学校等においての成績付けの意味を考えてみる・・・能力のない人間には辛いが結果が全て論

人間には先天的な能力差がある。これは努力でどうにかなるというものではない。能力が高いものと能力の低いものが同じ努力をすれば当然能力の高いものの方がやはり上を行く。
たとえばスポーツでは、運動能力にたけたものは、二三回の練習で、あるいは練習すらしなくても最適な動作を自然と会得する。運動能力の低いものは、この場合は、身体をこういう態勢にして、顎を引いて、足をこう出して、体重をこう移動して、などといちいち考えてやらねばできないから、どうしてもぎこちない動作になり、それを滑らかな動作にもっていくのにさえ多大な練習が要る、運動能力にたけたものの何百倍もの苦労が要る、そしてそれでもなお優者には及ばない、優れたものはその間にはるかに上のレベルにまで行っているから、そして、劣ったものはいくら努力しようが5段階評価で2〜3以上には行かない、ここで努力は何の意味があろうか? 結局は結果が全てである。同じ結果がもたらされるなら努力は最小であるにこしたことはない。費やした努力は次に繋がると考えたとしても同じことなのである。
別に、学校教育(及び社会一般於いても)ではこれは運動に限らず、すべての科目(仕事)において、同様のことがいえる、はっきり言って、能力のないものにおいて、努力はほとんど無駄でしかない、お前は能力がないから人一倍努力しなければダメだと知らしめる意義はあるのかもしれないが、そんな永遠に報われない苦しみの連続でしかない人生を、誰が生きたいと思うか? 人間は何か一つぐらいは優れた能力があるなどということは全く絵空事でしかない。全く何の能力も持ち合わせていない人間だって多いのだ。
何も、成績評価は不要だとか、悪平等がいい、また、努力する必要は全くないという主張をするのではない、劣ったダメな人間はいかにして生きていけばいいのかという哲学をきちんと構築する必要があるということだ。
変えることの困難な容貌・性格においてさえ優劣は存在するのだから。
ありのままの自分が好き、などはマヤカシでしかない。


(いい結果が出ようが出まいが、それに向って努力している過程が苦しくとも楽しいんだし精神的に充実するものじゃないか、との見方もあるかもしれない。それはプラモデルなどを作るような場合ならそうかもしれない、しかし、それだって、プラモデルが素晴らしく完成する方が、グチャグチャな出来上がりになるよりはいいに決まっている)

(成績など他人と比べず、努力で自己向上するならそれでいいじゃないか、との見方もあるかもしれない。全く個人的な事柄ならそれでもいいかもしれない、しかし、世の中に生きている限り必ず他人との比較・競争は付いて回るから、もしそれが嫌だったら?)


だから、努力をする必要がない、のではなく、無駄な努力をしなくても済むようになろう、となる。
スポーツなどは早いうちから具体的に能力が見えやすいから、小学校高学年にもなれば運動の資質があるかどうか、自覚できるだろうし他人からも分る。運動能力が劣っているのに、プロスポーツ選手になろうなんて努力する子供には、そんな無駄な努力は止めさせ、もっと他の勉強をさせるべきであり、子供だって自ら諦めるだろう。
人間の成長とは、潜在的な可能性が拓いていくことではなく、可能性がどんどん潰れていくのを自覚することである。自分にできることの範囲をわきまえて、ささやかな努力をすればよい。これが正しい努力である。
ありのままの自分は肯定するのではなく、否定的現実として受け入れなければならない。


(追記)
幼い時期には、自分が何でもできる、何にでもなれると考えることがある。これを幼児的万能感という。教育的配慮から、周囲の大人がそのように取り計らってくれるということもある。ある程度年齢がいくとそれが虚構でしかないことが自覚されてくる。