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2009-03-18 ストローブ=ユイレを凝視せよ

[]シチリアシチリア!を含むブックマーク シチリア!のブックマークコメント


ストローブ=ユイレシチリア!』(1999)がDVDでこの1月に発売された。このDVDには、本篇以外に舞台版や短編二本と、撮影風景などが収録されている。まず、本篇63分と、舞台上演版70分を観るが、率直に言って理解しがたい。理解を超える作品といえる。ストローブ=ユイレすべてのフィルムは理解しがたいという一点において共通している。ただし、キャメラワークやフレームなどはどの作品も同じスタイルである。


シチリア コレクターズ エディション [DVD]

シチリア コレクターズ エディション [DVD]


きわめて禁欲的なスタイルで撮られるフィルムは、あえて孤立化を招いていて、いわゆる商業映画とは一線を画している。


理解しがたい、にもかかわらず、一旦その画面に魅せられるとその制御された完璧ともいえる映像に捕らわれてしまうからだ。


シチリア!』は、十数年ぶりに故郷に帰り母親と対面することになる男。冒頭は港の埠頭、シルヴェストロ(ジャンニ・ブスカリ−ノ)に、若い妻をつれたオレンジ売りの男が話かけてくる。


続いて列車の中、窓のそばに二人の私服憲兵が会話している。次のシーンは、客室内の座席に座るシルヴェストロと、彼の前の座席には三人。中央の男(大ロンバルディア人)は、声高に自説を滔々と述べる。


これらのシーンは、母親との再会への序曲であり、無人の駅や、窓からの風景キャメラが捉えながら、シルヴェストロは目的地に着く。母親との会話は、父親との離婚や母の浮気などに言及され、親子の一種論争的様相を呈する。語られる言葉の迫力とでもいおうか。一転、祖父の話に及び最後に二人は和解する。

[]あなたの頬笑みはどこへ隠れたの? あなたの頬笑みはどこへ隠れたの?を含むブックマーク あなたの頬笑みはどこへ隠れたの?のブックマークコメント


ペドロ・コスタが、『シチリア!』の編集過程を撮影した『あなたの頬笑みはどこへ隠れたの?』も、同時に発売されている。フィルムを再編集するダニエル・ユイレジャン=マリー・ストローブが、細かく注文をつけるため、1日に数カットしか編集が進まない。暗い編集室の背後からビデオキャメラによって映されるストローブ=ユイレは、映画に対して実に厳格である。


あなたの微笑みはどこに隠れたの? [DVD]

あなたの微笑みはどこに隠れたの? [DVD]


映画版シチリア!』に同時収録されている『放浪』と『研ぎ屋』は、『シチリア!』のワン・シークエンスを切りとったフィルムであり、それらのシーンが何度も繰り返しリハーサルをし、本番のテイクが何度も何度も繰り返されることを、ペドロ・コスタがじっくりフィルムに収めている。

[]アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記 アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記を含むブックマーク アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記のブックマークコメント


ストローブ=ユイレ作品を観ると、緊張感が伝わってくる。最初に見たのがビデオアンナ・マクダレーナ・バッハ日記』(1967)であり、レオンハルト扮するバッハ演奏や、ケーテン候役のアーノンクールなど、本格的な古楽器使用して演奏されるバッハの生涯を、厳格なスタイルで描いていたのに驚いた。今回、DVDアンナ・マクダレーナ・バッハの年代記』で再見してみると、そのほとんどの演奏シーンにアンナナレーションがかぶり、夫・J.S.バッハの後半生が構成されていて、実に見事な音楽映画になっていることが確認できたのだった。



ストローブ=ユイレ音楽映画として、『シチリア!』の一本前のオペラ今日から明日へ』(1996)がある。映画冒頭で、室内の舞台装置の手前にオーケストラが配置されているシーンがあり、この映画オペラであることを観客に示し、登場人物が4人の室内劇を歌によってみせるものだった。シェーンベルク音楽によるものだが、緊密な室内劇として私は観た。



もう一本の『モーゼとアロン』(1974/1975)も、シェーンベルク未完成オペラだが、『出エジプト記』からモーゼとアロンの兄弟による「神」を巡る思想的議論には、襟を正さざるを得ない。無神論者*1であるストロ−ブ=ユイレニによるユダヤの神ヤハウェに迫る。遍在する神と不可視の神とは、特定の人物あるいは金色動物という偶像を崇拝するという代替行為に陥る。神の存在の否定を、背後から暗示しているかのような映像砂漠ロケされた風景と人物は、つねに神についての対話から成り立っている。


ストローブ=ユイレ コレクション 歌劇 モーゼとアロン [DVD]

ストローブ=ユイレ コレクション 歌劇 モーゼとアロン [DVD]


いずれにせよ、紀伊国屋レーベルで発売されているDVDでは、長編第一作『和解せず』(1964/65)から『シチリア!』まで、9本、素晴らしいラインアップだ。九本をみてきて、ほぼ彼らの作風がみえてきたように思う。もちろん見えてきただけであり、とても解説できるわけがないことは、ストローブ=ユイレを一本でもみたことがあれば分かると思うが、ひたすら画面を凝視しなければならないフィルムであり、数回は見ないと、意図するところが読めない。その点ではDVD向きの作家といってもいいだろう。決してスクリーンで観て感想が言える代物ではない。にもかかわらず、コメントの誘惑に駆りたてられる強い牽引力を持つフィルムなのだ。



今後も紀伊国屋レーベルから、ストローブ=ユイレの未ソフト作品の提供を、切に願うものである。*2


奇跡の丘 ニューマスター版[DVD]

奇跡の丘 ニューマスター版[DVD]

*1無神論者宗教映画を撮るとなぜか大傑作になる。その代表例が、パゾリーニ奇跡の丘』(1964)であることは申すまでもないだろう。

*2:なお、カフカ原作の『階級関係』は、2007-01-06に拙ブログで言及している。

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2009-03-10 小説のOSが更新される日

[]大人にはわからない日本文学史 大人にはわからない日本文学史を含むブックマーク 大人にはわからない日本文学史のブックマークコメント


岩波書店刊行の「ことばのために」シリーズで、唯一残っていた一冊。高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』(2009)を読む。


大人にはわからない日本文学史 (ことばのために)

大人にはわからない日本文学史 (ことばのために)


樋口一葉綿矢りさ川上未映子の接近は、リアリズムとは何かを考えさせる。とりわけ、未読の綿矢りさの文体の魅力が、著者によって導かれたことの意義は大きい。


インストール (河出文庫)

インストール (河出文庫)


綿矢りさ文庫本インストール』にのみ採録されている「You can keep it.」を読み、高橋源一郎が激賞する理由が分かった。


ここには、現在のところ、日本語の文章がたどり着いた比喩の極点が位置しているようにわたしには思えます。/小説による言語表現の一つは、比喩を書くことです。・・・(中略)・・・およそいかなる表現も、先行する表現を超えようとし、先行する感覚をさらに繊細な感覚によって置き換えようとするものです。だとするなら、『You can keep it.』における比喩的表現は、日本小説がさまざまな比喩を繰り返してたどり着いた、一つの頂点なのかもしれません。(p.59−60)


インテリ源ちゃん絶賛とくれば、綿矢りさはその文体によって文学史に燦然と輝くことになるだろう。結構なことだ。さらに高橋氏は、「小説のOSを更新する」という表現によって、近代文学が新たな段階に入ったことを示唆している。やれやれ文学史晩年か。


晩年のスタイル

晩年のスタイル


高橋源一郎は、サイード著・大橋洋一訳『晩年スタイル』(岩波書店, 2007)を引用し、晩年を迎えた芸術家が円熟や成熟を拒否する例をあげている。ベートヴェンやリヒャルト・シュトラウスについてサイード記述に触れている。触発されるかたちで、耕治人『そうかもしれない』にたどりつく。


そうかもしれない

そうかもしれない


太宰治志賀直哉とは、普通は全く異なる作風、文体であり、相容れない正反対の作家というイメージがあるが、高橋源一郎によれば、



そこには、「はじまり」があり、「成長」があります。故郷があり、風土があり、空気があり、肉体があります。というか、彼らの小説は、表面上は少しも似ていないのに、それを書いたふたりの作家は、同じなにかを信じているように、わたしには思えるのです。(p.189)


と正反対の作家も同じ共同体のなかに生きているという。さらに、晩年ブレイクした耕治人も、同じ共同体の一員であるという。つまり、同じOSで書いた作家たちということになる。


更新されたOSで書いているのが、中原昌也であり、次の共同体の兆し・・・か。


待望の短篇集は忘却の彼方に

待望の短篇集は忘却の彼方に


高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』からは、文体、比喩、文学史など、日本近代文学についていくつか考えさせられた。

[]阿呆阿呆者を含むブックマーク 阿呆者のブックマークコメント


高橋源一郎からいえば、旧共同体に属するであろう車谷長吉阿呆者』(新書館、2009)を入手。車谷氏は、自己経験を繰り返し、反復している。本書の中では、「文学の基本」が断然面白かった。


阿呆者

阿呆者


文学の基本として大事なのは「他者性」の問題である。他者とは、決してこちらの思うように動いてくれない(思うようにならない)他人のことである。(p.23)


小説になる・ならない」はどういうことか煩悶した。車谷氏によれば、「文学的場所(トポス)」が現われているかどうかである、という。石川桂郎『蝶』をほぼ全文引用し、


文学においては「非日常的な時空間」を作りだすことが大事なのである。(p.41)


文学に向いている人・向いていない人の問題について、


世の中には、四種類の人間がいる。「頭のいい人」「頭の悪い人」「頭の強い人」「頭の弱い人」。「頭のいい人」とは、恥や外聞を気にし、なり振りをかまって生きている人。すなわち打算的人間。この手の人は、大学助教授教授に多い。「頭の強い人」とは、恥や外聞を気にせず、なり振りかまわない生き方をする人、利害損得の計算をしない人、この種の人が一番、文学に向いている。(p.41−42)


いかにも、自らの生き方を「阿呆者」と規定する車谷長吉らしい。その車谷長吉が評価する作家短編を集めたのが、『文士の意地(上・下)』(作品社, 2005)になるだろう。佐藤春夫森銑三永井龍男幸田文石川桂郎たちの短編が採録されている。


文士の意地〈上〉―車谷長吉撰短編小説輯

文士の意地〈上〉―車谷長吉撰短編小説輯


高橋源一郎のいう同じ共同体のひとたち。わたしには、この共同体作家短編に様々な文体、文章の味わいを感じる。そして「非日常的空間」の出現に親しみが持てるのだ。*1それでも、OSを更新しなければならないのだろうか。古いOSに捨てがたい味わい深い文章がある、と思うのだが。


文士の意地 下―車谷長吉撰短篇小説輯

文士の意地 下―車谷長吉撰短篇小説輯

*1:『文士の意地』収録短編群は、日を改めて書いておきたいと思っている。

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2009-03-08 図書館司書とは何なのか

[]司書省令科目改正(再び) 司書省令科目改正(再び)を含むブックマーク 司書省令科目改正(再び)のブックマークコメント



司書とは、「図書館法」に定める図書館員であり、学校付属する図書館や図書室は該当しないと規定されている。大学図書館学校図書館に勤める館員は、図書館法上の「司書」ではない。まず、この法的根拠を最初に示して置きたい。

図書館法」から

第2条 この法律において「図書館」とは、図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保有して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究レクリエーション等に資することを目的とする施設で、地方公共団体日本赤十字社又は一般社団法人若しくは一般財団法人が設置するもの(学校に附属する図書館又は図書室を除く。)をいう。


上記引用のとおり、「図書館法」でいう「図書館」とは、「一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究レクリエーション等に資することを目的とする施設で、地方公共団体日本赤十字社又は一般社団法人若しくは一般財団法人が設置するもの(学校に附属する図書館又は図書室を除く。)」と明記されている。


つまり、私たちが「司書」と呼べるのは、公共図書館司書のみでなのである。ここを押さえておいて、今回の「図書館法」改正に伴う「司書資格のための省令科目」改正に再び言及したい。


ブログ2009年01月29日でとりあげた「司書省令科目」の改正案は、いわゆる図書館法にいう「司書」ではなく、大学図書館研究図書館対象とした「図書館学」になっているところに問題点がある。対象をそのような研究機関における図書館職員であれば、この科目は概ね賛同できるものだ。問題は司書資格のための「省令科目」が、内容的に「公共図書館」科目ではなく、「図書館情報学」科目になっているところにある。



パブリックコメント(結果公示案件詳細)2009年2月25日(案件NO.185000361)「司書資格取得のために大学において履修すべき図書館に関する科目の在り方について」(これからの図書館の在り方検討協力者会議報告書(案))に関する意見募集の結果概要について


公共図書館の役割の多様化は理解できるものであり、都市部の一部は、改正予定省令科目が妥当だろう。しかし多くの、市町村図書館の実態からの乖離は避けがたい。実際、パブリックコメントの回答が、41件、内「大学教職員」が25人、大学が2件。「図書館司書等」が5名というものであり、多くは大学関係者の回答であった。現場公共図書館からは、多くみても、10件に満たない。これで、真に公共図書館のための「司書養成ができるのだろうか。


しかも、驚いたことに、コメントの中に「大学図書館の運営や情報リテラシー教育に関することが明記されていないようで、実際に授業でどの程度取り上げられるか心配する。」といった見当違いのコメントを取り上げている。


図書館司書とは、公共図書館司書であり、図書館経営とは公共図書館経営であり、大学図書館対象ではない。「大学図書館司書として採用される職員の学歴が、大半大学院卒になりつつある現在院生が受講するに値する科目があっても良いのではないか。」などという、これもとんでもない見当違いのコメントが掲載されている。これら見当違いの意見が記載されること自体が、「司書」の法的根拠に対する認識が間違っていることの証明にほかならない。



たしかに「図書館司書」が公共図書館に限定されていることに問題があるとも言える。法的な「司書」規定を変更すれば、「協力者会議」の提案は、大きな問題点が解消される。その点次の意見は、公共図書館からの、「司書省令科目」の問題の根源を突いている。


日本公共図書館をどうしていきたいのか、方向性がよくみえない。中小の公共図書館現場で直面している様々な問題についての把握が不十分で、必要としている科目構成になっていないように見える。」


つまり、公共図書館の将来像がこの「改正省令科目(案)」からは見えてこないのだ。*1



2009年2月18日付けで、「これからの図書館の在り方検討協力者会議」による「報告書」が、文科省HPに掲載されている。


http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shougai/019/index.htm


司書資格取得のために大学において履修すべき図書館に関する科目の在り方について(報告)」と題するもので、基本はパブリックコメント募集時の原案と大きな変更はない。


結論的に私見をまとめればこうなる。図書館法にいう「司書養成の「省令科目」は、公共図書館現場直視する必要があり、現状の公共図書館を踏まえた「科目」にすべきこと。ただし、それとは別に「図書館情報学」として、司書養成に追加するかたちで、大学研究図書館に勤務する図書館員養成のための科目をつくること。


大学図書館専門図書館等の職員を図書館法にいう「司書」と勘違いしているところに根本的な問題があり、図書館学教育担当している教員レベル組織した「協力者会議」は、大学での図書館学を前提にしている、としか思えない。この点について、関係者の猛省を促したい。


図書館関係者ブログで、「司書資格省令科目」への言及がほとんどみられない故、あえて再度この問題について覚書として残しておきたい。


図書館が教えてくれた発想法

図書館が教えてくれた発想法

*1:なぜ見えてこないかは、拙ブログ2009−01−29を参照していただきたい。改正案では「図書資料」より「情報」を優先していることに言及しておいた。

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