勤労感謝の日


絲山秋子沖で待つ』(文藝春秋,2006)に収められたもう一編の小説「勤労感謝の日」が、読み応えあった。最初の女子総合職としての経験がやっと作品に生かされてきた。芥川賞受賞作である「沖で待つ」が、同期の男性との一種友情に近い関係を描いた作品だった。「勤労感謝の日」は、同期の女子同士の友情を描いている。


沖で待つ

沖で待つ


主人公・鳥飼恭子は現在無職で、交通事故に逢ったときに助けて貰った近所の長谷川さんに、頭があがらない。その長谷川さんの世話で「見合い」をすることになる。そのときの、相手の印象を語る恭子の「語り口」が歯切れ良く、いかにも30代後半の女性としての矜持を感じさせる。


また、世間をシニカルに見る無職女性の眼が鋭い。

駅の向こう側には、上沼町というクリスマスが大好きな新興住宅があって、全世帯で豆電球を家の外壁に点滅させているが、電気はつけたら消せと習わなかったのだろうか。
・・・(中略)・・・
「上沼町に原発を」私は駅向こうに行くたびに思う。幸せは家の中でやってくれ。
・・・(中略)・・・
社会をどんどん俗悪なものにしているのは私の世代なのだ。小学生の名前の変遷を見れば歴然とわかる。このクソ世代がやっていることが。(p.25)


小気味よい文章だ。その後、恭子は同期の総合職でやはり会社を辞めて、旅行代理店に最就職した水谷ゆかりに電話をかけて渋谷に呼び出す。ふたりの「ことば」のやりとりは、リアルっぽく作者の世代をよく反映している。

「鳥飼さん、仕事で憧れってありました?」
「憧れ?」
「社内じなくても、この人みたいに働きたいとか、こういうふうになりたいとか」
「ない。一度もなかったね」
「私もなかったです。これって私達の不幸ですよね。総合職という場は用意されていながら誰もビジョンなんて持っていなかった」(p.33−34)


バブル期の女性総合職とは何だったのか。最初の総合職だった絲山秋子さんの次の文章は、彼女の本音が出ているといえないだろうか。醒めた眼で、自己を相対化している。

総合職の中でも最も平等に扱われる会社を目指して、内定を貰った時は相思相愛と思ったが、蓋を開ければ女子は旧帝大早慶の経済か法学部しかいなくて、結局学歴逆差別で入っただけか、と失望した。バブル入社と言っても女の子は枠が少なかったから内定を取るのに苦労した。楽勝は男の子だけだった。もちろん今の学生はもっとキツい。仕事がない、我々の世代には苦労を語る資格は与えられていない。(p.32)


「見合い」をすっぽかして、同期の友人と逢い、食事をし、お互いの状況を語りあう。友人と別れたあと、近所の飲み屋でマスターと話ながら焼酎のお湯割りを呑む。

マスターみたいに、「それでだめだったら、そのときさ」と、思えるかな、思いたい。(p.45)


受賞作「沖で待つ」に比べて遜色ない出来のいい短編だった。読後感が爽やかだ。絲山秋子の今後も期待したい。


ニート

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