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純丘曜彰 Teruaki Georges Sumioka の鏡 このページをアンテナに追加 RSSフィード

13. December (Tue) 2016

ヨーロッパのクリスマス回帰

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 日本では最近はコカコーラすらクリスマスCMをやらない。が、ヨーロッパでは、例年、12月、待降節を過ぎるとテレビクリスマスCMが腕を競う。日本と同じ30秒というものもないではないが、より長い3分もあるCMもあるので、ドラマ仕立てで、しっかりしたものが出てくる。家で更新するベンツなどの車、プレゼント用の高級ブランドだけでなく、デパートスーパー、そして携帯電話屋、電気屋など、いろいろなところが自信作を出す。

 米国アマゾンは、高齢神父のところを友人で、やはり高齢ウラマーイスラム指導者)が訪ね、おたがい相手を思って膝のサポーターアマゾンから贈る、というのをやっているが、ぎりぎりの線をすりぬけている。ユダヤ教ハヌカーがすっかりクリスマス化してしまったが、イスラムはあいかわらず基本的にはクリスマス否定している。だから、あくまで冬の友人同士のプレゼント

 米国マクドナルドは、おもちゃ屋の売れない人形の話。これも、おもちゃ屋はクリスマスだが、むかいのマクドナルドは、いろいろな人種宗教世代の人々が楽しげに集っている。とにかく気をつかう。

 一方、ヨーロッパの方は、クリスマスらしさが露骨になってきている。もともと、家族がみんなひさしぶりに顔合わせする、という米国風クリスマス風景が多いのだが、あまり人種宗教配慮は無い。フランケンシュタインiphoneクリスマスソングを覚えて町に降りていくというスイス舞台としたCMが出色だが、これだけ移民がいながら、フランケンシュタインまで出てきても移民はまったく出てこない。

 英国米国にかぎらず、どこの国も内向き、家族主義回帰してきている。それは同時に移民排除でもある。そもそも、情報社会とともに発展したグローバリズムが、近くの隣人より遠くの友人、だった。しかしいま、逆に、グローバリズムから落ちこぼれた隣人たちが遠くの親族とつながって、グローバルな根無しの連中を排除し始めた。時代は直進しない。ときにふしぎな方向へ折れ曲がっていく。

01. December (Thu) 2016

ASKAの東京オリンピック2020テーマ曲

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 28日月曜の『ミヤネ屋』で井上公造が本人から送られてきたと言って音源を流してしまった。やつに渡す以上、機会があったら流してくれ、というのが、もともと含意されていた、というところだろうが。

 長調単純和音アウフタクトで4度入り、ファミレー、ファミレファー、コード違いでリフレイン、次にサビで短調に上へ飛んで、またファミレで原調へオチ。ミニマムで、よくできているじゃないか。コードの変えたところ、サビの締め付けるような短調への飛びも、ASKAらしい。べつに正規に依頼を受けて作ったわけでなし、まして再逮捕となると、絶対に本番のオリンピックで使われることはないだろう。

 だが、これは、絶対に、はやる。一発で覚えられるし、耳で音符まで見える。本人が逮捕されて、彼に代わってだれもその著作権を主張したりしないだろうから、これからyoutubeでやりたい放題。もとがモティーフとしての骨格構造がしっかりしているので、シンフォニックでも、マーチでも、アンセムでも、スカでも、なんにでもなる。歌詞がついていないから、かってに歌詞がつけられる。

 リズムに乗せないとメロディができない桑田宇多田では作れないスタイルメロディメーカー小室哲哉嫉妬しそうだ。もうASKAはとうぶん出てこられないだろうから、実質的には彼の最後の曲になるだろう。しかし、これがはやってしまうと、これを越えるものを作る方が難しい。千住か、葉加瀬か、服部あたりがやるのだろうが、たいへんだ。

22. November (Tue) 2016

ミステリの二重構造と第四者

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 ミステリはかならず二重の構造を持つ。1つは隠すべき物語、そして、2つめはその綻びを繕う物語。デテクティヴが追う殺人事件は後者。しかし、べつに殺人でなくても、失踪でも、なんでもかまわない。とにかく不可解な出来事があり、そのハウダニットフーダニットが問われる。そして、ほんとうのミステリは、そもそもなぜ不可解な事件が起こったのか、ワイダニットの方にある。

 かんたんに言えば、隠されてきた物語があり、それはずっと隠され続けてきたし、今後も未来永劫に隠され消えていくはずだった。ところが、それが予想外の出来事が起きて、表に出てきそうになる。それで、それを隠すために殺人事件が起こる。いや、逆に、この機会に一気に暴き立てるために、かもしれない。前者は先の悪人悪事を重ねるもの、後者は先の被害者復讐するものになる。

 つまり、事件は、事件以前に起こっている。こっちこそがほんとうのミステリ。それは、ときには当事者の間では周知の物語かもしれない。それを第三者善意で、もしくは知らずに開いて、のっぴきならなくなってしまうことで、トラブルに巻き込まれる。これを解決しようとするデテクティヴ(探偵刑事)は、第四者ということになる。

 読者ないし観客は、この第四者とともに知見を得ていくことになる。しかし、第四者は、表面的なトラブル解決しようとすることにおいて、同時に始まりの物語の方を暴き立ててしまうことになる。つまり、第三者以上に問題の核心に踏み込んでしまう。ただ好奇心だけで、というのは、人物描写として弱い。ホームズにしても、ルパンにしても、マーロウにしても、金田一にしても、本人自身に別の始まりの物語が透けて見えているからおもしろい。

20. October (Thu) 2016

原恵一『百日紅』のこと

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 うちの学生、数百人に見せたが、かろうじて半分くらいがどうにか、というところ。後は筋が追えない。まあ、芸術系大学と言っても、なんの芸術とも縁の無い、芸術というものを商品として消費するだけの連中が、もともと半分以上。世間よりまし、という程度なのだから、まあいい方か。

 見た目で、アニメだ、などというと、とにかく取っつきが悪い。いわゆるアニメを嫌う原恵一。画法はアニメながら、思いっきりアニメ文法否定している。記号的な喜怒哀楽の表情、表現をすべて無くしている。徹底的に無表情で無口。杉浦日向子原作からして、記号的な、いわゆるマンガではなかったし、そこが大人に受けた。映画になったら、最後の走るところ以外は、起伏も無い。ただ淡々とエピソードが進む。つまり、クレショフスタイル。観客の側が、その無表情、無動作、無説明の向こう側の流れを追わないとわからない。しかし、残念ながら、映画の観客、とくにアニメだと思って食いついてくるような観客は、そんなに映画リテラシーが高くない。表情とセリフで、昔の村芝居のように大げさに劇中劇として全編を語り直さないと、わからない。

 そんな作りでも、うちの学生の何割かはきちんと全体の筋を追えただけたいしたもの。表面的には、原作エピソードの5つくらいを使い、それにその他のエピソードのシーンをすこし割り込ませてある。原恵一が全体の流れを意図したかどうかはともかく、これらのエピソードやシーンが選ばれてきたのは、これらそのものが内的連関を持っているからだ。

 全体を貫いている筋は、北斎という画家盲目の末娘に会おうとしない、という問題だ。そこには深い内面的な葛藤がある。だが、北斎は、いっさい説明などしない。オレ様のバカな観客は、なにを考えているか、わからない、ということで、ここでこの肝心の主軸を切り捨ててしまうから、どうしようもない。こんな内面の深い葛藤を抱えている北斎を側で追うのが娘のお栄。表面的な意味での「主人公」。だが、これはじつは観客のアバターにすぎない。そして、じつはもう一方のメインは、末娘のお猶。それこそ子供だから、いっさい内面説明したりしない。しかし、このお猶の方も、父、北斎に会おうとはしないのだ。

 見た目の筋としては、北斎とお猶の間をいったりきたりして、お栄が両者を取り持とうとしている。だが、大きな筋としては、むしろお栄の方が、二人の間に入れない「あきめくら」だったことを思い知らされる、という話。お栄は、父、北斎の下で絵を描くが、北斎模倣ばかりしている。また、お猶のところへ行っては、風景も何も言葉説明してやる。お栄は、宮崎の『千と千尋』の顔無しと同様、原恵一が嫌うアニオタそのもの。けっして芸術家世界には入れない。

 お栄はやたら目がでかい。瞬きもしない。見れば見えると思っている。お栄は降りてくる龍を必死にとらえようとするが、北斎はそんなことをするまでもなく、腹に龍を飼っている。お猶も、心の中に地獄の闇がある。お栄は、お猶に触れ、それを地獄絵にしてしまうが、投げ出しっぱなしで、北斎が手を加えないとならない。重要なのは、手のエピソードだ。遊郭に閉じ込められている花魁の首が伸びる、というのを見せてもらおうと、北斎も、じつは自分も「めくら」の手が伸びる、と、語る。たんなる思いつきだ、と北斎は言うが、お猶の病状が悪化して、北斎がとうとうお直を見舞ったとき、手を北斎の顔に伸ばすその手は、まさにその「めくら」の手。北斎は、会わなくても、お猶の闇の世界を見ていた。そして、その闇の世界を見ていたからこそ、会うのを恐れていた。生まれながらの病気は治らない。救いの無い地獄。仏が人々を踏みつぶして行く。だからこそ、北斎自分がそこに降りて、なんとかお猶を救おうとする。

 「あきめくら」のお栄は、お猶を哀れむ。だが、お猶が言う蚊帳の上のカマキリを見て、お栄は、ようやく自分の方が見えていなかったことに気づく。北斎やお猶が見ている、目で見ない世界。心の内側をのぞき込むような視覚。お猶が死んで、お栄は駆け出すが、北斎は座っている。腹にお猶が生きているから。百日紅の花ひとつ、畳の上にあって、北斎はそれに話しかける。自分で来れたじゃないか。さんざん、自分の絵を描け、と言われていたお栄も、自分の中にお猶が見つかる。そして、それを絵にする。

 体験しなければわからない、って、男娼を買いに行ったお栄はすごいと思いました、みたいな、思いっきり勘違いした感想も続出する。見ればわかる、というのが、間違い。男娼を買ったところで、お栄の絵はやはり、心底から女好きの、絵の下手な善治郎にすらかなわない。目で見るのではない、広大な世界。それはときに闇の地獄。死んだお猶を腹に生かしている以上、北斎死ぬわけにはいかない。しかし、それもまた仏が踏みつぶして行く。

 百日紅。夏の間、咲きほこる。しかし、夏が終われば夢まぼろし。原作は、杉浦日向子がまだお栄と同じ年代だったころの作品自分がまだ北斎の見ている世界を見えないことを知っていたのだろう。百日紅は、あの江戸幕末、そしてお猶。一方、原はむしろ北斎の年代だ。見てしまった世界を見えない連中に伝えたいと思ったのか。残念ながら、あまりうまくは行かなかったようだ。

02. October (Sun) 2016

弦楽器はなんでもあり

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 ヴァイオリンなんて、完成された楽器、だと思っていた。なにしろモノが高いし、たとえ新作でも骨董品のごとく大切に、というのが相場だった。ところが、この十年来、中国製で1万円台のが大量に出現。これに追随して日本製米国製でも、わけのわからないものがいろいろ出てきた。

 もともと弦楽器は、たしかに脆い。ピアノのように鋼鉄のフレームならともかく、たいていが木製だ。そこにガットで何本も弦を張るのだから、その張力で限界ぎりぎり。弾き終わったら、そのつど、緩めておいてやらないと、ネックが曲がってしまう。ところが、エレキでソリッドが出てきたあたりから、やたら強いのが出てきた。ネックにトラスロッド鋼鉄棒)なんていうのが入っている。それで、ヴァイオリンでも、エレキソリッドでいいじゃん、なんていうのも。さらに、そんなに強いんだったら、下G腺の下に下C線を張って、ビオラ兼用の5弦にしよう、なんていうのも。市販のモノもあれば、かってに改造しているのも。もとが安いから、けっこう大胆なことをする。

 ウクレレギター境界も、わけがわからなくなってきた。ウクレレは、GCEAで、アップでもダウンでもコード弾きが同じように響くのが特徴だが、これでメロディを弾くには、音域がソプラノリコーダ並みに狭い。そこで、Gを下Gにしてしまう人が続出。これでも、コードの抑え方は同じだからね。おまけに、およそ1.5倍にサイズアップして、それでもソプラノと同じ下GCEAにキンキンにチューンするテナーウクレレなんていうのが出てきて、でかい音を出す。逆に、ギターでも、ヤマハまでが「ギタレレ」なんていう、ギターを5フレットに詰めた小さいものが売り出した。

 ただヴァイオリンウクレレギターとで決定的な違いになっているのが、弦の音程間隔。ヴァイオリンは、たとえ5弦でも、下C下GDA上E。ウクレレは、下GCEA。ギターは、下下E下下A下D下G下BE(譜面オクターブ上に書く慣習)。つまり、ヴァイオリンは5度、ウクレレは4度、ギターも4度(GBが3度)。これは、おそらくヴァイオリンソロで音域優先なのに対し、ウクレレギターコード弾きの都合で、5度だと、指4本でコードを処理できない、という事情によるだろう。

 とはいえ、多重録音の昨今、ウクレレを5度で張って、上をヴァイオリンと同じ上Eに張ってソロ用にすることも、理屈では可能だ。ただし、ヴァイオリンの場合も、上Eは、巻き無しの鋼鉄線を使っている。ウクレレだと、上Eの太さは、同じテンションで張る場合、計算上は、第2弦(細い方から数える)のEの半分の重さ、つまりルート2で割った直径のものということになる。フロロカーボンなら、この細さのものでも、そうそう切れることはないが、弦が軽くなればエネルギー量も減るわけで、音量が確保できるかどうか。ヴァイオリンなら、弓の圧と早さで音量を確保できるが、ウクレレは弾く強さを極端に強くしなければならず、そうなると、こんどは音程が怪しくなって、それも高い音でのズレは大きくなり、かなり難しいかも。

 逆に、ヴァイオリンのコマを取ってしまい、4度チューンにしてコード弾きする「ヴァイオレレ」もある。ウクレレにガット弦で弓で弾く「ウケリン」も。最近は、ギターをそのまま小さくしたような「ウスレレ」も人気だ。そこらの木製の空き箱にネックさえつければ、なんでも楽器になる。それも、フロロカーボン釣り糸が驚くほど品質が良くなっているので、でかいのでも、ちいさいのでも、弦の太さも、長さも、やりたい放題。

 ハープリュートも、もとをたどれば、けっこうでたらめな規格だった。それが、材質や弦の都合で現在のものに淘汰されていただけ。材質や弦が自由になれば、可能性は広がる。ゲテリン、ゲテレレなどバカにする人、自嘲する人もいるが、昨今、フルート金属製が主流だし、弦もガットなんか使っている人の方が珍しい。ギターも、クラシックよりソリッドエレキの方がはるかに数が多い。音の可能性は、未来に開かれている。

10. September (Sat) 2016

サンダーバードS号、であるか。。。

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 この番組、いったいいつやるんんだか、わかんないよ。不定期放送って、あえて見せたくないんだか。制作が間に合っていないなら、月2回、第一、第三土曜、とか、決められないものかね。そもそも、教育ではなく総合で流す意味があるんだろうか。それも、この夕方の時間、いつも、すもお、だろ。

 始まるまではすごく期待した。映画版よりオリジナルメカのレスペクトも感じられたし。だけど、S号、ってなんだよ。河森正治だかなんだか知らないけれど、2号をガリガリに細くしてヴァルキリーで割ったみたいな、安直なデザインって、見たら興ざめ。60年代っぽさが無いから、全体から浮いているし。サンダーバードメカの精神理解していない。いっそゲッターロボ3号やエルメスみたいな、空力学的にどう見てもおかしい空飛ぶハンドロボットとか、アナクロなのがサンダーバードなのに。

 話はいよいよね。もともとサンダーバードは、救助隊のくせに、当時の国際スパイものを取り込もうとして、わけがわからなくなった、という経緯がある。その意味では、映画版の方が、そのあたりの裏の面倒くささを理解していたように思う。しかし、今回のシリーズ、そこが矮小化されて、『スターウォーズ』の親子喧嘩と並ぶジェフ家とフット家の争いに。これですでに第3シーズンまでひっぱることが決まっているようだが、アニメと同じで犬などからの世界出資が決まっている、というだけで、作りたい話があるわけじゃなさそう。『猿の惑星』の背景の黒人問題と同様、当時のブリテンインド人問題、没落する大英帝国未来のあり方、などなど、その根底にある時代問題まで目を向けないと、浅薄なものになる。 『ヤマト』のリメイクもそうだったが、ファンダムというのは、結局、表面しか見ていないから、時代がずれても、ファンでいられるのだろう。

 なにを考えているのか、これと平行して、『サンダーバードオリジナルの続編の企画も進んでいるとか。キャラやメカだけでなく、作り方そのものも当時のまま。『スマイル』の事情と似ている。研究者が深みにはまって、完璧に再現することそのものが目的になっている。すごいでしょ、って言われると、そうなの? と思う。『シン・ゴジラ』は、ゴジラである、ということにおいて、オリジナル意味、56年当時の日本危機感を徹底的に再現した。見た目の再現なんかはついでの話だ。

 うちの両親も、成城東宝スタジオで、あの最初の『ゴジラ』の製作の手伝いをした。あれは怪獣映画なんかではなかった。シンボリックな核兵器放射能危機感暴走する科学技術の恐怖。繰り返し、スタジオのそこかしこですぐ議論になる、作品を作る意義を聞いた。あのころは、東宝でも、円谷でも、若手の芸術家たちが真剣に未来を考え、映画テレビという大衆文化の中で、真剣に考えたメッセージを伝えることに腐心していた。その後の、ちゃらいだけの怪獣映画なんかといっしょにされてはたまるまい。

 『サンダーバード』も、最初の月着陸を果たした米人ジェフ・トレーシー大佐土木事業で巨万の富を築いた後に、自分の使命として国際救助隊を作った。その姿は、大英帝国そのものと重なる。すでに英国宇宙開発の力を失い、その一方で、左翼が台頭し、資本主義金融拠点(当時のWTCのようなもの)として、中ソ共産主義ミサイル攻撃の脅威にさらされていた。財産技術はありながら、すでに終わった人間、もはや最先端ではありえない人間がなにをすべきか、それがサンダーバードだった。

 新テレビシリーズジェフがいないのは、まさにシンボリックだ。メカだけがあるが、この兄弟、なんのために、なぜこんな南海の孤島にいるのか、だれも考えていない。ゲデヒトニスみたいなのがお友達で、全員がドロッセルみたいに走り回っているが、やるっきゃない、とか、どこぞの政治家みたいな硬直した消化主義で、その時々の仕事をやっているだけ。まるでアルバイト店員。なぜサンダーバードなのか、こいつらにはわかるまい。

25. August (Thu) 2016

ロバート・マッキー氏の新著『ディアローグ』

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 手づから送っていただいた。恐縮至極。さっそく読み込んでいる。オースティン日常言語学派のスピーチアクトの概念を拡張し、映画だけでなく、小説演劇対話の深層を分析している。もちろん、後期ヴィットゲンシュタイン言語ゲームというコミュニケーションの考え方はあるのだが、あれは静的で固定なルールを背景にしている。それに対して、マッキーは、ビートという概念で、アクションとリアクションのコンフリクト、むしろルールの主導権争いこそが、対話本質だ、と考えている。

 例に挙げられているのも、『ジュリアス・シーザー』や『ギャッツビー』から『ザ・ソプラノズ』まで。あの年で、近年のものもフォローしているのは、すごいと思う。たしかに、昨今の米国テレビのミニシリーズは、ピンポン曲芸のように饒舌で、その対話の中で局面がどんどん変わっていく。かつては暴力エロ麻薬のシーンが問題になったが、いまは、その会話の過激なやりとりのせいで、批判を浴びることもある。だが、その速射砲の応酬のような攻撃的な対話がウリなのだから、御意見上等というところか。

 とはいえ、個人的には、もう食傷気味。どれでも、同じようなノリ。やたら喋り捲るが、シーズンが終わっても、結局、なんにも話が進んでいない。思わせぶりなセリフの伏線の謎だらけで、次回へ、次シーズンへ引っ張るだけ引っ張るのだが、次回、次シーズンを見ても、すこしも変わらない。『バーン・ノーティス』なんか、なんとか第7シーズンで終わったが、ほんとにおもしろかったのは、第1シーズンだけかも。そのあとは、主要メンバーの親戚家族の紹介が延々。そんなの見る方も見る方だが、フィオナの雨蘭咲木子吹き替えは悪くなかった。

 なんにしても、アカデミック分析哲学がいまだに半世紀以上も前のスピーチアクト関連の原著概念をこねくり回している間に、脚本を書く、という実践実用の必要から、現場で、どんどんより深い研究と工夫が行われている、という現実はなんとも。日常言語研究なんだから、それは哲学者の本の中ではなく、我々の日常の中にある。研究対象は、図書館ではなく、目の前にある。