そして漱石はつづく

漱石関連文献

 

林原耕三『漱石山房の人々』(講談社文芸文庫,2022.02)の復刊

 

森まゆみ永井荷風『鴎外先生』(中公文庫,2019)の「解説 鴎外と荷風」のなかで記している。

残念なことだが、亡くなってのちも読みつがれる作家はきわめて少ない。有名な賞の作家でも次の受賞者が出てくると古い方から消えていく。そういうことを繰り返し見ているうちに、あることに気づいた。それは亡くなった時に後輩が騒がなければいけないということだ。大正11年七月九日森鴎外が亡くなった時に、永井荷風は見事にその役を務めた。(308頁『鴎外先生』)

全集刊行後は、事あるごとにに「全集を読め」と旗を振る必要がある。(310頁『鴎外先生』)

 

鴎外の場合は、門弟や弟子はいなかった。だから永井荷風がその役目を担ったわけだ。

鴎外の場合と正反対なのが夏目漱石である。漱石には多くの門弟がいた。木曜会に参加する知識人たちである。漱石死後、次々と、<漱石論>や<漱石伝記>を出版し、漱石に関するあらゆる情報が提供されて行く。

漱石の弟子のなかで、漱石に関する最後の書物『漱石山房の人々』(1971)を出した林原耕三は、漱石の妻へヴェロナールを一週間分提供したことを後悔の思いをもって告白している。林原耕三は、それが『行人』の文章に表れていることの告白は、作品分析にどうように関係するのか、これまでの論考ではあまり問題にされていない。

もう一点は、<則天去私>神話を、林原耕三が先生・漱石からの発言があったことの強調にある。

 

「文献主義批判」を、特に江藤淳漱石論や『漱石とその時代』に対する批判として「文献」よりも関係者の記憶を優先するかのごときものであり、極論排除の意味からいずれも排したい。

 

現在のところ、漱石論は出尽くした感があり、赤木桁平『夏目漱石』を嚆矢として、夏目鏡子述、松岡譲筆録『漱石の思い出』(1928)が出版され、それに異論を唱え、膨大な資料を用いた弟子による決定版ともいうべき小宮豊隆著『夏目漱石』(1938)でほぼ伝記的な漱石像が決定されている。

今回復刊された、林原耕三『漱石山房の人々』(講談社文芸文庫,2022)は、講談社の元版を仮名遣いを現代仮名遣いにあらためたのみで、解説は山崎光夫が担当している。山崎光夫は、『胃弱・癇癪・夏目漱石ー持病で読み解く文士の生涯』(講談社メチエ,2019)の著書*1がある。


わたくし自身の漱石問題は、なぜ「三角関係」を繰り返し、小説に書いたのか。ホモソーシャルな男二人の間にひとりの女性を巡り、三角関係となり昇華できない陥穽に陥るのはなぜなのか。『三四郎』は例外であり、『坊っちゃん』が赤シャツと山嵐の闘争の終末期に四国のM市に赴任し、山嵐に加担してのち、東京へ帰る話であったように、『三四郎』は、野々宮と美祢子の恋愛が終わる頃、熊本から上京し美禰子に翻弄される話である。その点では、『三四郎』と『坊っちゃん』は逆ベクトルの同じ物語と言っていいだろう。『それから』から『こころ』までは、「三角関係」が繰り返される。最後の『明暗』は、お延と清子に津田が係わる「三角関係」になっているが未完である。

 

もう一点は、<則天去私>神話の解体であり、漱石没後、死去直前の木曜会で漱石が発言したと思われる「則天去私」について、松岡譲・森田草平小宮豊隆等が、漱石の到達した悟りの境地とする説が、門下生によって共有され、今もその神話が生きている。

 

 

しかしながら、<則天去私>神話は、1950年代、江藤淳によって解体された。
柄谷行人は「意識と自然」のなかで、漱石が『明暗』を書き出す前、大正五年元旦に「点頭録」を書いたところに注目し、

驚くべき事は、これと同時に、現在の我が天地を蔽ひ尽して儼存してゐるといふ確実な事実である。一挙手一投足の末に至る迄まで此「我」が認識しつゝ絶えず過去へ繰越してゐるといふ動かしがたい真境である。だから其処に眼を付けて自分の後を振り返ると、過去は夢所ではない。炳乎として明らかに刻下の我を照しつゝある探照燈のやうなものである。従つて正月が来るたびに、自分は矢張り世間並に年齢を取つて老い朽ちて行かなければならなくなる。/生活に対する此この二つの見方が、同時にしかも矛盾なしに両存して、普通にいふ所の論理を超越してゐる異様な現象に就いて、自分は今何も説明する積はない。又解剖する手腕も有たない。たゞ年頭に際して、自分は此この一体二様の見解を抱いて、わが全生活を、大正五年の潮流に任せる覚悟をした迄である。(628頁「点頭録」『漱石全集16』)

 

私はこれ(「点頭録」の引用文)を悟りを開いた人間のいうことばとして読む気になれない。あまりに痛々しい「覚悟」が感じられるからである。(81頁『増補漱石論集成』)

 

柄谷行人は記している。わたくしは、この柄谷行人の理解に賛同する。

漱石門下乃至周辺の人物の漱石語りの本は、今回の林原耕三『漱石山房の人々』出版で終わりでよい。周辺の人物が語ることは、語る人の主観が入るので、やはり漱石が残したテクストを信頼したい。


残された問題は、漱石はなぜ「三角関係」を書き続けたのか、である。


林原耕三『漱石山房の人々』のなかで、「鏡子夫人」の次の文章を引用しておきたい。

奥さんに就いては世間にいろいろの誤解がある。姉御風であり、陽気なことが好きではあったが、成金趣味の見栄坊ではなかった。自分を可愛がってくれる夫なら泥棒でもいいと言われた説がある。私は奥さんの切ない表現として同情はするが、所詮は先生の世界の人ではなかったのである。(113頁『漱石山房の人々』)

 

漱石の妻が、「先生の世界の人ではなかった」からこそ、漱石は作家として優れた作品を残し得たともいえよう。

なお林原耕三は、最初の『漱石全集』編纂時に漱石の多くの作品を校正した経験から「漱石文法」を作成した。このあたりの経緯は、「初刊漱石全集の校正について」に詳細に記されている。「漱石文法」は、森田草平・林原耕三・内田百閒の三人が作成したと全集の月報に記載されているが、

この「漱石文法」は実は私一人で作ったものであります。(362頁『漱石山房の人々』)

とあり、安倍能成が林原耕三の大学卒業を優先させることを理由に、全集編集部から締め出されたようだ。この間の事情について、おそらく怒りに近い思いを持って「初刊漱石全集の校正について」を書いたようだ。

 

 

 

夏目漱石周辺人物事典』によれば、林原耕三の項目に以下の記述がある。

漱石山房に出入りする所謂門下生の中でも、安倍能成は極端に耕三を嫌い、「まず大学を卒業するのが先だ」と言って、『漱石全集』の編集委員から締め出し、排斥した。漱石が金に困った耕三に内職として校正をしばしば頼み、安倍が校正をしたいと漱石に希望を出しても、耕三が手放さなかったことが影響しているかもしれない。(440頁)


林原耕三は、安倍能成が耕三の大学卒業を優先させることが先だと編集委員から締め出された。にもかかわらず、「漱石文法」を編集委員へ提出した功績は、評価されなければならないだろう。

 

石原千秋小森陽一『なぜ漱石は終わらないのか』(河出書房新社,2022.03)

 

 

最近出版された石原千秋小森陽一『なぜ漱石は終わらないのか』(河出書房新社,2022.03)は、『漱石研究』編集者二人が、『文学論』を読み解くところから始め、『吾輩は猫である』から『明暗』まで14作品を取り上げて、漱石文学の解読する研究者の対談形式になっている。

 

 

内容は、『漱石激読』(2017)の増補版であり、「補章 なぜ漱石は終わらないのか」が文庫版出版にあたり、対談を増補したものである。

 

なぜ漱石は終わらないかと言えば、「漱石の小説は構成が緩い」からだと石原氏は言う。「緩いというのは、パーツがいくらでも独立しうる」とつけ加えている。特に、後期三部作は短編や中編小説を重ねて長編として成立している。また、終わりかたが開かれているということになる。終わり方がオープンになっているのだ。

 

新しい漱石論の出現を待っているが、<こころ論争>以後、漱石に関する書物は毎年、数多く出版されるが、新説が出てこない状況が続いていることは否めない。

「補章」で石原千秋が言及している。

リアルな戦争が起これば実体経済が決定的に破壊されるから、それはお互いにもうできない。(403頁)

 

関連して小森陽一は、漱石が生きた時代とは、「戦争によって国家独占資本主義が形成されていく時代」だと指摘してる。

 

2022年2月24日に始まった、プーチン・ロシアによるウクライナへの侵略戦争は、その方法において、20世紀前半の戦争であり、漱石の時代に引き戻されたといえよう。

漱石の「点頭録」から引用しよう。「軍国主義」と題して四回にわたり記述している。


自分は常にあの弾丸とあの硝薬とあの毒瓦斯とそれからあの肉団と鮮血とが、我々人類の未来の運命に、何の位の貢献をしてゐるのだらうかと考へる。さうして或る時は気の毒になる。或る時は悲しくなる。又或る時は馬鹿々々しくなる。最後に折々は滑稽さへ感ずる場合もあるといふ残酷な事実を自白せざるを得ない。
(631頁「点頭録」『漱石全集16』)

戦争は戦争の為の戦争ではなくつて、他に何等かの目的がなくてはならない、畢竟ずるに一の手段に過ぎないといふ事に帰着してしまふ。(638頁「点頭録」『漱石全集16』)

何れの方面から見ても手段は目的以下のものである。目的よりも低級なものである。人間の目的が平和にあらうとも、芸術にあらうとも、信仰にあらうとも、知識にあらうとも、それを今批判する余裕はないが、とにかく戦争が手段である以上、人間の目的でない以上、それに成効の実力を付与する軍国主義なるものも亦また決して活力評価表の上に於て、決して上位を占しむべきものでない事は明かである。(638頁「点頭録」『漱石全集16』)

 

軍国主義への批判である。ほぼ100年前の欧州戦争に対する漱石の所感であるが、21世紀の現在、きわめて悪質なプーチン・ロシアのウクライナへの侵略戦争は、そこにどのような目的があろうとも、また軍事行動という手段は、いかなる理由があろうとも、許されない。<プーチン体制の終わりの始まり>の時がきたと思う。

漱石関係文献の新刊紹介から、プーチン・ロシアのウクライナ侵略戦争にまで、コラージュのような記述になってしまった。


あくまで、私的な問題では、「則天去私」神話の解体と、「三角関係」にこだわる漱石について言及することが、本論の目的であった。いずれ漱石はなぜ「三角関係」にこだわったのかをまとめたい。

 

なお、漱石関連文献の収集については、拙ブログ2013-12-29「漱石関係文献の収集3年」と題して記述していることを申し添えておきたい。

 

 

 

*1:2018-10-27の拙ブログで言及済

古井由吉は最後の日本近代作家であり、作品は古典になる

古井由吉の文(アンケート)


『新潮』(2022年3月号)に古井由吉三回忌に寄せてと題して、19名の作家・評論家などから、あなたの一文を寄せる」アンケート回答が掲載されている。

まずは、19名による引用文を列挙してみよう。

 

石井遊佳

 

汗まみれになった気分から、数日来垢をためこんでいたことを思出して風呂場の明かりをつけ、残り湯を静かに、貰い湯のようにつかううちに、わずかに揺れる湯の、桶を叩く音があまりにもひそやかに、奇妙な切迫感を孕んで聞こえてきて、身動きがならなくなった。(「槿」『槿』[1983])

 

 

岸政彦撰

 

やがてその手も髪もなくなり、撫でる感触だけが細く続いた。(「祈りのように」『夜明けの家』[1998])

 

佐伯一麦


 われわれは、局地局地につっこまれた兵隊ですから(「背中ばかりが暮れ残る」『陽気な夜回り』1994)

 

 

鈴木涼美
 腹をくだして朝顔の花を眺めた。(「槿」『槿』1983)

 

 

楽天の日々

楽天の日々

Amazon

 

 

諏訪敦撰

 

しかも写実はそれ自体、いくらでも過激になり得る。そのはてには、写すべき「実」を、解体しかかるところまで行く。写実と写生との違いはその辺にあるらしい。(「写実ということの底知れなさ」『楽天の日々』[2017])

 

 

 

 

 

諏訪哲史


 とにかく、分解するうちにいつか、あるいはいきなり、歌っている。(「訳者からの言葉」『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』[ロベルト・ムージル作・訳者あとがき 1987])

 

 

 

風花 滝澤紀久子撰

 

若い人は、今は今と見ていますので、それはたしかなものです、年寄は今を見ていても、どうかすると、今も昔も、先のことも、つい見境いがつかなくなって、と笑いながら、霧の奥から往く人の声が伝わってくるかのように、聞き入る顔つきをしていた。(「生垣の女たち」『やすらい花』[2010])

 

 

 

 

田中慎弥


あるいは、さびしくなった日の暮れの道でたまたま会って、お互いに何となく気に入って、数日はいつも連れ立っている子供か、犬のようなものだったかもしれない。(「不眠」『夜明けの家』[1998])

 

谷崎由依


 

―暗い夢を見ているうちはまだ安心、夢が明るくなってきたら、用心したほうがいい。(「椋鳥」『木犀の日』[1998])

 

 

 

中村文則

 

[―、]何も知らないので早く教えてやらなくては、[・・・](「やすらい花」『やすらい花』[2010])

 

蓮實重彦

 

夜の更けるにつれて表ではまた風が変わったようでうすら寒さの染みる背中から、雪折れの花が家の隅々の暗がりから照った昔を思い出して、世の厄災というほどの事はあの直後に起こっていなかったはずだが、敗戦の五月の、家を焼かれるまでの梅雨時のような鬱陶しさに苦しむ子供にも、肌のつらさからどこかに今を盛りと咲きこぼれる花の色が、悪夢めいた美しさを帯びて見えていたのではないか、とうに散ったその年の花ではなくて、もっと幼い心に無心に見あげた、あるいは、さらに知らぬ昔の、とたどれもしないものをたどろうとするうちに、―見ぬ世まで思ひのこさぬ眺めより/昔にかすむ春のあけぼの/そんな古歌が、和歌というものをめったに諳んずることのできぬ頭の中へ、すんなりと浮かんだ。(「後の花」『ゆらぐ玉の緒』[2017])

 

平野啓一郎


やがてその手も髪もなくなり、撫でる感触だけが細く続いた。(「祈りのように」『夜明けの家』[1998])

 

日和聡子


自分は生涯、こうしてあの辻へ向かって歩き続けることになるのではないか、と夢の ようなことを思った。(「辻」『辻』[2006])

 

古井睿子撰 

いかにも寂しげな眺めであるが、しかしすでに初秋の晴れた日に、北風が吹いて、枯れても強靭なその葉がカラカラと鳴る時、どうかすると樹全体がいま一度の紅葉、恍惚として燃えあがる。壮絶な最後である。しかし来春の甦りの約束でもある。(「林は日々に新しい」「現代林業」[2001])

 

 

 

堀江敏幸

 

あまりにも濃い反復感というものは、その中に踏み込んでついたたずんだ者にとって、日常の内から、思いがけない時空へつながる。抜け穴の入口みたいなものだ。(厠の静まり」『仮往生伝試文』[1989])

 

又吉直樹

 

その竹箒の使い方と言い、日の永そうな様子と言い、薄曇りのもとの残花と言い、いまどき懐かしいような光景に見えて、すぐそばを行きかう車の喧騒の中で神寂びなどという場違いの言葉まで思わされ、目礼して通り過ぎてから振り返れば、ようやく掃き集めた花びらを車道の際の、排水溝の中へ掃きこもうとして、孔の口が細くて思うにまかせず、箒の先を立てて押しこみ押しこみ、それでも埒が明かずに足まで挙げて踏んづけるようにするうちに、ほんのりとしていた顔が赤黒く濁り、白髪もちりちりと熱するようで、物狂いの忿怒の形相が剥げて出た。(「やすらい花」『やすらい花』[2010])

 

 

町田康

 

今夜も馬は来ているだろうか、と花の下を抜ける時にちらりと思った。/今夜も帰って来ないようだ、と馬が頭の花びらを振るい落とした。(埴輪の馬」『野川』[2004])

 

松浦寿輝

 

鈍色にけぶる西の中空から、ひとすじの山稜が遠い入江のように浮かび上がり、御越山の頂きを雷が越しきったと山麓の人々が眺めあう時、まだ雨雲の濃くわだかまる山ぶところの奥深く、山ひだにつつまれて眠るあの渓間でも、夕立ち上がりはそれと知られた。(「木曜日に」『円陣を組む女たち』[1970])

 

村田喜代子

 

あれは食い物の鬱陶しさの精のようなもの、物を食うということの憂鬱さをひとつに煮つめたようなものだ。(「水漿の境」『仮往生伝試文』[1989])

 

 

こうして書き写しているだけでも、古井由吉の文体の凄さに慄く。現代作家たちは、自分のお気に入りの古井由吉の「文」を古井由吉三回忌に寄せて上記のように撰出した。現代作家でなくとも、誰もが大いに気になる近代作家であり、「内向の世代」を代表して、古井由吉文学史の「古典」(カノン)となった。

岸政彦と平野啓一郎の二人は、全く同一の作品の中の同じ一文を撰出している。『夜明けの家』の中の短編「祈りのように」である。岸氏は「この短い作品のなかで、「人はみな死ぬ。あとには時刻と感触だけが残る」とコメントしている。平野氏は「抽象性と具象性との極限的なその融け合い方に衝撃を受け・・・」と絶賛にちかいコメントを付している。

 

古井由吉は生前に、『古井由吉全エッセイ(全3巻)』(作品社、 1980)、『古井由吉作品(全7巻)』(河出書房新社 ,1982-1983)、『古井由吉自撰作品(全8巻)』(河出書房新社, 2012)の三種の作品集が刊行されている、稀有な作家である。没後2年が経過した。近年、作家の没後、個人全集が出版されなくなった。また死後、忘れられる作家も多い。古井由吉の場合は特別な存在だった。当然、古井由吉全集』が近々刊行開始されると思いたい。

 

 

古井由吉の新刊書

『連れ連れに文学を語るー古井由吉対談集成』(草思社,2022.02)

 

古井由吉歿後刊行図書(2021年以降)

古井由吉 著, 堀江敏幸 監修, 築地正明 編集『私のエッセイズム: 古井由吉エッセイ撰』(河出書房新社,2021.01)

 

古井由吉『こんな日もある 競馬徒然草』(講談社,2021.02)

  *古井氏の競馬関係エッセイ集

 

古井由吉東京物語考』(講談社文芸文庫,2021.05)

  *岩波書店1984刊の文庫版、解説:松浦寿輝「時空の迷路を内包する」

 

古井由吉佐伯一麦『往復書簡 『遠くからの声』『言葉の兆し』』 (講談社文芸文庫,2021.12) 

  *『遠くからの声』(新潮社、1999)と『言葉の兆し』(朝日新聞出版,2012)を  合本・改題したもの。 *解説:富岡浩一郎「手紙が紡ぐ「時」の流れ」

 

古井由吉『この道』 (講談社文庫,2022.02)

  *解説:松浦寿輝「そのかりそめの心ー古井由吉『この道』 」

 

 

 

ケリー・ライカートまたはケリー・ライヒャルトはハリウッド映画を解体する女性監督だ

ケリー・ライカートの映画

ケリー・ライカートの映画を、「ケリー・ライカートの映画たち~漂流のアメリカ」特集で4本、配信・DVD等で2本、計6本を見た。

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Kelly Reichardt

アメリカンインディーズ映画で著名だが、今回初めて彼女の既成ハリウッド映画を否定するかのような、きわめて刺激的な初期作品4本を製作順に続けて見た。

 

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River of grass,1994

『リバー・オブ・グラス』(1994)
ケリー・ライカートのデビュー作。いわゆるロードムービーというジャンルを解体した第一作から、既成ハリウッド映画の、まずジャンル映画を解体して見せたのが本作である。フロリダの郊外、湿地を背景に、行く場をなくしたかのような主人公コージーを演じるリサ・ドナルドソンは、平凡な主婦に収まっているが、特に目的もなく家を出て、冒険の旅にでて、リーというさえない男と逃避行と思いきや、プールに忍び込み、確認のため出てきた男を誤って撃ってしまったと思い込む。
近くのモーテルに宿泊しお金を支払い、強盗をすると他者に邪魔され、行為がことごとくコミカルに展開し、いつまでたっても、自宅近くを離れない。「恋愛」や「犯罪」のない逃避行だが、地元を離れない。移動しないロードムービーとして、ハリウッドのジャンル映画を脱=構築してみせた。

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Old joy,2006

 

『オールド・ジョイ』(2006)
『リバー・オブ・グラス』から12年が経過して撮られた、男二人のキャンプと温泉旅。男同士の一見友情のようなものを感じさせるかのように思われる。キャンプに誘われたマークは結婚していて、もうすぐ子供ができる状況。キャンプに誘ったカートは、いまだにヒッピー風の生活をしており、二人はかつて友人として付き合っていたようだ。しかし、今はやや距離を置いている関係。カートの案内でキャンプに車で行くわけだが、道に迷い容易に目的地にたどり着かない。途中、日が暮れて一泊する。焚火を介して二人は会話を交わすがどことなくぎこちない。翌日、車を駐車し、徒歩で秘湯を目指すが、山道を歩く二人は黙々と川をわたり、細い道を歩く。やっとたどり着いた温泉は、秘湯というにふさわし趣きがあり、それぞれ横並びに別の風呂桶に入り、とくに意味のある会話を交わすわけでもなく、やがてカートは、マークの首筋をマッサージする。帰りのシーンは短く撮られ、町に帰った二人は、簡単な挨拶をして別れる。キャメラは独身のマークを捉え、歩くマークにホームレスと思しき人が小銭をせがむ。一度は拒否するも、結局、ホームレスに小銭を与える。何も起きない映画という新しいジャンルを示した。

 

 

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Wendy and Lucy,2008

『ウェンディ&ルーシー』(2008)
ミシェル・ウイリアムズを主演に迎えた貴重な作品。アラスカを目指すウエンディは、一匹の犬を連れている。貨物列車が長々と横移動する冒頭シーン。ウエンディ(ミシェル・ウイリアムズ)は犬のルーシーを連れて歩いている。車まで戻ると、ここは駐車できないと言われ、エンジンをかけるが車は動かない。愛犬ルーシーのための食糧缶詰を万引きしたため、警察へ出頭させられる。以後、すべてが空転することになる。
スーパーの前につないでおいたルーシーがいない。愛犬を探して、スモールタウンを、彷徨するが、見つからない。老警備員が協力してくれて、保健所からの通知で、やっと愛犬ルーシーの居場所がわかる。良い家に飼われていることがわかると、愛犬を置いたまま、貨物列車に乗り込み仕事を探しに行く。

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Meek's cutoff,2010

『ミークス・カットオフ』(2010)
西部劇だが、ハリウッドが描いてきた西部とは全く異質な、史実に基づくと、このような映画となる、と提示してみせた作品。三家族がオレゴンの広大な砂漠を西部に向かっている。案内人にミークを雇ったが、目的地には着かない。一人のインディアンと出会う。彼の言葉は何を言っているか全くわからない。
ミシェル・ウイリアムズは、インディアンに貸しを作り信頼関係を結ぼうとする。
案内人のミークは反対し、インディアンの数々の非道ぶりを説くが、三家族はミシェル・ウイリアムズの意見に従う。水を求めて砂漠を彷徨う。

水を求めて砂漠をさまよう光景からウィリアム・ウェルマンの『廃墟の群盗』(1948)を想起した。グレゴリー・ペックが仲間を率いて砂漠をさまようシーンが延々と続くがやがて水にたどり着く。しかし、『ミークス・カットオフ』では一向に水にたどり着く気配がない。インディアンとの関係も曖昧なまま、一行は次第に疲れてくる。全編が暗く、夜間シーンはよく見えない。昼間も明るさがあまり見られない。この作品は、史実に基づけば、ハリウッドが描いてきた西部開拓史は「虚構」に過ぎないことを暴露した内容になっている。畏怖すべき映画だ。ケリー・ライカートの大傑作というべきフィルムになっている。

 

ケリー・ライカートの<ウィキペディア>記載名は、ケリー・ライヒャルト(Kelly Reichardt)となっている。現在は、ケリー・ライカートの日本語表記になってるようだ。

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Night moves,2013

『Night moves』(2013)

配信で『ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画』(2013)を見る。
原題が「Night Moves」をなんとも意味不明なタイトルになっているので、映画の主題を勘違いしそうな日本語タイトルは、初期4作のように原題をそのままカタカナに変換すればよいだろう。環境テロリスト・ハーモンを首謀者として、笑顔がないジョシュと、ブルジョワ娘ディーナの三人によるダム爆破計画を描いた作品。ダム爆破後はお互いに連絡を取らないことを申し合わせる。しかしダム爆破のせいで、キャンプ中の男性が一人行方不明となりやがて死者が出たと報道されたことで、ディーナは動揺し、ハーモンに連絡する。ジョシュも生活しているコミュニティの中で浮いてしまう。3人の立場の違い、ハーモンは特に問題を感じないが、環境左翼のジョシュ(ジェシー・アイゼンバーグ)は、コミュニティを離れ、ディーナのもとを訪ねるが、彼女はパニック状態で警察に自首しようとしたので、ジョシュはサウナ個室で彼女を殺害してしまう。その後、ジョシュは職を探そうとするが、鏡に映る姿をみてそこから立ち去る。

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Certan womes,2016

『Certain Women』(2016)
次にDVDで、『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』(2016)を見る。大きく三つの話で構成されている。

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Certain women part1


女性弁護士ローラ・ダーンは、気難しいクライアントに振りまわされるが、男性弁護士の意見を聞くとクライアントは納得する。女性弁護士の立場の不利さを、ローラ・ダーンは苦々しい思いで認識せざるを得ない。

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Certain Women part2

セカンドハウスを建てようとするミシェル・ウィリアムズは、反抗期の娘と無神経な夫にうんざりしながらも、砂岩を売って貰うよう夫婦で所有者と交渉するが捗らない。ところが、夫が所有者と交渉すると、耳を傾けようとする。女性蔑視の環境にうんざりするミシェル・ウィリアムズ

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Certain women part3

先住民のジェイミー(リリー・グラッドストーン)は、牧場で馬の面倒をみる仕事をしている。ある日、町に出たとき、数人が入る夜間教室を見つけて入ってみる。すると、女性弁護士エリザベス(クリステン・スチュワート)が、「学校法」を教えるためその日初めて、夜間教室に教えに来たのだった。
弁護士のエリザベスは、4時間以上の時間をかけて、夜間の市民相手に、法律の授業をしている。聴講生の中に、牧場で動物たちの世話する孤独な先住民のジェイミーが居る。二人は、乗馬することで親密になる。しかし、次の講義日には、講師が男性に変っており、ジェイミーは、エリザベスに会うため車で4時間以上の時間をかけて弁護士事務所へ行く。朝まで車の中で仮眠したジェイミーは、エリザベスに会い、言葉を交わして農場へ帰る。

 

ケリー・ライカートの作品6本を見ることができたが、『ミークス・カットオフ』が傑出しているといえよう。西部開拓史の虚構を、寓話として批判的に描いた傑作である。単なるフェミニズム映画に終わらない、映画の本質的な問題を提起していることに向きあわなければなるまい。私の好みから言えば『オールド・ジョイ』が、出来事としては何も起きない映画として印象が良かった。

 

 

【補足】

ケリー・ライカートの次の作品(日本未公開)は『First Cow』(2020)、更にミシェル・ウィリアムズ4回目の主演となる『Showing Up』(2021)が製作を終えている。公開が楽しみである。

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First cow

 

『ボストン市庁舎』がフレデリック・ワイズマン監督二度目のベスト1となった

 

映画ベストテン2021


2021年映画ベストテンを以下に記して置きたい。そろそろ止め時と思いつつ今年も、コロナ禍を回避して49本を映画館で見た。作家別の作品ランキングなど、DVDや配信ビデオで見直すことも増え、よく映画を見た年だった。

映画ベストテン選出は『キネマ旬報2021年12月下旬』(キネマ旬報社)の「2021年キネマ旬報ベストテン選出用リスト」から、選出した。

 

【外国映画】

外国映画は、フレデリック・ワイズマンの『ボストン市庁舎』が素晴らしく、274分の長さは、途中休憩をはさみながらも、一日がこの作品を見るために費やされた。『ボストン市庁舎』は、ワイズマンの集大成的作品になっている。ボストン市庁舎の仕事全てを網羅し、キャメラの前で職員や市民は、饒舌に話す。とくに印象に強く残るのは、貧困地区に「大麻ショップ」を進出させるという業者側の説明に、マイノリティ市民ひとり・またひとりと抗議の弁を述べくだりだ。市の承諾を得ていることを盾に業者側の態度も傲慢だが、怒りの市民たちは「この問題は地区の全員が参加すべき」と、ゼロ地点まで戻した流れは、ワイズマンのインタビューによれば2時間以上続いたが、本編では26分に編集したと言う。その連続しているように見える26分のシークエンスにドキュメンタリーの真髄をみせられた。圧倒される多くのシーンの集積だった。

フレデリック・ワイズマンの映画は、『ニューヨーク公共図書館 』(2017)*1に次いで二度目のベストワンとなった。

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外国映画に、ホロコーストアウシュビッツ関係が2点いれたが、『ホロコーストの罪人』はノルウェーにおけるナチスユダヤ人弾圧の実態を、一つの家族が遭遇した悲劇として、前半のなごやかさが、後半の先が見えない恐怖に絞って描かれている。また、『アウシュビッツ・レポート』は、ユダヤスロバキア人のアウシュビッツからの脱走と、たどり着いた赤十字の対応の遅さが際立つ、緊迫したドラマ(事実にもとづくとされる)になっている。
 
なお、『ボストン市庁舎』とスパイク・リーアメリカン・ユートピア』は「共鳴する」内容を持っていることを、上原輝樹が指摘している。(『ユリイカ2021・12月特集フレデリック・ワイズマン』224~234頁より)
アメリカン・ユートピア』は、デビッド・バーン率いる様々な国籍を持つ11人のミュージシャンやダンサーとともに舞台の上を縦横無尽に動き回り、ショーを通じて現代の様々な問題について問いかける。クライマックスでは、ブラック・ライブズ・マターを訴えるジャネール・モネイのプロテストソング「Hell You Talmbout」を熱唱する。舞台上演を映画化したものだが、圧倒的感動・高揚をもたらす多様性・民主主義の重要性が背後にある。ワイズマンとスパイク・リーが撮影した時期は、トランプ政権時代であった。

 

【外国映画ベストテン】

1.ボストン市庁舎(フレデリック・ワイズマン

2.アメリカン・ユートピアスパイク・リー

3.ノマドランド(クロエ・ジャオ)

3.ファーザー(フロリアン・ゼレール)

4.最後の決闘裁判(リドリー・スコット

5.アナザーラウンド(トーマス・ヴィンターベア)

6.17歳の瞳に映る世界(エリザ・ヒゥトマン)

7.ホロコーストの罪人(エイリーク・スヴェンソン)

8.アウシュビッツ・レポート(ベテル・ベブヤク)

9.皮膚を売った男(カウテール・ベン・ハニア

10.MINAMATA(アンドリュー・レヴィタス)

次点:サンドラの小さな家(フィリダ・ロイド

  :アイダよ、何処へ?(ヤスミラ・ジュバニッチ)

  :マトリックス・レザレクションズ(ラナ・ウォシャウスキー

 

アメリカン・ユートピア [DVD]

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  • デイヴィッド・バーン
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アナザーラウンド

 

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ホロコーストの罪人

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アウシュビッツ・レポート

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皮膚を売った男

 

 


その他、気になった作品

・私は確信する(アントワーヌ・ランボー

・シンプルな情熱(ダニエル・アービット)

・ミス・マルクス(スザンナ・ニッキャレッリ

ビバリウムロルカン・フィネガン)

・ブックセラーズ(D.W.ヤング)

レンブラントは誰の手に(ウケ・ホーヘンダイク)

・すべてが変わった日(トーマス・ベズーチャ)

 

【日本映画ベストテン】

日本映画の話題は、濱口竜介に尽きるだろう。第71回ベルリン国際映画祭コンペティション部門で銀熊賞を受賞した『偶然と想像』、第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品、日本映画では初となる脚本賞を受賞した『ドライブ・マイ・カー』の二作品で話題を独占した。言ってみれば<2021年は濱口竜介の年>となるだろう。とはいっても、私のベスト1には、西川美和『すばらしき世界』か、高橋伴明の『痛くない死に方』がより切実な問題点を提起していた。日本映画は見逃した作品が多く、私的には6位までが「ベスト6」となる。


『ドライブ・マイ・カー』は、村上春樹の原作を膨らませて、ジャック・リヴェット流に舞台劇を導入している。原作を超えるところは、チェーホフ『ワーニャ伯父さん』を特異な手法で舞台劇に仕上げ、ソーニャをハングル手話によって表現するなど、いささか凝りすぎていると感じた。むしろ、『偶然と想像』のさりげない日常から緊張感を孕む光景に瞬時に変わるシークェンスは、見る者を身構えさせる。優れた脚本家であり、出演者は濱口竜介にゆかりのある俳優陣が、巧みな演技を披歴していた。


【日本映画】


1.痛くない死に方(高橋伴明

2.すばらしき世界(西川美和

3.偶然と想像(濱口竜介

4.ドライブ・マイ・カー(濱口竜介

5.ヤクザと家族(藤井道人

6.由宇子の天秤(春本雄三郎)

7.鳩の撃退法(タカハタ秀太

8.きまじめ楽隊のぼんやり戦争(池田暁)

9.キネマの神様(山田洋次

10.いのちの停車場(成島出

次点:椿の庭(上田義彦

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痛くない死に方

 

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偶然と想像

 

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ヤクザと家族

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由宇子の天秤

 

 

 

 

 

その他、気になった作品

ばるぼら手塚眞

・騙し絵の牙(吉田大八)

 

それにしても、フレデリック・ワイズマンジャン=リュック・ゴダール、クリント・イーストッド*2の三人は91歳でありながらも、現役として、ほぼ毎年1本の映画を継続して撮っていることに驚く。

*1:フレデリック・ワイズマン『ニューヨーク公共図書館 』は、2019年外国映画ベストワンに拙ブログにおいて、推挙している。

*2:イーストウッドは『クライ・マッチョ』(2021)の公開が2022年1月に控えている。監督・主演だから余計に驚く。

コメディ映画の偉大な監督ビリー・ワイルダーの基本は脚本にあった

脚本・監督=ビリー・ワイルダー

 

~「完璧な人間なんて、ひとりもいない」(『お熱いのがお好き』)~

 

~「何よりも重要なのはよい脚本です。映画監督は錬金術師ではない。にわとりの糞から金を作り出すことなんて不可能なのだ。」(ビリー・ワイルダー)~



多くの映画ファンは、ビリー・ワイルダーの映画を絶賛している。主としてコメディ的な演出、その上手さに、感銘を受ける。三谷幸喜など、ことあるごとにビリー・ワイルダーを持ち出す。なぜ、ビリー・ワイルダーは後世の映画関係者や映画ファンをひきつけるのか。

ビリー・ワイルダーは、ナチスから逃れオーストリアからアメリカに亡命した。

映画監督になる前は、映画の脚本を数多く執筆している。エルンスト・ルビッチに『青髭八人目の妻』(1938)『ニノチカ』(1939)の脚本を提供し、ハワード・ホークスには『教授と美女』(1941)の脚本を書いている。『教授と美女』は、辞書を作るために外界から遮断された世界で研究に専念する8人の教授たちの中で一番若いゲイリー・クーパーのもとへ、スラングに詳しいダンサー実はギャングの情婦であるバーバラ・スタンウイックがその書庫に侵入してくる。ドラマ展開として、これほど見事な設定はないだろう。このように脚本家として注目される存在となった。やがて自分が書いた脚本を、自ら監督することになる。後にゲイリー・クーパーは、『昼下りの情事』(1957)に、バーバラ・スタンウイックを『深夜の告白』(1944)で起用することに繋がった。

 

映画第一作『少佐と少女』(1941)は、30歳のジンジャー・ロジャースを12歳の少女に変身させる。意表をつく設定であり、それが成功しているのだ。ジンジャー・ロジャースといえば、フレッド・アステアとのコンビで流麗なダンスを披露した大女優だった。


『熱砂の秘密』(1943)は、第二次大戦中のエジプト砂漠で、ナチスと戦う人々をリアリスティックに描いた。映画製作は戦争中だが、戦後から見た世界のように見える。エーリッヒ・フォン・シュトロハイムロンメル将軍は、他の誰よりも存在感を放出していた。

 

 

『深夜の告白』(1944)は、フィルム・ノワールという言葉が使用されていない時代に、レイモンド・チャンドラーが脚本に加わり、スピーディに展開される。冒頭フレッド・マクマレイが録音機に向かって吹き込んでいる。録音の相手は、保険会社の上司エドワード・G・ロビンソンに向けてである。バーバラ・スタンウイックとの関係の清算を報告する。

 

 

『失われた週末』(1945)はアルコール中毒の作家志望者レイ・ミランドが酒を求めてさまよう週末を描いた作品。内容としてプロットのつじつまが合わない点があるも、失われた週末部分を、「THE Botle」というタイトルの小説に仕上げることで、それが結果として出来上がったのが、この映画になっている。何よりアル中患者を更生させる恋人ジェーン・ワイマンの存在が大きい。


異国の出来事』(1948)は、戦後の荒廃したベルリンに駐留する米軍を訪問する女性議員ジーン・アーサーが、当地で出会うマルレーネ・ディートリッヒと彼女の愛人となっているジョン・ランドの三角関係は見かけの表層で、ナチスの大物の情婦だったディートリヒから、大物ペーター・フォン・ツェルネックを逮捕することがアメリカ駐留軍の目的であった。

 

 

サンセット大通り』(1950)はワイルダーの代表作の一つで、かつての大女優グロリア・スワンソンと、二流脚本家ウィリアム・ホールデンに、執事エーリッヒ・フォン・シュトロハイムが絡む、壮大な演劇的悲喜劇ともいうべき作品。

 

『地獄の英雄』(1951)は、NYの新聞社を追われたカーク・ダグラスが地方新聞社に就職し、そこで、一人の男が洞窟に閉じ込められていることが分かり、これを事件としてスクープし、山頂から掘削する方法をとったのだった。

 

 

第十七捕虜収容所』(1953)は、戦争捕虜収容所ものだが、基本はコメディだ。ウィリアム・ホールデン日和見な捕虜役を演じ、捕虜の中にスパイがいることを知り、ドン・テイラーの中尉を救済するために、一芝居打つ仕掛け。

 

 

『情婦』(1957)は法廷ものとして、最高級の傑作であることは誰もが認める完璧さに収まっている。老弁護士」チャールズ・ロートンが心臓病を抱えたままで自宅兼事務所に帰宅する。付き添う看護婦は、事実上の妻エルザ・ランチェスターが演じていて、二人のやり取りは絶妙の掛け合いになっている。やがて、殺人事件の犯人として訴ええられたタイロン・パワーが弁護依頼人として登場する。タイロン・パワーの妻マルレーネ・ディートが、一芝居打つ。裁判映画の醍醐味が味わえる。あのヒッチコックを超えたと評価された一作。

 

 

コメディの傑作『麗しのサブリナ』(1954)『七年目の浮気』(1955)『昼下りの情事』(1957)、『お熱いのがお好き』(1959)『アパートの鍵貸します』(1960)については、あまりにも多くが語られている。付け加えるべき、新しき言説など持ち合わせていない。まぎれもなく傑作だのだから。

 

ワイルダーの二本の映画のなかで、オードリー・ヘプバーンは、この世の女性を演じるおとぎ話の王女を演じた。「かわいいオードリー以上に完璧なシンデラはあり得ないよ。彼女は崇敬に値した。どんなことでもらくらくと優雅にこなしていた。オードリー・ヘプバーンには演技を指導する必要はなく、いいヒントを与えるだけで良かった。(162頁『ビリー・ワイルダー生涯と作品』)

マリリン・モンローについては、以下の記述が」ある。

思うに、モンローの大きな秘密は、ただ単に存在していることができ、「みんなどうしてじろじろ見るの?」と不思議に思っていることにあった。この点で彼女はおそろしく純真だった。・・・(中略)・・・難しかったのは、とにかく彼女をセットに連れてくることだった。あとは彼女が台詞をしゃべれることを祈るだけである。(450,452頁『ビリー・ワイルダー自作自伝』)

彼女はせりふを憶えようとしなかった。まったくひどかった。そのあと三十テイクめにようやくせりふをいうんだが、それは誰にもまねのできないくらいすばらしかった。(165頁『ビリー・ワイルダー生涯と作品』)

 

 

ビリー・ワイルダーは、最初の監督作品『少佐と少女』(1942)以来、『ワン・ツー・スリー』(1961)までの16作品はいずれも、完成度が高い素晴らしいばかりだ。ただし、『皇帝円舞曲』(1948)だけは、ビング・クロスビーのミュージカル作品として失敗作なのでランキングから除外した。


以下に、<暫定ランキング>を記載するが、第17作以降では、『フロント・ページ』(1974)と『シャーロック・ホームズの冒険』(1970)、『悲愁』(1978)の3本のみを入れた。

最後の作品『バディ・バディ』(1981)が最後の作品となり、以後2002年、95歳で他界するまでの23年間、映画を撮ることはなかった。ビリー・ワイルダーへのインタビューなどは、監督引退後になされたものである。偉大なハリウッド監督・脚本家であったビリー・ワイルダーの早すぎる引退とその後の日々は、書物から伺うことができる。以下、三冊を参考文献として挙げておく。

 

シャーロット チャンドラー 著,古賀弥生訳『ビリー・ワイルダー (叢書・20世紀の芸術と文学) 』(アルファベータブックス,2012)

キャメロン クロウ著、 宮本高晴訳『ワイルダーならどうする?―ビリー・ワイルダーキャメロン・クロウの対話』(キネマ旬報社,2000)

 

 

ヘルムート カラゼク 著、瀬川裕司訳『ビリー・ワイルダー自作自伝』(文藝春秋,1996)

キャメロン クロウの『ワイルダーならどうする?』が一番面白く、かつワイルダー作品に迫っている。

 

 

以下は、とりあえずの私的ランキング。

 

暫定ランキング
1.『サンセット大通り』(1950)
2.『情婦』(1985)
3.『お熱いのがお好き』(1959)
4.『地獄の英雄』(1951)
5.『アパートの鍵貸します』(1960)
6.『麗しのサブリナ』(1954)
7.『深夜の告白』(1944)
8.『少佐と少女』(1942)
9.『ワン・ツー・スリー』(1961)
10.『昼下りの情事』(1957)
11.『失われた週末』(1945)
12.『第十七捕虜収容所』(1953)
13.『熱砂の秘密』(1943)
14.『異国の出来事』(1948)
15.『翼よ! あれが巴里の灯だ』(1957)
16.『七年目の浮気』(1955)
17.『シャーロック・ホームズの冒険』(1970)
18.『フロント・ページ』(1974)
19.『悲愁』(1978)

 

..................................

番外.『皇帝円舞曲』(1948)

 

 

森田芳光の・ような映画監督は今後出てこないだろう

森田芳光全映画


宇多丸、三沢和子編『森田芳光全映画』(リトルモア,2021)を読了した。
ひとりの映画作家の全作品を解題する書物は、めずらしいことだ。自主映画から始め、どこの映画会社にも所属せず、助監督修行もなく、自ら自分が撮りたい映画で出発する。撮影所システムが終了し、一作ごとにスポンサーを見つけ、いつの間にか森田組が出来上がっている。映画界における異端児でありながら、最後の作家的映画監督といわれる森田芳光について、製作された映画に即して、パートナーかつプロデューサーであった三沢和子さんの<ことば>は、理解の手助けとなっている。

 

 

 

家族ゲーム』(1983)から『僕達急行 A列車で行こう』(2012)までほぼ同時代公開作品として森田作品を見てきた者にとって、全作品解題という快挙につきあわないわけには行かない。
森田芳光は、商業映画第一作『の・ようなもの』を撮り、『僕達急行 A列車で行こう』(2011)の製作後、急逝してしまった。本書は、自主製作『ライブイン茅ヶ崎』(1978)から『A列車で行こう』までのすべての映画について、監督の伴侶であった三沢和子と宇多丸が全作品を解説するという画期的な映画本になっている。

 

本書は、映画青年であり素人が8mmのキャメラを回して、友人・知人たちをに出演依頼し、映画として成立させる。映画撮影所システムの崩壊までは、特定の映画会社の社員となり、助監督修行により、キャメラ撮影、セット美術、照明、編集などを経験した後に、晴れて監督に昇進し、映画を撮るのが一般的スタイルだった。

 

ところが、森田芳光は撮影所システムを経験することなく、自主映画『ライブイン茅ヶ崎』を撮り、親から借金をしてデビュー作『の・ようなもの』(1981)を製作する。その後、日活で『(本)噂のストリッパー』(1982)『ピンクカット 太く愛して深く愛して』(1983)2本のプログラム・ピクチャー製作経験を経て、代表作となる『家族ゲーム』(1983)で全国区に進出した。撮影所システム崩壊後の、映画好きの青年が、映画監督進出したモデルケースを実践したのだった。

 

森田芳光 全監督作品コンプリート(の・ようなもの)Blu-ray BOX(完全限定版)』が12月20日に発売予定である。全作品とあるが、『そろばんずく』のみが版権者が拒否したようで、全作品マイナス1本という形にならざるを得ない。『そろばんずく』の製作はフジテレビ、ニッポン放送となっている。とんねるず主演の映画だが、とんねるずには当時のギャグを封じたとされている。なぜ、『森田芳光 全監督作品コンプリート』への収録に許諾しなかったのか。必ず後悔すること*1になるだろう。


全作品を見直す余裕はないので、とりあえず未見の『未来の想い出 Last Christmas』(1992)を見る。なんだかコマーシャルフィルムのようだ。森田的世界の逸品というところか。工藤静香清水美砂の二人の女性が、1981から1991の間を往復するタイムスリップもの。突然の死により10年間を生き返すことになった二人。三度目の正直を愚直に反復している。映像と音楽に酔えるかどうかが鍵となる。ディビッド伊藤と和泉元彌を起用。当時の二人はメジャーではなかった。その慧眼を評価すべきだろう。

 

未見の作品『悲しい色やねん』(1987)は、ジャンルもの<やくざ映画>へ挑戦した作品。道頓堀の美しい夜景シーンが、シークエンスの転換時に挿入される。中村トオル高嶋政宏が友人でありながら敵対せざるを得ない状況への描写。藤谷美和子のクレイジーな役柄や、ボスの小林薫江波杏子がいつもクッションの良いソファに横たわっている光景などいかにも森田芳光作品らしい。<ジャンル映画>からのはみ出しぶりも秀逸だった。

 

もう一本再見したのが『39 刑法第三十九条』(1999)。かつて見たときよりシリアスな映画だったことに驚いた。森田芳光は、同じような映画は二度と撮らないので、ミステリアスで問題を含む刑法39条に着目した点、論点の運び方、俳優を個性化することなど、実に優れた監督であることを再発見した。鈴木京香の精神鑑定士を見た目で造形している。刑事役の岸部一徳のいつもにやけた顔、検事の江守徹はぼそぼそ小声で話すなど。犯人役が堤真一だったことは意外な発見。当時はまだ無名だった。

 

更に一本『キッチン』(1989)も見直した。市電が通る札幌の街の夜景が美しく、とりわけ緑に光る電車周辺の光景を背後にして、川原亜矢子と松田ケイジのさらりとした関係描写、松田ケイジの父親でありながら母として存在する橋爪功。モダンなキッチンの設定にも、森田監督の意図がみえる。

 

一作ごとに作風が変わるので、森田芳光のスタイルだの作風として一言に凝縮することは困難である。ただ、常に斬新なアイデアとスタイルの先取りが結果的に成功へのキーワードであったことは確かだ。

 

 

とは言っても、『家族ゲーム』(1983)と『それから』(1985)が森田監督を周知させた代表作となるだろう。現時点の私的ベストテンを作成したみた。

 

 

1.『それから』(1985)
2.『家族ゲーム』(1983)
3.『(ハル)』(1996)
4.『39 刑法第三十九条』(1999)
5.『阿修羅のごとく』(2003)
6.『間宮兄弟』(2006)
7.『ときめきに死す』(1984
8.『の・ようなもの』(1981)
9.『黒い家』(1999)
10.『キッチン』(1989)
11.『わたし出すわ』(2009)
12.『武士の家計簿』(2010)
13.『僕達急行 A列車で行こう』(2012)
14.『サウスバウンド』(2007)
15.『椿三十郎』(2007)
16.『おいしい結婚』(1991)
17.『失楽園』(1997)
18.『メイン・テーマ』(1984
19.『未来の想い出 Last Christmas』(1992)

20.『悲しい色やねん』(1987)
21.『海猫』(2004)
22.『模倣犯』(2002)
23.『愛と平成の色男』(1989)

【補足1】

『そろばんずく』(1986)は、『森田芳光 全監督作品コンプリート』に版権所有者が許諾を与えなかったので、ランキングから除外した。とんねるずに敢えて当時の持ちネタ・ギャグを封じて今なお新鮮な見方ができるフィルムであるからこそ、番外としたい。

 

【補足2】

脚本森田芳光、監督根岸吉太郎『ウホッホ探検隊』(1986)を見ていると、十朱幸代と男の子二人の家庭に、単身赴任中の夫田中邦衛が訪ねてくる。父親が帰るというより他者の侵入というイメージだ。実際、田中邦衛は職場の女性藤真利子と不倫関係にあったことが後に分かることになる。この家族の雰囲気、単身赴任先の企業の仕事は不気味だ。この雰囲気、このニュアンスは紛れもなく森田芳光の世界であると感じさせる。

 

【補足3】

森田芳光は、優れた映画監督であった上に、新人発掘にも大いに貢献している。
監督としては、『バカヤロー』シリーズで、堤幸彦岩松了中島哲也篠原哲雄、明石知幸、太田光山川直人等々。俳優として、鈴木京香を最初に出演(『愛と平成の色男』)させている。また塚地武雄を『間宮兄弟』で初めて映画出演させたことも特筆に値する。NHK朝ドラでブレイクするはるか前、鈴木亮平を『椿三十郎』でデビューさせている、など枚挙にいとまがないほどだ。

『の・ようなもの』では、主演の伊藤克信、若手落語家の一人に<でんでん>、オバサンディレクターに鷲尾真知子落研高校生に江戸はるみが、それぞれ映画デビューになる。石田ゆり子は『悲しい色やねん』で、中村トオルの恋人役で映画デビュー、伊東美咲は『模倣犯』で山崎務の孫娘役で映画デビュー、唐沢寿明は『おいしい結婚』でヒロイン斉藤由貴の恋人役で映画デビュー、木村佳乃は『失楽園』で役所広司の娘役で映画デビューしている。

参考文献:『森田芳光組』(キネマ旬報社,2003)

 

 

*1:『そろばんずく』はコメディの傑作であり、その功績は、監督森田芳光によるものである。映画の基本を忘れた「とんねるず」には大馬鹿野郎と言っておきたい。『そろばんずく』は、今後一切DVD等で発売せず、廃盤にすべきだ。