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2008-02-23 ヌーヴェル・ヴァーグの原点はサッシャ・ギトリだった

[]とらんぷ譚 とらんぷ譚を含むブックマーク とらんぷ譚のブックマークコメント


ヌーヴェル・ヴァーグトリュフォーゴダールたちが リスペクトしている作家サッシャ・ギトリとらんぷ譚』(1936)がDVD発売された。名前のみ繰り返し聞いている伝説作家映画監督にして劇作家シネフィルなら見逃せないフィルムだ。


とらんぷ譚 [DVD]

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ギトリのナレーションで、ペテン師の生涯が回顧される物語の進行は、今観ても斬新であり、全編のほとんどの台詞はギトリの語りで構成されている。


冒頭のタイトルバックも、ギトリの語りで映画制作に関わった撮影・音楽・製作そして出演者たちを紹介して行く意表をついた出だしになっている。


「世は逆ま」と人は云うが、この言葉を身を以て体験した男が僕である。変転極まりなき四十年の生涯は、先ず僕が十三歳の時に始まった。僕の家は村の雑貨商だった。或日ビー玉を買いたい一心で八銭を盗んだところ、カンカンに怒った父は「盗人した奴には飯なんか食わさない」と怒鳴った。そして僕は其の時の御馳走であった茸を喰わして貰えなかったが、間もなく僕を除いた十一人の大家族が一朝にして死んでしまった。その茸たるや恐るべき毒茸だったのである。(Movie Walkerから引用)


13歳の少年大家族のなかで一人生残るシーンは、食卓に全員揃ったショットのあと、テーブルに少年一人が残ったカットを見せることで、家族親族の死を一瞬にしてあらわしている秀逸なシーン。


ロシアテロリストたちに脅迫されるシーンは、暗闇にテロリストの顔をキャメラが仰ぎぎみ光を当ててに写される表現主義的手法があり、また詐欺パートナーとなるために結婚した妻との出会いは、妻ヤクリーヌ・ドリュバックの顔のクロース・アップを数バージョンでみせる趣向など、実に見事な演出である。


モナコのなかの田舎地方モナコカジノがある都市モンテカルロを対照的に切り返しによるカットで見せるシークェンスは、ギトリのドキュメンタリーナレーションにより鮮やかに対比される。


ギトリが別れた妻と詐欺相棒だった女性二人と食事をしながら、今晩どちらと付き合うかを、テーブルの花瓶を妻と詐欺女性の前に交互に置きながら、主人公の心理をモノローグで語るシーンも巧い。


軽蔑 [DVD]

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このように、数々の名シーン・名シークェンスから構成されている『とらんぷ譚』は、映画を観る楽しみ、ギトリのナレーションの心地良さ、映像の工夫など、見所満載であり、ゴダールが冒頭のノンクレジットの模倣や、トリュフォーナレーションはすべてサッシャ・ギトリフィルムに影響を受けていることがわかる。


大人は判ってくれない [DVD]

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サッシャ・ギトリは、不幸にも日本公開されている映画が少なく、これからでもいい、全作品が早急にDVD化されることが期待される作家だ。映画ファンは『とらんぷ譚』を観るべし。


■追記1

なお、フランソワ・トリュフォーは、サッシャ・ギトリとらんぷ譚』について、つぎのように告白している。


1945年、わたしは13歳だった。サッシャ・ギトリの『トランプ譚』はそれよりも8年前の作品だったが、その新鮮な魅力をいつまでも失わず、パリのカルチェ・ラタンにあるシャンポリオン座という映画館には年に何回もかかった。そのたびにわたしは見に行き、12、3回は見て、あの、映画音楽のように美しく快く陶酔させるサッシャ・ギトリナレーションをことごとく暗記していた。・・・(中略)・・・サッシャ・ギトリの『トランプ譚』という映画が、まさにチャプリン映画のように、生きのびること、いかにして人生を、社会を、機敏に狡猾に生き抜いて個人主義をつらぬくかというテーマを描いた作品であることを思い出してただきたきたいと思う。(『トルフォーによるトリュフォー』(リブロポート、1994),p.14)


■追記2(2008年2月24日


フランソワ・トリュフォーは、インタビューの中で次のように回答している。


かつてハッピーエンドというのは、要するに結婚でした。しかし、サッシャ・ギトリはこう言っています。「結婚で終わる喜劇は、悲劇のはじまりなのだ」と。(山田宏一フランソワ・トリュフォー映画読本』(平凡社、2003),p.575)


フランソワ・トリュフォー映画読本

フランソワ・トリュフォー映画読本

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2008-02-16 川上未映子は他者の欲望を知る大型新人作家である

[]乳と卵 乳と卵を含むブックマーク 乳と卵のブックマークコメント


川上未映子『乳と卵』読了芥川賞受賞作でいま旬の評判小説。『文藝春秋2008年3月号にて「受賞者インタビュー」とともに読む。読み始めると、文体に関西弁が多用されており、ワンセンテンスの異様な長さは古風な、明治小説を想起させる。それもそのはず、川上さんが自ら告白するように、樋口一葉たけくらべ』へのオマージュになっている。



乳と卵

乳と卵


太田越知明『きだみのる』(未知谷)、大宮勘一郎『ベニヤミンの通行路』(未来社)、吉田秀和永遠故郷、夜』(集英社)の三冊がてもとに届き、スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め!』(紀伊国屋書店)も入手し、とりあえずわくわくしながら、ジジェクを読み進めている。しかし、私の眼は川上未映子の奇異な文体に惹きつけられる。いったいこれはどうしたことなのだろう。


そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります

そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります


「わたし」の姉巻子は豊胸手術のために娘の緑子を連れて東京にやってくる。緑子の日記らしき文章が、本文の合間に置かれる。少女から大人の女性に変貌しつつある緑子から視る母。また「わたし」が視る姉の身体が語られる。内容がとりたたて新鮮というわけでもない。


文体の不思議さとともに、文法的に如何かと思われる箇所もある。すらすらと読めない異和感を抱きながら、それでも最後まで読ませる文体の強度が内包されている。それが川上作品の魅力なのだろう。


死霊(1) (講談社文芸文庫)

死霊(1) (講談社文芸文庫)


川上さんは、哲学池田晶子さんや永井均氏の影響を受け、埴谷雄高死霊』に「哲学と詩」が同居していると感激したことを、インタビューで述べている。


樋口一葉 [ちくま日本文学013]

樋口一葉 [ちくま日本文学013]


樋口一葉の文体は、見たこと、聞いたこと、感じたこと、目の前で起きていることが、カギ括弧句読点もない一文の中に編みこまれていますよね。気になって何度も読み込んでいたから、自分で文章を書くときにもろに影響が出てきたみたいです。(p.349「家には本が一冊もなかった」)


わたくし率 イン 歯ー、または世界

わたくし率 イン 歯ー、または世界


川上未映子処女作『わたし率イン、歯ー、または世界』(講談社、2007)でも、心身の問題を「歯」という身体の部分に象徴させ、あるべき「わたし」の「自同率」を問うている。『わたし率イン、歯ー、・・・』が、埴谷雄高の『死霊』からの影響、受賞作『乳と卵』が樋口一葉たけくらべ』と看れば、彼女位相がわかる。歌手の経歴やファッションと、心身問題が無関係ではない。換言すれば、川上さんは只者ではない、というわけだ。


にごりえ・たけくらべ (岩波文庫 緑25-1)

にごりえ・たけくらべ (岩波文庫 緑25-1)


敢えて一言すれば、明治という時代的緊張のもと貧困の中での執筆を強いられた樋口一葉と、貧乏を明るく語る余裕をみせる川上氏の違いは大きい。それを単純に、作家が生きる時代の差異とみることでいいのだろうか。その答えは、川上未映子の今後の作品に期待することになる。


ラカンはこう読め!

ラカンはこう読め!


スラヴォイ・ジジェクによれば、ラカンのいう「人間の欲望は他者の欲望である」とは、


ラカンにとって、人間の欲望の根本的な袋小路は、それが、主体に属しているという意味でも対象に属しているという意味でも、他者の欲望だということである。人間の欲望は他者の欲望であり、他者から欲望されたいという欲望であり、何よりも他者が欲望しているものへの欲望である。(p.67『ラカンはこう読め!』)


となり、自分が何者であるか(自分の真の欲望)と、他人は自分をどう見て、自分の何を欲望しているのかを区別することだとすれば、川上未映子は、「わたし」は私であるという「自同率」問題と、他者(選考委員)に何を欲望されているかを熟知している成熟した女性作家という解釈はどうであろうか。いや、いささか急ぎすたようだ。


先端で、さすわさされるわそらええわ

先端で、さすわさされるわそらええわ

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2008-02-11 「この世界の存在理由」と「私が生きていることの意味」

[]みすず2007年読書アンケート みすず2007年読書アンケートを含むブックマーク みすず2007年読書アンケートのブックマークコメント


恒例の『みすず2008年1・2月号の「2007年読書アンケート」を通読する。本の収穫は、通常年末の各種雑誌あるいは新聞等に掲載されるが、ほとんど文学社会科学関係が多く、自然科学まで含めた専門分野まで踏み込んだ読書アンケートは唯一『みすず』のみであり、毎年愉しみにしている。ここ2年はリストアップされた点数で覚書に記録していたが、今回のアンケートからは、私の視野に入らなかった書物が気になったので、取り上げたい。


アンケート回答者には、いかにもこの人であれば、あの人の本をと予想どおりの記述があるなかで、特に目をひいたのは、増成隆士氏の次の一文であった。


「この世界存在理由」と「私が生きているということの意味」について考えつづけてきました。結局、わからないままで六十五歳を過ぎたとき、こうした私の最高の伴侶との日々に癌によって終止符が打たれ、私の眼前の風景が一変しました。眼前は「無」となってしまったのです。(p.22)


増成氏が体験しているのは「かけがえのないものを失った悲しみの底にいる当事者喪失感」である。確かに、「喪失」と「無」の前には、あれこれの「書物の収穫」どころではないだろう。


さて「無」の境地に引き込まれている状態から別の視点へ移動すると、三中信宏氏が、太田越知明『きだみのる−自由になるためのメソッド』(未知谷,2007)を「瞠目の伝記」として紹介していることに惹かれた。


きだみのる―自由になるためのメソッド

きだみのる―自由になるためのメソッド


少年きだみのる自殺未遂の末、月島に流れ着き、その後アテネ・フランセでの仕事を経てフランス留学し、有名なマルセル・モースに師事することになる。この頃の訳業に、岩波文庫に入っているレヴィ=ブリュル『未開社会の思惟』やラマルク『動物哲学』、そして『ファーブル昆虫記』の全訳があるが、その訳者山田吉彦」がきだみのる本名であることを私は初めて知った。しかし、戦後きだみのるの後半生は凄愴にして余人にははかりしれない。まさにアンタッチャブルだ。(p.63−64)


きだみのる山田吉彦であることは、斯界では著名な事実だが、山田氏について私は『気違い部落周游紀行』(冨山房百科文庫、1981)の著者であること以外は何も知らない。


シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性

シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性


未読本のまま積読している鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるは痙攣する複数性』(平凡社、2007)と、未購入の大宮勘一郎ベンヤミンの通行路』(未来社、2007)は、必読本だ。『都市詩学』(東京大学出版会、2007)で多くの支持をを得ている田中純氏は、大宮氏の『ベンヤミンの通行路』をリストアップし、次のように評価する。


ベンヤミン旅行記や都市論をカール・シュミットらを召還しながら緻密に読解し、テクストに内在する緊張を先鋭化させた、強度ある文体で読ませる。(p.54)


大宮勘一郎ベンヤミンの通行路』とともに、ベンヤミンを理解するためには、ジョルジョ・アガンベン幼児期と歴史』(岩波書店、2007)をとりあげているのが、田中純氏と十川幸司氏の二人であった。


幼児期と歴史―経験の破壊と歴史の起源

幼児期と歴史―経験の破壊と歴史の起源


永田洋氏があげている新学社近代浪漫文庫三島由紀夫』(新学社、2007)も見逃せない。


三島由紀夫 (近代浪漫派文庫)

三島由紀夫 (近代浪漫派文庫)


『橋づくし』を再読しようとしてたまたま手にとった三島アンソロジー文庫版わずか三百数頁で何が、と思ったのだが、実に見事な編集であった。編集者の名も記さず、解説もないが、凡百の「文学全集三島集などはるかに凌駕する編集である。(p.27)


編集関係するが、小尾俊人『出版と社会』(幻戯書房、2007)は、高価な本だが内容が充実しており、出版や編集歴史に関する貴重な資料となるだろう。多くの評者が取り上げている。



コリン・マッケイブ著・堀潤之訳『ゴダール伝』(みすず書房、2007)は、鈴木布美子氏があげている。


フランス人にはなぜか自国の映画人についての優れた評伝を書く才能が欠落しているようだ。この詳細な伝記も当然のようにイギリス人のマッケイブの手によって書かれている。生い立ちから「映画史」や「愛の世紀」といった近年の作品に至るまで手堅い記述で読ませてくれる。通読して強く感じたのは、ゴダールとその時代との深い関係だった。(p.71)


ゴダール伝

ゴダール伝


以上、とりあげた本はいづれも未読*1だが、拙ブログの冒頭に引用した増成氏のことば「この世界存在理由」と「私が生きているということの意味」は、おそらく読書人なら誰もが同感するはずである。


都市の詩学―場所の記憶と徴候

都市の詩学―場所の記憶と徴候

*1:購入して手元にあるのは『ゴダール伝』と『シュルレアリスム、あるは痙攣する複数性』の二冊のみで、『きだみのる』『ベンヤミンの通行路』『三島由紀夫』の三冊は注文中。

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2008-02-02 『たぶん悪魔が』はロベール・ブレッソン後期の大傑作だ

[]たぶん悪魔たぶん悪魔がを含むブックマーク たぶん悪魔がのブックマークコメント


キャメラは人物の足や手や体の部分を捉えたシーンが多く、画面の全体が見えないのがロベール・ブレッソン映画(シネマトグラフ)の特徴であることは彼のフィルム一本を観ればわかる。1月末に、ロベール・ブレッソンDVD-BOXが発売され、これまで観る機会のなかった『湖のランスロ』(1974)と『たぶん悪魔が』(1977)を観ることができた。



『たぶん悪魔が』は、現代社会のなかで政治宗教恋愛精神分析などによっても救われない若者を描いた恐るべき傑作であった。美貌の若者シャルルはアルベルトとエドヴィージュの二人の女性から愛されている。


アルベルトの元の恋人だったミッシェルは、環境問題専門家であり、シャルルに地球環境の汚染状況をフィルムでみせるシーンがある。この記録映画水俣病患者のシーンがあり衝撃を受けた。アザラシを撲殺するシーンとともに印象に残る。


『たぶん悪魔が』は、シャルルの自殺新聞に掲載されているカットで始まり、冒頭で結末があらかじめ示され、推理小説でいえば倒叙法でシナリオが構成されている。なぜ、一人の若者自殺するに至ったのかを探る物語になっている。自殺から6ヶ月前にさかのぼりシャルルを中心に四人の物語が綴られる。


シャルルとミッシェル政治集会に参加するが、かつては政治活動に参加していたシャルルにとって、そこで演説している男の話はあまりに陳腐であり直ちに集会から引き上げる。シャルル、ミッシェル、エドヴィージュたちは教会へ行くとそこでは、神父と信者たちがプロテスタントと自由について神学論争をしている。しかしながら、論争の合間に調律中のパイプオルガンの音が入り、論争の無意味さが示される。

 

シャルルの自殺志向については、アルベルトが彼の部屋で青酸カリ発見ミッシェルに説明するシーンや、ヒッピーたちが集まっている場所で、一人が拳銃を持っていたことから、 シャルルがその拳銃を盗み、河に発砲するシーンであらかじめ示される。


シャルルが、政治宗教や女たちとの恋愛情熱を注げない状況が、彼を取り巻く仲間たちとのかかわりの中で、徐々に暗示されて行く。シャルルがミッシェルバスに乗車し政治的な話を始めると、乗客たちがその論争に参加し、車内は騒然となり、一人が「たぶん悪魔だ」*1と発言すると、あわてた運転手がバスを急停車し、ドアを開けたまま車外へ出る。キャメラはドアを捉えたまま数分動かない。その間に車外の騒音、クラクションの音など画面外の音などでその場の状況を示すという鮮やかな手法を用いている。このバスシーンは、乗客の乗り降りなどを運転手の手の操作によるドアの開閉や、車内の光景などを見事に捉えた秀逸なシークエンスとなっている。


シャルルは、ヤク中のヴァランタンと深夜、寝袋を持ち込み教会で泊まろうとする。ヴァランタン教会の賽銭箱から小銭を盗み、その嫌疑がシャルルにかけられ、警察で尋問を受ける。鬱状態になったシャルルを、精神分析医にみせようとミッシェルたち三人が考えると、シャルルが自ら分析医のもとを訪れ、分析を受けるしかし、この精神分析はいかにもステレオタイプな内容で、シャルル自身が失望してしまう。


一旦は、アルベルトとの結婚を決意したものの、シャルルはこの世界絶望し、ヴァランタン拳銃で撃って貰うよう依頼する。墓地にたどりついたシャルルは、死を前に「この瞬間崇高な考えが浮かぶ」と語りはじめようとするが、おかまいなしにヴァランタンは銃を背後から撃つ。更に一撃を加え約束の金をシャルルの服のポケツトから取ると、銃を死者の手に持たせ立ち去る。いかにも素っ気無い結末だが、これこそロベール・ブレッソンのシネマトグラフの手法の真髄なのであり、ミニマム映画として傑作となった。


シネマトグラフ覚書―映画監督のノート

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『湖のランスロ』は中世騎士道ものを、聖杯伝説にもとづく聖杯探索後の騎士道精神の終焉を描いた、とまとめられるとすれば、『たぶん悪魔が』は現代社会政治的腐敗、宗教堕落地球規模の環境汚染など、実に21世紀的な問題に通じる現代的な大衆化時代を予見したブレッソン後期の代表作といえるだろう。


ロベール・ブレッソン作品

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ブローニュの森の貴婦人たち [DVD]

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*1:「たぶん悪魔だ」とは、ドスエフスキーカラマーゾフの兄弟』第1部第3編第8章で、スメルジャコフが「人間を嗤っているのは誰だ」と問うとイワンが「悪魔ですよ、きっとね」(亀山郁夫訳)とイワンが答える。ここから、『たぶん悪魔が』のタイトルが採られている。

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