2005 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2006 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2007 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2008 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2009 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
04-21, 2008 本当に、おはなしからしか語れかったのかな
■ゲームと思想

この前、ある場所でとある方とお話させていただいたときに、
エロゲー(というか、ノベルゲーですか)が批評的な場で語られたのって、結局、お話だったからでしょ
と、ふと思ったのでした。
たとえば、あくまでたとえばですけど、ゲームのインターフェイスの変遷や、ゲームという言葉どおりそこに内在するルールをプレイヤーがいかに受容するか、などといった方向を、(平凡ですが、まあ例ということで)生権力の話や環境管理型権力(これなんてまさにゲームデザインの思考ですからね)の話などに絡めて論を展開するとか、そういう可能性はいくらでもあったように思うわけです。なにせコンシューマーゲームでは「システム」をひとつひとつ設計し、世界(物語空間ではない)を一回一回デザインすることが多かったわけですから。ゲームの中で物語性に絡まない部分であっても、いくらでも批評的な話はできたはず(じゃあお前やれよ)。
それが、なぜ(一時期)エロゲーに代表されるノベルゲーだけが批評的なツールとしてもてはやされたかというと、それは結局お話だったから、単純に語りやすくとっつきやすく見えやすく何より「読みやすい(つーか読む媒体ですからね)」、「物語」だったからでしかないんじゃないか。
あのとき語られたのはゲームじゃなく、あくまでエロゲーだったんだなあ。
だって、インタラクティビティが重要だったんなら、お話なくてもいいじゃん。
なぜ「システム」という実に魅力的なものが剥き出しになったコンシューマーゲームが、(いい悪いレベルに終始するだけで)あまり語られることがなかったのか。いや、あの時代エロゲーがらみの話にまったく絡めなかった(マカーだったので)人間の僻みかもしれないですが、もうちょっとゲームに関する思想的展開は豊かになってもよかったんじゃないかなあ、別の可能性があったんじゃないかなあ、としみじみ思い返す2008年の春でした。
いや、当たり前ですが、お話大好きですけどね、私。
ありえたもうひとつの可能性を夢想しているだけで。

僕はこれにけっこう、刺激を受けています。一応、ご紹介しておきますね。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html
「生権力」や「環境権力型権力」といった哲学的あるいは社会科学的な観点のほかに、(ご存知かもしれませんが)よりゲームのシステム面に着目した議論もあり、そのひとつとして『コスティキアンのゲーム論』を補助線っぽく提示させていただいた次第でした。個人的には、哲学あるいは社会科学的な理論と、ゲームのシステムそのものに関する議論とがうまく絡み合えば、ゲームに関する思想はより豊かになった(なる)のかも、と思います。長々とお目汚し、かつ連続投稿失礼いたしました。