「人為を排したありのままの自然を尊ぶ」「現代型アニミズム」についての考察

宗教的に存在してきた終末や滅びの観念(最後の審判とか末法諸行無常)を乗り越えて、科学技術が人類の永久繁栄を約束するはずだったが、どうも期待通りではないらしいことが、20世紀の終わり頃までに明らかになってきた。そこで既存宗教でも科学でもない繁栄の原理として現れたのが、「人為を排したありのままの自然を尊ぶ」、という、宗教というなら原始宗教と通ずるアニミズムだった。
「ありのまま」は日本人に好まれる観念でもある。よく「ありのままの自分(あなた)が好き」と言ったり、日本仏教の中心になった本覚思想も「ありのままで仏である」という考え方である。
(本覚思想については、平安時代頃から高貴な人の出家が相次ぎ、高貴な人は出家したからといって小僧から修行させるわけにもいかず、それなりに遇さねばならず、そこで「修行しなくても本来仏」のような考えが必要になった実際的な理由もあったのではないかと、私は邪推している。)
食べ物について、手を加えない、自然を損なわない形のものが一番おいしいという考え方も、その現代的アニミズムに関係がある。
今問題になっている生肉の食中毒の件も、ありのままの生肉は最高に旨い食材だが、さばいてすぐ食べるのではなく流通過程の余計な手が加わるから食中毒菌が付着していけない、と考えれば、自然志向と辻褄が合う。肉は焼いて食べないとよくないんじゃないの? と聞かれた時には。
以前、子供が喉に詰まらせる事故が起きて蒟蒻ゼリーがひどく叩かれたのは、それがきわめて人為的加工食品のイメージが強いからだろう。それに比べて同じく喉に詰まる食べ物でも餅は自然のイメージだし、食中毒が起きても肉自体は自然の食べ物と認識される。ブロイラー肉は自然度が下がるから好かれない。
人為を排した自然を尊ぶのは、刑罰で過失よりも故意の方が重い罪で、殺意があったか無いかが裁判で争われて、結果が同じでも人為(意図)の介入をより重くみるのとも通じているのだろう。
「人為を排したありのままの自然を尊ぶ」志向を経済システムに適用するのが、自由主義新自由主義の、政府の干渉を排し放任しておいても市場がひとりでにうまくやるという思想になる。
「人為を排した自然を尊ぶ」「現代型アニミズム」の根底にある考えをものすごく粗っぽく表せば、人間=悪または不完全、自然=ありのままに体現されている善または模範、となる。


(続く)



(補足として)


「人為を排したありのままの自然を尊ぶ」志向「現代型アニミズム」に関して自分自身がどうなのかはっきり分らないでいる。


炊いて食べることが前提の米も非自然的食品では? と考えると屁理屈っぽくなるが、それも貯蔵という加工過程の代償にそうせざるをえなくなったと解釈できる。


ここで、「人為を排したありのままの自然を尊ぶ」と回りくどい表現をしているが、よく言われる「自然との共生」も同じである。


ここで言う「自然」とは「特に人間以外の森羅万象・環境」的な意味と「自ずとそうなる状態」の両義である。


自然の中に道徳の答えもあると、即物的に強引にもっていくと、「水からの伝言」のような話になる。


動物の生活(子育て、雄と雌の関係、動物社会の仕組み、食生活など)に人間生活の模範を見出そうとするのも、「人為を排したありのままの自然を尊ぶ」「現代型アニミズム」の即物的な形である。


これは自然主義的誤謬(自然は正しいのだから道徳の範とすべきだとする考え)という論理的誤謬の一つである。自然主義的誤謬は自然でないものは悪であり不道徳であるとする考えにも結びつく。


「人為を排したありのままの自然」も多分にフィクションであるが、フィクションと気付いていながら後生大事にする姿勢とも言える。