの傾向と対策を含むブックマーク 韓国ドラマの傾向と対策のブックマークコメント


冬のソナタ DVD-BOX vol.1

冬のソナタ DVD-BOX vol.1


NHKBS2で放映された『冬のソナタ・完全版』(全20話)を観た。また、31日には『天国の階段』の前半10話のダイジェスト版が民放で放映された。この二つのドラマにはあまりにも、共通する部分があることに気づく。以下、ドラマの構成上のポイントをあげてみよう。


まず、幼なじみの男女の初恋が物語に深くかかわること。出生の秘密交通事故と記憶失。あるいは不治の病。母親の影響が大きいこと。『冬ソナ』ではペ・ヨンジュン記憶喪失になっていたが、『天国の階段』では、チェ・ジウ記憶喪失になっている。記憶の快復が必ずしも、物語の完結にいたるのではなく、更に、別の試練が加わる。初恋の男女は、幾重にも襲う壁に立ち向かいながら、二人の幸福に向かって懸命に生きて行く。


おそらく推測すると、韓国ドラマは、家族の関係、出生の秘密事故による記憶喪失などの障害、不治の病、これらがドラマキーワードとなっているようだ。同じようなパターンが反復されるのでは、そして、いつか韓流ブームは去るのではないだろうか、というのが率直な感想だ。


 

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2004-12-30 書物の収穫2004

[]本の収穫2004 本の収穫2004を含むブックマーク 本の収穫2004のブックマークコメント


映画に続いて書物、読書の収穫を記録しておく。

書物の収穫とは、奇妙な言い回しである。今年、出版された書物のベスト○○をリストアップしても、ほとんど意味がない。そんなことは、各種メディアの識者アンケートで実施されている。もっとも信頼のおけるアンケートは、『みすず』の毎年1月号に掲載されるリストだろう。

ここでは、あくまで私にとって、一読者として収穫であったと思う図書を、分野別あるいはジャンル別に、一冊づつ挙げてみた。

2004年の発行順に並べてみると、以下のようになった。


批評

加藤典洋テクストから遠く離れて』(講談社、2004.1)

テクストから遠く離れて

テクストから遠く離れて

政治

菅孝行『9・11以後丸山真男をどう読むか』(河合ブックレット33、2004.2)*1

小説

古井由吉『野川』(講談社、2004.5)

野川

野川

映画

蓮實重彦映画への不実なる誘い 国籍・演出・歴史』(NTT出版、2004.8)

映画への不実なる誘い―国籍・演出・歴史

映画への不実なる誘い―国籍・演出・歴史

哲学/宗教

黒崎宏『ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説『中論』』(哲学書房、2004.8)*2

【思想】

内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(海鳥社、2004.10)

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

他者と死者―ラカンによるレヴィナス



加藤典洋が指摘しているように、テクスト批評が中心となってから、優れた読み手で、書き手に刺激を与える批評家がいなくなった。この場合の批評家とは、平野謙江藤淳のことを指す。江藤淳の死後、批評不在の時代がつづき、普通の読者が作品を読む指標が見えなくなっている。作品の現場において、作家たちと「ことば」で刺激しあうという関係がない。従って、読者は芥川賞受賞作に象徴されるようなイヴェント的作品を読むか、あるいは、誰もが読むベストセラーものを読むことになる。


加藤典洋の『テクストから遠く離れて』と、同時に刊行された『小説未来』(朝日新聞社)は、作品の現場に接近し解読を試みるという点では、近代批評の原点に回帰している。


もちろん、批評家とは小林秀雄吉本隆明をさすことも可能だが、初期の二人は時代に伴走する文芸評論家であったが、小林秀雄は、絵画・骨董から本居宣長へたどりついた。また、吉本隆明は、親鸞良寛など宗教的な領域に接近している。ことばの正しい意味での「文芸評論家」はいなくなった。江藤淳の役割をかろうじて加藤典洋が担おうとしている。


丸山眞男の死後、数多くの丸山眞男論が輩出している。その中で、菅孝行が時代を反映した読みを試みているのが『9・11以後丸山真男をどう読むか』。小冊子ではあるが、丸山眞男の思想が超えられていないことが、証明されている。


小説からは、古井由吉『野川』を代表させた。もはや小説は死んだ、というのが世間の文壇への評価であり、誰も、小説の可能性など信じていない。そのなかで、唯一、古井由吉のみが文学者たる作品を残した。『野川』は読むことを強いる小説であり、村上春樹アフターダーク』については饒舌に語り得るのに較べて、『野川』は読者に沈黙を強いる。


蓮實重彦内田樹の本については、このグログでとりあげた。蓮實重彦8月14日内田樹は9月12日および、12月19日に『他者と死者』について言及した。


黒崎宏による龍樹『中論』の読みは、「空」の論理が、言語学的側面から接近可能であることを示唆された貴重な出会いであった。


2004年読書から、加藤典洋内田樹斉藤環に共通するある人物が浮上してきた。その人の名は、精神分析学者ジャック・ラカンキーワードは「浮遊するシニフィアン」。

年末年始は『精神分析の四基本概念』(岩波書店、2000)を読み進めているところである。





■追記

形式としての文庫新書全集雑誌を追加しておきたい。これで、10点をリストアップできたことになる。


文庫

島村利正『奈良登大路町 妙高の秋』(講談社文芸文庫、2004.1)

奈良登大路町・妙高の秋 (講談社文芸文庫)

奈良登大路町・妙高の秋 (講談社文芸文庫)

新書

宮田毬栄『追憶作家たち』(文春新書、2004.3)

追憶の作家たち (文春新書)

追憶の作家たち (文春新書)

全集

小沼丹全集』全四巻(未知谷、2004.6〜2004.9)

小沼丹全集〈第1巻〉

小沼丹全集〈第1巻〉

雑誌

荒川洋治編『名短篇』(新潮社、2005.1)

名短篇―新潮創刊一〇〇周年記念 通巻一二〇〇号記念 (SHINCHOムック)

名短篇―新潮創刊一〇〇周年記念 通巻一二〇〇号記念 (SHINCHOムック)

tatartatar 2005/01/12 00:35 黒崎氏の本は未読なのですが、柄谷行人の『トラクリ』の2章「綜合的判断の問題」−超越論的統覚 で「言語学的」観点から、ゼロ記号、サンスクリット語における「空」に触れられており、そういう点で言えば何か新たな観点があったのでしょうか。音韻論における、0記号、0フォーネームも結局はシステムを安定させる為の方便。だからこそ、「0」の発見がすごかったわけですね。構造主義と仏教は相性が良い。この辺は、中沢新一の『対称性人類学』が詳しいかも知れません。小生は、龍樹に関しては、中村元先生の『龍樹』(講談社学術文庫)を読みました。PreBuddha様の言う「言語学的側面」とは具体的に言語学のどういう分野でしょうか。教えてください。

PreBuddhaPreBuddha 2005/01/12 21:34 仏教における悟りとは、言語を超えた一種の禅的な体験の世界、たとえば道元の「身心脱落 脱落身心」への到達は、座禅による「只管打坐」によるといわれます。ところが、『龍樹』の「空」の論理は、徹底的に言語によって考察されています。「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是」という『般若心経』の言葉を体得することが悟りの究極であるとすれば、
それまでは私は、いかに体験的に悟りの世界への到達が可能かと考えていたのを、「言語哲学を媒介として、仏教の悟りに肉迫する」(宮崎哲弥)という言葉に導かれ、「空」とは言葉にほかならない、という逆説的な悟達の方法を知りえたという意味で、言語的な悟りも可能なのかという思いによるものです。あくまでひとつの可能性として「言語的側面」と表現したのです。従って「どの分野」かといえば「言語哲学」とでもいえばいいのでしょうか。うまく言えませんが。

tatartatar 2005/01/14 00:36 『意識と本質』(井筒俊彦 岩波文庫)が、禅はもちろんのこと、古今東西の神秘宗教、シャーマニズムにふれて論が展開されています。(繰り返しですみません。)自分がその言語を超えた禅的な世界を体験したので、より一層理解ができました。ラカンで言えば、「父の名」が外れる瞬間、ヤーコブソンで言えば、シンタグムとパラディグムの軸が外れる瞬間、ある種病的な世界です。一切無分節的世界。部分と全体を同時に認知。感知といか。外界と自己との境界の消失。霧のごとく感じる環境と自己。って書いてるアブナイ感じですが、こんな感じです。小谷野氏がオカルトを批判するのはわかる。自分もそうだった。だから、一回体験してしまうと、オカルトを全否定できない。良くない宗教に利用されるものは否定しますが、ユングで言えば、シンクロニシティーは「あった」と言える。原型論などは、面白い人には面白い。嫌悪する人いるでしょう。と言った感じです。超越論的仮象については、いくらでも語れるでしょう。ある、ない、いやある、の繰り返しで。小生の場合、デカルト的に狂ったと言えばいいのだろうか。

PreBuddhaPreBuddha 2005/01/14 22:34 tatarさんの紹介で井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫)を、俄然、読みたくなりました。
tatarさんの「自分がその言語を超えた禅的な世界を体験したので、より一層理解ができました。」あるいは「外界と自己との境界の消失。霧のごとく感じる環境と自己。」に、惹かれますね。ご教示、ありがとうございます。新たな世界に踏み込めそうな予感がしてきました。

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2004-12-29 2004年映画ベストテン

[]2004年映画ベスト10 2004年映画ベスト10を含むブックマーク 2004年映画ベスト10のブックマークコメント


年末恒例の回顧2004年。まずは映画から今年のベスト10を選んでみた。

スクリーンで観た映画が、92本。年間100本が目標だから少し足りないが、映画館で観た映画、『キネマ旬報2004年12月下旬号の「選出用作品リスト」を対象に選出した。


独断と偏見キャッチフレーズだが、意外とオーソドックスなリストになってしまった。今年の映画ドラマは、純愛ブームそして、『冬のソナタ』に代表される韓流ブーム。純愛ものでいえば、日本映画クールになってしまっていた状況から、恥じらいなく恋愛映画を製作することができる環境になったことを、素直に喜びたい。森田芳光海猫』と、六年ぶりの作品となる根岸吉太郎の『透光の樹』という二本の恋愛映画の傑作が誕生した。久々に日本映画が健闘した年であった。


選外となったが、『スイングガールズ』(矢口史靖)、『下妻物語』(中島哲也)、『バーバー吉野』(荻上直子)、『ミラーを拭く男』(梶田征則)、『チルソクの夏』(佐々部清)、『死に花』(犬童一心)、『スチームボーイ』(大友克洋)など、傑作・佳作が多い年だった。


外国映画は、ハリウッド映画がSFやCGを中心とする大作主義が、人間ドラマを排除しているのに較べて、西欧やアジア映画などに優れたドラマ性が見られる。とりわけ韓流ブームのなかから、『殺人の追憶』のような傑作が誕生した。ドイツ映画の『グッバイ・レーニン』は、冷戦体制の崩壊がもたらした、東ベルリンの人々が映画をとおしてアイロニカルに描かれた。


外国映画のベスト1『ドッグヴィル』は、おそらく評価が分かれる。一歩間違えばワーストになりかねない、そんな試みがラストで劇的なカタルシスをもたらす。映画というより演劇に近い。その点では、三谷幸喜原作の『笑いの大学』も映画としては冒険であった。クリント・イーストウッドは、蓮實重彦が絶賛するシネアストだが、『ミスティック・リバー』でも、その才能を発揮している。クエンティン・タランティーノの『キル・ビル』はVol.1,2を併せると、彼のB級映画へのオマージュであったことが判明する。


日本映画

|も知らない(是枝裕和

誰も知らない [DVD]

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父と暮せば黒木和雄

ハウルの動く城宮崎駿

珈琲時光侯孝賢

珈琲時光 [DVD]

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血と骨崔洋一

血と骨 通常版 [DVD]

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隠し剣 鬼の爪山田洋次

隠し剣 鬼の爪 特別版 [DVD]

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イノセンス押井守

イノセンス スタンダード版 [DVD]

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深呼吸の必要篠原哲雄

深呼吸の必要 [DVD]

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透光の樹(根岸吉太郎)

海猫森田芳光

海猫 [DVD]

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次点:笑いの大学(星護)




【外国映画

ドッグヴィルラース・フォン・トリアー

スイミング・プールフランソワ・オゾン

スイミング・プール 無修正版 [DVD]

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華氏911マイケル・ム−ア)

殺人の追憶ポン・ジュノ

殺人の追憶 [DVD]

殺人の追憶 [DVD]

ミスティック・リバークリント・イーストウッド

ミスティック・リバー [DVD]

ミスティック・リバー [DVD]

2046ウォン・カーウァイ

2046 [DVD]

2046 [DVD]

Э深遒亮飾の少女(ピーターウェーバー

真珠の耳飾りの少女 通常版 [DVD]

真珠の耳飾りの少女 通常版 [DVD]

┐錣故郷の歌(バフマン・ゴバディ)

グッバイ・レーニン(ヴォルフガング・ベッカー)

グッバイ、レーニン! [DVD]

グッバイ、レーニン! [DVD]

キル・ビルvol.2(クエンティン・タランティーノ

次点:列車に乗った男パトリス・ルコント



冬のソナタ・完全版』が、BS2で放映中。今回、はじめて『冬ソナ』のオリジナル版を観ているのだが、ある種の懐かしさや、ドラマ制作における基本や複線の張り方など、ドラマとしてよく出来ている。単に主人公のみならず、三角関係にかかわる人たちや周辺の人物の描写などを、批判的に観ながらも、引き込まれてしまう魅力があることを、あらためて発見した。映画におけるドラマ性の復活を唱えていたのが、ほかならぬ淀川長治さんであったことを思うと、映画にとってドラマ脚本重要性を再認識すべきときだろう。映画制作の原点に帰ること(スターとドラマ)こそが、21世紀映画が生き延びる唯一の道ではないだろうか。

tatartatar 2005/01/07 19:28 はじめまして、tatarと申します。色々検索していて、引っかかったり、またベスト10に共感してしまってので、コメントさせていただきます。邦画の「深呼吸の必要」は映画って本当にイイですと思わされました。外国映画の「殺人の追憶」には殺されそうになりました。すごい強度。国家がバックについて教育にも映画が取り入れられて、邦画は今後・・・。韓琉の純愛映画の極北は「悪い男」だと私は思います。他のもコメントさせていただきます。

PreBuddhaPreBuddha 2005/01/08 19:10 はじめまして、tatarさん。コメントありがとうございます。映画ベスト10リストに共感いただき、感謝・感謝です。韓琉の「悪い男」は未見です。早速、観させていただきます。

tatartatar 2005/01/09 00:37 是非見てください。キム・ギドクは本当にスゴイと思います。韓国の北野?とか言われてるけど、余りに失礼。ソナチネで終わった過去の人で何を言おうとしているんだ、一体。「春夏秋冬そして春」も良かったです。スウィングガールズも良かったですよねえ。監督の話を、日テレの深夜の「爆笑問題のススメ」聞いたのですが、良かったです。キモちいいところは全部押したい、と言っていました。気持ちいいツボ、こんなツボもあるってのを全部押したいって言ってました。スウィングガールズには、押されっぱなし。映画と関係ないところで、何度も観てる人も要るかもしれませんね。。まあイイか。

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2004-12-26 斎藤環

[]文学の徴候 文学の徴候を含むブックマーク 文学の徴候のブックマークコメント


文学の徴候

文学の徴候


斎藤環文学の徴候』(文藝春秋)は、臨床医師が書いた「文芸批評」として、通常のテクストを読む快楽は得られなかったことを、まず、告白しておきたい。


読みながら絶えず違和感を抱いてしまう。文学作品に、精神分析的思惟方法で、対象を解読する方法は、テクストを超えて、作家の病理まで露呈させてしまうからだ。もちろん、斎藤環は、あくまでテクスト批評に徹したと自己弁明している。ラカン的世界に依拠しながらも、臨床経験が背後にあることがしばしば言及される。ラカニアン的態度に立ち、「正しい『読み』は常に一つ」として、本書においても、「私は一貫して『正しい読み方』しかしていない」と自信に溢れている。


私の村上評価は、「ねじまき鳥クロニクル」を境として、ほとんど180度近く変化した。・・・(中略)・・・私にとって重要なのは、この作品を嚆矢として、村上作品の「解離」ぶりは、いっそう洗練されていったという点である。・・・(中略)・・・

解離の導入がなぜ必要であったか。それは私がかつて述べたような、境界例的「分裂」から多重人格的「解離」へ、という、時代精神の変化を反映した流れであった・・・(p115)


これは、『第七章「ライ麦畑」の去勢のために』からの引用だが、斎藤氏は、サリンジャーを「境界例」の作家として捉え、全世界を自分の基準で、善/悪、敵/味方に分ける手法で書き、そこから進展していないのに較べて、村上春樹は、境界例的「分裂」(『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』がその典型)から、多重人格的「解離」へ変化しているにもかかわらず、なぜ、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を翻訳したのか、という疑問に迫る過程で言及する箇所である。


彼(村上春樹)の素晴らしさは、その根源に癒しがたい暴力への志向を抱え込みながらも、懸命にそれを飼い慣らす術を模索しつつあることだ。圧倒的な性と暴力を描きながらも、作品のリアリティの比重をそこだけに依存しないこと。その困難な手続きに村上氏は成功したのだろうか。(p116)


少なくとも、村上春樹は、斎藤環よりはるかに遠くへ行っている。「分裂」と「解離」で定義しようが、村上春樹の最高傑作は、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』であり、『ねじまき鳥クロニクル』において「解離」ぶりが洗練されたことと、作品の評価は別次元にあることは、村上氏の読者なら誰もが知っている。


急いで付け加えれば、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、隠喩的作品という意味であり、換喩的な作品では『海辺のカフカ』が最高傑作に限りなく近い。二作に共通するのはパラレルな世界を描いていることであり、村上春樹は、パラレルな世界を隠喩的あるいは換喩的に描くとき、作品の完成度が顕著に上昇するといっていいだろう。


斎藤氏によれば、冷戦終結後以降の世界では二元論(分裂)ではリアリティを維持できない、その結果選ばれたのが「解離」である、という。


自分自身が虚構内存在であることに自覚的な存在を「神経症」と呼ぶ・・・(中略)・・・

境界例とは、なによりもまず、精神分析的知識で完全武装した患者である。彼らは自らの症状の精神病理的なメカニズムについて過剰に詳しい。そして、それゆえにか、いかなる精神分析にも、精神医学的な治療に対しても、最後まで抵抗する患者なのである。

(p116−117)


医者と患者という立場からみれば、医者は患者にたいして圧倒的な権力をもつ。患者が、病理に関する知識を得たいと思うのが一般だろう。それを、「時代精神の変化を反映した流れ」により、冷戦後シニシズムの根拠から、患者が自分が患者であることに自覚的でありすぎると、換言すれば患者情報を持ちすぎると、原因であるトラウマについて語り終えても、完全に治癒しないというシステムでは、精神分析そのものに、何らかの間違いがあるのではないか、と疑ってしまう。医師の知的権力が、患者の快復を阻害していることになりはしないか。


高橋源一郎がいみじくも指摘しているとおり、精神分析論で「文学」を語るのは危険すぎる。その典型が、斎藤環文学の徴候』であるように思えてならない。臨床医は、患者治癒することを目的に精神分析をするが、文学作品治癒される必要がない。


特に、この村上春樹の章や、古井由吉の章『内因性の文学』など、文学の側から見ると、斎藤氏の分析は納得できない。フロイトラカン的思想で武装して、文学の世界を解読したつもりらしいが、実は、何も語っていないことに等しい。本書で取り上げている作家たちを、日常的に読んでいる読者にとって、斎藤説は理解しがたいし、文学の深さに届いていない。テクストに「正しい読み方」などあり得ない。極端にいえば、読者の数だけテキストの読み方がある。


なるほど、作家精神分析概念にあてはめて、類比する興味は尽きないだろう。しかし、斎藤氏が批評可能なのは、斎藤氏のレベルに合ったサブカルチャー系の一部作家までだろう。作家の想像力を甘くみてはいけない。テクストを分析すると言いながら、作者を病理学的に分析する結果となっているのは、石原慎太郎を「中心的気質」と断定しているところなどからも、分かることだ。テクストとは、精神分析のために書かれたものではなく、読者に向かって書かれているのだ。


私自身(斎藤氏)は、典型的とも言える分裂気質者である。情緒的な冷たさと孤独癖があり、体験の処理に際しては過去参照型よりは未来予測型で、微妙な変化や雰囲気に敏感、このため常に一定のアンバランスな緊張のもとで生きている。診療や分析というフレーム抜きでは、日常の対人関係においては共感性の欠如と鈍感さゆえのトラブルが多い。(p306)

この著者自身の告白は、重要である。医者といえども完璧な人間ではない。「診療や分析というフレーム抜きでは、日常の対人関係においては共感性の欠如と鈍感さゆえのトラブルが多い」ということは、逆にいえば、患者に依拠しており対象を分析することで自らの存在を確認しているといえる。本書は、その意味では、<患者としてのテクスト>を斎藤流に分析してみせた診断結果にほかならない。臨床とは医師と患者の個別的関係であるはずだ。とすれば、臨床的分析を<開かれたテクストとしての文学>に応用することへの危うさを感じる。


文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ

文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ

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2004-12-25 坪内祐三

[]文庫本福袋 文庫本福袋を含むブックマーク 文庫本福袋のブックマークコメント



文庫本福袋!

文庫本福袋!


坪内祐三文庫本福袋』は、『週刊文春』連載の「文庫本を狙え!」の2000年から2004年分で『シブい本』および『文庫本を狙え!』に続く第3弾、相変わらず、坪内氏の渋い好みで選ばれた文庫本にかんするエッセイになっている。


この種の本は、目次を見ながら、「おっ、この本は買っている」とか「うっ、こんな本が出ていたのか、早速、購入しよう」など、自らの関心に従って、読み進めることができる。冒頭から順番に読む本ではなく、ぱらぱらと頁を繰りながら、ふと眼にとまった本を、坪内氏はどのように読んだかが、伺える楽しみがある。『福袋』というタイトルもいいし、装丁も本の中に本があるという入れ子になっていて嬉しくなる。


坪内氏の目利きは鋭く、かつ広範囲に亘っているので、私が見逃していて、購入リスト作成の情報源として有用でもある。『文庫本福袋』から、購入リストをあげてみよう。


  1. 色川武大『生家へ』(講談社文芸文庫*1
  2. 吉行淳之介『やわらかい話』(講談社文芸文庫*2
  3. 松本清張『文豪』(文春文庫*3
  4. 山田稔『残光のなかで』(講談社文芸文庫*4
  5. カルディン・トムキンズ著/青山南訳『優雅な生活が最高の復讐である』(新潮文庫*5
  6. 田中小実昌『自動巻時計の一日』(河出文庫*6
  7. 正宗白鳥自然主義文学盛衰史』(講談社文芸文庫*7

リストを見れば、講談社文芸文庫が圧倒的に多い。これは、私の趣味・趣向が、講談社文芸文庫に合うからであろう。年末読書にでも準備しておこう。


本書から印象に残ったことばは、庄司薫『ぼくの大好きな青髭』(中公文庫)のことばが古びていないことを指摘し、薫くんの以下のことばを引用しているところである。


「ほんとうに怖いのは、年老いて、遥かな時間と疲労の厚い壁の向こうに夢と情熱に溢れた十八歳を持つそのことではなく、実は十八歳の自分をそのまま持ちながら年老いるということのなのではあるまいか?」

ないものねだりかもしれないが、薫クンの今の、つまり五十歳を過ぎた薫クンの言葉を眼にしたい。(p293)


庄司薫には、薫クンシリーズの四部作『赤頭巾ちゃん気をつけて』『白鳥の歌なんか聞えない』『さよなら解決黒頭巾』それに、この『ぼくの大好きな青髭』以外には、代表作がない、というよりも、小説を書いていない。いまさら、薫クンのその後を読みたくはないけれど、作者が書けない状況とはどういうものなのか、そのことだけでも書くべきではないか。それが、作家の使命であると思うのだが。



坪内祐三文庫本を狙え』シリーズ

文庫本を狙え!

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シブい本

シブい本

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2004-12-19 内田樹(2)

[]他者と死者 他者と死者を含むブックマーク 他者と死者のブックマークコメント



他者と死者―ラカンによるレヴィナス

他者と死者―ラカンによるレヴィナス


内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(海鳥社、2004)を読了


内田氏は、「まえがき」で「彼らがほんとうは何を言いたいのか、私にはよく分からない」と、まず、読者を混乱させる。いや、安心させているのかも知れない。私自身、レヴィナスはもちろんラカンも読んでいない。だから、先入観なく読んだ。


レヴィナスラカンの難解さについて、


「何がいいたいのか分からないように書く」のは、彼らの側に「言いたいことがある」というよりはむしろ、読者に「何かをさせる」ためである。(p20)


と書く著者は、二人が提起した「謎」に内田流の解釈を付けたのがこの『他者と死者』である。前半の「他者」論は、「欲望」「テクスト」「師と弟子」「謎」などのキーワードにしたがって記述される。


レヴィナスが告げているのは、テクストを読む行為そのものが「出来事」であるような読みを試みよということである。・・・(中略)・・・今読みつつある当のテクストの書き手を「師としての他者」に擬し、師が蔵する「謎」を「欲望」するという仕方で「漂流」に踏み出すような読みを試みることである。(p99)


まず、主体があり、主体が他者を志向するという自我中心主義の図式をレヴィナスは転倒すると内田氏は解説する。主体と他者は同時に出来するのではなく、主体は他者に遅れて出来すると。

「複数のパロール」について、内田的解説。


「私」ともう一人「<私>と名乗る他者」の二つの声が輻輳するとき、そこに、「私」のことばによっては決して担いきることのできない「何か」がある種の「倍音」のようにして聴き取られる。それをかつて詩人たちは「ミューズ」と呼び、ソクラテスは「ダイモニオン」と呼び、村上春樹は「うなぎ」と呼んだ。もちろんそれを「神の声」と呼ぶことだってできる。(p89)


対話とは本質的に「三者協議」であるというのだ。


後半は、「死者」をめぐって展開される。レヴィナスラカンのホロコースト体験から終章に至り、内田氏の思想が示される。通常の時間観念は「過去から未来へ」と流れるが、もうひとつの時間とは、「未来から過去へ」流れる時間のことだ。


ハイデガー的にいえば「時熟」する時間意識、ラカン的にいえば「前未来形」で生きられる時間意識、レヴィナスの述語でいえば「他者のための/他者の身代わりの一者」の時間意識がそれである。それは「私についての物語を語り終えた私」を想像的な起点として今ここを照射するような、逆走する時間意識である。私たちはこの二つの時間意識のはざまを揺れ動いている。どれほど公共的な被解釈性に頽落していても、私たちは死の切迫を完全に「ひとごと」にすることはできない。そして、私たちが、誰によっても代替不能のかけがえのない人間でありたい、わずかなりともこの世界に「善きこと」を残しておきたいと願うとき、私たちは「死んだあとの私」の視点から「今、ここ」の私を眺めるという操作を経由することを避けられない。(p247)


つまり「死んだあとの私」の視点から行う行為が「善」であると内田氏は言っているのだ。それは、次の結論的言説に要約される。


神が完全管理する世界には善への志向は根づかない。皮肉なことだがそうである。私の外部にある「他者」がまず私の罪を咎め、それに応えて私が有責感を覚知する、というクロノロジックな順序でものごとが進む限り、人間の善性は基礎づけられない。人間の善性を基礎づけるのは、人間自身である。同罪刑法的思考に基づかず、神の力も借りずに、なお善を行いうるという事実、それが人間の人間性を真に基礎づけるのである。レヴィナスは、「神なき世界」における善の可能性について、短く美しいことばを書いている。

無秩序な世界、善が勝利に至らない世界における犠牲者の立場、それが受苦である。受苦が神を打ち立てる。救援のためのいかなる顕現をも断念し十全に有責である人間の成熟をこそ求める神を。(p268−269)


「神なき世界」で人間が「善」を行うことの意義は何なのだろうか。いや、そもそもここでいう「善」とはどのような行為なのか。完全無欠な「善」がありうるのだろうか。「人間の人間性を真に基礎づける」とはどういう意味なのか。「人間性」だの「善」ということばに対して素朴な疑問を禁じえない。「善悪」の基準とは、相対的なものではないのか。内田氏は、この書物を書いている間、自分は「比較的感じのよい人間」であったと述べている。また、「ある知的行為が『愉しく』感じられるというのは、ふつう、そこでなされていうことがどこかで『人間の本性にかなっている』からである」という。「人間の本性」とは何だろうか。


レヴィナスラカン引用しながら、内田氏は自己満足の陥穽に陥っているといえないだろうか。「テクスト」は開かれている。どのような読みも可能だろう。なぜ、このような疑問を呈するかといえば、小津安二郎の作品解釈に違和感を覚えたからである。


小津安二郎コミュニケーションの交話的水準に焦点を合わせてシナリオを書く方法を知っていた稀有の映画作家である。『秋刀魚の味』のラスト近く、私鉄の駅頭での平一郎(佐田啓二)と節子(久我美子)のやりとりは次のようなものだった。(p37)


として、なんと『お早よう』のせりふを引用している。そして、「むさぼるように互いを求める彼らの欲望の激しさを、観客たちはこの「執拗さ」のうちにただしく感知するはずである。」と。そもそも、内田氏のいう「交話的水準」とは何なのか。小津は、「交話的水準に焦点を合わせてシナリオを書」いたとは思えない。野田高梧との合作シナリオであり、抑揚のない、あえて感情を抑制した話し方を俳優に強いたのだった。つまり、内田氏が誤って引用している『お早よう』での佐田啓二と久我美子の会話の解釈を、自らの<欲望>説に引き寄せているに過ぎない。


小津安二郎の作品の系譜には、おなじ「とうふ」を作っていても二つの分野があり、ひとつは、コメディ調の喜八シリーズなどで、他は、戦後の『晩春』に始まる家族の崩壊の物語である。内田氏が引用しているのは、コメディ調の『お早よう』であり、佐田と久我の会話に激しい欲望を読みとるのは、深読みにすぎない。小津作品の同語反復は、親子、夫婦、男女間で同じように交わされるが、その構図が、交錯しない視線に象徴されるように、親和的言説以上でも以下でもない。


内田樹未来から過去への時間意識や、「死んだあとの私」の視点から見る方途などは基本的に首肯できる。また、レヴィナスラカンで読み解く過程は、刺激的であり読み応えが十分ある。しかし、結論が「人間の人間性を真に基礎づける」というような「善」を志向する思惟方法では、倫理か道徳の教科書ではないか。



【補記】2004年12月26日朝日新聞」から


高橋源一郎が、今年の3点として

中沢新一『対称性人類カイエソバージュ后戞講談社メチエ)

内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(海鳥社)

斎藤環文学の徴候』(文芸春秋

をあげている。

精神医学もしくは精神分析の方法や知見が,任鷲分的に、△筬では広範に引用されて、それが鋭い認識の矢となって対象を撃っている。鋭すぎる認識は、時に「文学」にとって両刃の剣となる。だが、いまはその危険な武器をこそ採るべきなのかもしれない。ところで、斎藤環の「語法」に、ぼくは小熊英二大塚英志と共通するものを感じるのだが、それは何に由来するのだろう。

<時に「文学」にとって両刃の剣>という表現が気にかかる。精神分析的方法は<危険な武器>であるかも知れない。しかし、敢えて、その武器を用いなければ解読できない対象が現実に存在する、ということが現代社会の闇の深さ、あるいは病の重さを感じてしまう。内田樹の著書からも、背後にその気配を感じる。



対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

文学の徴候

文学の徴候

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2004-12-18 スピルバーグ

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ターミナル』(2004、米)を観た。スピルバーグ監督に、トム・ハンクス主演とくれば期待度も高まる。


ターミナル DTSスペシャル・エディション [DVD]

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空港で生活する人々といえば、『パリ空港の人々』(1993、仏)が想起される。その『パリ空港の人々』から見れば、『ターミナル』はいかにもアメリカ的な楽天性に満ちたおとぎ話にすぎない。巨大な空港ターミナルはセットらしいが、セットの素晴らしさのみが誇張され、ドラマの凡庸さがセットとの均衡を欠いたものになってしまった。


トム・ハンクスが、東ヨーロッパのクラコウジアなる国からアメリカにきた動機が、後半に明らかになるわけだが、しかもそのキーワードが、ジャズであれば、もう少しドラマ性を高める要素があってもいいのではないだろうかと文句の一つも言いたくなる。


まあ、そうは言っても、さすがはスピルバーグ、随所に見せ場を用意している。トム・ハンクスが、空港の人々と仲良くなって行く過程とか、空港管理警備局のスタンリー・トゥッチの官僚的態度への接し方には、思わず笑ってしまう。


登場人物が、最初はそれぞれ、いかにもステロタイプに画面に出てくる。トム・ハンクスの人柄が、周囲の人々を本来の親しみやすい人物に変貌させて行く手法など、手馴れたものだ。キャサリーン・ゼタ=ジョーンズは、不倫の相手に振り回されるベテランのスッチー。美人で、スタイルが良くて、リッチな女性が、空港に住むトム・ハンクスに惹かれるのも、不自然な設定だが、そこは映画的なセオリーに従っている。


入国拒否のスタンプを律儀に押しつづけるゾーイ・サルダナ、彼女を好きになるディエゴ・ルナ、「アポはとったか」といつも確認する掃除人のクマール・パラーサ、上司の命令に忠実ではあるけれど、人情に厚い移民局の役人バリー・シャバカヘンリーなど、脇役陣も個性的な俳優で固めている。


スピルバーグフィルムは、逆光のなかで、光が溢れるとき、物語の起伏や発展にかかる。

未知との遭遇』や『E.T.』がそうであったように。スピルバーグ的世界とは、異世界に立ち入ること、あるいは異物と遭遇することから物語が綴られて行く。そして光あふれる世界での体験が、主人公たちを変貌させて行く。この方式が、一貫してスピルバーグ的遭遇として、異星人、鮫、暴走する車、戦場などと同様に、『ターミナル』では、空港という非日常的世界の人々=異人たちとの出会いとして、描かれる。その意味では、SFでもなく、CGを用いなくとも、『ターミナル』はまぎれもなく、スピルバーグ的世界の刻印を帯びている、と言っていいだろう。


スピルバーグとは、一種の映画職人の別名にほかならない。どんな映画を撮っても、それなりに楽しく見せてくれる。職人芸の域に達しているといっては、失礼だろうか。ハワード・ホークスヒッチコックが、映画職人であったように、同様の意味スピルバーグ職人監督と呼びたい誘惑にかりたてられる。決して、芸術家ではないスピルバーグこそ、彼のフィルモグラフィに相応しいだろう。



ターミナル公式サイト

http://www.terminal-movie.jp/


■スティーヴン・スピルバーグ代表作

ジョーズ [DVD]

ジョーズ [DVD]

tatartatar 2005/01/14 10:53 小生のように多国籍で育ってきたものには、十分すぎるほどのドラマ性がありました。おそらく、日本で新しい批評が生まれるとすれば、「日本語」と「日本人」に対して、どこまで繊細、敏感、そして寛容になれるかだと思います。そこを踏まえていないと、見いだせるものを見落とすでしょう。多民族国家になるとこの国の偉い人は標榜しています。多であること、民族とは何か、十分な議論があるとは思えません。無国籍人はman without country と言われいました。No Nationality との違いをどれだけ吟味できるか、「日本人」に問われていると思います。この映画についてはいずれ、小生の日誌でも取り上げるつもりです。無国籍人を家族に持ったものとして。

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2004-12-12 文芸誌新潮

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名短篇―新潮創刊一〇〇周年記念 通巻一二〇〇号記念 (SHINCHOムック)

名短篇―新潮創刊一〇〇周年記念 通巻一二〇〇号記念 (SHINCHOムック)


荒川洋治編集長による『名短篇』(新潮別冊)は、文芸誌新潮』創刊100周年記念で、荒川氏が一年間をかけて本誌に掲載された中から短編38編を厳選した。


森鴎外の「身上話」(1910)から、町田康「一言主の神」(2004)まで、また、『新潮』に掲載された長編40編についての解説があり、近代日本文学史小説史を鳥瞰できる内容になっている。


早速、鴎外の「身上話」(1910)、荒畑寒村「父親」(1915)、中戸川吉ニ「寝押」(1922)、太宰治「俗天使」(1940)、川崎長太郎「ひかげ咲き」(1952)、深沢七郎「おくま嘘歌」(1962)などを読む。いずれも、その時代背景を想像しながら、短編小説の味わいを楽しむ。


荒川氏は、序文で


この百年のあいだに、「新潮」に発表された数多い短編から、三八編を選ばせてもらった。力いっぱい選んだ。

・・・(略)・・・

文学の美しさ、豊かさを堪能いただきたい。名作は「自分が書いたものだ」という気持ちで読むのもいい。・・・・・・・・・ (p7)


と、名作は「自分が書いたものだ」という気持ちで読むといい、とアドバイスしている。「力いっぱい選んだ」という編者のことばを、受けとめよう。


それにしても、太宰の文章の巧さが際立っている。『斜陽』や『人間失格』を読み、太宰を卒業していたと思い込んでいたが、とんでもない。太宰治こそ、全作品を読むに相応しいことを、あらためて発見した。


文学作品の評価は、100年くらいの歴史を経て評価に値するもののみが残されることが、この特集によってよくわかる仕組みになっている。


文学の美しさ、豊かさを堪能」しようと思う。



新潮社の『名短篇

http://www.shinchosha.co.jp/shincho/meitanpen/index.html



■追記(2004年12月13日

荒川洋治には、「一年一作百年百作ー1900〜1999」(『文学が好き』、p164−190)の労作があることも指摘しておきたい。このリストこそ、日本近代文学史そのものであるといっても過言ではない。長短編を併せて、100作のリストコメントを付したものであり、テクストは現物をあたることになるが、読書の指針として参考になる。



荒川洋治の著作

本を読む前に

本を読む前に

夜のある町で

夜のある町で

文学が好き

文学が好き

忘れられる過去

忘れられる過去

nicenarunicenaru 2004/12/12 19:23 はじめまして。川瀬です。
新潮の名短編、まだ読んでいないのですが読んでみたくなりました。
今度図書館にでも行って借りてこようと想います。

PreBuddhaPreBuddha 2004/12/12 19:48 川瀬さん、この『名短編』は、一冊で日本の近代文学の100年が分かる構成に
なっています。単行本や文庫では読めない作品もあります。荒川氏入魂のアンソロジーです。

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2004-12-11 僕の彼女を紹介します

[]僕の彼女を紹介します 僕の彼女を紹介しますを含むブックマーク 僕の彼女を紹介しますのブックマークコメント


クァク・ジェヨンの新作『僕の彼女を紹介します』(2004)は、映画とは徹底して荒唐無稽なものであることが許されることを、証明しているフィルムになっている。


僕の彼女を紹介します 通常版 [DVD]

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冒頭、ビルの屋上から落下するチョン・ジヒョンに、「僕の彼女を紹介します」というチャン・ヒョクのナレーションがかぶさる回想スタイルで始まる。僕から見た彼女とは強気の警官で、誤認逮捕が二人の出会いのスタートであった。


軽快なテンポで進捗する二人の関係は、コメディそのもので、映画史的記憶をおさえた多くの引用パロディには、思わず苦笑させられる。手錠をつないだまま一夜を過ごすのはヒッチコックの『三十九夜』(1935)のロバート・ドーナットとマデリーン・キャロルを想起させる。手錠でつながった不自由なままで、二人は洗面所前で交互に同じ動作を反復することが、関係の親密化をあらわしているように。


雨が降るしきる道路で、雨や水溜りを気にせず踊るように歓喜するシーンは、申すまでもなく、ジーン・ケリーの『雨に唄えば』(1952)を連想させる。映画の中のおとぎ話はこの映画のオリジナルだが、『白雪姫』や『ロミオとジュリエット』から発想されていることは確かだ。


二人で出かける夏休みドライヴ。キスを拒否するチョン・ジヒョンは、皮肉にも、車の事故で溺れたチャン・ヒョクを救うために人口呼吸でキスを交わすことになる。ラブシーンを直接的に描いていないのも、このフィルムの良いところであり、二人が、草原の丘で風を受けながら、チャン・ヒョクは「僕がいないときに吹く風は僕だ」とその後の展開を暗示させる光景が、一種ラブシーンの代替になっている。


死んだ恋人が女性を守る『ゴースト ニューヨークの幻』の雰囲気や、『シティ・オブ・エンジェル』の天使ニコラス・ケイジが、女医メグ・ライアンに気づかれないように本を置くシーンから、詩集が唐突にチョン・ジヒョンの部屋に置かれているシーンへと、映画的記憶がつながる。


このように、映画的記憶に満ちた『僕の彼女を紹介します』が、極端に荒唐無稽さを突出させるのが、冒頭の落下シーンにつながるチョン・ジヒョン投身自殺のシークエンスであろう。黄色いバルーンに救われた彼女は、その後、強い警官として現場で大奮闘、そのあまりのかっこよさは、アクション映画そのものであり、虚構だからこそ、彼女の強さと、恋人への思慕のため自殺を考える弱さとの落差に、フィルムとしての純愛度が上がるといえるのかも知れない。


Special Appearansesとしてクァク・ジェヨン監督作品から二人が出演している。ラストシーンは、もちろん、そのうちの一人が「僕と魂の似た人」として新たな幸福が待っていることを余韻として残す。何度もこれで終わり?というシーンが続き、やっと映画はエンディングを迎える。


荒唐無稽さを、ためらうことなく荒唐無稽さとして描いてしまう韓国映画の勢いを感じさせる点で、また、韓国映画コメディアクション純愛映画の要素が盛りだくさん詰まっていることで、『僕の彼女を紹介します』は、2004年韓流ブームを締めくくるにふさわしいフィルムになっている。


僕の彼女を紹介します

http://bokukano.warnerbros.jp/


■クァク・ジェヨン作品

ラブストーリー [DVD]

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2004-12-08 パトリス・ルコント

[]列車に乗った男 列車に乗った男を含むブックマーク 列車に乗った男のブックマークコメント


パトリス・ルコントの『列車に乗った男』(2002)は、男二人の交流という点で『タンデム』(1987)の系譜につらなる。パトリス・ルコントの作品は、コメディイ、恋愛映画、男同士の友情、大きく三つのカテゴリーに分かれる。


列車に乗った男 [DVD]

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『髪結いの亭主』や『仕立て屋の恋』が日本公開されたとき、ルコントは美女に恋する男の孤独とせつなさを、リリカルに描く作家と見られていた。のちに初期のフィルムが公開されて、『レ・ブロンゼ』シリ−ズなどのコメディから出発した作家であったことが分かる。その後、コメディ風の映画と、一方で深刻な男の視線による恋愛映画を交互に撮ってきている。


最新作の『列車に乗った男』は、初老を迎える男二人の人生をみつめる映画になっている。引退した教授ジャン・ロシュフォールが、列車で田舎町へきた流れ者のジョニー・アリディに出会ことで、自らの人生を振り返り、可能ならば別の人生もあり得たことを想う。西部のマッチョ男を想像させるジョニー・アリディの生き方に共感を覚え、あこがれさえ抱く。しかし、教授は、心臓の手術を土曜日に受けることになっていた。流れ者は、同じ日に仲間とともに銀行強盗を働く予定であった。


二人の男の死と再生。

再生した二人は、新たな人生を歩む。すなわち教授列車に乗って旅にでる。流れ者は、教授の家でピアノをひいている。交換可能な人生のように見える。しかし、それも実は幻想にほかならない。人は過去の人生を変えることはできない。未来希望と意思を持てば、変えることも可能だ。そんなメッセージが込められているように思える。果たしてそうだろうか。


ロードムービー『タンデム』(1987)では、ジャン・ロシュフォールとジェラール・ジュニョーは、喧嘩を繰り返しながらも車に同乗し続ける旅を、男同士の友情と情けの想いとして描かれる。しかし、人生の交換はない。


列車に乗った男』では、人生の交換を希望する教授と、強盗の決行に悩む流れ者。教授は、最後の別れの日、男にアラゴンの詩集を渡す。そのとき、男はサーカスで14年間スタントマンをしていたことを打ち明ける。何かが変わるわけでもない。いってみれば平凡な人生。とりかえしのつかない人生ではあるが、後悔もしていない。とりとめもない、どこといって異彩を放つ映像や、印象深い光景があるというわけでもない。あえていえば、二人がすれ違うシーンや、手術後ベッドに横たわる教授の眼と、銃に撃たれ深い傷を負った男の瞳があり、交錯する視線はスクリーン上でのみ交わる。


ジャン・ロシュフォールが、髪をカットするために床屋に行くシーンがある。もちろん、あの名作『髪結いの亭主』で主演した自分へのパロディになっているのは明らかであり、孤独な男という点では、おそらく『仕立て屋の恋』や、官能的な『イヴォンヌの香り』を含めたルコントの全作品に通底している。


パトリス・ルコントの多くのフィルムに主演しているジャン・ロシュフォールは、ルコントの分身的存在といってもいいだろう。とすれば、『列車に乗った男』において、自らの人生を回顧し、希望すべき未来への幻想を語っていると看做すことができる。にもかかわらず、いずれにせよ、人生とは「孤独」にほかならない、と。シニカルな自己言及的視点だ。



パトリス・ルコントの代表作

タンデム [DVD]

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仕立て屋の恋 [DVD]

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髪結いの亭主 [DVD]

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2004-12-05 シャーリーズ・セロン

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モンスター プレミアム・エディション [DVD]

モンスター プレミアム・エディション [DVD]


シャーリーズ・セロンが、2003年アカデミー賞の最優秀女優賞を獲得した『モンスター』について、一体、何を語ることができるのだろうか。女性監督パティ・ジェンキンスによる初長編作品。

デニーロ・アプローチと称される体重を増減させる方法と、特殊メイクによって、シャーリーズ・セロンの演技が、金髪の美形であるが故の、賞賛に集約されるだろう映画評は、ほとんど意味を持たない。


実在の連続殺人アイリーン・ウォーノスを描くこと自体が、カポーティの『冷血』や、アーサー・ペン『俺たちに明日はない』の延長線上に位置するフィルムになるであろうことも予測がつく。この映画は、実話に基づく話であることから、観る前にある程度内容が分かってしまう類のフィルムであり、そのことが、逆にマイナスに働くことも容易に想像できることだ。


スクリーンを前にしても、期待過剰になることはなかった。自然に観ようと自らに言い聞かせなれば、おそらく観ることもなかったであろうフィルム


にもかかわらず、この映画の迫真に満ちた緊迫感と、事実がフィクションを凌駕することを証明しているフィルムであることを、これほど観る者に鋭く突きつけてくることは稀有な体験となる。


同性愛的志向が強いクリスティーナ・リッチ演じるセルビーとの出会いがなければ、愛に気づくことなく、生涯を終えていたかも知れないアイリーンアイリーンを、モンスターに変貌させたのは、一言にしていえば、家庭環境ということになる。肉親の暴力に耐えながら、13歳で娼婦になり、ホームレスとなったアイリーンが生きる道とは、彼女を陵辱した男たちに復讐すること以外にはありえない。なるほど、セルビーへの愛から、手早く金を得るために犯した殺人は、許されるというレベルではない。もちろん、殺人には、国家的な正当性も持つ殺人戦争)と、個人が他者を個別に殺害する殺人があり、前者は法律によって裁かれることはない。後者のみが、法廷で裁かれるのだ。


モンスター』は、過酷な環境に置かれた少女が生きる道として選択した娼婦という職業を、アメリカ社会の高度資本主義的な経済的差別が助長していると指摘することはたやすいことをも見透したフィルムであり、女性の自立が環境という構造から逸脱することの困難さを、リアルに描いた作品といっても真の解釈からはほど遠い。


人はどのようにでも生きることができるというのは錯覚ではないのか。環境という構造を超えることの困難さは、何もアイリーンのみではない。今日の日本殺伐とした社会的状況にも言えることであろう。宿命ということばでまとめてしまえるほど、ことは、単純ではない。


モンスター』に触発されて、およそ映画的言説から限りなく遠い地点で、凡庸なことばを綴っていることくらいは自覚できる。しかし、そのような凡庸なことばを拒否しているのが、ほかならぬ『モンスター』という映画ではないのか。


観ることが、際限なくことばを連ねることになるほど、この映画インパクトは大きい。ブルース・ダーンが演じるベトナム帰還兵のトーマスが、アイリーンの唯一の理解者であったことに、アイリーン自身が気づいていないことの不幸は、強調しておかねばなるまい。戦争という国家殺人に加担したトーマスこそが、人を殺すことの本質を見抜いていたのだ。



モンスター

http://www.gaga.ne.jp/monster/


関連図書

Monster: My True Story

Monster: My True Story

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2004-12-04 根岸吉太郎

[]透光の樹 透光の樹を含むブックマーク 透光の樹のブックマークコメント


透光の樹 (文春文庫)  

原作:高樹のぶ子


根岸吉太郎6年振りの新作『透光の樹』(2004)は大人の純愛映画になっている。今、純愛あるいは恋愛映画ブームといわれるが、『海猫』につらなる大人の恋愛映画の決定版として、『透光の樹』を評価したい。


秋吉久美子永島敏行。この二人のように、大人というか中年の役者さんを主役とした恋愛映画は、決して多くはない。現在映画制作環境からいえば、マーケット市場も広くはない。根岸吉太郎は、日活ロマンポルノ出身の監督であるが故に、二人の絡みのシーンの撮り方が巧い。


千桐(秋吉久美子)と郷(永島敏行)の出会いは偶然であるが、25年前に郷は千桐の父(高橋昌也)の取材の時に出あっていた。鍛冶師の名匠であった父は、痴呆症になっている。千桐の借金を背負った生活を助けたいと思った郷が提案したのが、経済援助であった。いわば金銭から始まる男女関係が、その呪縛から解放されることによって、単なる恋愛というより純愛に高まって行く。


郷は、テレビ製作会社経営者であり、現場をも指導する仕事人間。人生の大半をフィルム製作に賭けてきた。その過程で、女性との関係も多く経験し、人生の半ばにして、自分の行く先も見えてくる年齢。一方の千桐は、娘を抱えて離婚実家に帰り、痴呆の父の面倒を見ている、生活者の典型である。


一見、ヤクザなTV業界人間に見える郷には、25年前の鍛冶師取材の際、高校生だった千桐のセーラー服姿の写真を撮っており、ピンボケになっているため、本人へは送付していなかった。純粋な部分を根底に持っている男。この記憶が、偶然を装いながらも、出会いの必然性を導いている。男女が惹かれて行く状況の設定は、文学的な装置によるものであるが、若い頃の異性を求めあうというような無軌道な激しさはない。淡々と二人の愛は始まるのだが、次第にぬきさしならない状況になる。


二人は二度目に金沢ホテルで出会い、郷がタクシーに乗ると、千桐は走って車を追いかかけるシーンがある。この何気ないシーンが、実は女性が男性を引き込む契機となる光景でもあり、重要な位置にあることに気づくのは、画面の外からである。


千桐と郷を演じる秋吉久美子永島敏行の存在が中年世代の生活を背負いながらも、そこに満たされない何かを感じていて、二人の結びつきによって何が人生にとって大切なものであるかが、露呈してくる。癌に侵されていることが判明した郷は、手術して少し長生きすることよりも、千桐との愛を優先することを選択する。


大人の肉体的な関係の映像的表現は、ややもすれば醜悪に写りかねない。それが、官能的表現に昇華され、死が見えてくることで、より美しさが深まる。全裸で絡む二人は頭文字のCとGを構成した耽美的な芸術表現の極北。女性への優しい愛撫の表現がラブシーンの随所で反復される。男女の恋愛パターンの理想的なかたちかも知れない。


二人が最後に逢引するシークェンスの流れはあまりにも見事なできばえになっていて、ローカル電車での別れの会話とその表情は、観る者に感涙をもたらす。性と生は、深く結びついている。だからこそ、二人の事実上の別離となる電車のシーンは切なく、いとおしい。多分、このような関係に同化できる年齢というものがあるのだと思う。


千桐の父が作った小刀が、作品中の小道具として大きな意味を持つ。郷に渡っていた小刀が、千桐のもとへ帰ってくるときは、郷の存在は二人が最初に出会った六郎杉に小刀で彫られた「G」に残されていることを、千桐が発見ときでもある。それから、15年後が現在、娘には孫がいる。老いてなお、色気を持つ千桐は、自分の肉体の半分は郷のもであることを確認している。その姿に哀切を感じられるかどうか。そこが、愛と死の本質的な関係が「わかる」分岐点であろう。


若者向けの『世界の中心で、愛をさけぶ』や『いま、会いにゆきます』のような恋愛映画が大ヒットするなかで、『透光の樹』は大人の純愛映画として貴重なフィルムであり、今年第一の恋愛映画といっておきたい。


根岸吉太郎は、『永遠の1/2』(1987)以来の傑作であり、永島敏行は『サード』(1978)『遠雷』(1981)に並ぶ久々の好演で、降板した萩原健一では、純愛映画にはなり得なかった。秋吉久美子は名状しがたい美しさで、蠱惑的な魅力に溢れている。彼女の最高傑作といっても過言ではない出来だ。


恋愛】特定の異性に対して他のすべてを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえらえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。
【純愛】一身を犠牲にすることをもいとわない、ひたむきな愛情。
『新明解国語辞典 第六版』(三省堂、2005.1)より


『透光の樹』の公式ホームページ

http://www.cqn.co.jp/toukounoki/index.html


根岸吉太郎の代表作

遠雷 [DVD]

遠雷 [DVD]

探偵物語 [DVD]

探偵物語 [DVD]

絆 [DVD]

絆 [DVD]

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