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伊藤計劃:第弐位相

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01-30, 2006 残虐行為高層建築

モチは餅屋、空間は空間屋 モチは餅屋、空間は空間屋を含むブックマーク

mixiでアリスリデルさんに教えてもらった。

http://us.imdb.com/title/tt0462335/

ほんとかよ。ナタリでハイ=ライズ。なんだか出来過ぎだ。餅は餅屋か。「CUBE」でも残虐描写やってたから、原作のスプラッタパンクの先駆的な側面も安心できそう。

俺的には「ウォー・フィーバー」収録の「巨大な空間」をフィンチャーあたりに撮って欲しいんですけど。フィンチャーが「宇宙のランデブー」を没らさずに撮っていれば、たぶんクラーク味が消えてバラード味になっていたと思うのだが。「未確認宇宙ステーションに関する報告」みたいな。

そういえば、昨日「ペイル・コクーン」というDVD買いました。一応巨大建築系ということで。

どっちだっていいのだが どっちだっていいのだがを含むブックマーク

いや、やはり言っておこう。こういうのはちゃんとせにゃ(ホントか?)。

http://www.dinos.co.jp/warau/index.html

http://www.dinos.co.jp/defaultMall/sitemap/CSfLastGoodsPage_001.jsp?DISP_NO=005028&GOODS_NO=350007

ムサイ戦艦じゃありません

下に軽巡洋艦って書いてるのになあ。

walkeriwalkeri 2006/01/31 02:31 「巨大な空間」は、引きこもりの人が家から一歩も出ずにどうやって食事をとるかという問題に明確な答えを提示した小説でしたね。実生活で参考にすると大変なことになりますが。

ProjectitohProjectitoh 2006/02/02 12:55 みんな引きこもれば空間がどんどん広く(感じるように)なるので土地問題も解決しそうです。

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01-27, 2006 ガンカタ先生高画質

アルトラバイオレンス アルトラバイオレンスを含むブックマーク

http://www.apple.com/trailers/sony_pictures/ultraviolet/

ソニピクのページですでに出ていた予告編が、QTHD画質で登場のことよ。

あー、低いレートで見てたときは鼻栓とかわかんなかったなあ。

ミュンヘン(2) ミュンヘン(2)を含むブックマーク

萌えポインツ。不謹慎モード。ネタばれ全開。バレてつまんなくなるような映画ではないが。

  • モサド本部っぽい会議室。閣僚や軍人が雁首そろえた会議。老婆(ゴルダ・メイア)が言う。「彼らが共存を拒むなら、我々も共存する義務はない。違うか?」きたああああ。サッチャーといい、インディラ・ガンディーといい、どうして女性の国家指揮権限者はこう右っぽくなるのだろうか。萌え。
  • というか、この冒頭近くの会議が「ミュンヘン」で一番興奮した俺ってどうよ。
  • ゴルダ・メイア役のリン・コーエンの声に痺れる。ドスききすぎの低音が凶悪。
  • 原作のゴルダ・メイア公邸(ふつーのアパートっぽいのがナイス)にはザミールのほかにシャロンもいるんだが、映画には登場せず。ちぇっ。
  • まあ、シャロンはあんなことになってしまったので、出さないという決断は賢明としか言いようがないのだが。
  • ジェフリー・ラッシュ演じるケースオフィサーの小役人っぷりがたまらん。
  • 70年代ヨーロッパを見ているだけでけっこう楽しい。
  • というか、あの時代のラジオの操作盤とか、まあるいブラウン管のテレビとか、小道具類の作り込みが丁寧であればあるほど、「フィクションとしての70年代」という箱庭感が強まってくるのは皮肉としか言いようがないんだが。
  • とはいえ箱庭大好きポンニチのアニオタとしては問題ナッシング。
  • いくつか72年当時にはなかった銃器が出ている気がして仕方がないのだが。
  • パリという風景は「戦後という空間」として固着してしまった空間なのではないか、と思うほど70年代にも60年代にも80年代にも見える。
  • 「飛行機キーン」とか「車でブーン」みたいな都市間の移動カットなしでいきなりパリからアテネに移ってるような繋ぎ方をしているので、混乱する人がいるかも。
  • スイス銀行はスパイの基本です。
  • 暗殺チームでは「掃除人」のシアラン・ハインズが一番いい味出してる。「トータル・フィアーズ」のネメロフ大統領とは別人に見えるな。腹出てるし。
  • マチュー・カソヴィッツを見ると庵野秀明を連想する。
  • 次世代ボンドのダニエル・クレイグは一番陰が薄い。
  • 繰り返すが「70年代西欧という箱庭」を見ているだけで幸福になれる人間には至福の映画といえよう。
  • 「ル・グループ」のルイを演じたマチュー・アマルリックがキャラ的に立ちまくり。犬つれて高級スーツ着て接触してくるんだぜ。
  • 「ル・グループ」の「パパ」って、ルベル警視じゃん。
  • 劇場では誰も笑ってなかったけれど、女装大作戦とか、けっこうギャグがある。
  • CIA連中の中指おっ立てに爆笑。
  • パイプ銃ってものすごく作れそうな気がしてくる。
  • ヘブライ文字ってタイポグラフィ的にかっちょいいな。

70年代のアメリカ政治映画スパイ映画大好きな俺にはツボ押しまくりの至福のような映画でしたが、それ以外の人が楽しめるかどうかはまったくわかりません。

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01-24, 2006 いずこの地で

さすらいびととして死ぬこと さすらいびととして死ぬことを含むブックマーク

追放/亡命とは、もっとも悲痛な運命のひとつである。近代以前の時代において追放がとりわけいまわしい刑罰であったのは、それがただ家族や住みなれた場所を離れ、何年もあてもなく放浪することを意味しただけでなく、一種の呪われた者になることを意味したからである。

エドワード・サイード知識人とは何か」

 あなたは、どこで死ぬだろうか。

 もちろんそんなこと、わかりっこないという人がほとんどだろう。病院のベッドの上で死ぬかもしれないし、明日、車に轢かれてぼろぞうきんのように死ぬかもしれない。通勤電車が脱線するなどとは誰も思っていないけれど、それは起こってしまったし、いまや、都市という、予測し制御しようとする指向の産物のなかに住んでいたって、死のバリエーションは山ほどある。

 だけど、あなたがベッドで死ぬとしたら、そのベッドはどこにあるのだろうか。

 車に轢かれるとしたら、どこの道路ではねられるのだろうか。

宇宙戦争」でスピルバーグ暴力として死を描いた。物理的な現実として、映画的なインパクトとして。それは容赦なく理不尽に襲いくる圧倒的な現実だった。人を等しく襲うものとしての死という暴力だった。多くの人が言っている。スピルバーグ暴力の過剰さ、凄まじさについて。ぼくも「宇宙戦争」のときに書いたし、この「ミュンヘン」でも一応、その容赦ない物理的インパクトとしての暴力はきっちりある。場面は少ないけれど、期待している人はそこらへんはきっちり期待してくれていい。

 けれど、そこで「暴力すげー」では「宇宙戦争」と同じ話で終わってしまう。実際、この映画はその先の領域を描いているのだから。

 その先ってなんだろうか。最後に映し出される在りし日のWTCを以て、ブッシュ批判をすることだろうか。帝国主義を告発することだろうか。

 もちろん、そうであってもいい。けれど、そういうことはラストシーンを見ればわかることだ。そういうのは、いわばプラカードみたいなもので、誰にでもわかるように大きな字で書かれているものだ。多くの人は「そうだろうな」とあらかじめ自分の中にあった同じ結論と同じテーマを再確認するだけだろうし、そうでないひとびとは、抑止力としての暴力を信奉し続けるひとびとは、まったく意見を変えることなく反発するだけだろう。

 というわけで、これから書く話は、政治とはあまり関係がない。

 イスラエルの選手たちは、ミュンヘンで死んだ。暗殺の目標にされるパレスチナ人たちには、そもそも「祖国」がない。そして、主人公のチームは異国である西ヨーロッパで死んでいく。

 この映画は、人の死の物語ではない。人が死ぬ風景についての物語だ。

 客死、という言葉がある。異国で死ぬこと。祖国でない見慣れぬ場所で最後を迎えること。周りには家族もなく、愛する人もいない。その死は徹底的に孤独であり、残酷だ。寂しい風景としての客死。今回、この映画を染め上げる色は、その荒涼とした、孤独の色、寂しさの色だ。

 ターゲットたちは皆、穏やかな人物たちばかりで、とてもテロリズムを指揮している闘士たちには見えない、というのは確かにそうだ。だが、そんな彼らに接して、彼らは殺人の正当性に苦悩するわけではない。罪の意識に苛まれる訳ではない。彼らイスラエルという国家を守るため、愛国心に燃え、祖国のために戦うことについては一点の疑問も差し挟まない。

 問題は、罪の意識がだんだん薄れ、場数を踏むたびに(上がっていく難易度とは裏腹に)ひとごろしが楽しくなっていくことだ。

 ひとを殺すことが、ある種の興奮を呼び起こす娯楽であることを、スピルバーグはこの映画で否定しない。原作を読むと、彼らが自分らの犯した殺人に対して、道徳的観点から苦悩することはほとんどないのだけれど、「わたしは正しいのか」という宣伝コピーや、既に見た人の感想から、てっきり彼らの苦悩が道徳的なものだとばかり思っていた自分は、そこらへん、原作とどう折り合いを付けるのかと不思議に思っていた。何のことはない。けっこう原作まんまだ。けっこう創作した場面があると聞いていたし、オリジナルのシークエンスもあるにはあるが、実際見てみると「改変」の割合は「ブラックホーク・ダウン」より少ない。

 彼らは、道徳的に苦悩するのではない。ではその殺しに、歯止めをかけるのは何か。

 それは、死そのものだ。彼らと、その相手にした者たちが、西欧に描き始めた風景だ。

 倒れていく仲間たち。だがそれは、戦場の「にぎやかな」祝祭的な死とは異なる。ある者はひとりホテルの部屋で、ある者は朝まだき川縁のベンチで、ひっそりとさみしく死んでいる。仲間の誰に看取られることもなく。

 ひとり、祖国を遠くはなれて。

 もちろん、それがスパイという世界、諜報畑の「戦争」の在り方だろう。戦場とは異なる「死」のたたずまいが、そこにはある。この映画に登場する人間は、みな祖国から遠くはなれた風景の中でさみしく死んでいく。

 見知らぬ場所で死んでいく人々。見知らぬ場所で殺されるかもしれない自分。報復が報復を呼び、果てしない循環を描き始めた血まみれの螺旋の中で、主人公はその闘争から「降りる」ことを選ぶ。自分のしてきたことを知りたいか、と主人公は母親に訊く。彼女はいいえ、と言い、そしてこういうだろう。しかし、その苦悩も苦痛もこのイスラエルという土地に見合うためのものだった、と。しかし、そんな母の言葉は、主人公の動機を補強することはない。そして、彼は闘争の原因である「祖国」を捨て、さすらいびととなる。

 さすらいびとたち。自らの国を持たず、永きにわたりさすらいつづけてきたひとびと。主人公の母親の家族は皆、ホロコーストで「消えた」。この戦いの決断を下したゴルダ・メイアはポグロムでウクライナから追い出された。世界中で苦難をなめ、「祖国」で死ぬことを許されなかった多くの「さみしい」骸たち。そして、彼らがようやく手に入れた祖国のために、いま別の人々が祖国を失い、さすらいびととして日々死んでいく。彼らが祖国を失った以上、すべてのパレスチナ人の死は客死である。

 主人公は料理がうまいという設定であり、この映画は食卓のシーンが充実している(「食事」の描写が失われつつある現代映画にあって貴重である)。だが、その食事場面はものすごく恣意的に劇中に配置されている。主人公は、仲間たちと、または「政府、一切の権力に属さない」ヨーロッパの地下情報ネットワークの親玉と、充実した食事を作り、食べる。

 しかし、主人公が祖国で母親と、またはニューヨークで妻と、食事をする場面は一切ない(その不在は意図的なもので、ご丁寧に妻が主人公不在のキッチンについて触れる台詞がある)。

 主人公は確かにモサド工作員かもしれない。しかし彼は作戦遂行にあたって形式上モサドを解雇され、「存在しないこと」になっている。そして彼は表向き祖国に戻ることを許されず、生まれた赤ん坊を見るために、祖国にも身分を偽って潜入する。かれは祖国を追い出された者である。所属せざる者たちだけが食卓を囲み、所属する者たちと食事がともにされることはない。

 この映画が描き出すのは、そうしたさみしい、孤独な、「客死」の風景だ。主人公はラスト、さすらいびとたちが手に入れた祖国からも離脱して、あらたなさすらいびとたちの系譜に加わる。彼は自分が生まれたイスラエルに戻ることはできない。彼と、彼の家族が死ぬとき、それはアメリカという異国での客死になるだろう。

 そのさみしさを、スピルバーグ暴力として描く。

 おぼえているだろうか。「プライベート・ライアン」でドイツ兵がアメリカ兵にゆっくりとダガーを突き刺していく場面を。銃撃という「一瞬の死」のインパクトと残酷さにおいてエポックメイキングとなった「シンドラー」ではあるけれど、この「突き刺し」は引き延ばされた死であり、黒沢清は「スペースバンパイア」の「串刺し」の感動に触れたとき、この「ひきのばされた死」には怪奇映画的な趣があると書いていた。ひとが、ゆっくりゆっくり死んでいくこと。もちろん、スピルバーグもそのことを気にしていないわけではなく、「ジョーズ」のときから何度か試してはいるのだが、その極めつけ、とでもいうべき「引き延ばされた死」がこの「ミュンヘン」には登場する。

 この映画で、一番嫌な気分を堪能(そう、映画とはこのような嫌な気分を『愉しむ』ためにあるのではないかしら?)できるのは、飛び散る頬肉と歯でもなく、天井にへばりついた腕のかけらでもなく(そういうのは楽しいけれど、いままでのスピルバーグから言ったらまったくの想定範囲内だ)、この、長い長い「死んでいく」場面だろう。ゆっくり死んでいく人間を前にして、一発単位でしか撃てないパイプ銃に手間取って弾込めする主人公のおかしさ。そのおかしみが生み出す残酷とさびしさ。この暗殺が行われたボートハウスという風景もまた、さすらいびとのさみしさを際立たせる。ひとりで、異国で、死んでいくこと。家で死ねないこと。家どころか自分の国で死ねないこと。

宇宙戦争」が祝祭としての暴力だとしたら、この映画は「さみしさ」としての暴力だ。暴力が行使される風景のさみしさ。ひっそりと、見知らぬ地で行使される暴力の荒涼とした風景。この映画は「所属せざる人々」の死を巡るさみしさを描き出す。

 見知らぬ場所で、ひっそりと死ぬこと。

 ぼくにとっての「ミュンヘン」は、さまようことについて、そしてさまよいの果てにある客死という風景についての映画だった。

01-20, 2006 怪奇仏像マニア大作戦

ニヤける岸田森 ニヤける岸田森を含むブックマーク

最近、京極作品を集中して読んでいたせいもあって、「姑獲鳥の夏」(すげえ、OSXことえり「うぶめ」一発変換しやがった)のDVDを買ってきた。コメンタリーマニアなので、目当ては当然ソレである。

気になるのは、京極さんがやたら「原口さん」「原口さん」と特殊造型の原口智生さんのことを知り合いのように呼ぶことだ。以前の作品で関わりがあったのかな。この映画で知り合ったのかな、とかいろいろ考えた。京極さん、ラストの館炎上で「呪いの壷」を引き合いに出すので、特撮マニアということも考えられたが(まあ、「妖怪馬鹿」とか読むと実際そうらしい)、どうにもしっくりこない。

あ、妖怪マニアつながりか。原口智生といえば、妖怪だもんな。

というコメンタリーを聞いていたら、急に「怪奇」が観たくなってきてDVDを引っぱり出す。「呪いの壷」の寺炎上は今観ても凄まじすぎる。ていうか、「姑獲鳥」負けてるよ、おい。ちなみに「姑獲鳥」の館炎上のコメンタリーでは、実相寺さんが「呪いの壷」のラストに触れて「(本物かと思った)檀家から電話がすごかった」という有名な逸話に触れておりました。

勢いで「京都買います」をひさしぶりに見る。が、岸田森が終止エロ笑いしているのがおかしくてしょうがない。なんだこれ。昔観たときは「すげえ!実相寺アングル炸裂だぜ!」とか感じ入って真剣に観ていたような気がするが、今見るとヒロイン仏像マニアっぷりがいちいち可笑しくてしょうがない。俺達は「見仏記」を嫌が応にも通過してしまったのだ、みうらじゅんの影響は呪いに近い、という事実を再確認する。

しかし、「ヒロインに恋心を抱く」という物語であることを前提にしても、岸田森煩悩スマイルが(しかもジッソーさん監督なのでどアップだ!)ものすごい勢いで尺を喰い尽くすことに、やはり笑わずにはいられない。岸田さんのニヤけが頭から離れなくなってしまった。

えんどうえんどう 2006/01/21 15:52 京極夏彦は原口智生の『さくや妖怪伝』に企画段階から協力してますよ。
(企画段階では『妖怪侍』という題で、
妖刀村正を持った素浪人が河童の子供を連れて旅をする)
京極夏彦は『妖怪侍』という題字を書いたそうです。

倶零舎倶零舎 2006/01/23 23:48 あー、あー、すんません。今まで寺が燃えるほうが『京都買います』だと思い込んでました。とほほ。
そして今『怪奇大作戦』を放送するMXTVはそれ自体が怪奇だと思いました。

ProjectitohProjectitoh 2006/01/28 07:49 > 企画段階では『妖怪侍』という題
題名からすると、「牙吉」は「本来やりたかったさくや」になるんでしょうか。

>今まで寺が燃えるほうが『京都買います』だと思い込んでました
ああ、なんかわかる気もします。ジッソー作品は他に「恐怖の電話」とかもあるんですけどねえ。

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01-14, 2006 ジマー・イズ・ハリウッド

ジマー節とは ジマー節とはを含むブックマーク

「ブレイキング・ニュース」最終にぎりぎり転がり込んで、いやー、これは傑作だわ、と観ているあいだずっと楽しかったのだけれども(しかし、香港警察の制服ってなんであんなに絵になるんでしょう)、劇中、「警察が編集した警官出動ビデオ」のBGMが、ものすごい、絶妙に狙った安っちい、それはもうパチもん臭がぷんぷん漂うジマー節で、笑いました。

「PTU」とか、これとか、ジョニー・トー親父はアクション映画なのに物凄いオケや打ち込みでガンガン鳴らそうとかいう意図はなくて、フュージョン風のギタースコア(なんかね、香港が舞台でこういうメローなギターが流れると、川井さんの「ケルベロス」を連想してしまうんですが)をこういう映画に平気でつけているわけですが(それが、ジョニー・トーにセンスがある為なのか逆にない所為なのかよくわからん)、そういう音楽の付け方から見ると、(後にジャッキーそっくりさんが出てくることからもわかるように)この映画報道映像はなんらかのパロディギャグとして撮られているわけで、そういうところに「安いジマー」をつけるのは、まったく正しいというか、なんというか。

まあ、久しぶりに「リッチな画を観た」という気分にさせてくれた映画でしたよ。香港のああいう建物って、すごく映画向きなんだなあ。

ミステリ攻略 ミステリ攻略を含むブックマーク

というわけで、入院中にNHKポアロ翻案ドラマ名探偵富士鷹」を見たことから始まった、ミステリ攻略週間継続中。ポォとかアガサ・クリスティとかコナン・ドイル(「ホムワトもの」って腐女子ジャンルがあるのをはじめて知りましたよ奥さん!)とかは別にして、人生で意識的にミステリを読むのは初めてだ。どちらかというと、食わず嫌いに近かったからなあ。しかし、新本格とか本格とかってなんじゃらほい。サイバーパンクとかニューウェーブとか、外から見るとSFのサブジャンルもこういう意味不明さを漂わせていたのだろうなあ。

いまのところ京極さんを数冊、笠井さんの評論と小説を数冊、いまは小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」にトライ中。いや、なかなかいいもんですね、ミステリってのも。

あれれ、箸井地図+大塚英志+清涼院流水の「探偵儀式」の設定って・・・山口雅也キッドピストルズ」まんまやんけ。そうか、「探偵」という存在をポップな記号と化すまで陳腐化させる手法って、別に清涼院流水さんのJDCオリジナルじゃないんだな〜。

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01-10, 2006 去年の10本

今頃ですが 今頃ですがを含むブックマーク

2005年ベスト10、というやつを、いまごろ書いてみる。12月公開作品は来年扱いとして外してあります。

  1. ボーン・スプレマシー
  2. 宇宙戦争
  3. キングダム・オブ・ヘブン
  4. ドミノ
  5. ワンピース劇場版オマツリ男爵と秘密の島
  6. アワーミュージック
  7. コープス・ブライド
  8. 香港国際警察
  9. PTU
  10. オンダラ(C)id:teskere:20050528

あとでなんか書くかも。書かないかも。

sayasaya 2006/01/12 19:55 あの、コンスタンティンはランク外ですか…?

ProjectitohProjectitoh 2006/01/12 23:04 まあ、好きっちゃ好きですが、上の作品群を10本に入れるとなると、自動的にランク外です。

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01-09, 2006 白紙のスクリーン

歩くぞ、これ。 歩くぞ、これ。を含むブックマーク

というわけで、GDHの行く末を見定めるというただそれだけのために「銀色の髪のアギト」を見てきた俺が来ましたよ。

アニメ映画、というのは「すべてがデザインされた映画」だからして、この「アニメ」映画に何が欠けているかというと、デザイン、様式の欠如なのだった。劇場アニメは特にそうだが、それぞれの作品は固有の様式を煮詰めた結果現出したディテールの集積によって、見せ場をつくっているものだ。「ナウシカ」のメビウス風なタッチだったり、「ラピュタ」のスチームパンク(ではないんだけど、厳密には)風だったり、特に最近の宮崎映画は「千尋」の擬洋風建築や「ハウル」のロココの、グロテスクなバロック化であったり、その様式において、ある種の過剰さを孕んでいるものだ。そうした「様式による一点突破」をメインアームにしているのが押井守であり、「Ghost in the shell」の水没香港都市だったり、「イノセンス」のチャイニーズゴシックだったり、「パトレイバー」の路上観察学風味(トマソン、看板建築など、赤瀬川/藤森照信ラインの引用)だったりするわけだが、いわゆるメインストリームのアニメというのは、背景美術やそれに類するものにおいて、観客をグリップする要素を必ず持っていると言える。

それは完全に仮構されたフィクションの世界である場合もあるし、「パトレイバー」のように、いま、ここにある現実の町並みの(通常は見向きされない)ディテールを異様に拡大することで、風景を異化する方法である場合もある(その延長線上にあるのが、庵野秀明の「トップを〜」や「エヴァ〜」であり、さらにその後に来る新海誠の「ほしのこえ」であったりする)。今敏の「東京ゴッドファーザーズ」における背景美術も、基本的にはそのラインにあると言えるだろう。今敏自身がどこかで言っていたけれど、フィルムの風格というのは基本的に美術による、と。

さて、この「銀色の髪のアギト」だが、見事なまでになんにもない。すごいぞ。どこにもこの映画、ひっかからないからな。様式で突出しているものがどこにもない。背景自体はむしろ(それなりに金がかかっているのもあって)クオリティの高い部類に入ると思うのだけれども、何を描くか、という根本的なところで壮烈に凡庸であるために、背景を見てもまるで楽しくない。普通なのだ。ものすごい普通なのだ。

普通じゃないものを見るために、我々観客は映画館に来ているのであって、こんなに想像力のないものを見るために金を払っているのではない。異様なもの。異様な状況。それを見るために我々はあの暗闇に足を運んでいるはずだ。しかし、この映画の世界は、まるっきり我々の想像力の範囲内に留まっていて、過剰さを見せる瞬間が一瞬足りともない。

もっとも、それはGONZOという制作集団の特徴でもあって、この人たちの作品で突出して過剰なものがあったためしは、一瞬たりとも、ない。GONZOというのは過剰なものを抑制するフィルタでもあるのか、「アレが凄かった」と言える要素をまるで持たない、ある意味異様な凡庸さを絶えず纏って作品をつくりつづけてきた。

これは何もマニアの難くせではなく、思えば、アニメというのはその様式の異様さによって語られることでブランディングされ、売られ、人々の話題にのぼってきた、という歴史がある。それが一言で語られる「ウリ」となるわけだ。「イノセンス」であれば「中国風の背景が凄かったね〜」だろうし、「トトロ」で言えば「なつかしい田舎っていいよね〜」ででもいいだろう。

しかし、GONZOという集団には、そうした「一言で言える作品のウリ」が皆無なのだ。いや、企画書にはあったのかもしれんが、少なくとも完成した映画にはそれが脱臭したかのように、きれいさっぱりなくなっている。これはアニメの在り方としてはけっこう異様なことであり、しかし、その異様な「凡庸さ」がそれはそれで面白いかと言うと、まったくそんなことはなく、単に凡庸なのでするすると人々の思い出からすり抜けてしまって、家で見るビデオや地上波ならそれでもまあ、いいかもしれんが(しかし志低いよな〜)、年に数度しか映画館に足を運ばない観客にとっては、面白いつまらないというのを別にして、「映画を見た」という実感をお土産に持って帰ってもらわないと「年に数回の」イベントとしては失敗なわけで、このGONZOの「異様な凡庸さ」というのは、つまるところ映画館において最大の惨禍をもたらすよう運命付けられているのだった。

というわけで、過剰さの欠如というのは、映画にとって致命的なのだ。その2時間、なにもなかったことになるからだ。「デビルマン」ならその不快さをよすがに語ることもできるだろう。「キャシャーン」だって「背景がキレイだった」くらいのことは言えるはずだ。なぜなら、クオリティは別にして、そこには「様式」があったからだ。けれど、この映画には様式がない。異様なディテールの拡大もない。「岩じゃん」「森じゃん」「集落じゃん」「市場じゃん」それだけだ。岩場とか森とか市場とか、そういう単語をダイレクトに描いただけのような背景が延々と展開し、どんな岩でありどんな森でありどんな集落である、というデザインがすっぽり抜けている。

この映画、すごい。どこがどうひどい、とはっきり言えない、なんともタチが悪いつまらなさを抱えている(そしてそれは、いままでのGONZOの作品すべてが抱えているつまらなさでもある)。要するに、「単に凡庸」なのだ。あらゆる要素が凡庸で、「デビルマン」級にわかりやすくひどいわけでもない。フラットなのだ。「スチームボーイ」のときもそんな感想を描いた気がするけれど、今思い返せば、あれだって「スチームパンクいいな〜」ぐらいのことは言えた。しかしこの「銀色の髪のアギト」は、ものすごいくらい何もない。心にいかなるさざめきもたたない。退屈さえも。これはものすごく恐ろしいことだ。この映画は「度を越えてつまらない」というネタにすらしてもらえないのだ。

これにくらべれば、つまらない映画、わからない映画、不快な映画、というのはまだ「映画」であると、ぼくは思う。そこでは何か事件が起こっているからだ。GONZOの作品を見ていて、いつも思うのは「この人たち、何が面白くてこの作品をつくろうと思ったのかな」ということだ。金儲けでも、美少女のエロでも、箱庭の構築でも、原作のリスペクトでも、原作の破壊でも、なんでもいい。「青の6号」からこのかた、あらゆる種類の欲望を、ぼくはGONZOのどの作品にも見つけられないでいるのだ。


ネタバレ余談:

この映画、時代遅れでもあります。いや、異様に80年代臭い設定のせいではなく、キャシャーンスチームボーイハウル、と「○○が歩く」映画群がとっくに過ぎ去ったあとで、火山を歩かせてみたところで(しかも意味無し)、周回遅れランナーの悲しさが醸し出されるだけです。

食い合わせ 食い合わせを含むブックマーク

どうでもいいが、この日観た映画がこれと、ヴェンダースの「ランド・オブ・プレンティ」、ダグ・リーマンの「Mr & Mrs スミス」なのは我ながらどうかと思う。

通りすがり通りすがり 2006/01/10 00:44 SAMURAI 7はどうでしょう。コメ本位制社会に資本の論理をブチ込んだのはかなり大胆な気がしたんですが、失敗でしょうか。

edpedp 2006/01/10 03:33 初日に観て同じような感想を持ちました。GONZOは巌窟王は頑張っていたんじゃないかなと思います。

ProjectitohProjectitoh 2006/01/12 23:02 SAMURAI7も岩窟王も、なんか抑制されているっちゅうか。安全圏で戯れている感じがこう、なんか。「誰も止められなかったのかよ、これ」という呆れるような要素がゼロちゅうか。それでも岩窟王はまあまあだったと思いますが。

とおりすがり蟹とおりすがり蟹 2006/01/20 10:56 オープニングまではまだ少し派手だった気はします。
テーマ曲のみが印象に残った感じです。

01-07, 2006 大いなる幻影

王猿 王猿を含むブックマーク

  • 家から出るのが怖い。
  • 女の子と話すのが苦手。好きな子にオタク話をしてドン引きされたことがある。
  • 最近「アキバ系」とか言ってテレビ番組に登場するオタク。社会の興味本位の見世物にされているようで辛い。社会的珍獣扱いじゃないか。
  • 勇気を出して好きな子に告ったことがあるけれど、彼女はオタクであるぼくよりもパンピーを選んでしまった。

そんなあなたに朗報です!

気にしない!

だってあなたは……

猿なのですから!

だらしない映画だ。娯楽映画にあるまじき3時間半という上映時間もそうだが、そこにこめられた幻想がだらしなさすぎる。何がだらしないかというと、この映画はボンクラ妄想というか、非モテオタク幻想に満ちているというか、要するに「マトリックス」や「シン・シティ」と大差ない(ただ、そこはそれ、PJなので泣きが入る)幻想を、3時間の長きに渡って垂れ流しているということだ。

それに気が付いたのが、上映が終わってからで、気が付くとぼくはナオミ・ワッツの前歯しか見ていなかった。半開きの唇から覗く、ちょっと突き出た前歯が恐ろしいほど可愛すぎて、まるでミサイルシーカーの赤外線画像追尾のように、画面の中で白いその一点をぼくの眼球は倦むことなく追尾しつづけ、終わってみたらぼくはナオミ・ワッツしか見ていなかったということに気が付き、そこで激しい自己嫌悪に陥ったわけだ。

こんなのまるで……黒人ならぬボンクラエクスプロイテーションじゃないかっ……。

ぶっちゃけ、ハーレクインなのだ。男の非モテをターゲットとした。土人に隔離されたキング・コング。彼は髑髏島で孤独である。つまりヒッキーである。言語の疎通ができないというのも、オタクと健常者の間に横たわる言語領域のすれ違い、ディスコミュニケーションを表しているのである。

そんなコングが愛する女性を守って、惚れられて、社会に興味本位の見せ物にされ、そして最後に彼女はやっぱりパンピーのほうを選びとり、彼女のために命はって死んでいくのである。

だらしない。こんなに男の幻想を、オタク幻想を、だらしなく3時間も垂れ流した映画があっただろうか。「電車男」はオタク幻想ではない。あれは下位存在としてのオタクの「アガり」として一般性にたどり着く話でしかない。翻って「キング・コング」はまごうかたなきオタク幻想だ。

「そのままのキミでいいんだヨ」という少女漫画のような幻想をいま、もっとも切実に必要としているのがオタクだとしたら、「キング・コング」はまさにそれである。「そのままのキミで死ね!」という甘美な幻想を肯定する映画である。

いままでにもそういう映画はもちろん、あった。「会社ではボンクラだけれども実は出来るSE君の話=マトリックス」とかがそうだ。

ナオミ・ワッツはそういう意味では最強に近い人選と言えよう。前歯が。

samurai_kung_fusamurai_kung_fu 2006/01/07 13:42 ならば、やはりオタクは監禁なり管理した方が良いですかね。コングは善悪の区別もつかず、人を殺しまくるから。

MichiganianMichiganian 2006/01/08 23:16 俺も映画観てて気になりました、彼女の前歯が。あ、歯が矯正されてない!とか思ってました。
ちなみに, おそらくすでにご存知でしょうが、彼女の2005年の映画”Ellie Parker”
http://www.apple.com/trailers/independent/ellieparker/
トレーラーを観る限りでは結構、おもしろそうです。

ProjectitohProjectitoh 2006/01/12 22:59 映画は妄想なので、むしろ妄想はどんどんするべきだと思います。

ナオミ・ワッツはボンドガールの話が来ているとか・・そういうキャラじゃないと思うがなあ。

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01-02, 2006 いくさの王

完全版 完全版を含むブックマーク

ロサンゼルスで「キングダム・オブ・ヘブン」の45分長いディレクターズ・カットが公開されたらしい。

ということは、DVDも出るんだろうか。なんかUSではDVDの売り上げが好調で興行収入を上回ったとかなんとか。陥落したエルサレム王宮で旗(というか垂れ幕)が天井から落ちるカットとか、超かっこいいのに劇場版にはなかったカットが入っているといいなあ。

ロード・オブ・ウォー ロード・オブ・ウォーを含むブックマーク

「個性」を大切にしよう、と教育は語る。その子の、その子だけが持っている才能を伸ばすような教育こそ大切です、と。現代は個性の時代だ。あなたと、わたしが、ある点で異なっていること。その異なり方によって優劣が付くこと。

その「個性」が人を殺す道具の、売り買いに関するものだったとしたら。ぼくはそれを手放せるだろうか。碇シンジ様曰く、「ぼくがいちばんエヴァを巧く使えるんだ!」その分野で他に並ぶもののない才能を手に入れることができたとき、他の分野でこれっぽちも冴えないこのぼくが、その一点においてとてもうまくやっていくことができるとわかったとき。それが人を殺す武器を売るという商売であっても、ぼくはそれをやめられるだろうか。

できないだろう。ナルシシズムの強いぼくには。

「寓話」そういってしまいたい気持ちは確かにある。いま、この時代にイソップがいたとしたら、星新一が生きていたとしたら、たぶん映画作家に、アンドリュー・ニコルみたいな作家になっていたかもしれない。「ガタカ」「トゥルーマン・ショー」「シモーヌ」、そしてスピルバーグ「ターミナル」。ニコルが関わった作品は、多かれ少なかれ、いま、この社会を舞台にした「寓話」の色を帯びている(「おとぎ話」ではない、念のため)。しかし、その性向の別の面というに過ぎないのではあるけれど、かれが今まで選んできた題材に、「箱庭」感があったのもまた、事実だった。サバービア全体がテレビスタジオだったり、空港で延々と過ごすハメになった人の話だったり。それはとてもとても気持ちのいい箱庭感で、ぼくはそれがとても好きなのだけれども(ま、ディストピアスキー&建築スキーとしては当然「ガタカ」がベストですが)、箱庭が嫌いな人がいるのもまた、事実だった。彼の物語は現代に箱庭的状況を用意することによって、現実を寓話化しているとも言える。現実を、箱庭という包装紙にくるんで、観客に差し出すのだ。

しかし、今回ニコルは武器商人という題材を選んだ。遺伝的エリート社会での挫折とその突破とか、社会と実存レベルの話ではない。生き死に、というか死、というのっぴきならない現実についての話だ。いまアフリカで死んでいる人をネタにして「寓話」なんて書いていいのだろうか。彼らはアリでもキリギリスでもない。いま、現実に、アフリカで虐殺されていっているひとびとだ。つまり、箱庭は実存は扱えても、生き死には似つかわしくないのだ。考えてみれば当然で、箱庭とはユートピアの一変種であり、擬似的な天国であるからだ。そこに悲惨な死はない。「トゥルーマン・ショー」が描いていたのは、まぎれもなくアメリカのサバービア幻想だったけれども(ちなみにあの映画の「シーヘブン」はマイアミに実在する町でロケーションされた)、そのどこまでも明るく照らし出された町並みが醸し出す無気味さというのは、死の予感をはく奪された、「闇のない世界」故の逆説的な無気味さだったはずだ。

では、「いま、ここ」の武器商人という、寓話化が困難な題材を、ニコルは自分のフィールドに持ってくることができたのだろうか。現実を前に「箱庭化」が困難だと悟ったニコルは、ここで新趣向をあみ出した。

それが、一人称ナレーションの採用だった。

物語が一人称で語られるとき、それがどんなに深刻な状況であってもコメディの様相を訂するのは、太宰を読めばわかることだ。「ファイト・クラブ」なんかそのいい例だろう。韜晦や言い訳が多ければ多いほど、その物語はコメディ化していく。箱庭化、というのはつまり、現実を語るにあたって語る要素を極限することだ。ある物理的状況を数学的にモデル化するのに似ていると言ってもいい。扱うパラメータを限定し、結果を算出する。いままでは「箱庭化」によって行っていたそれを、今回ニコルは「主人公の一人称」という構成をとることによって達成した。

そして、すべてが主人公の語りとして処理される以上、箱庭に閉じ込めるには生々しすぎた人々の生き死には、必然的にその視点人物を通した上(あるいは「のみ」)での生き死にでしかありえなくなる。その軽重は映画作家の手ではなく、それが生み出した「利己的で、韜晦的な」主人公の価値観という天秤を通してのみ語られることになるからだ。

こうしてニコルは、世界の寓話化を可能にした。かれはそれまでの映画と同じ手つきで、武器が売られていくこの世界の現状をてきぱきと捌いていく。語られている話自体は、どうしようもなく胸糞悪いものだけれども、主人公の「職能」である韜晦っぷりがすさまじくユーモラス(「自動車事故でも人は死ぬが、自動車セールスマンが家に帰って仕事の話するか?」「私は確かに武器を売っているが、人が死なずにすめばいいと願っている」アクロバティックな言い訳連発で腹抱える。)なので、その言い訳っぷりと正当化っぷりでゲラゲラ笑いながら映画を楽しむことができるわけだ。

どんなに人が死のうとも。

そう、これは、世界のどこかで、いまも起こっている人の生き死に(というか死)の話なのだ。「ジェノサイドの丘」とか読むと、それがあまりに凄まじすぎるので、アフリカで起こっていることが「寓話」に思えてくることもあるけれど、けれどやっぱりそれは現実で、主人公ユーリがその現実に対してとり続ける距離というのは、これまた胸糞悪くなることに、ぼくら自身の現実に対する距離の取り方でもある。

紹介される数々のエピソードは、どれも現実にあった(らしい)ものでありながらも、どこか小咄めいてみえる(輸送機解体のエピソードとか最高。「溺れた巨人」なんか5秒で映像化できるね)。余談だけれども、ギリアムの「未来世紀ブラジル」で当初予定されていたオープニング案に、アマゾンで樹が伐採されるところからはじまって、それが運ばれて加工されて、パルプになり、紙になり、書類になり、20世紀のどこかの国のオフィスに行き、というのがあったらしい(「バトル・オブ・ブラジル」による)。この映画のオープニングを見てその話をなんとなく思い出した。「事実は小説よりも奇なり」というけれど、ユーリ自身、自分の生きている現実の奇妙さを自覚しながら、それを語っているようだ。現実をさめた眼で見つめる、と言えば聞こえはいい。ぼくたちがそれを使うとき、それはどこかしら「現実に対する冷静な視点」という評価を含んでいるものだ。曰く、「説教じみた『反戦』ではない作品」「戦争はなくならない、と認めたうえで」とかなんとか。けれど、いままで「寓話」をとりつづけてきたニコルが今回ぼくらにつきつけるのは、その「現実的」な視線そのものがとても残酷なんだ、ってことだ。その視線そのものは大いに結構。反戦運動を冷ややかに眺め、サヨ、とか罵るのも結構。

けれど、その連中のどれだけが、自分自身の「残酷さ」を引き受けているんだろうか。

反戦運動やサヨクの話はたとえ話として持ち出しただけだ。それは自分がどの陣営にいても変わらない。ただ、世界を見つめる、その視線そのものが残酷なんだ、ということを「現実を見ろ」と叫ぶどれだけの人が理解しているのだろうか。ぼくがとてもやりきれなかったのは、ユーリという人物から見た世界、というよりユーリという人物の世界の見方、がぼく自身の世界に対する見方のそれに近かったことだ。あんなに世をうまく渡ることは出来ないけれども、その残酷さはたぶん、ぼくの残酷さだ。

ユーモラスであることが残酷であること、それがあなた自身の残酷さであるかも知れないこと。

これは「武器商人の世界」を描いた映画(というだけ)ではない。そういう現実を知るなら書籍の類いはいっぱい出ているし、この映画をきっかけに、そういう本を読む人が増えればいいな、とも思う。けれど、この映画は同時に、「自分と関係ない(と思い込んでいる)」世界を「現実的に」眺めることの、つまりぼくらの冷酷さをつきつける映画でもある。この映画の主人公の言い訳を笑うとき、それは確実に自分自身を笑ってもいるのだ。

ラストを陰謀史観じみてしまってがっかり、という人はたぶん、むかしむかし、イラン・コントラ事件というものがあったのを知らないのだろうなあ。世界がトンデモ陰謀で覆いつくされているわけでもないけれど、現実的な陰謀というやつは適量あるのだよ(それに、そのほうが楽しい、と不謹慎だが思いませんか)。

MichiganMichigan 2006/01/04 14:02 長い!ということは、ほぼ復活されたということでしょうか?
おめでとうございます。

01-01, 2006 ラムと年末

狗では私は倒せない 狗では私は倒せないを含むブックマーク

年末ブラウン管に映るラムたんの顔を見ながら過ぎて行った。わがままドジっ子ぶりに萌え萌えだ。

といっても、謎のクレオール方言でしゃべる鬼っ娘(どうでもいいことだが、「娘娘」と書いて「ニャンニャン」と読ませる中国語というやつは偉大である)のことではない。

いまラムたんといえば、当然だがラムズフェルドのことである。覇権国家アメリカ合衆国のセクデフである。

セクデフ、というとセクハラみたいで微妙にセクシャルな感じがしなくもないのでわざわざ使ってみたが、これはSecDefのことであり、つまりこれはセクレタリー・オブ・ディフェンス、いわゆる国防長官をワシントン業界っぽく略した言い回しのことであるから、すこしもやらしいところはない。

しかしセクレタリーというのは日本語秘書のことであり、つまり国防長官という役職は、国防に関する、大統領の秘書、なのである。ラムズフェルドはブッシュ秘書なのである。フランス書院的には秘書といえばやらしいと相場が決まっているのである。「秘書秘密の夜〜守るより攻めて〜バグダッド暑い夜・私のミサイルは発射寸前〜これが予防戦争よ」という題名でイラク開戦に関するラムズフェルドのドキュメンタリをつくっても、その題名にまったく嘘はないわけである。

という題名でなかったのが残念ですが、夜は紅白も格闘も見ずに、「ラムズフェルドの戦争〜米国防総省の内幕」をはじめとするNHKのドキュメンタリ群を見て、すこしも明るい気分になる事なく、世界ってどうしようもねえなあ、と憂鬱な気分で、人生で初めて、病院で年を越しました。みなさんは家族や友人や(この項のみ玄田哲章の声)恋人とめでたく年を越したと思われますが、私は白い巨塔のなかで、ラムたんのヴィラン顔をみながら、静かに病に朽ちて行くこの身のはかなさを思い、明日の少年頭脳カトリの再放送に希望をつなぐのでございます。

今年もよろしく。

From villain RammyFrom villain Rammy 2006/01/01 15:24 新年、および回復されてこられているご様子で、おめでとうございます。今年もさまざまな映画評をよろしくお願いします。

wang2zhonghuawang2zhonghua 2006/01/02 22:49 あけましておめでとうございます。急な入院と聞いて驚き心配していました。Projectitohさまの映画評はわたしの映画選択に絶大な影響を及ぼしております。本年もわたくしをお導き下さい。

ProjectitohProjectitoh 2006/01/02 23:44 人生でもっとも屈辱に満ちた入院でした。オムツさせられたのです。大腸が潰瘍を起こして果てしなく出血と胆汁を出す上に、痛みで行動不能だったのでさせられたのです。老人になる前にオムツするなんて、そういう趣味の人だけです。屈辱です。人として堕ちるところまで堕ちた気がします。オタな上にオムツ経験者ときては、もう彼女とか結婚とかできる気がまったくしません。だれか助けてください。

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