Hatena::ブログ(Diary)

御光堂世界〜Pulinの日記

2011-11-30

ソフトシンセ

モーグのモジュラーシンセを再現したソフトシンセのArturia Moog Modular V2 のプリセットにあったAmbient_Seq というシーケンスパターンをそのままコード平行移動的に鳴らして見たらなんとなく70年代のシンセ音楽風フレーズぽいのができた。(約32秒)

Download


パッチの状態

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東京の古いビル 学士会館

白山通りの一橋交差点の角に建つ学士会館は昭和3年(1928年)建築のボリュームがある6階建てビル。

学士会館サイト参照

千代田区神田錦町3-28。

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一枚目の画像は北の方から見たもので角張った建物に見えますが、二枚目の画像の一橋交差点の南西方向から見ると、角がカーブし入り口や窓にアーチを用いた意匠とあわせ円みを帯びた建物のイメージがあります。

2011-11-29

今日のお食事 天ぷら定食

食べたのは昨日ですが、神保町のいもやで天ぷら定食に牡蠣天ぷら追加。

(通常のは、烏賊、海老、きす、春菊、かぼちゃが、一そろい)

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2011-11-28

東京の古いビル 九段下ビル

九段下ビルの前を通ったら西側部分に解体工事の足場がかけられていました。

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ギャラリーが一軒、中を開放していたので覗いてきました。三階の右端部分です。

暗い階段を登ると

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奥の部屋に

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砂が敷かれて玉子型のオブジェが飾られていました。

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裏のベランダにも出れました。

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廊下の壁や天井にも年季がはいっているのがうかがえます。

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(参考)

九段下ビル2010年の様子

九段下ビル1990年代の様子


九段下ビルは関東大震災の復興建築として1927年(昭和2年)に竣工。

千代田区神田神保町3-4。

ラテン系が陽気である理由—宗教改革とはなんだったか

西洋人について、ラテン系(イタリアフランススペインなど)=陽気・いい加減、ゲルマン系(ドイツ・イギリス・北欧など)=陰気・謹厳実直、といったイメージががなんとなくありますよね。

でも、宗教で考えると辻褄が合わないと思いませんか。

ラテン系の国はカトリック、ゲルマン系の国はプロテスタントカトリックは重い伝統があって教会が社会を厳しく支配しているがプロテスタントは教会支配から人々を解放したととらえると、教会に支配されて厳しく戒められているラテン系の国の方が陰気で、教会から自由になったゲルマン系の国の方が陽気だ、となるはずでしょう。

しかしそうではなく逆になっているわけです。

マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で言っているのですが、すなわち「宗教改革が人間生活に対する教会の支配を排除したのではなくて、むしろ従来のとは別の形態による支配にかえただけだ。しかも従来の形態による宗教の支配がきわめて楽な、当時の実際生活ではほとんど気付かれないほどの、多くの場合にほとんど形式に過ぎないものだったのに反して、新しくもたらされたものは、およそ考えうるかぎり家庭生活と公的生活の全体にわたっておそろしくきびしく、また厄介な規律を要求するものだった」と、そして「宗教改革者が熱心に非難したのは、人々の生活に対する宗教と教会の支配が多すぎるということではなくて、むしろ少なすぎるということだった」と。

つまり宗教改革が目指したのは形式化し陳腐化したキリスト教の革新というよりも復古であり初期の厳格な精神に帰れということだったのです。ある種の原理主義です。そこで宗教的戒めはより厳しく人々に課されることになったのです。

現在、イスラム原理主義が台頭しているイスラム諸国で宗教支配が強まっているのと同様でしょう。

だから、カトリックのラテン系の国の方が実際は宗教支配がゆるくて社会が陽気であり、プロテスタントのゲルマン系の国の方が宗教支配が厳しくて社会が陰気になると、とらえることができるわけです。信心深い深くないとはまた別に、社会の雰囲気がそのような色彩を帯びるということです。

アメリカは基本的にプロテスタントピューリタンの国ですから陽気なようでも宗教的な面ではクソ真面目な人が多いでしょう。ファンダメンタリストが生まれてくる土壌が充分あります。

日本の鎌倉新仏教もそう、大乗仏教もそうなのですが、宗教における改革運動は既存宗教が形骸化しているのを批判すると、より純粋に根源的なものへと向っていく形で現われてくるのです。


(追記)

トラックバックで反論を送ってくださった方がいらっしゃいますが、この項では実際は「ラテン系が」ということよりも「宗教改革」の方が主題ですので、タイトル上誤解を招いたかもしれません。

さて、宗教の支配力が社会の陽気陰気といった雰囲気をなにがしか左右してくるならば、「無宗教」と公言して憚らないような日本人の社会が「陽気」とは到底いえないのはおかしいのではないか? となるわけですが、日本における宗教改革は鎌倉新仏教よりも明治維新の方がさらに影響力を持った宗教改革であり、そこで日本人に一見宗教として自覚されなくても厳しい「宗教的戒め」が課されることになった、ととらえると結局は明治時代からの延長線上にある現代日本社会の性質が分ってくるのではないかと思われます。

この問題はまたあらためて触れようと思います。

2011-11-27

東京にあった古いビル 新橋西口

かつて、新橋駅西口広場の北に、廃ビルが長いこと建っていて広告塔として使われていました。

堤第二ビルといったようで、現在も近くに建っている 堤第一ビルと関係があったのでしょう。窓などのデザインからみてもかなり古いビルだったことが分ります。

この画像は20年近く前に撮った写真です。(映画の広告からみると1992年の終わり頃)

以前も載せましたが、さらに入口部分の画像も加えて再掲します。

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北側の外堀通りに面する閉ざされた入口部分。入口両脇に装飾的に作られていたものが残っている。

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現在ここにはラ・ピスタ新橋という場外車券売場のビルが建っています。

2011-11-26

ビーチ・ボーイズ『スマイル』を聴いた

このたびようやくビーチ・ボーイズの『スマイル』を聴きました。

The Smile Sessions Box Set

The Smile Sessions Box Set


まず、上のセットのディスク1に収録されている「完成版」としての『スマイル』を聴いてみて、結論からいうと、 以前も少し触れたように、今まで公式、非公式(ブート)でさんざん出回っていた音源で聞かれる以外の全く未知のパートは存在していなかったのだろうということです。聞ける形で録音されていた要素は多分それがすべてだった。そのさまざまなテイクやバリエーションがまとまらずに放置され『スマイル』は未完成だったのでしょう。


今回(2011年)のビーチ・ボーイズ版『スマイル』の曲目は次のようになっています。(ボーナストラック除く)

1. Our Prayer

2. Gee

3. Heroes And Villains

4. Do You Like Worms (Roll Plymouth Rock)

5. I’m In Great Shape

6. Barnyard

7. My Only Sunshine (The Old Master Painter / You Are My Sunshine)

8. Cabin Essence

9. Wonderful

10. Look (Song For Children)

11. Child Is Father Of The Man

12. Surf’s Up

13. I Wanna Be Around / Workshop

14. Vega-Tables

15. Holidays

16. Wind Chimes

17. The Elements: Fire (Mrs. O’Leary’s Cow)

18. Love To Say Dada

19. Good Vibrations


2004年のブライアン・ウィルソン版の『スマイル』は

1. Our Prayer / Gee

2. Heroes and Villians

3. Roll Plymouth Rock

4. Barnyard

5. Old Master Painter / You are My Sunshine

6. Cabin Essence

7. Wonderful

8. Song For Children

9. Child is Father of the Man

10. Surf's Up

11. I'm in Great Shape / I Wanna Be Around / Workshop

12. Vega-Tables

13. On a Holiday →(ビーチボーイズ版スマイルの“Holidays”と同じ曲に歌詞付加)

14. Wind Chimes

15. Mrs. O'Leary's Cow

16. In Blue Hawaii →(ビーチボーイズ版スマイルの“Love To Say Dada”と同じ曲に歌詞付加)

17. Good Vibrations

スマイル

スマイル


これらを比べると、若干の曲順や曲名が違うだけで構成はほぼ同じであることが分ります。2004年のブライアン・ウィルソン版『スマイル』を手本に、オリジナルの『スマイル』の音源+αで作ったのが今回の『スマイル』なのでした。+αの要素は後に個別の曲として出された時の音源を用いているようです。今回のための新録はしていないと思われます。

以前触れた通り2004年のブライアン・ウィルソン版『スマイル』の制作を主導したのはブライアンのサポートバンドのリーダー、ダリアン・サハナジャであり、ブライアンが作ったといってもダリアンの示唆がかなり入っていると考えられるわけです。今回のスマイルも結局その延長線上にあるので、幻のオリジナル『スマイル』はまた違った形だったのかもしれません。


今回2011年版『スマイル』の構成は以下のようにまとめられます。

Our Prayer

Heroes And Villainsとその派生・関連曲(今回のでは、Gee , Heroes And Villains , Do You Like Worms (Roll Plymouth Rock) , I’m In Great Shape , Barnyard)

The Old Master Painter / You Are My Sunshine

Cabin Essence

Surf’s Upとその関連曲(今回のではWonderful , Look (Song For Children) , Child Is Father Of The Man , Surf’s Up)

Vega-Tablesとその関連曲(今回のでは I Wanna Be Around / Workshop , Vega-TablesI)

Wind Chimesとその関連曲(今回のでは Holidays , Wind Chimes)

The Elements: Fire(Mrs. O’Leary’s Cow)

Love To Say Dada

Good Vibrations


“Our Prayer”から“Surf’s Up”までが28分なのでこれが「A面」、“I Wanna Be Around / Workshop”から“Good Vibrations”までが26分34秒で「B面」というわけなのでしょう。

曲の内容からみて「A面」のテーマはアメリカ開拓史でしょう。初期の移民の時代をテーマにしたのが“Heroes And Villains”、そしてだんだん時代を下ってきて、“Surf’s Up”は『スマイル』制作当時の1960年代後半アメリカでの既成の価値観の崩壊を歌ったものだと思われます。

「B面」にいくと、地・風・火・水の四つのパートからなるとされていた“The Elements”の組曲の、地が“Vega-Tables”、風が“Wind Chimes”、火が“Mrs. O’Leary’s Cow”、水が“Love To Say Dada”と見立てられ、「B面」はこの組曲に充てるという作りなのでしょう。そしてラストが大ヒット曲“Good Vibrations”で〆られます。“Love To Say Dada”のラストに“Our Prayer”のワンフレーズが置かれているから『スマイル』本編はここまでで、“Good Vibrations”以下数トラックのおまけは「ボーナストラック」とみることもできます。

このような構成は2004年のブライアン・ウィルソン版『スマイル』が出る前に、すでに1990年代から近いものがブートで現われているので、あるいはブートの方が逆にそれに影響を与えたのでしょうか。『スマイル』のブートも初期のものはただ漫然と音源を並べただけですが、次第に構成を考慮した作りのものが現われてきます。(→ *1)



その他気付いた点

・これまでに出回っていたスマイル音源にくらべると音圧が現代的に上がっている。

・今回の完成版『スマイル』本編はモノラル仕様になっている。しかし、ディスク2以降のセッション音源集にはステレオもある。だからオリジナルジャケット上部のFULL DIMENSIONAL STEREOの文字が今回のはFULL DIMENSIONAL SOUNDとちゃっかり書き換えられている。LPの方にステレオバージョンが収められているがまだ聴いていない。

・音質はなかなか良く、モノラルにしては音が団子状に固まらず音の分離もよい。今回の仕上げには大分気を使ったのであろう。

・“Look (Song For Children)”の2分04秒から挿入される遊園地っぽいノベルティなフレーズがブライアン・ウィルソン版ではなぜかカットされていたが今回のはそのまま残してあるのがうれしい。この部分はやっぱりないとダメだと思う。手元にあるブートだとこのフレーズは曲中で2回現われるが、今回のでは1回だけ。

・ブートに“George Fell Into His French Horn”というタイトルで収められていた、ひしゃげたホーンを吹くだけの変な曲は、『スマイル』に収録するつもりのないお遊びだろうといわれていたが、その通り今回のには収録されていない。(追記)『スマイル』本編にはないがその音源はディスク3の#19に“Surf's Up:Talking Horns”として収録されている。

・“Heroes And Villains”(「英雄と悪漢」)のバックトラックを聞くとスネアの響きがかっこいい。1980年代のゲートリバーブを思わせる。

ビーチボーイズの伝記(→ *2)を読むとスマイル当時のブライアンは効果音に凝っていたそうで例えば水にまつわる効果音だけのアルバムを作ろうとしたり、またユーモアにも凝っていてユーモアだけのアルバムを作ろうとしたりしたそうで、いずれも実現しなかったが、それらの要素はスマイルに溶け込んでくることになったと分る。ブライアンは音響派の走りだった。

・“Cabin Essence”のOver and over〜のところのバックの不思議なエキゾチックな調べがはっきり分った。

・『スマイル』がひとまずまとまったことで『スマイリー・スマイル』もそれ自体としての良さが見えてきた。

・ディスク3の#21の“I Wanna Be Around”が冒頭から陽気な4ビートのジャズ演奏が飛び出してきてちょっとびっくり。セッションミュージシャンたちの気楽なウォームアップらしい。

・CDがスリーブに直接刺さってるだけで危なっかしいからプラケースに入れるべきだと思った。そしてアナログ盤の分もすべてCDにしたセットでもよかったのではなかろうか。

・ディスク2〜5のスマイルセッション集は、同じ曲の同じパートのテイク違い幾つも並べてあるのではなく、同じパートでも、だんだん楽器が増えていったり、ボーカルが重なってきたりと、変化がつけてあるので、通して聞いても結構聞き飽きない作りになっている。単なる「資料集」におわっていない。



『スマイル』ボックスセットの箱。店の部分が立体的な作りになっている。

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手荒く扱ったわけでもないのに箱の角がパッカリ裂けた。何で(+_+)。後で内側に紙を貼って補強するつもり。

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参考文献

*1 SLIME―THE BEACH BOYS‐SMILE 徹底解析書

*2 ビーチ・ボーイズ―リアル・ストーリー〈上〉 ビーチ・ボーイズ―リアル・ストーリー〈下〉

2011-11-25

日本で音声コマンドは普及するか?

iPhoneを「バーチャル秘書」にする「Siri」リリース


 iPhoneをバーチャル秘書にできるアプリ「Siri Personal Assistant」を米新興企業Siriがリリースした。iPhone 3GSをサポートし、無料でダウンロードできる。


 Siriアプリでは、簡単な英語の音声コマンドを使ってレストランの予約やタクシーを呼ぶといったことができる。例えば、「Will it rain today?(今日、雨は降る?)」と話しかけると、SiriはNuanceの音声認識技術を使って音声コマンドを理解し、天気予報を表示する。「オフィス近くのイタリアンレストランを探して」と言えば、ユーザーの位置情報に基づいてレストラン情報を検索する。「明日の夜7時半に○○で2人分の席を予約」といったように、自然言語による操作が可能だ。

 Siriでは現時点では、レストランの検索と予約、近所のイベント検索、タクシーの予約、映画の上映時間の検索、地域情報検索、天気予報が利用できる。検索の結果はユーザーの位置、時間、過去の履歴によって異なる。例えば、レストランを予約した後に映画情報を検索すると、Siriは予約したレストランの近くの映画館の情報を表示する。さらに、ユーザーが許可すれば、Siriはユーザーの個人情報に基づいて学習するという。情報はGoogle MapsやレストランレビューサイトYelpなどのパートナーサイトから取得する。

 Siriアプリの現行バージョンはiPhone OS 3.1搭載のiPhone 3GSに対応する。近くiPod touch、iPhone 3G、その他端末に対応したバージョンもリリース予定という。

 Siriはスタンフォード大学からスピンオフした企業で、Google、Yahoo!、Apple、Motorolaなどに在籍していたデザイナーやエンジニアが参加している。


2010年02月08日 09時40分 更新

(ITmedia エンタープライズ

http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1002/08/news027.html


日本でもこのような音声コマンドによるシステムが普及するでしょうか。

音声コマンドは日本語の場合やっかいな問題が存在しています。日本語における話し言葉の多様性です。秘書アプリにいったいどういう言葉(口調)で話しかければいいのでしょうか。

日本語には、男言葉女言葉、上下関係における言葉、子供言葉、丁寧語、など話し方が多様であり、このような場合にどんな人でも使うことができるフラットな話し言葉が存在していないのです。日本語では話し方は相手や場面に依存する要素が極めて大きいのです。どういう相手か分らない秘書アプリに対しては話す言葉がない。

秘書アプリの機械相手の音声コマンドであっても「〜しろ」といったむき出しの命令形を使うのは心理的抵抗があります。

指示・命令を意味する表現が何通りも複雑にあると数も増えるし曖昧さも増えて音声コマンドとして理解させるのが困難になります。

ですから、たとえば介助犬に指示を与える時は、動詞は定められた英語、名詞は日本語で行うことになっています。

『Go to テーブル(テーブルへ)→ Up take リモコン(テーブルにアップしてリモコンをくわえる)→Bring(私のところへ持ってきて)→Give(渡して)→Thank you!!(ありがとう。)』

このような流れで介助犬への一連の指示が行われるのです。(日本補助犬協会参照)

これを、手伝ってくれる犬だからと、人それぞれの優しく丁寧な日本語の言い方でおこなっても、犬が戸惑ってしまうことになるでしょう。ペットに一方的に話しかけるだけで満足というわけにはいかないからです。

秘書アプリも日本語音声コマンドが難しいなら英語のままでやることにしたらいいのかもしれませんが利便性は低下します。

そこで、日本語での話し方が相手依存ならば、秘書アプリをどういう相手か先に設定し、その疑似人格への話し方として何パターンか用意しておく。例えば、ビジネス的な秘書、友達、何かのキャラなど、いくつかのパターンとそこに男女や年齢のバリエーションを持たせる。このように絞り込めば日本語音声コマンドも可能かもしれません。


(追記)

このSiriというサービスは2012年には日本語にも対応するらしいです。

日本語で自然に話すいろいろな言葉遣いを認識して理解し期待通りの処理が行われるならばすごい技術かもしれませんが、ユーザーの側はやはりどのような話し方をすればよいのか始め少し戸惑うでしょう。

自然言語の認識ではなくあらかじめコマンドとしての定型文が用意されているのかもしれません。



(追記2 2012年3月8日)

Siriというサービスが日本語に対応した模様。

そしてAppleの説明によると次のようになっている。自然な言語でコマンドを出せるらしい。

Siriを応答させるためには、決まった方法で話す必要がありますか?


いいえ。人に話しかけるのと同じように、自然な声と会話的な口調でSiriに話しかけてください。天気予報を知りたい時は「明日の天気はどう?」のように言います。「週末の天気は?」や、「週末の京都の天気は?」と聞くこともできます。どんな聞き方をしても、Siriはあなたにお望みの天気予報をお知らせします。

http://www.apple.com/jp/iphone/features/siri-faq.html#how-get


そして、例として挙げられている「明日の天気はどう?」「週末の天気は?」などで分かるように、「明日の天気を教えろ」「明日の天気はどうでしょうか」というような「教えろ」「でしょうか」といった用言の部分を省くことができるようだ。つまり命令や依頼問い掛けなどの厶ードの要素を明示しなくても済むということだ。命令形も丁寧な依頼の言い方も特に重要でないか不要なのだろう。口調による振幅が大きいのはこうした用言の部分である。名詞を並べるだけの言い方なら口調に依存することはほとんどないので、片言みたいな言い方でも文脈で通じてしまう日本語の柔軟性を逆手に取った上手いやり方とも言えよう。

2011-11-24

Image-LineのGroove MachineはKORGのElectribe EMXによく似ている

Image-LineのソフトシンセGroove Machine(http://www.image-line.com/documents/groovemachine.html)が

KORGのハードウエアリズムマシンElectribe EMX(http://www.korg.co.jp/Product/Dance/EMX_ESX_SD/emx.html)によく似ている。

全体的なデザイン、ボタンの配列、これ一台でダンス系の曲が、リズムからベース、ウワモノまで作れるというコンセプトも、デモ音源を聞くと音の傾向もよく似ている。ドラムパート×8、シンセパート×5となっているところはまったく同じ。

前者が後者を意識して作られたことは間違いないと思う。


Image-Line Groove Machine

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KORG Electribe EMX

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Electribe EMXは昔持っていたことがあるけど、パソコンでの制作に移行し手放した。今また単体で鳴らせる機械を再評価してもいいと思っている。

自動車依存社会の終焉を目指して—6. 自動車が街や地域社会を破壊している

自動車は街や地域社会の衰退と崩壊を引き起こしてきた。

以前取り上げたた○○難民問題(→ )にしても、自動車依存社会の弊害、自動車によって作り出された問題が多いのが分るだろう。

交通難民とは、まさに自家用車の普及が公共交通機関の衰退をもたらしたことによる問題であり、自動車依存社会の弊害そのものである。交通難民問題とも密接に関連する買い物難民もまた、自動車依存の郊外型大型店舗の増殖が中心市街地の衰退やシャッター街化を引き起こしたことで現われてきた問題でもある。

中心市街地が空洞化し生活圏が徒歩圏以上に拡散した上、公共交通機関が衰退すれば生活に支障をきたす。公共交通機関の衰退は、自家用車を持たない人々を直撃し、医療や保育などの公共サービス機関に行くこと自体に多大な困難をもたらしている。

そして、交通にまつわる難民状況を改善する手段として自動車を用いることが、結局はさらに公共交通機関の衰退につながり、全体的には難民状況が加速していくという悪循環で、自動車依存はまさに悪質な薬物の依存症のように社会という生命体を蝕み破壊しているのである。

郊外型大型店舗の台頭によって中心市街地が衰退・空洞化し、次は比較的近い郊外型店舗が、遠いがもっと大規模の郊外型店舗との競争に敗れ衰退する連鎖によって、日常的な生活圏がどんどん拡散して、自動車依存を強めざるをえなくなっていく。

むしろ、自動車を「買わせ」「使わせる」ために、このような生活圏の空虚な拡散が、自動車産業と商業資本との連携によって作り出されているとも言える。

都市においても、かつて路面電車という非常に便利な公共交通機関があったが、東京などの大都会では自動車通行の妨げになるとして廃止されてしまった。

東京では、戦前から市電・都電(路面電車)が非常に便利な公共交通機関として整備され、昭和30年代ごろまでは都市交通の中心的役割を担っていた。本来、道路上に敷かれた路面電車の専用軌道上に自動車の乗り入れはできなかったが、自動車の交通量が増えてくるにつれ、自動車利用の便を計るため昭和34年(1959年)に法改正されて都電の軌道上も自動車が通交できるようになった。すると、自動車の渋滞に都電も巻き込まれることになり都電の利便性が次第に低下していき、自動車が増えるにつれ渋滞が一層ひどくなってますます都電は利用価値が下がり利用者が減少し車からも邪魔者扱いされるようになり、昭和47年(1972年)までには荒川線以外の都電がすべて廃止された。

これもまた、自動車を普及させるために、路面電車の使い勝手を悪くして廃止させたとみることができる。

路面電車の代替としてのバスと本来の路面電車とでは路面電車の方がはるかに利便性に優れている。

大都市では都市交通を担うために莫大な費用と手間をかけて地下鉄網が建設されたが、路面電車がきちんと機能していたら多くは不要であったろう。

都市での路面電車が消えていくとともに地方の鉄道路線も赤字路線であるとして縮小廃止が加速度的に進められていった。そこでさらに自動車依存が強まった。

アメリカの多くの都市でも、20世紀のはじめには路面電車を中心とした公共的な交通サービスが安価で提供され、安定した生活環境を作っていた。

その後、自動車の普及(アメリカでT型フォードの大量生産が始められたのは1914年)によって、多くの路面電車が姿を消した。アメリカの鉄道網は自動車産業及び石油産業によってどんどん潰されていき(1900年代前半のゼネラルモーターズの鉄道買収など)、アメリカは、自動車がなけれ生活が成り立たない社会になるとともに、鉄道後進国となってしまった。

アメリカでのモータリゼーションの弊害による都市や地域社会の衰退・崩壊の過程に、後から続いた日本は何も学ぼうとしなかったわけである。それどころか自動車の普及こそが文明の進歩、経済発展の証であるとする考えに取り憑かれていた。

自動車以外の交通手段はことごとく不便にさせられ、それによって自動車の普及を促すという交通政策が暗黙のうちに進められていったともいえる。自動車はなんと言ってもカネを生み出すものとして経済・産業の中心に位置付けられていたからである。自動車産業は戦後日本の経済の中核・輸出の花形となった。

最近になって交通規則を厳格に運用することで自転車まで使い勝手を悪くさせようとしているとさえ感じる。(→

都市計画においても、ル・コルビュジエ的な、機能別にゾーニングされ広いスペースをとって配置された区域を自動車で結ぶ広々とした「輝ける都市」が理想に見立てられてきた。ここでも自動車依存が前提なのである。前述の生活圏のなし崩し的拡散は、期せずしてそれが最悪の形で実現してしまったものかもしれない。

街や地域社会の様々なあり方が、自動車によって破壊され衰退させられ全国どこでも画一的な姿に変質していったことは、文化の破壊でもあった。

自動車のような乗り物に便利な面があることは否定できない。便利だから普及したわけでもある。しかし、それが現行の自動車である必要はあるのだろうか。

次にはその問題を考えてみよう。


(続く)

自動車依存社会の終焉を目指して—7.「犯人」は誰か?


参考文献

自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)

自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)

社会的共通資本 (岩波新書)

社会的共通資本 (岩波新書)


(承前)

自動車依存社会の終焉を目指して—5. 松本清張「速力の告発」

2011-11-23

面白い猫の動画

先日、面白い動画を見つけました。

二匹の子猫がじゃれ合って遊んでいるところにもう一匹の子猫がやって来て見ているうちにケッケッとなって吐いちゃったので前の猫がビックリ。ちょっとばっちいけどかわいくて面白い。

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ここはどこだろう?

だいぶ前に撮ったこの写真、高いビルの前に小屋のようなコーヒー店が建っているのですが、場所を忘れて不明です。東京のどこかだと思います。

ここはどこなのでしょう。

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(追記)

ぼくの近代建築コレクションの流一様のご教示により、この場所は東京都中央区入船2-1であると判明しました。新大橋通りに面する場所です。

このビルは住友入船ビル(入船ハイツ)というビルです。

このコーヒー店(RICOというお店)は仮設的な建物ではなく、この通りに面して建っていた看板建築が一軒だけ残ってコーヒー店に模様替えしたものと思われます。


(参考)

ぼくの近代建築コレクション ミナト電機、他/入船2丁目

2011-11-22

今日の食べ物 スパゲッティ

朝食に、久々のスパゲッティ。

1.8mmのスパゲッティにママーボンゴレソース。

あさりや野菜が多くてなかなか香ばしいです。

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東京の古いビル 新橋二丁目交差点

新橋駅西口、新橋二丁目交差点の南西の角に建つカーブした壁面と目立つ塔屋をもつ堀商店ビルは、この場所のランドマーク的な建物として現存しています。

昭和7年(1932年)建築の4階建てビルです。堀商店は老舗の鍵屋さんです。

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この画像は15年ぐらい前に撮った写真ですが、堀ビルの両側のビルは現存せず新しく高いビルに建て替わっています。

この時、堀ビルの外壁は少し傷んだ様子でしたが今はきれいになっています。

港区新橋2-5。

2011-11-21

レッド・ツェッペリン「Carouselambra」

レッド・ツェッペリンのラストアルバム『In Through The Out Door』(1979年)の5曲目「Carouselambra(ケラウズランブラ)」という曲は、ホウダウン(アメリカのフォークダンスの一種)ふうの曲なんだけど、わりとタイトで均一的なビートだし、後半でシンセがシーケンスフレーズっぽく入ってくるあたりも、当時のニューウエーブやテクノポップを意識した作りなんだろうと思うとなかなか面白い。

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OpenOfficeが不具合で使えない

そろそろMacOSXを10.6から10.7にしようかと思って、そうなると使えなくなるPowerPCアプリのExcel2004などの替わりにしようと、フリーのOpenOfficeをダウンロードして起動してみたらマウスポインターをちょっと動かすだけですぐクラッシュして使い物にならない。何度試してもダメだった。とくにポインターを左上に移動すると必ずクラッシュする。

コンソールメッセージに現われるkCGErrorFailureというのがどうやらJava関係のエラーを指しているらしいが、こんな不具合が出るケースはいろいろ当たっても見当たらず対処法も分らない。

どうしたものか。


(追記)

OpenOfficeの現時点の最新バージョン3.3だとクラッシュするので、古いバージョン3.2.1をダウンロードして起動してみたら、JRE(Javaランタイム環境)が見つからないとかいったアラートが出たがひとまず落ちることもなく正常に使えるようだ。Excel2004のファイルを読むこともできた。


(追記2)

と思ったら、やはり操作中にクラッシュする。これもJava関係のトラブルらしい。

そして、言語設定や、文字種類選択などの、文字に関る操作でもクラッシュする。これはバージョン3.3でも同じだった。


(追記3)

コンソールに現われるエラーのメッセージは

WindowServer[82] kCGErrorFailure: Set a breakpoint @ CGErrorBreakpoint() to catch errors as they are logged.

となっている。

これはMacOSXでウインドウの動きを司っているWindowServerがマウスポインターの位置を把握できなくなるエラーらしい。


(追記4)

文字の種類などを変更中にフリーズしてしまう時のコンソールメッセージは以下のようなもの。

com.apple.launchd.peruser.501[104] ([0x0-0x39039].org.openoffice.script[283]): Exited with exit code: 79


とりあえずOpenOfficeはアプリケーション本体も関連ファイルも含めすべて削除した。

下手にいじっていると他のアプリやシステム自体までおかしくしてしまいそうだから、またあらためて検討してみよう。


(追記5)

OpenOfficeと同等の兄弟ソフトLibreOfficeもインストールしてみたがさらに不安定で起動後すぐにクラッシュやフリーズといった状態だった。これも即行削除。

迫力のある雲

昨日、ステーキを食べた後、南武線矢川駅から道を南に下っていった。甲州街道を越えるとさびれた雰囲気になってくる。

そしてこの日は雲に奇妙な迫力があった。重たい雲の層が流れているように見える。


ミキサー車が並んでいる。

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雲が迫ってくるような感じ。

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畑や林、用水路もある。

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電線に鳥がびっしりとまっていた。このあと一斉に飛び立った。

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2011-11-20

今日のお食事 ステーキ

南武線矢川駅南口の万世でランチメニューの黒毛和牛ステーキ130g。

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肉アップ。

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量は少なめですがゆっくり食べて満足しました。

オロニム oronym ぎなた読み

連なっている単語の語の切れ目の位置を誤って判断し別の意味だと解釈してしまうものをオロニム oronym という。例えば 'ice cream' と聞いて 'I scream' だと解釈するような場合。

日本語だと「ぎなた読み」がこれに似た例。(「弁慶が、なぎなたを持って」→「弁慶がな、ぎなたを持って」)

漢文では句読を誤るような場合。

分かち書きをしない日本語や漢文では文字で書かれたものを読む際にも区切る位置を誤ることがある。

2011-11-19

時間が足りない

「時間が足りない」とはほとんどすべての人が感じることであろう。

足りない時間の中で人生を送るには、なすべきことを絞り込まなければならない。何をやるか選択しなければならない。何かを選択するということは選択しなかったものごとを捨ててしまうということでもある。惜しいけれど捨てなければならないことの方が多いのである。

いつまでも選んでいては前に進めない。

人生に無限の選択肢があるとしたら幼児のうちだけである。幼児的全能感とはこのことでもある。

数日前に食べたレトルトカレー

数日前に食べたレトルトカレー

S&Bなっとくのカレー。懐かしいタイプのオーソドックスなカレーでした。大辛となっていますが辛いもの好きの自分の基準では辛さはまだ物足りないです。

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2011-11-18

東京の古いビル 新宿歌舞伎町

新宿歌舞伎町の北東の端、新宿七丁目交差点から少し西に入った所に、古びて良い味わいを醸し出している三階建てビルがありました。

増築を重ねているようですが原形は昭和20年代ごろの建物でしょうか。

小林平三商店という会社でここは氷卸部となっています。この店?は新宿に本店がある三平ストアの関連企業のようです。(Wikipedia三平ストア参照)

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2011-11-17

自動車依存社会の終焉を目指して—5. 松本清張「速力の告発」

この項では松本清張の小説「速力の告発」を紹介しよう。


「速力の告発」は「週刊朝日昭和44年3月21号から5月16日号まで9回にわたって連載された交通事故と自動車問題をモチーフにした中編である。

昭和44年(1969年)といえば、交通事故死者数がピークを迎える時期である。この年の交通事故死者数は16257人、戦後最悪となったのは翌年昭和45年の16756人である。昭和44年の交通事故死者数は前年昭和43年の14256人から一挙に2000人も増え、前年からの増加数としては最大であった。


さて、この小説のストーリーは次のようなものである。




家電販売店店主の木谷修吉は妻と3歳の息子を車に撥ねられて亡くしてしまう。

事故を起こしたのは25歳の青年だった。彼、吉村紀久雄は一流企業勤務のサラリーマンで入社一年目にボーナスで念願の自動車を購入したのである。その車は速度や加速度に優れていてスピード志向の若者の心を捉えたのであるが、追い越しのためにスピードを上げすぎたことが運転ミスにつながり事故を起こしてしまったのであった。スピードを緩める暇もなくバス停の人込みに突込み、木谷の妻子の命が奪われた他、三人が重傷を負った。運転者の吉村はかすり傷一つ負わなかった。

吉村紀久雄は非常に責任を感じ、木谷のところへは頻繁に足を運び許しを請い仏壇の前にひれ伏した。

木谷は事故の責任の重さに次第に憔悴していく吉村の様子を見るうちに憎めなくなっていった。吉村は一流企業のサラリーマンとはいえ家庭は豊かではなく、父親は安月給の下級公務員、下には学校に通っている弟妹もいる。吉村は他に重傷を負わせた三人にも補償しなければならないので、金銭的負担も重圧である。結婚費用ももはや捻出できないので婚約者に破談を申し込むとあっさり了承された。さらに吉村はこの事故のため会社での出世ももはや望めないかもしれない。

そのようなわけで、木谷は事故を起こしたのが吉村であるとはいえ、彼一人に咎を負わせるべきことではないと考えるようになり、吉村とは示談とし、裁判でも減刑嘆願した結果、吉村は禁固一年執行猶予三年となった。

スピードを謳い上げる自動車の広告を見て、妻子の命を奪った真の相手は吉村ではなく高スピードの車を大量生産している自動車メーカーこそ加害者ではないか、と木谷は思うようになった。


木村は自動車の最高速度を80キロまでしか出ないように法規制すべきだと思った。

木村は自動車メーカーを訪れてその持論を展開するが、メーカー担当者からはスピードこそ文明の基本だとか運転者のモラル論だといった対応をされ、ある学者の論文だとして、交通事故を防ぐためには自動車道路の拡幅が急務である、という趣旨のパンフレットを示される。そこで木村は、車の販売量に道路の拡張がとても追いついていないことを指摘する。粘った末、社長秘書室長に会った木村は、自動車の速度を80キロ以下にすることと、道路が拡張整備されるまでのここ3年間は自動車の製造を中止することを求めるが、受け入れられない。

木村は各自動車メーカーに同様の申し入れをしたが埒が明かない。


木谷は、近所の人の話で、自動車で死亡事故をおこして自責の念でおかしくなりかけている男の存在を聞く。

木村は彼が出所したばかりだという千葉の交通刑務所を訪れて事情を聞き見学すると、たまたま講演に穴が開いたための代わりの講師を頼まれる。

木谷はその講演で収容者を前に持論を展開し、本当の人殺しはあなた方ドライバーではなく自動車メーカーだと言い、事故を起こしたドライバーは刑務所でこうやって苦しんでいるのに、メーカーの重役はなんら責任を問われず、儲けた金で政治献金して国家権力の庇護を受けている、ここの囚人は自由の身にして、自動車メーカーのボスたちを刑務所に入れるべきだ、社長は処刑してもよい、などと述べた上、自動車産業糾弾の国民運動を起こしたいから皆さんの助力をいただきたい、とやったため、囚人たちは大歓声をあげ、刑務所の職員たちは狼狽した。


木谷は主張を各新聞社にも投稿したが採用されない。問い合わせても載せるか載せないかはこちらで判断していると言われる。

事情を知るものから、新聞社は大広告主である自動車メーカーを憚るのでそんな主張を掲載できるわけがないと教えられた。

雑誌社に投稿しても結果は同じであった。


木谷は通産省の自動車管轄の局長に面会を申し入れたが代議士の紹介がない面接は受け付けられないと断られるも、結局担当の課長補佐に会った。

課長補佐に自説を言うと、自動車の販売停止については商売の自由人権の自由を犯すことになるから命令することはできないし、道路のゾーニングなどの交通行政については運輸省、道路整備については建設省の管轄だと云う。

たらい回しの態度に木谷が苦情を言うと、課長補佐は、自分の口から出たと言っては困るが、運輸省に言って陸運局が新車の三年間運転許可を与えないようにすれば乗れないから車は売れなくなる、というアイディアを出す。

木谷が運輸省陸運局に行ってそのアイディアを伝えてみると、担当者は、そんなことは人権侵害になるからできないが通産省なら行政指導ができると言う。

そのようなことで、木谷は通産省と運輸省の間を往復するも、結局何の成果も得られなかった。


そのころ、木谷には、吉村紀久雄や交通刑務所で講演した縁で出所者が何人か同志になっていた。木谷が彼らととも結成した「自動車産業対策運動期成会」は、自動車問題をアピールするために、特に渋滞道路を狙ってある計画を実行する。




この作品は推理小説だから、ようやくここから事件が動き出すのだが、結末はここまでの設定での本筋のテーマとは直接関係のない事件になっていくので、推理小説として破綻していると言えなくもない。

しかしそんなことよりも、この自動車問題こそが作者の訴えたかったテーマであり、小説の形で書いてみたものなのであるから、それこそが重要である。

主人公木谷修吉の口を借りて出る、自動車、特に自動車メーカーへの糾弾が圧巻なのである。


小説中で木谷が記した手記は云う。

「この豪華や優美が車の魔力でもあります。車内は一流ホテルのロビーか金持の家の応接間のミニチュアを思わせます。」

「息苦しいほどせまい家やアパートに住む不満を、人々は車という『文化小住宅』を持つことによって快適感に変えようとしているのです。スピードとこの近代的快適感を利用者は『文明』だと錯覚しているのです。」

自動車メーカーが与えた殺人につながる危険な錯覚です。」

自動車メーカーは、それは車が悪いのではなく、運転者の心がけが悪いのだと云っています。運転者が気をつければ事故が起こるはずはなく、車が凶器となるはずはないと云っています。」

「彼らはこう云っています。『車が人を殺傷する凶器だというのは、台所の包丁が凶器だというのと同じである。包丁を使って殺傷事件が起きたからといって、包丁を世の中から無くすことができようか』ところが、この云い方には重大な論理のスリ替えがあります。台所の包丁が凶器になるのは、犯人がそれを凶器として使用するという意識があってのことです。つまり、犯意があっての凶器です。しかし、車の運転者は意識して人身事故を起こしたのではないのです。犯意はまったくないのです。その意思にそむいて相手を殺傷したのです。」

「はじめから犯意をもって使用する台所の包丁と同じ次元に立って、『包丁は凶器だから作るなというのと同じ議論です』などと業者が云うのはごまかしの言い訳です。」


このあたりの状況は現在とまったく変わらないし、今でもときどき持ち出される類いの短絡的な自動車擁護論・規制反対論がすでにこの時点できっぱり退けられているのが分る。


交通事故の死傷者が激増し交通戦争といわれていた時期に「社会派」松本清張が放った、凶器である自動車を製造販売しても社会的責任を果たさない自動車メーカー及び業界べったりの行政に対する痛烈な批判であった。


「速力の告発」は『分離の時間』(新潮文庫)に収録されているが、この本は残念ながら絶版になっているようである。


(続く)

自動車依存社会の終焉を目指して—6. 自動車が街や地域社会を破壊している


(承前)

自動車依存社会の終焉を目指して—4. 自動車の社会的費用

2011-11-16

こたつを出した

寒くなったからこたつを出した。

去年は10月28日に出しているので今年は半月遅い。

が、暖冬になるのかと思ったらそうでもないかもしれない。

今日のお食事 スタ丼屋のピーカラ丼と豚汁

スタ丼屋のピーカラ丼。肉がたくさん食べたかったので、肉の増量のうえ、味噌汁も豚汁にしてみました。

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2011-11-15

今日のお食事 ラーメン

新宿の桂花で太肉麺。

通常は二つの太肉が15日までは三つ乗るサービスをやっているのを見て久しぶりに食べました。

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2011-11-14

大久保にいた猫

駐車場で熱心に毛づくろい中。

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この子猫は目やにがたまっていて身体の具合が悪いのかもしれません。

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新宿区大久保一帯

新宿区の大久保一丁目(歌舞伎町の北側で大久保通りの南側の辺り)に行ってみたら韓流の観光地化していました。人出が多くてびっくりしました。韓国料理店・食料品店などは以前から目立つ場所でしたが、さらに路地にも韓流グッズの店が沢山できていて大勢の女性で賑わっていました。女性向けのお菓子の店もありました。

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賑わっている通りから横の道に入ると家やアパートなどが密集するごちゃごちゃした住宅地です。私が学生の頃このあたりを歩いていた時はこんなイメージでした。

下見板張りの古い家があったりもします。

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ここは韓国料理店。

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このドンキホーテ韓流が充実した品揃え。

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軍艦マンションと呼ばれているニュースカイビル(第3スカイビル)。

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2011-11-13

断食で空腹

断食で空腹の時は自分のラーメン画像を見ても食欲が刺激されてつらいが見ることで食べた気にもなる。

ゲイの発展場が公然猥褻で摘発された件

ゲイの乱交クラブが御用


警視庁保安課は1日までに、男性客3人がわいせつな行為をしているところを容易に店内に見通せるようにしたとして、公然わいせつほう助容疑で、東京都新宿区北新宿1丁目の社交クラブ「デストラクション」経営の増田浩容疑者(38)と従業員1人の計2人を逮捕した。保安課によると、増田容疑者らは「店内なので公然わいせつにはあたらないと思った」と容疑を否認している。

 先月29日午後6時25分ごろ、男性客3人が店内でわいせつな行為をしているところを、カーテンだけで区切ったりのぞき穴を設けたりして、店内に容易に見通せる状態にした疑い。警視庁の捜査が入り、従業員1人が現行犯逮捕され、家宅捜索などを経て、30日に増田容疑者が逮捕された。同店で性行為をしていた3人の男性客も公然わいせつ容疑で現行犯逮捕され、すでに釈放されているという。

 同店は、男性同士が性行為をするための社交場で、いわゆる「ハッテン場」と呼ばれている。十数年前から営業しているという。経営するグループのホームページには「短髪・ガタイ野郎の雄盛り乱交合宿所」などと紹介されている。24時間営業で、入場料は500〜1500円で、年齢が若いほど安い。月に約400万円の売り上げがあったという。同店の関係者によると、警察が踏み込んだ当時、店内には約20人の男性客がおり、服を着ていた客も聴取を受けたという。

 同店が入るビルの別のテナントに勤務する30代の男性は「やけに体格のいい丸刈りのお兄さんや、弱々しい感じの細い男性が入っていくのを見たことはありますが…まさかそういったことが行われているとは」と驚きを隠せなかった。近隣の女性住民も「知らなかった。近所にそんな店があったなんて信じられない」と絶句。“知る人ぞ知る”、秘密のスペースだったようだ。


 ◆ハッテン場 同性愛者の男性が集まり、出会いを求める場所。「面識のない不特定多数の男性と性行為をするまでに関係を“発展”させる場所」、という意味が一般的な語源とされる。屋内のハッテン場は、1回利用するごとに1500円程度かかる個室付きのスペースやサウナなど。年齢や体格によって「短髪・体育会系」「39歳以下限定」「SM系」など、店舗ごとにジャンル分けされていることが多い。野外では公園や公衆便所などが利用される。同性愛者に詳しい関係者によると、00年以降、野外のハッテン場で同性愛者を狙った暴行事件が起こり死者も出たことや、インターネットの普及で容易に店舗を発見出来るようになったことから、屋内のハッテン場が数を伸ばしているという。


[2011年11月2日7時41分 紙面から]

日刊スポーツ


ゲイのハッテン場が公然猥褻幇助で摘発されたというこの件は、「容疑者らは「店内なので公然わいせつにはあたらないと思った」と容疑を否認している」の方がほんとうは正論ではないでしょうか。

裸体になることも承知の屋内施設、来るのは同性だけでみんなそれを承知している所において公然猥褻が成り立つのでしょうか? ならば銭湯や温泉なども猥褻になるのでしょうか? 密室空間であっても不特定多数の前でのあからさまな性行為がいけないのでしょうか?

男女間での性的施設は風営法などで規制されていろいろ厳しい規制がかかっています。ゲイのハッテン場はその対象外になっていた経緯もあるようです。摘発されたのは今回がはじめてのケースだそうです。本当は公然猥褻は厳格に適用しはじめればかなり厳しいものになるともいいます。ゲイのハッテン場などはある種グレーゾーンだったようです。

とすれば、今回のゲイのハッテン場の摘発は、つまり、「性行為は特定の(恋愛関係、夫婦またはそれに準ずる関係の)相手と二人だけでやれ、不特定多数が集まっての乱交的な性行為はイカン、それが異性愛同性愛とわず性行為のルールである」という規範の強制に繋がっていくのではないでしょうか。

実際、警察のそのような指導があったのかは分かりませんが、全国のハッテン場では、それまで露出や乱交をセールスポイントにしていた店でも一斉に、「露出・全裸禁止」「必ずアンダーウエア着用」や「乱交や他の客の見ているところでの性行為禁止」「性行為は必ず二人だけで個室利用」へと方針転換を打ち出しているようです。そうしないと今回の店のようにいつ摘発を受けないとも限らないからでしょう。

異性愛においては性的放縦とみなされる行為は同性愛でも同じようにみなすべきなのか、私にはよく分かりません。


(追記)

ネット上の情報によると、摘発事件があった後、ハッテン場の経営者たちがどうすれば公然猥褻に当たらないか警察に聞きに行ったらしいです。そこで警察から指導されたのが上記のような条件だそうです。となると、やはり性行為についての規範が指示されたことになります。

2011-11-12

自動車依存社会の終焉を目指して—4. 自動車の社会的費用

この項では主に、宇沢弘文『自動車の社会的費用』(1974年)に基づいて述べる。


経済学者の宇沢弘文氏は次のように述べている。

「自動車はじつは、ガン細胞と同じように、経済社会をもやがては破壊する性格をもっていたが、人々がこのことに気付くまでにすでにかなりの期間が経過してしまっていた。」

「しかも自動車については、ガン細胞よりはるかに困難な問題が含まれている。というのは、自動車は経済社会の中で有用なはたらきをしている面があって、有害な面だけを切り離すことが不可能に近いからであり、また生物体とは異なって、経済社会を構成する個々の細胞は人間だからである。」

そして自動車は交通事故や公害や自動車優先で人間軽視の道路のあり方などさまざまな害毒を社会に及ぼしているから、

「自動車の普及によって、他人の自由を侵害しないかぎりにおいて各人の行動の自由が存在するという近代市民社会のもっとも基本的な原則が崩壊しつつある」

という。

近代社会市民社会のもっとも特徴的な点は各市民がさまざまな形での市民的自由を享受する権利を持っているということであり、この基本的な権利には、職業や住居選択の自由、思想信条の自由の他に、「健康にして文化的な最低限の生活を営むことができるという、いわゆる「生活権」の思想をも含むものであり」、「このような基本的な権利のうち、安全かつ自由に歩くことができる「歩行権」は市民社会に不可欠の要因であると考えられている。」

しかしながら、

「自動車通行によって基本的な生活が侵害され、市民的自由が収奪されている。」

すなわち、

「自動車通行によって、歩行者の安全を阻害し、住宅環境を汚染・破壊しているにもかかわらず、あえて自らの私的な便益を求めて自動車を使用している。」

このような自動車通行による市民への被害が無視できないものになっているところでは

「自動車を所有し、運転することは、各人が自由に自らの嗜好にもとづいて選択できるという私的な次元を越えて、社会的な観点から問題にされなければならない」

とする。

ここから、自動車の社会的費用、という概念が導かれる。

宇沢弘文は

「自動車の普及のプロセスをたどってみると、そのもっとも決定的な要因のひとつとして、自動車通行にともなう社会的費用を必ずしも内部化しないで自動車の通行が許されてきたということがあげられる」

という。

「ある経済活動が、第三者あるいは社会全体に対して、直接的あるいは間接的に影響を及ぼし、さまざまなかたちでの被害を与えるとき、外部不経済(external dis-economies)が発生しているという。

外部不経済をともなう現象について、第三者あるいは社会全体に及ぼす悪影響のうち、発生者が負担していない部分をなんらかの形で計測して、集計した額を社会的費用と呼んでいる。」

宇沢弘文は次のように云う。

「経済活動にともなって発生する社会的費用を十分に内部化することなく、第三者、とくに低所得者層に大きく負担を転嫁するようなかたちで処理してきたのが、戦後日本経済の高度成長の過程の一つの特徴でもあるということができる。」

この言がある『自動車の社会的費用』が著されたのは1974年であるが、この指摘は40年近く経った現在に到っても、日本のさまざまな矛盾の根源を指すものとして完璧に当てはまっている。負担は常に低所得者や社会的弱者に転嫁されるかたちで経済活動が行われ、それがさらに多くの貧困者や社会的弱者を生んできているのである。

自動車依存社会もまさにそのプロセスで進行している。


さて、宇沢弘文は自動車の社会的費用を計測する前提を次のように置く。

「いま、歩行、健康、住居などにかんする市民の基本的権利の内容について、ある社会的合意が成立しているとしよう。自動車の通行をこのような市民的権利を侵害しないようにおこなうとすれば、道路の建設・維持にどれだけの追加的な費用を必要とし、自動車の無公害化のためにどれだけの投資をしなければならないか、ということを計算する。」

そして

「この追加的な投資額に、現在の道路建設費を加え、自動車通行者が負担している額を差引いたものが、ここで定義しようとする自動車の社会的費用である」

として

「自動車通行の社会的費用の内部化ということは、ここに定義された社会的費用を自動車通行者が適当な方法によってすべて負担するときに実現される。すなわち、自動車通行は市民の基本的権利を侵害しないようなときにのみはじめて許され、しかも、そのような道路建設なり交通安全施設の整備・維持費がすべて自動車通行者によって負担されているときにはじめて、自動車通行にかんして社会的費用が内部化されたということができる」

とする。

そこで、道路構造においては、歩車道が完全に分離され交通事故の発生率が限りなく低くなるようなものでかつ歩行者があるきやすく、また住宅環境を破壊しないような措置が講じられたものとなる。歩道と車道の間には充分な緩衝帯や並木が設けられ、自動車の騒音や排気ガスを防ぐような装置が不充分であれば、一層それが効果的に整備されていなければならない。

自動車が普及する以前は、道路はまた生活空間としても使われていたのだが、自動車通行によってそれが奪われてしまったので、それを補うような施設の建設も必要になる。広場・公園や子供の遊び場といったものである。

道路についてみれば、そのような道路構造の変更には、道路幅を片側4メートル両側で8メートルの拡張が必要になり、そこに歩道・緩衝地帯を整備するために用地費と建設費がどれだけかかるかと計算すると、東京都の2万キロメートルの道路においては24兆円の投資が必要になると試算する。その道路網を利用する自動車の台数を200万台として自動車1台あたり1200万円となる。

宇沢は、これを自動車利用者にどのように負担させるかについては、1200万円の投資額に対する年々の利息分を自動車1台あたりに賦課する方法を提案する。それは利子率や物価水準などからみて自動車1台あたりの年間賦課額は約200万円となる、とする。

(これは1974年の物価水準・貨幣価値だから現在ならその2倍程度の400万円となるだろう。物価および物価関連統計の推移参照)


宇沢弘文は、この数値は仮設的なものにすぎないが、自動車の社会的費用の大きさを知るための一つの尺度となりうるだろう、とする。

同じ頃(1968年)運輸省が同様の自動車の社会的費用を見積もった額が1台あたり7万円、それに反論のかたちで自動車工業会が算定した値が1台あたり約7000円であるのと比べても、宇沢が求めた金額の大きさが分るだろう。

道路の整備は行われても、宇沢弘文が提案するような人間的な道路のあり方にはまったくなっていないのが現状だから、宇沢の根拠は現在でも有効であろう。


自動車依存社会から人間中心社会への転換はすぐにはできないだろう。

だから自動車の社会的費用は自動車のためにわれわれから奪われてしまったものの費用ということでもある。この社会は自動車の持つ僅かばかりの利便性と引き換えにもっと大きな市民的自由や生活の豊かさを譲り渡し失ってしまった。それを仮に金額としてあらわしたものとなる。

また、この自動車1台あたりに賦課される年額200万円なり400万円なりは自動車使用者が社会へ収めるべき迷惑料であるともいえよう。その社会的責任を果たさないままで自動車利用が行われてきているわけである。*1


経済理論の主流であった新古典派の理論は外部不経済や社会的費用という問題にほとんど注意を払ってこなかった、外部不経済を例外的な現象としかとらえてこなかったため、そのような考えで運営される経済社会は自動車の社会的費用にも無関心のまま自動車の普及がただ押し進められてきた、と宇沢弘文は指摘する。

新古典派はもっぱら非現実的ないくつかの仮定から導かれる形式論理の精緻性の追及と市場における資源の配分の効率性をテーマとしていたという。そこでは完全競争的な市場機構への信仰的な執着があり配分の公平性には触れようともしなかったという。*2


戦後日本経済は自動車産業とその関連産業が中心であり、自動車を作って国内外に売って稼ぎ、自動車のための道路建設の公共事業が地域経済を支えたが、自動車の社会的費用の問題は省みられることもないままできたわけである。

それが取り返しのつかない状況をもたらしてしまったのである。


自動車の社会的費用という観点からすれば、政府が自動車の消費を盛んにさせようと自動車取得税の廃止を考えていること(→ )は時代に逆行する転倒でしかない。自動車はもっと重税を課されこそすれ減税などはとんでもない。その予算は自動車依存社会から人間中心社会派の転換に使われるべきであろう。


ところで、宇沢弘文が、自転車については歩行者に危険を与える場合があるから社会的費用は無視できないので自転車専用レーンを作ったりスピードを規制したりして社会的費用の内部化をはかることがある程度必要になる、と述べているのは、現在、自転車が歩道を走るのは歩行者が危険だから車道を走らせた方がいいが自転車レーンの整備が必要であるという議論を、すでに指摘していたといえる。


『自動車の社会的費用』から26年後に著した『社会的共通資本』において宇沢弘文は、「日本の経済社会の発展は、私がまったく予期しなかったようなかたちで起こってきたし、自動車の保有台数、都市の形態もまた、私が期待したのとはまったく正反対の方向に進んでしまった」と嘆息するが、「しかし、同書で展開した、自動車の社会的費用にかんする理論は現在でも、あるいはむしろ現在においていっそうの緊急度をもって妥当し、人間らしい都市の形成を考えるさいに、いぜんとして重要な役割を果たすのではないかと思われる」と強く述べている。


「飛び出すな車は急に止まれない」という交通標語があった。

これほど人間をバカにして軽視したものもない。考えてもみよう。そもそも、そのような道には車を走らせるべきではなく走らせたとしても車の方がすぐ止まれる程度の速度で走るべきであるという当たり前のことがそっくり逆さまにされてしまっているからである。車中心社会の横暴とも言える標語であろう。

自動車は当たり前のように道路を走行しているが、そもそもそれは何の権利に基づくのか、そこから疑う必要もあるだろう。



参考文献

自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)

自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)

社会的共通資本 (岩波新書)

社会的共通資本 (岩波新書)

(続く)

自動車依存社会の終焉を目指して—5. 松本清張「速力の告発」


(承前)

自動車依存社会の終焉を目指して—3. 交通事故の賠償の問題(被害者に酷で加害者に甘くできていること)

*1:自動車にそれほどの巨額が賦課されたら自動車を利用して成り立っている産業に影響を与えずにはおかないから、そのコストは結局さまざまな物価に転嫁されて人々の生活を圧迫するのではないか? という疑問が生じるかもしれない。宇沢弘文はその問題には直接的には答えていないが、自動車のコストが高くなれば自動車に対する需要も低くなると述べ、「したがって、支払い能力があり、支払う意志を持つ人だけが自動車を所有し、運転できる、という市場機構的な原則が貫かれるべき性質のものであるといえよう」「自動車通行は市民の基本的権利を構成する要素ではなく、むしろ、選択的なかたちで消費されているものであるということができる」(『自動車の社会的費用』156〜157ページ)というように、無理に自動車を使う必要はないのである。鉄道と比べてみよう。鉄道を私的に所有し使用しようと思ったら莫大なコストがかかるだろうが、それが公共交通機関として維持運用されることで多くの人や貨物の輸送に比較的安価に供せられるわけである。

*2:現在、新自由主義とか市場原理主義とかいわれている指向は、この新古典派経済学に連なるものである。

2011-11-11

数日前に食べたレトルトカレー

数日前に食べたレトルトカレー。

セブンイレブンのインド風チキンカレー。ちょっと風味が足りないような感じでしたがコンビニのだからまぁこんなものなのでしょう。

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2011-11-10

断食中断

一昨日から断食していたが空腹を鎮めるためにお菓子を食べる。

ホワイトロリータとコーヒー。

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2011-11-09

ブログの色変更

11月になったので、ブログの色を冬仕様の暖色に変更しました。

2011-11-08

自動車依存社会の終焉を目指して—3. 交通事故の賠償の問題(被害者に酷で加害者に甘くできていること)

交通犯罪の加害者がきわめて寛容に扱われていることは、交通犯罪の償い、すなわち交通事故の賠償においてもみてとれる。


人が命や健康を奪われたり心身を傷つけられたりすることは、そもそもいかなる方法によっても償えないものである。失った命や健康を元通りに回復することはできない。命も健康も金では買えない。人身事故の損害賠償は本来は不可能なのである。

しかし、現実に金銭で賠償が行われているのは、それ以外に方法がないからである。仕方なく行っているにすぎない。

命や人身に値段が付けられることは被害者にとって辛いことである。従って金銭での賠償は被害者に誠心誠意を尽くして行われなければならない。

金銭が係わる問題だから金額をいかに算定するかということは重要である。

しかしそれは、被害者や遺族が納得できるようなあり方になっているとは、とてもいえないのが現状なのである。現在行われている賠償はさまざまな問題を孕んでいる。


賠償には、治療費など被害者が直接的に支払いを余儀なくされる費用(積極損害)に関するもの、被害者が事故によって得られなくなってしまった損害(消極損害)に関するもの、そして慰謝料がある。

消極損害とは逸失利益といわれるものである。特にこれについて述べてみよう。

例えば死亡事故の場合、その人が死なないで生きていたら今後どのぐらいの金銭的利益を得ていたかを算定して、その金額が逸失利益として遺族に支払われる。

大学生が死亡した場合なら、この先就職して就労年限まで働いていた場合の生涯収入が逸失利益とされる。賠償は年ごとの分割払いではなく一括で支払われることから、その全額を運用して得られるだろう利息分が生涯収入として算定した額から割り引かれたものが、実際に賠償として受け取る金額となる。(中間利息の控除)

その利率は多くの場合、年5%として計算される。この利率を単利とするのがホフマン方式、複利とするのがライプニッツ方式である。

大学生の死亡事故なら、逸失利益を求めるのに、就労期間を67歳までとおいて、年間所得額を初任給とみなしそこにホフマン方式による係数を掛けた金額、または年間所得額を全年齢平均賃金とみなしそこにライプニッツ方式による係数を掛けた金額が、すなわち利息分が減額された金額が賠償として遺族に支払われる。

金額については場合場合があって上記二方式のどちらが高額であるかは一概に言えないが、賠償について裁判になる場合、前者が関西地方で用いられ、後者が関東地方において用いられるなど、裁判所の管轄によって用いられる方式がはっきり分かれている。

(利息分の減額において複利で計算した方が単利で計算するよりも減額率は大きくなるし、平均年収には初任給を用いるよりも全年齢平均賃金を用いる方が一般的に額が大きくなるだろう。そこで、単利(ホフマン方式)を採用する時は初任給と組み合わせ、複利(ライプニッツ方式)を採用する時は全年齢平均収入と組み合わせ、どちらによっても額が大きく変わらないようにバランスを取っているという)


しかしいずれにおいても、逸失利益という考えであってさえ、全く不充分な金額にしかならなのである。現実と比較してせいぜい生涯収入の十数年分程度しかカバーされていない。

さらに割り引くための利率が5%とされているのは民法の規程によるとはいえ、超低金利時代の現代において全く実情に合っていない。

利息を見込んで割り引くというのは結局将来の経済成長を前提に置いていることになるが、それならば初任給にせよ全年齢平均にせよ現在の給与水準を元にして生涯年収を算定することと矛盾していると後掲の参考文献では指摘されている。つまり賠償額を減額させる割引きは不要であるという。

そして、男女に賃金格差があることに限っては現実として認められ、女性の方が賠償金額が低く見積もられることも起こっている。そこでは、現に存在している男女の賃金格差が将来において解消していると認め得る積極的な証拠を見出せない、などとして将来にわたって男女の賃金格差が存在することが前提とされてしまうのである。

逸失利益という考え方自体が人間をただ金銭的価値を生み出す道具としてのみとらえてその他の面は捨象していることはいうまでもない。


このように、支払われるべき賠償においても、被害者に極めて不利な仕組みになっていて、すなわち加害者に有利にできている。加害者に甘く被害者に酷なのである。

自動車事故の賠償金を支払う加害者とは実質的に保険会社であるから、保険会社に得になるようなシステムになっているわけである。保険により直接の加害者は賠償の支払いという厳しい役目に関らずに済んでしまう。


刑罰においても交通犯罪・交通事故が寛刑であることは先に述べた通りである。(→

なぜ交通犯罪ではこのように加害者に寛容で、保険会社にも有利になっているのであろうか。

簡単にいえば、要するに誰でも交通事故の加害者になりうる立場なのだから、車社会を維持するためにも加害者をあまり責めず被害者には多少泣きを見てもらうことも仕方ない、という非人間的な考え方によるものなのである。人間よりも自動車を重んじているのである。自動車で成り立っている自動車依存社会が、所与のものとして、必然のものとされて、人々を圧迫してくる。

これは強者の論理、いわば犯罪者の論理である。

社会を交通犯罪の共犯者の仲間とし、つまり加害者側に立たせて暗黙の社会的圧力により被害者を泣き寝入りさせている。(後述の参考文献、二木雄策『交通死』では、このことを、航空機事故などと違って自動車事故は誰でも加害者になりうる立場だから、「人は誰でも自分自身は正常であり、犯罪者ではないと考える性向を持っているからである」「事故の加害者を厳しく追及することは、自分自身が厳しく追及されることになる」と言っている)

社会全体を加害者の仲間に引きずり込み、お前もやるんだから人のやることも許せという構造は、少し前まで飲酒運転が大目にみられ寛容に扱われていたことと全く同じである。みんな飲んで乗るんだからいいじゃないかとして飲酒運転があまり咎められないできた。

さすがに今は飲酒運転は厳しく扱われるようになったが、交通犯罪全体においてはまだまだ加害者に寛容・保険会社に有利すぎるので、自動車依存社会・車中心社会から人間中心社会へ移行していくために、被害者がきちんと償われるようにしなければならない。

(自動車事故を起こして人を殺傷させた加害者もまたある意味自動車依存社会の被害者といえるかもしれないが、彼らを犯罪者扱いしたくないし自分もそのような犯罪者になりたくないとしたら、交通犯罪を寛刑・加害者を寛容な扱いで済ませて取り繕うのではなく加害者を生まないように自動車依存社会から人間中心社会への転換こそが必要なのである)


保険金額において保険会社に甘いということはそのような金融資本を持つ経済社会に甘いということである。しかし自動車が癌細胞のように経済社会をも蝕んでいることをよくよく考えねばならない。

現在のところ自動車が何かしらの必要悪であったとして、その自動車依存社会をかろうじて支え成り立たせているのが保険制度だとしてもそれは全く不充分なものにすぎないのである。


そして、自動車保険にはさらに暗黒部分が存在している。

保険金の不払い問題である。近年特に自動車保険の不払いが激増している。支払うべき保険金を、何かと理由をつけて出し渋る不払い行為が自動車保険を扱う大小ほとんどの保険会社で横行し、最近発覚しただけでも百数十万件にものぼる膨大なものとなっている。

保険会社は営利企業だから、保険金を払わないでいれば利益は上がるだろうが、自動車保険は社会の安心を成り立たせているシステムなのだから、不払い行為はその安心を土台から突き崩してしまうことになり悪質きわまりない。

保険が保険として機能せず、保険という安心にかろうじて支えられていたはずの自動車依存社会がすでに根底から蝕まれている。

なぜ保険会社はそんな悪質な詐欺・犯罪そのものである不払いを頻発しているのだろうか。保険金不払いの横行は、逆からみれば、そのような悪質な犯罪にまで手を染めなければならないほど経営が苦しくなっているということだろう。経済の低迷でそうなってしまったのなら、もはや自動車依存社会自体の完全な破綻であろう。

先に述べたように(→ )自動車は鉄道などに比べるとはるかに危険な交通システムである。

賠償が前述のように甚だ杜撰な算定であるとはいえ、保険があるから最悪事故の場合でも金銭的フォローはされるというのが、危険な自動車依存社会・車社会を推進するための方便だったはずだが、それすら成り立っていない。

何よりも自動車よりも安全な交通システムへ移行していかなければならない。


あれば多少便利だがなくても困らない、なくても困らない程度に留めて置かれるべきだった自動車が、自動車産業の都合によって、なければ(生活が)不便なものとさせられた。自動車依存社会・車社会は強引に作り出され人々に押し付けられた。

その負担が交通事故の被害者にまで転嫁されているのである。



賠償・逸失利益については

二木雄策『交通死—命はあがなえるか—』(岩波新書

交通死―命はあがなえるか (岩波新書)

交通死―命はあがなえるか (岩波新書)

を参照。

著者、二木雄策(ふたつぎゆうさく)氏は経済学者(神戸大学名誉教授)。この本では、令嬢を交通事故で殺された遺族として交通犯罪の処理のされ方に疑問を感じ、車社会の異常さや、特に賠償のあり方がきわめて非合理的・非論理的に(非倫理的にさえ)なっていることを専門の経済学の観点から詳しく批判したものである。


(続く)

自動車依存社会の終焉を目指して—4. 自動車の社会的費用


(承前)

自動車依存社会の終焉を目指して—2. 交通犯罪がきわめて寛刑である現状

やはり断食

断食するとか言いながら結局ラーメンを食べたりして体重が減らないので、もっと厳しく断食に打ち込む。

2011-11-07

今日のお食事 ラーメン

立川南口のラーメン施設「たま館」に最近入った「とんたんめん盛々」の赤くて辛いラーメン。

標準でもスパイシーで辛いですが、頼めば辛さをもっと強くすることもできるようでした。

麺は太くて腰がありました。

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2011-11-06

11月になってもけっこう暖かい

11月になっても気がつくとけっこう暖かい。

去年は10月の末にこたつに入って寝ていたりしたのだが、今年はまだ暖房が何も要らない。

このまま暖冬になるのだろうか。


(追記)

と思っていたら9日頃からだいぶ冷えてきた。

2011-11-05

ALESIS MICRON

かわいらしい見た目のバーチャルアナログシンセサイザーALESIS MICRON をこのたび入手しました。

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鍵盤が音作りのパラメーターを呼び出すスイッチも兼ねているのですが、どの鍵盤がどの役割かを示すラベルが見づらく、光源によっては影になって見えなかったりして、このようなパラメーター呼出式では0からの音作りをするのがちょっと面倒だったりします。

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野太くえぐい音、粘っこい音も出せるので、バーチャルアナログとはいえソフトシンセとはまた違った存在感があります。

今年、生産・販売終了したのは前述の通りです。

この個体は少々ヘタリがありますが徐々に慣らしていくつもりです。


プリセットを多少いじりながら鳴らしてみた音。

Download

2011-11-04

国立の「天下市」で買った食べ物

国立の大学通りに「天下市」というイベントで屋台がたくさん出ていたので、おいしそうな食べ物をいくつか買ってきました。国立市内のいろいろな店・飲食店が屋台を出しているのです。

この赤いのはインド風の野菜天ぷらでちょっと辛い、白いのは台湾風大根餅です。

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2011-11-03

自動車依存社会の終焉を目指して—2. 交通犯罪がきわめて寛刑である現状

自動車依存社会の問題を論ずるにあたって、交通犯罪に対する刑罰の現状を見てみよう。

交通犯罪は現在以下のような罪とされ刑罰が課される。


危険運転致死傷罪

刑法第208条の2

1. アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は15年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は1年以上の有期懲役に処する。その進行を制御することが困難な高速度で、又はその進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させ、よって人を死傷させた者も、同様とする。

2. 人又は車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人又は車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転し、よって人を死傷させた者も、前項と同様とする。赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転し、よって人を死傷させた者も、同様とする。


・自動車運転過失致死傷罪

刑法211条

2. 自動車の運転上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、7年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金に処する。ただし、その傷害が軽いときは、情状により、その刑を免除することができる。


危険運転致死罪については、従来の交通犯罪は悪質なものでも刑罰が軽過ぎるとして、特に悪質な交通犯罪を処罰するために、2001年(平成13年)に新設された。飲酒運転やスピード違反、割り込み、信号無視などの危険運転による死傷事故を起こした者がこれで処罰される。

自動車運転過失致死傷罪については従来の自動車事故が業務上過失致死傷罪として扱われていたのが特に自動車運転における過失致死傷を処罰するために、2007年(平成19年)に新設された。これにより懲役の上限が引き上げられた。


法律の条文の上では交通犯罪は「厳罰化」「罰則強化」されたといえるかもしれない。

では、実際の運用の上ではどうだろうかと詳しくみると、従来と同じく寛刑であることに変わりがない状況がわかってくる。

これはまず起訴率をみても、全事件の起訴率はここ数年は40数%で推移しているのに対し、自動車運転過失致死傷等の起訴率は9.7%程度であり、交通犯罪で検挙されても起訴されることが少ないわけである。

さすがに、危険運転致死傷では起訴される率は高く、平成21年(2009年)では、危険運転致死傷罪では81%が起訴されている。不起訴は3.5%である。これは一般事件の不起訴率39.7%と比べれば起訴される率は高い。しかし、自動車運転致死傷になると、起訴率は0.9%、不起訴率は87.2%である。交通事故で死傷者の被害者を出しても危険運転とされなければ起訴されることは極めて少ないのである。

つぎに、交通犯罪の裁判でどのような判決が下るかみてみよう。

平成21年(2009年)の地方・簡易裁判所で有罪とされた件をみると、さすがに危険運転致死では実刑率100%であるが、危険運転致傷になると執行猶予率71.7%、自動車運転過失致死傷では執行猶予率90.9%となる。これがきわめて寛刑であることは、交通犯罪を除く全刑法犯の執行猶予率48.9%と比べてみれば分るだろう。殺人では執行猶予率21.2%、傷害では執行猶予率54.1%であるが、殺人や傷害には未遂が含まれる。

自動車運転過失致死傷罪の「ただし、その傷害が軽いときは、情状により、その刑を免除することができる」という規定も曲者である。

つまりこのように、交通事故は死傷者を出そうがよほどのことがなければ起訴もされなければ実刑も下されないという著しくぬるい扱いをされているのが現状である。


データは以下を参照。

交通犯罪にかかわるデータ(『平成22年版犯罪白書』より)


交通犯罪がこのようにきわめて寛刑であることは自動車依存社会の病根そのものである。


交通犯罪の加害者は非常に寛容な扱いを受けている。この「加害者に寛容」は自動車依存社会・車社会の問題を論ずる上で非常に重要なポイントになることを留意されたし。

(続く)

自動車依存社会の終焉を目指して—3. 交通事故の賠償の問題(被害者に酷で加害者に甘くできていること)


(承前)

自動車依存社会の終焉を目指して—1. 自動車の危険(鉄道との比較)

2011-11-02

自動車依存社会の終焉を目指して—交通犯罪にかかわるデータ(『平成22年版犯罪白書』より)

刑法犯認知件数・発生率・検挙件数・検挙人員・検挙率(罪名別)

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刑法犯認知件数・検挙人員の罪名別構成比

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起訴・不起訴人員等の推移(罪種別)

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交通事件検察庁終局処理人員の処理区分構成比

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危険運転致死傷等通常第一審有罪人員の刑期別構成比

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裁判確定人員の推移(裁判内容別)

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地方・簡易裁判所の終局処理人員(罪名・裁判内容別)

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2011-11-01

東京の古いビル 新宿区大久保二丁目交差点

新宿の、明治通りと大久保通りが交わる大久保二丁目交差点の南東の角(地下鉄東京メトロ東新宿駅の入口のあたり)に年季の入った果物屋の建物が建っています。三階にはゲーム店も入っていたようです。

西から見ると、

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北から見ると、

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南から見ると、増築を重ねて四階建てのビルになっていると思われます。

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南西からみると。

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東から見ると。

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地図でみるとこうなっています。エレベーターと書かれた左側の台形の部分がこの建物です。道路の拡幅がなった際にはこの建物は撤去されるのでしょう。

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(追記)

2013年夏の時点でこの建物はすでに撤去されています。