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2009-01-29 図書館法の改正と司書資格省令科目を考える

[]司書資格省令科目の改正 司書資格省令科目の改正を含むブックマーク 司書資格省令科目の改正のブックマークコメント


2008年6月に「図書館法」が改正され、司書及び司書補にかかわる資格要件の見直しを行うこととなった。現在図書館司書資格取得は、「司書講習科目」を前提に省令科目(20単位)を履修・取得することで、認定されている。


図書館法の改正により、同法第5条第1項第1号に「大学において文部科学省令で定める図書館に関する科目」を履修した者が司書資格を有すると新たに定められたからである。


司書となる資格を得るために大学において履修すべき図書館に関する科目を、文部科学省令で定めることを受けて、「これからの図書館の在り方検討協力者会議」(薬袋秀樹氏ほか12名)による試案が、2009年1月16日司書資格取得のために大学において履修すべき図書館に関する科目の在り方について(これからの図書館の在り方検討協力者会議報告書)(案)」について、パブリックコメントとして掲載され、意見募集1月26日まで行われた。


http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=Pcm1010&BID=185000361


「これからの図書館の在り方検討協力者会議」の試案はいくつかの問題点が含まれており、意見募集締め切りの翌日、日本図書館協会から、「司書資格取得のために大学において履修すべき図書館に関する科目の在り方について」(報告・案)に対する意見」が、1月26日付文書として公開されている。


http://www.jla.or.jp/kenkai/index.html


「在り方報告案」は、省令科目を大きく、三区分として提示されている。

  1. 基礎科目(1生涯学習概論、2図書館概論、3図書館情報技術論、4図書館制度経営論)
  2. 図書館サービスに関する科目(1図書館サービス概論、2情報サービス論、3児童サービス論、4情報サービス演習)
  3. 図書館情報資源に関する科目(1図書館情報資源概論、2情報資源組織論、3情報資源組織演習)

以上の必修科目はすべて2単位となっている。これに選択科目(各1単位)を7科目(1図書館基礎特論、2図書館サービス特論、3図書館情報資源特論、4図書・図書館史、5図書館施設論、6図書館総合演習、7図書館実習)を省令科目とする提案*1である。


選択科目から2科目履修し、合計13科目24単位とするものとなっている。現在は14科目20単位だから、情報化時代に対応した科目に変更し、内容を一新した提案である。表面的にみるかぎり、ウッブ時代に即した内容にみえるが、科目の考え方や科目内容をみると、かなり大きな問題があると思われる。


まず、根本の問題として、司書とは、「公共図書館司書」を前提にしているにもかかわらず、「在り方報告案」は、大学等学術図書館を前提とした司書科目になっている。専門職としての図書館司書養成というより、コンピュータ技術や学術情報ネットワーク比重が置かれており、公共図書館現実・実態と乖離している。

 

「在り方報告案」が提案している「司書科目」の具体的内容をみると、伝統的な「図書資料」の扱いが中核から疎外され、「情報資源」に「図書資料」より高い価値が付与されているように読みとれる。極論すれば、公共図書館の崩壊を招きかねない危機感をさえ抱かざるを得ない。


例えば、これまでは「レファレンス演習」であった科目が、「情報サービス演習」となり、「図書資料」より「情報」を重視したものとなっている。公共図書館の実態をみれば、「図書資料」を中心に情報関係は補完的なものとして機能しているはずだ。すべてネット上で解決できるなら、図書館とは空疎な箱物と化してしまう。


その典型が、現在目録や分類を基礎とした「資料組織」だが、「在り方報告案」では「情報資源組織」に変更され、内容をみれば、図書資料とウッブサイトメタデータを並列に置いて、図書より情報資源比重が置かれている。これは、何を意味するかといえば、図書館は「もの」としての「図書資料」より、ネットワーク情報資源*2を重視していることになる。


現実公共図書館をみた場合、多くの利用者は、図書資料を中心に利用しているはずだ。ネットワーク情報であれば、極論すればパソコンさえあれば、図書館に行かなくとも用が足りることになってしまう。最先端情報環境を利用・駆使できる人には、「情報サービス」など不用*3であり、自ら情報収集し・活用している。


多くの公共図書館は、図書の貸出利用が圧倒的に多いはずだ。図書資料に対する知識より、情報資源を優先する改正は、果たして、公共図書館を利用する市民のことを考えているのだろうか疑問を持つ。


時代状況に密着することと、状況から距離を置くことの必要性。いわばバランスの問題であり、長期的視野にたてば、基本は「図書資料」である。この省令科目では、図書館本来の「図書資料」に関する基礎知識が低下しないか心配になってくる。


「在り方報告案」では、図書館の「核」となるべきものが、「図書」より「情報」が重視されている。情報化への対応は必要だが、過度の情報化依存現象が科目に反映されていて、この科目構成では、時代への対症療法的なものになってしまいはしないか。


「在り方検討委員会」の方向は、図書館情報学専門家たちによる大学院レベルの「専門司書」の養成を目論んでいるようにみえる。実際、多くの公共図書館で必要とされる「書物」「図書資料」に対する知識は、過去のものであり、いまや「情報」こそが全てを制するという印象を受ける。これでいいのだろうか、というのが、率直な疑問である。


文部科学省から「パブリックコメント」として出された提案に対する議論を見かけないので、老婆心ながら、あえて、ここに疑義を呈するものである。


司書資格取得者は年間約1万人、そのほとんどが、図書館就職できない現実があり、一方では図書館の業務委託化の問題がある。図書館現場に「司書」がいない状況のなかで、あまりにも高邁な理想司書像がはたして、どこで接点を持ち得るのだろうか。


図書館 この素晴らしき世界

図書館 この素晴らしき世界


かつて「司書講習」により「司書資格を取得し、「公共図書館」利用を前提に「司書」を考える者として、藤野幸雄図書館 この素晴らしき世界』(勉誠社出版、2008.12)の方向性を支持したい。


図書館 愛書家の楽園

図書館 愛書家の楽園

*1:なお、この「新省令科目」への移行期間として公布から施行まで「3年間の経過措置」を予定しているようである。

*2ネットワーク情報資源メタデータ記述法の代表例として、「ダブリンコア(Dublin Core)」があるが、書誌事項の記述方法として「日本目録規則」や「日本十進分類法」のように、図書館界で正式に認定されていない。私見によれば、「図書資料」と「ネットワーク情報資源」の書誌記述は分けて考えるべきものと思う。今回の提案は、これらを同列に置いているから問題なのである。公共図書館現場を把握していない故、このような「省令科目案」が出てくるのではないかと思われる。

*3:誤解のないように急いで補足しておくと、「情報サービス」は例えば国立国会図書館(NDL)や国立情報学研究所(NII)が提供すればいいと思っている。地方の市町村公共図書館に、「情報サービス」を求めることは少ないという意味である。

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2009-01-25 芥川賞・直木賞も出版資本主義である

[]芥川賞直木賞 芥川賞・直木賞を含むブックマーク 芥川賞・直木賞のブックマークコメント


いささか旧聞に属するのかも知れないが、第140回芥川賞は、津村記久子ポトスライムの舟』(『群像2008年11月号)に決定した。津村さんは既に、太宰賞、野間文芸新人賞の受賞歴を持っている。今回の候補者には、三島賞川端賞・受賞の田中慎也氏、三島賞・受賞の鹿島田真希さん、人気作家山崎ナオコーラさんなど、既に文壇で活躍している作家が多い。


アレグリアとは仕事はできない

アレグリアとは仕事はできない


一方の直木賞受賞は二人、天童荒太『悼む人』(文芸春秋)と山本兼一『利休にたずねよ』(PHP研究所) の二人に決定した。天童氏は、これまでの実績からは予想どおりだった。


悼む人

悼む人

利休にたずねよ

利休にたずねよ


これで、出版界は、この三人の既刊本の増刷と、津村さんの作品単行本化によって、ベストセラーの上位にこれらの作品がきて、まさしく商品として流通していくわけだ。特定の商品が売れるという出版界の近年の傾向にまた拍車がかかるわけだ。*1


出版資本主義*2といっても、出版界全体では不況が何年も前から言われており、市場原理がここでは、商品の質を問わず、売れる数少ない商品のみが加速度的に売れる現象となっている。これも資本主義原理原則であり、書物は文化的商品であるからなどという理由は、通用しない。


芥川賞を取らなかった名作たち (朝日新書)

芥川賞を取らなかった名作たち (朝日新書)


佐伯一麦芥川賞を取らなかった名作たち』(朝日新書、2009.1)がタイミングよく出版されている。佐伯氏が、名作として取り上げている作品の内、太宰治『逆行』、木山捷平『河骨』、小山清『おぢさんの話』、小沼丹『村のエトランジェ』、山川方夫『海岸公園』、吉村昭『透明標本』、森内俊雄『幼き者は驢馬に乗って』、島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』、干刈あがたウホッ探検隊』などが気になる。


骨の火 (講談社文芸文庫)

骨の火 (講談社文芸文庫)

ウホッホ探険隊 (朝日文庫)

ウホッホ探険隊 (朝日文庫)


いま取り上げた作家のうち現在も活躍しているのは、島田雅彦氏のみであり、森内俊雄氏は最近あまり作品を上梓していない。森内氏は、『幼き者は驢馬に乗って』のあと、『<傷>』『骨川に行く』『春の往復』『眉山』と、五回も芥川賞の候補になったが、結果として受賞できなかった。代表作として『氷河が来るまでに』(河出書房新社、1990)がある。忘れかけられている作家だ。


巻末の「芥川賞候補一覧」をみると、結城信一が『蛍草』『転身』『落落の章』と三回、候補作にあがっている。島村利正は、『青い沼』で一回だけ候補作になっている。


奈良登大路町・妙高の秋 (講談社文芸文庫)

奈良登大路町・妙高の秋 (講談社文芸文庫)


村上春樹氏は、『風の歌を聴け』『一九七九年のピンボール』で二回、候補にあがったが受賞していない。村上春樹の場合は、およそ芥川賞に似合わない。つまり、結果的に村上春樹芥川賞を受賞しなくて良かったと思う。


風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)


村上春樹氏の文壇での評価はよく知らないが、狭隘な村的世界から距離を置いていたから世界的な作家として認められたのだと思いたい。いま、一番次回作が待ち遠しい作家は、村上春樹氏のみである。


*1:しかし、いまの私はこれら「芥川賞」「直木賞」受賞作を読まない。

*2:「出版資本主義」という用語は、B.アンダーソン『定本 想像共同体』(書籍工房早山、2007.7)に依拠している。

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2009-01-24 女優が性的アイコンであった時代あるいはサイレント映画の美しさ

[]パンドラの箱 パンドラの箱を含むブックマーク パンドラの箱のブックマークコメント


G.W.パプスト『パンドラの箱』(Die buechse der Pandora, 1929)をDVDにて観る。ファム・ファタールとして著名な「ルル」こと、ルイーズ・ブルックスの代表作である。


パンドラの箱 クリティカル・エディション [DVD]

パンドラの箱 クリティカル・エディション [DVD]


かつて大岡昇平ルイズブルックスと「ルル」』(中央公論社、1984)以来、映画パンドラの箱』と、主演女優ルイーズ・ブルックスへの関心が持続していたが、フィルムを観る機会がなかった。


ルイズ・ブルックスと「ルル」

ルイズ・ブルックスと「ルル」


サイレント映画の面白さに遅まきながら目覚めたせいか、フィルムの修復・復元が進みクリア映像で、フィルムをみることができるようになった環境のせいか、ムルナウの次にパプストの「ルル」が候補として挙がったわけだ。


ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』でも、『パンドラの箱』のラスト近くのシーンが第6章「感情イメージ」で、取り上げられていたことにもよる。


パンドラの箱』は、Akt1からAkt7まで七つのシークェンスに分かれていて、それぞれ「ルルのアパート」「シェーン博士の家」「レヴュー劇場」「シェーン邸での結婚式」「法廷」「賭博船」「夜のロンドン」から成っている。ルルは、男性の庇護を受けながら自ら成長して行くタイプであり、男に奉仕させることで自立する女性レビュー劇場では、舞台で華やかにスポットライトを浴びているルルは、気に入らないことには、驕慢な態度で周囲を困惑させる。シェーン博士女性を伴って舞台裏にきたときに博士に見せる嬌態は実に官能的なまでに性的な振る舞いになる。


ルルは、シェーン博士(フリッツコルトナー)の愛人だが、博士貴族の娘との結婚話が持ち上がると、猛烈に反発し、ついに強引に結婚にこぎつけるが、式直後にルルは誤って夫を射殺してしまう。続く裁判シーンで実刑を受け、シェーン博士の息子アルヴァフランツ・レーデラー)と逃亡することになり、落ちぶれてロンドンに辿り着く。


ドゥルーズが『シネマ1*運動イメージ』でとりあげているのは、「夜のロンドン」のクライマックスシーンである。


比較的短いシークエンスのなかで、ひとはどの程度まで一方の極から他方の極へ向かうのかを、パプストの『パンドラの箱』が示している。まず、切り裂きジャックとルルの二つの顔が、和らいで、微笑を浮かべ、夢を見ているかのように、驚いて不思議そうにしている。つぎに、ジャックの顔が、ルルの肩越しにナイフを見て、恐怖の上昇的セリーに入ってゆく(「恐怖は絶頂の状態になり・・・・、彼の瞳孔はますます広がり・・・・、男は恐怖にあえぐ・・・」)。最後に、ジャックの顔は和らぐ。そしてジャックは、みずからの運命を受け入れ、いまや、彼のもつ殺人者の相貌、犠牲者を自由に処分できるということ、道具の抗いがたい誘惑という三つのものごとに共通する質として、死を反映=反省する(「ナイフの刃が鈍く光る・・・・」)。(p.161−162『シネマ1*運動イメージ』)


シネマ 1*運動イメージ(叢書・ウニベルシタス 855)

シネマ 1*運動イメージ(叢書・ウニベルシタス 855)


ドゥルーズは、一つのシークエンスの中で、幸福の頂点から破滅の奈落まで移行できる例としてパプスト『パンドラの箱』を引用しているのだ。「ルル」のルイーズ・ブルックスは後に、自伝のなかで、パプストの演出に触れながら次のように記述している。


パプストは天の邪鬼の抜け目なさ「パンドラの箱」ではグスタフ・ディ−セル切り裂きジャックの役を、「倫落の女の日記」ではフリッツ・ラスプに好色薬剤師助手の役を振り当てました。わたしが2本の映画のなかで美しいとも、性的に魅力があるとも思った俳優は、この二人でした。切り裂きジャックの場面では、パプストの演出はいたって簡単なものでした。それは、まず優しい愛の時の流れとして演出され、やがて食卓のへりに置かれたナイフが蝋燭の炎で照り輝くのをディ−セルが目にするという、恐ろしい瞬間へと続くことになっていました。(p.103「パプストとルル」『ルイズブルックスと「ルル」』)


ルイーズ・ブルックス映画女優としての期間は、きわめて短い。ハワード・ホークス『港々に女あり』(1928)、G.W.パプスト『パンドラの箱』(1929)『倫落の女の日記』(1929)の三本を代表作として、10年間くらいだった。自ら田舎に引退し、後に復活した時は自伝ハリウッドのルル』の作家としてであった。


それにしても、大岡昇平埴谷雄高がなぜこれほど「ルル」=ルイーズ・ブルックスに夢中になったのか、大岡昇平一冊の本まで出してしまった。時代の性的アイコンとなったのが、「ルル」なのであろう。では現代のアイコンとは誰だろう。一瞬戸惑いを覚えながらも、時代を共有する普遍的なアイコン存在しない、すなわち、女優モデルの誰もがなり得る、しかも個人的な好みによるとしか答えようがない。

[]最後の人 最後の人を含むブックマーク 最後の人のブックマークコメント


F.W.ムルナウ『最後の人』(Der Letzte Mann, 1924)の復元修復版をDVDにて観る。字幕は冒頭と、途中、超一流ホテルの老ポ−ター、エミール・ヤニングスが解雇されるシーンで通知が文字で出るのみで、ラストエピローグまで、一切字幕がでない。映像ですべてをみせてしまう力技。豪華なホテルの内部と、ホテルの外観を捉えるショット。車が行き交う道路を背景に、ポーター回転ドア越しに動く様子。



ホテルとは対照的な住民たちのアパートホテルドアマン制服は一種の威厳として、住民たちには尊敬と服従のメルクマールとなっている。制服を脱いだヤニングスに、住民たちの冷笑が浴びせられる。制服軍服への批判でもあるが、征服を脱がされ、トイレの清掃係となったヤニングスにとって、その仕事とは、屈辱以外の何物でもない。


栄光の絶頂にあるヤニングスが、清掃係として、客に手拭き用タオル差し出したり、客が靴を磨くよう足を出されたときの、ヤニングスの表情が変化して行く。サイレントフィルムであるが故に、ひたすら見るものの視線を刺激する画面の構成や動きは、あまりにも見事であり、普通キャメラが移動しているシーンも当時の技術ではある種の工夫がなされていたわけで、サイレント作品を撮った経験のある監督が持ち得る特権という蓮實的言説は、確かに的をえている。


とりわけ『最後の人』は、冒頭とエピローグ字幕が出るだけで、すべてを映像でみせてしまう恐るべきフィルムだ。ムルナウの『サンライズ』から始まったサイレント映画への旅は、同じムルナウの『最後の人』やパプスト『パンドラの箱』を観て、サイレント映画の素晴らしさを思い知らされたのだった。


サンライズ クリティカル・エディション [DVD]

サンライズ クリティカル・エディション [DVD]


■追記(2009.01.25)

今回のDVDによるサイレント映画鑑賞遍歴により、サイレントフィルムにおいて、映画の基本的な理論と実践方法が完成されていたことがよく分かった。今後も、フリッツ・ランググリフィスの未見のサイレントフィルムを「クリティカル・エディション」シリ−ズで観て行きたい。

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2009-01-14 ムルナウのフィルムは今なお刺激的だ

[]サンライズ サンライズを含むブックマーク サンライズのブックマークコメント


F.W.ムルナウサンライズ』(Sunrise, 1927)をDVDにて観る。トリュフォーが「世界一美しい映画」と絶賛したサイレントフィルム。確かに、その映像は輝くばかりに美しく、モノクロ画面に光と影のコントラストが絶妙に造形され、シンプルストーリーと相俟って、サイレント映画にあまり関心が持てなかった私が、ムルナウフィルムを観て、俄然、興味が湧いてきたのだった。


サンライズ クリティカル・エディション [DVD]

サンライズ クリティカル・エディション [DVD]


サンライズ』は、田舎に住む若者夫婦のもとに、都会から来た女性マーガレット・リヴィングストン)が、男(ジョージ・オブライエン)を誘惑し、妻(ジャネット・ゲイナー)を湖上で溺死させて、二人で都会へ出ようと誘われる。男は都会女性に目がくらみ、妻を連れて湖上へ出るが、妻に様子を察知され逃げられそうになり、妻を追って都会に出る。夫婦の都会での一日。都会の風景が眼をみはるような美しさで描かれる。


サイレント映画から、名状しがたい感動を得られるとは予想外の嬉しさであった。田舎や都会はすべてセット撮影だというから、画面設計や撮影をコントロールできるわけで、かつての撮影所がもっていた力を感じさせる。


セットで作られた都会の設計道路中央に電車が走り、ビルが林立する。建物内部、とりわけ広大な理髪店や、遊園地レストランが合体したような屋内シーンが秀逸である。山場となる湖上の夜間撮影が見事なシークエンスとなっている。


ムルナウサンライズ』に刺激を受けて、他のムルナウ作品をとりあえず観てみる。ムルナウが渡米する直前の『ファウスト』(Faust, 1926)と『タルチュフ』(Tartueff,1925)、二本を観る。



ファウスト』については四方田犬彦が、由良君美セルロイド・ロマンティシズム』(文遊社、1995)の解説「映画批評家としての由良君美」の冒頭で次のように述べていることからも、テキスト批評に基づいたフィルム復元がなされたことが分かる。


今、わたしはボローニャにいて、喪失された映画の再発見と修復に関するシンポジウムから、深夜帰宅したばかりだ。会場ではムルナウの『ファウスト』をめぐって、現在存在する五通りのヴァージョンが紹介され、細部にわたる異動が同時に大スクリーンに提示されて論じられていた。このドイツ表現派の天才が、名優エミール・ヤニングスと組むことによって、ひとつのショットのためにいかに多様なテイクを残したかが、そこでは明確に証し立てられていた。(p.243)


セルロイド・ロマンティシズム

セルロイド・ロマンティシズム


サイレントフィルムの『クリティカルエディション』シリーズ紀伊国屋書店発売)は、残存するフィルムから、最良の画質として視聴者に提供しようとする意図がみられ、映画ファンとして嬉しい限りだ。


ファウスト』の特典として収録されている『ムルナウ影の言語』には、フィルムのいくつかの異版を同時に映しながら、何がムルナウ意図したテキストかを説明される。この映像をみると映画の草創期において、完璧フィルム造形を目指していたムルナウの時代に比べて、ツールそのものが当時と比較すべくもないくらい発達している。しかし、便利な道具が揃うことが、優れたフィルムに繋がるかといえば、必ずしもそうではないらしい。ムルナウは不便ながらその不便さを逆手にとって、ワンショットに最大の工夫を凝らしていたことが分かるのだ。



『タルチュフ』は、モリエール喜劇映画映画として、エミール・ヤニングスが似非宗教家に扮して、家政婦の企みを暴くという構成の面白さに率直に驚いてしまう。


ムルナウサンライズ』を観るきっかけとなったのは、じつは、蓮實重彦ゴダール革命』(筑摩書房、2005)に記された次のような言説によることを最後に告白しておきたい。


ドイツ映画作家ムルナウが一九二七にハリウッドで撮ったこの作品にいつのまにかしかけられてしまっていた時限装置二十一世紀にいたるもなお不気味に作動し続けている・・・(p.3)


ゴダール革命 (リュミエール叢書 37)

ゴダール革命 (リュミエール叢書 37)


このように、本ー映画DVD)ー本とわたしの読書はつながっていく。

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2009-01-07 今年の新刊書への期待は「並み」

[]新刊書への期待 新刊書への期待を含むブックマーク 新刊書への期待のブックマークコメント


出版ニュース2009年1月上・中旬号から「今年の執筆予定」で、気になったものをピックアップしてみた。

石原千秋漱石はどう読まれてきたか』・・・同時代評から現在研究史までを一望する。

『こころ』大人になれなかった先生 (理想の教室)

『こころ』大人になれなかった先生 (理想の教室)


四方田犬彦『四方田の濃縮』・・・これまでの著書100冊(凄い量)のハイライト集になる。

高山宏新人感覚』1・2・(3)(東京大学出版会)・・・単行本未収録の約三千五百枚の9割以上収録。東大出版会となじみにくい内容となったので別書肆からの可能性あり。『アリスに驚け』(青土社)・・・「英文学よさらば」の気合で「全文」をキャロルに投入とのこと(二年越しの企画)。『高山宏の解題新書』(人文書院)・・・高山翻訳書40冊の巻末「解題」を集めて、「解題」論付す。翻訳は、S・シャ−マ『レンブラントの目』(河出書房新社)。B・スタフォード『象徴と神話』(産業図書)ほか。

アリス狩り 新版

アリス狩り 新版


武藤康史国語辞典の歴史

山田宏一ヒッチコックについて語ろう』(和田誠との共著)。『ゴダール、わがアンア・カリーナ時代』。『ゴダール映画誌』。『トリュフォー手紙によるもうひとつの映画人生』・・・そういえば『トリュフォー書簡集』はどうなったのだろう。

日本侠客伝―マキノ雅弘の世界

日本侠客伝―マキノ雅弘の世界


沼野充義 ナボコフ『賜物』(池澤夏樹編/世界文学全集)の翻訳

内田樹日本辺境論』(新潮選書)。『街場の家族論』(講談社

成田龍一司馬遼太郎論』(筑摩書房

岡崎武志漱石ハルキの坂』(集英社新書

◎渡邊一民『武田泰淳竹内好


石原千秋漱石はどう読まれてきたか』、高山宏新人感覚』、武藤康史国語辞典の歴史』、山田宏一ゴダール映画誌』、岡崎武志漱石ハルキの坂』あたりを多分購入することになるだろうが、高山宏の新刊発売は、今年も無理だろう。

さて、「今年の執筆予定」のなかでも、詩人清水昶氏の次の言葉がひっかかった。


最近、表現活動について不安である。活字文化は滅びつつある。今まで俳句を三万五千句以上書き新詩集も出したいが果たして誰が読んでくれるのだろう。この白夜の時代を生き抜く方法は、唯一、日常の裂け目を発見することだ。日常そのものは退屈で笑止である!(p.45)


「活字文化は滅びつつある」という認識は、必ずしもそうではない。ウェブ上に氾濫するのは活字そのものだから。もちろんそれが、「活字文化」といえるものかどうか疑問ではあるが。

今、詩人俳人歌人にとって、詩集や歌集が書物として、どれほど読まれているのだろうか。「誰が読んでくれる」ではなく、「誰に読んでもらいたいか」ではないのか。

ウェブ上における情報氾濫は、特定主題から検索したり、RSSなどによる情報収集には効果的だが、全体をながめるという視点では、過剰な情報世界をみる目を阻害しているともいえる。


関心のある情報や記事などに限定されてしまう恐れなきしもあらずだ。ネットウェブ社会マイナス面もみえてきた。検索エンジンで即座に回答が出る問いは、根源的ではない。すぐに回答がみつからないような、読み方、ゆっくりしたリズムで思考する方法こそが、今後ウェブ社会のなかで真に生き抜くことができる方法なのではないか、と考えたりする。



■ことばのラジオ2009年1月6日


1月6日(火)の「ことばのラジオ」で、荒川洋治氏が今年の出版企画に言及していた。

各大手出版社では、「活字の力」「言葉の力」「本のちから」を感じさせるもの、つまり、読書から遠ざかる流れをくいとめようと、「読書」の意義を唱えるものが多いと言う。


今年は、生誕100年を迎える文学者に、大物が多い。1909年・明治42年生まれには、大岡昇平中島敦埴谷雄高戸籍では1910年生まれ)、松本清張太宰治、中里恒子がいる。


太宰治全集〈1〉初期作品

太宰治全集〈1〉初期作品

不合理ゆえに吾信ず 1939~56 (埴谷雄高全集)

不合理ゆえに吾信ず 1939~56 (埴谷雄高全集)


更に、著作権がきれる作家としては、永井荷風がいる。岩波書店から、『荷風全集』全30巻別巻1冊刊行予定。1990年代に刊行された30巻の再刊、別巻として新資料を一冊増補するらしい。

なるほど大物作家が多いが、あらためて『個人全集』を買い求めることにはなるまい。生没年に関係なく個人全集としては、『子規全集』の増補改訂版を期待したい。また、蓮實重彦フローベール論』『ジョン・フォード論』の刊行を待っている。

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2009-01-02 ビクトル・エリセあるいは光と影の交錯=映画の考古学的快楽

[]挑戦 挑戦を含むブックマーク 挑戦のブックマークコメント


ビクトル・エリセDVD−BOX』(紀伊国屋書店、2008.12)が、2008年末に発売された。予約していたものが、年末に届き、本日、未見で日本DVD化となる『挑戦』(Los Desafios,1969)を観た。



『挑戦』は、三話からなるオムニバス映画で、三篇に出演しているディーンセルミアが制作エリアス・ヘレケタにオファーして撮影にこぎつけた作品であり、1969年当時有望視されていたスペイン監督3名が指名され、ビクトル・エリセは第3章を担当している。内容は、閉鎖された状況における男女4名が共通の設定で、第3章は男女4名が無人の街に到着するシーンから始まる。チャリー(ディーンセルミア)は、高い建物の屋上から望遠鏡のぞくと、フリアン(ルイス・スワレス)とフロリディタ(デイシー・グラナドス)が浴槽で戯れている。教会のような建物から出てきたマリア(フリア・ベニア)を捉えるが彼女カメラを手に、チャーリに合図を送る。


次のシーンでは、フリアンがフロリディタを相手にロールシャッハテストを実施している。その後も、この四人にチンパンジーを加えて、男女4人の葛藤が活写される。アメリカ人チャーリーは、『挑戦』3編とも異邦人の役割を演じているが、第3章では、二人の女性と一人の男性から疎外されているようにみえる。唯一心を交わすのがチンパンジーという皮肉な状況。フリアンが早く旅立ちたいことを主張し、チャーリーはこの無人の街に残りたいと意見が衝突する。そして、ダイナマイトを仕掛けたチャーリは、3人がスイカを食べているところへ侵入する。キャメラが引いて建物が爆発するシーンが写される。それを見る目が残されたチンパンジー


ミツバチのささやき [DVD]

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この作品に続いて、ビクトルリセは、『ミツバチのささやき』(El Espiritu de la colmena,1973)『エル・スール』(El Sur,1983)『マルメロの陽光』(El Sol del membrillo,1992)を、まさしく10年に一本の割合で撮るわけだが、この三本については以前に書いた【覚書】が残っているので、それ以下に貼付しておきたい。

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精霊としての怪物】       

ミツバチのささやき』は、少女通過儀礼を、物語の背景の過剰な説明を排した古典作品として描いた。昔むかし・・・一九四O年のこと。スペインの小さな田舎町に、巡回映画トラックがやって来る。町の公民館で上映されるのは『フランケンシュタイン』、観客のなかに少女姉妹がいる。二人は真剣眼差しスクリーンを見つめていた。姉のイザベルは、映画の嘘を知る大人びた存在として、妹アナは、映画の虚構と現実の区別がつかない純心な少女として設定されている。アナは、イザベル言葉を信じて、怪物を精霊と思い込み神秘的な体験に遭遇する。 父親は教師で養蜂に熱中し、母親は国外に逃亡した誰かに手紙を送り続けている。内戦によって隠遁生活を送る両親。詳しい説明は一切排除されているので、映像の背景を推測するしかない。そんな家族状況のなかで、少女姉妹は成長してゆく。アナの美しいまでのあどけなさと、少女内面に大人の兆しをみせるイザベル。対照的な二人。セピア調の陰影ある画面は見る者を魅了してやまない。


エル・スール [DVD]

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【南を指す風見】

 『ミツバチのささやき』から十年後の『エル・スール』は、暗闇が徐々に明るくなり画面の右手に窓が見え、少女がベッドに横たわっている光景が浮かびあがってくる印象的なショットから始まる。エル・スールとは南の意味であり、父親が捨ててきた故郷のことで、屋根の風見が南を指したまま動かない。娘の目から見た父親の苦悩が、不可解なものとして表現される。父と母はともに内戦を闘った同志だが、父にはもう一人の女性がいた。父の机の中に、見知らぬ女性名前発見した娘は、同じ名前を町の映画館ポスターで見かける。『日陰の花』という映画の主演女優が、父の恋人であった。父がその映画館から出てくる所を偶然見てしまう。町のカフェでその女性手紙を書いている父を、娘が窓越しに見つめる忘れ難いシーンがある。

 娘の聖体拝受の日、父と娘はダンスを踊る。また自転車に乗って家の前の道路を画面の奥に向かって走り去った少女が、戻って来た時は娘に成長している。この二つのシーンはエリセとしては、めずらしくケレン味のある素晴らしいショットとなっている。ある日、父は娘を学校の昼休みに食事に呼び出す。娘は、父の意図を深く理解しないまま、会話を交わすのだが、それが父との最後の会話となった。娘の回想的ナレーションでその直後、父親が自殺したことが語られる。具体的な説明がないだけ、見る者に衝撃を与える。父と娘の関係は、『ミツバチのささやき』のその後であり、『エル・スール』のラストでは、娘は父の故郷=南へ旅立つ。


マルメロの陽光 [DVD]

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【静謐なる至福の時間

 第三作『マルメロの陽光』(1992)は、現代スペイン画家アントニオロペスとその家族を、ドキュメンタリー手法で描き、前二作とは関連がないかに見える。朝の二時間、マルメロの樹に秋の陽光が差す。アントニオロペスは、陽光に輝くマルメロをそのまま描こうとする。毎日、少しずつ変化するマルメロの実を、変化を含めて対象化しようとする。

 ビクトル・エリセは、その様子を克明にキャメラに収め撮ろうと試みる。画家アントニオロペスとその家族は、前二作の家族の延長上に置かれていると解釈できる。夫がコートを着てベッドに横たわる姿を、同じ画家である妻が描く。眼を閉じたまま横たわる夫がそのまま眠ってしまう。夫人が描いた絵とその光景が、ひとつの画面の中に相似形として収まってしまうショットは、不思議な静謐さが漂う。

 『マルメロ』では、家族や周辺の人々全員が画家を暖かく見守る。ここには、家族全員が揃う至福の時間が流れている。家族幸福が、内戦によって崩壊した前二作の不幸を、このフィルムは一挙に取り戻そうとしているかのようだ。


映画考古学=光と影の美学

 エリセ世界では、父性にかかわる隠喩的な力が、現実存在する神秘を発見する。父親達は、『ミツバチのささやき』では毒きのこを一瞬にして見分けるし、『エル・スール』では振り子の揺れによって水脈を発見する。『マルメロ』には、庭の樹を凝視する画家キャメラを介して見つめるビクトル・エリセがいる。     

 光と影の絶妙のバランス感覚、深みのある陰影に富んだ映像は、いってみれば映画考古学的表情をまとっている。エリセ社会的背景について、過度の説明を排除する禁欲的態度に徹する。三本のフィルムに共通するのが、大胆にして繊細な宙吊りの結末。観る者を、思索と瞑想にみちびく余韻を残す。

 十年に一本しか撮らない作家として、ビクトル・エリセ次回作は、21世紀初頭になるだろう。それまで映画というメディアが存続することを祈りながら待つことにしよう。

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10ミニッツ・オールダー コレクターズ・スペシャル [DVD]

10ミニッツ・オールダー コレクターズ・スペシャル [DVD]


と記したのだが、『10ミニッツオールダー 人生メビウス/ライフライン』(2002)で、10分間のフィルムを撮ったことは周知のとおり。問題は次の長編への期待なのだ。

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2009-01-01 金融不況のいまこそアダム・スミス「道徳感情」の原点を

[]アダム・スミス アダム・スミスを含むブックマーク アダム・スミスのブックマークコメント


堂目卓生アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界』(中公新書、2008.03)を新年読書第一号として、読み終えた。


経済に詳しくないので、あくまで「思想書」として読んだことを前提としておきたい。結論を先に申せば、アダム・スミスは、市場礼賛の自由放任主義者ではなく、人間の「道徳」に支えられた社会的人間市場に係ることによって、「見えざる手」に導かれて経済は発展し、資本が蓄積され、市場とはあまねく人々に富をもたらすべきものである、というのだ。


アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)

アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)


あまりに著名な「見えざる手」から自由放任主義者市場原理主義者の元祖と規定されるスミスを、『道徳感情論』の社会的存在としての人間道徳から読み解き、『国富論』の見方を変容させる本書は、未曽有の金融不況の今こそ、読まれるべき本である。

実は、「見えざる手」(invisible hand)という表現は、『道徳感情論』と『国富論』に、それぞれ一回づつしか登場しない。

孫引きになるが、まずは『道徳感情論』から。


道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)

道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)


彼ら(富裕な人々)は、見えざる手に導かれて大地がそのすべての住民の間で平等な部分に分割されていた場合になされただろうのと、ほぼ同一の生活必需品の分配を行うのであり、こうして、それを意図することなく、それを知ることなしに社会利益を推し進め、種の増殖に対する手段を提供するのである。(『道徳感情論四部一章)


続き、『国富論』から、一回のみ「見えざる手」が使用された箇所を引用する。


国富論 1 (岩波文庫 白105-1)

国富論 1 (岩波文庫 白105-1)


確かに個人は、一般に公共の利益を推進しようと意図してもいないし、どれほど推進しているかを知っているわけでもない。(中略)個人はこの場合にも、他の多くの場合と同様に、見えざる手に導かれたて、自分意図の中にはまったくなかった目的を推進するのである。それが個人の意図にまったくなかったということは、必ずしも社会にとって悪いわけではない。自分自身の利益を追及することによって、個人はしばしば、社会利益を、実際にそれを促進しようと意図する場合よりも効果的に推進するのである。(『国富論』四編二章)


堂目卓生氏は、アダム・スミスの『道徳感情論』を解読しながら、スミスの「幸福」についての考えを示す。スミスは、他者への「同感」がよく言われるところである。また、他者との関係では、胸中の「公平な観察者」が、客観的に感情や行動を判断し社会的人間として構築される、というのだ。

アダム・スミスによる「幸福」の定義とは、堂目卓生氏の文章を引用すると、


心の平静を得るためには、最低水準の収入を得て、健康で、負債がなく、良心にやましいところがない生活を送らなければならない。しかし、それ以上の財産の追加は幸福を大きく増進するものではない。以上がスミス幸福論である。(p.82)


となり、堂目卓生氏は、「スミス氏は、最低水準の富が得られない場合、人は悲惨な状態に陥ると考える。」という。アダム・スミスの文章は次のようになっている。


この状態(健康で、負債がなく、良心にやましいところがない状態)につけ加えうるものは、ほとんどないにしても、それから取り去りうるものは多い。この状態と人間の繁栄の最高潮との間の距離は取るに足りないとはいえ、それと悲惨のどん底との間の距離は無限であり、巨大である。(『道徳感情論』一部三編一章)


つまり、一定水準の富さえ確保できれば、それ以上は無限大の人も普通の人も「幸福」には差がないということであり、だからこそ、一定の水準に満たない場合は、超えられない深淵がある「悲惨」というほかないわけだ。


まさしく、昨年のアメリカ発の未曽有の金融危機により、日本でも「悲惨」な人たちが増えている。今こそ、古典であるアダム・スミス道徳感情論』が指針になり得る。スミスは、急激な変革よりも、「徐々に」「しだいに」という表現をしている。アダム・スミスの「自然的自由の体系」が、時代が一回りして21世紀世界経済への提言になり得る。人間の「心の平静=幸福」を取り戻すことになる。本書は、新書の形で出版されたが、内容的には、きわめて大切なことを説いている。

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