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御光堂世界〜Pulinの日記

2011-11-12

自動車依存社会の終焉を目指して—4. 自動車の社会的費用

この項では主に、宇沢弘文『自動車の社会的費用』(1974年)に基づいて述べる。


経済学者の宇沢弘文氏は次のように述べている。

「自動車はじつは、ガン細胞と同じように、経済社会をもやがては破壊する性格をもっていたが、人々がこのことに気付くまでにすでにかなりの期間が経過してしまっていた。」

「しかも自動車については、ガン細胞よりはるかに困難な問題が含まれている。というのは、自動車は経済社会の中で有用なはたらきをしている面があって、有害な面だけを切り離すことが不可能に近いからであり、また生物体とは異なって、経済社会を構成する個々の細胞は人間だからである。」

そして自動車は交通事故や公害や自動車優先で人間軽視の道路のあり方などさまざまな害毒を社会に及ぼしているから、

「自動車の普及によって、他人の自由を侵害しないかぎりにおいて各人の行動の自由が存在するという近代市民社会のもっとも基本的な原則が崩壊しつつある」

という。

近代社会市民社会のもっとも特徴的な点は各市民がさまざまな形での市民的自由を享受する権利を持っているということであり、この基本的な権利には、職業や住居選択の自由、思想信条の自由の他に、「健康にして文化的な最低限の生活を営むことができるという、いわゆる「生活権」の思想をも含むものであり」、「このような基本的な権利のうち、安全かつ自由に歩くことができる「歩行権」は市民社会に不可欠の要因であると考えられている。」

しかしながら、

「自動車通行によって基本的な生活が侵害され、市民的自由が収奪されている。」

すなわち、

「自動車通行によって、歩行者の安全を阻害し、住宅環境を汚染・破壊しているにもかかわらず、あえて自らの私的な便益を求めて自動車を使用している。」

このような自動車通行による市民への被害が無視できないものになっているところでは

「自動車を所有し、運転することは、各人が自由に自らの嗜好にもとづいて選択できるという私的な次元を越えて、社会的な観点から問題にされなければならない」

とする。

ここから、自動車の社会的費用、という概念が導かれる。

宇沢弘文は

「自動車の普及のプロセスをたどってみると、そのもっとも決定的な要因のひとつとして、自動車通行にともなう社会的費用を必ずしも内部化しないで自動車の通行が許されてきたということがあげられる」

という。

「ある経済活動が、第三者あるいは社会全体に対して、直接的あるいは間接的に影響を及ぼし、さまざまなかたちでの被害を与えるとき、外部不経済(external dis-economies)が発生しているという。

外部不経済をともなう現象について、第三者あるいは社会全体に及ぼす悪影響のうち、発生者が負担していない部分をなんらかの形で計測して、集計した額を社会的費用と呼んでいる。」

宇沢弘文は次のように云う。

「経済活動にともなって発生する社会的費用を十分に内部化することなく、第三者、とくに低所得者層に大きく負担を転嫁するようなかたちで処理してきたのが、戦後日本経済の高度成長の過程の一つの特徴でもあるということができる。」

この言がある『自動車の社会的費用』が著されたのは1974年であるが、この指摘は40年近く経った現在に到っても、日本のさまざまな矛盾の根源を指すものとして完璧に当てはまっている。負担は常に低所得者や社会的弱者に転嫁されるかたちで経済活動が行われ、それがさらに多くの貧困者や社会的弱者を生んできているのである。

自動車依存社会もまさにそのプロセスで進行している。


さて、宇沢弘文は自動車の社会的費用を計測する前提を次のように置く。

「いま、歩行、健康、住居などにかんする市民の基本的権利の内容について、ある社会的合意が成立しているとしよう。自動車の通行をこのような市民的権利を侵害しないようにおこなうとすれば、道路の建設・維持にどれだけの追加的な費用を必要とし、自動車の無公害化のためにどれだけの投資をしなければならないか、ということを計算する。」

そして

「この追加的な投資額に、現在の道路建設費を加え、自動車通行者が負担している額を差引いたものが、ここで定義しようとする自動車の社会的費用である」

として

「自動車通行の社会的費用の内部化ということは、ここに定義された社会的費用を自動車通行者が適当な方法によってすべて負担するときに実現される。すなわち、自動車通行は市民の基本的権利を侵害しないようなときにのみはじめて許され、しかも、そのような道路建設なり交通安全施設の整備・維持費がすべて自動車通行者によって負担されているときにはじめて、自動車通行にかんして社会的費用が内部化されたということができる」

とする。

そこで、道路構造においては、歩車道が完全に分離され交通事故の発生率が限りなく低くなるようなものでかつ歩行者があるきやすく、また住宅環境を破壊しないような措置が講じられたものとなる。歩道と車道の間には充分な緩衝帯や並木が設けられ、自動車の騒音や排気ガスを防ぐような装置が不充分であれば、一層それが効果的に整備されていなければならない。

自動車が普及する以前は、道路はまた生活空間としても使われていたのだが、自動車通行によってそれが奪われてしまったので、それを補うような施設の建設も必要になる。広場・公園や子供の遊び場といったものである。

道路についてみれば、そのような道路構造の変更には、道路幅を片側4メートル両側で8メートルの拡張が必要になり、そこに歩道・緩衝地帯を整備するために用地費と建設費がどれだけかかるかと計算すると、東京都の2万キロメートルの道路においては24兆円の投資が必要になると試算する。その道路網を利用する自動車の台数を200万台として自動車1台あたり1200万円となる。

宇沢は、これを自動車利用者にどのように負担させるかについては、1200万円の投資額に対する年々の利息分を自動車1台あたりに賦課する方法を提案する。それは利子率や物価水準などからみて自動車1台あたりの年間賦課額は約200万円となる、とする。

(これは1974年の物価水準・貨幣価値だから現在ならその2倍程度の400万円となるだろう。物価および物価関連統計の推移参照)


宇沢弘文は、この数値は仮設的なものにすぎないが、自動車の社会的費用の大きさを知るための一つの尺度となりうるだろう、とする。

同じ頃(1968年)運輸省が同様の自動車の社会的費用を見積もった額が1台あたり7万円、それに反論のかたちで自動車工業会が算定した値が1台あたり約7000円であるのと比べても、宇沢が求めた金額の大きさが分るだろう。

道路の整備は行われても、宇沢弘文が提案するような人間的な道路のあり方にはまったくなっていないのが現状だから、宇沢の根拠は現在でも有効であろう。


自動車依存社会から人間中心社会への転換はすぐにはできないだろう。

だから自動車の社会的費用は自動車のためにわれわれから奪われてしまったものの費用ということでもある。この社会は自動車の持つ僅かばかりの利便性と引き換えにもっと大きな市民的自由や生活の豊かさを譲り渡し失ってしまった。それを仮に金額としてあらわしたものとなる。

また、この自動車1台あたりに賦課される年額200万円なり400万円なりは自動車使用者が社会へ収めるべき迷惑料であるともいえよう。その社会的責任を果たさないままで自動車利用が行われてきているわけである。*1


経済理論の主流であった新古典派の理論は外部不経済や社会的費用という問題にほとんど注意を払ってこなかった、外部不経済を例外的な現象としかとらえてこなかったため、そのような考えで運営される経済社会は自動車の社会的費用にも無関心のまま自動車の普及がただ押し進められてきた、と宇沢弘文は指摘する。

新古典派はもっぱら非現実的ないくつかの仮定から導かれる形式論理の精緻性の追及と市場における資源の配分の効率性をテーマとしていたという。そこでは完全競争的な市場機構への信仰的な執着があり配分の公平性には触れようともしなかったという。*2


戦後日本経済は自動車産業とその関連産業が中心であり、自動車を作って国内外に売って稼ぎ、自動車のための道路建設の公共事業が地域経済を支えたが、自動車の社会的費用の問題は省みられることもないままできたわけである。

それが取り返しのつかない状況をもたらしてしまったのである。


自動車の社会的費用という観点からすれば、政府が自動車の消費を盛んにさせようと自動車取得税の廃止を考えていること(→ )は時代に逆行する転倒でしかない。自動車はもっと重税を課されこそすれ減税などはとんでもない。その予算は自動車依存社会から人間中心社会派の転換に使われるべきであろう。


ところで、宇沢弘文が、自転車については歩行者に危険を与える場合があるから社会的費用は無視できないので自転車専用レーンを作ったりスピードを規制したりして社会的費用の内部化をはかることがある程度必要になる、と述べているのは、現在、自転車が歩道を走るのは歩行者が危険だから車道を走らせた方がいいが自転車レーンの整備が必要であるという議論を、すでに指摘していたといえる。


『自動車の社会的費用』から26年後に著した『社会的共通資本』において宇沢弘文は、「日本の経済社会の発展は、私がまったく予期しなかったようなかたちで起こってきたし、自動車の保有台数、都市の形態もまた、私が期待したのとはまったく正反対の方向に進んでしまった」と嘆息するが、「しかし、同書で展開した、自動車の社会的費用にかんする理論は現在でも、あるいはむしろ現在においていっそうの緊急度をもって妥当し、人間らしい都市の形成を考えるさいに、いぜんとして重要な役割を果たすのではないかと思われる」と強く述べている。


「飛び出すな車は急に止まれない」という交通標語があった。

これほど人間をバカにして軽視したものもない。考えてもみよう。そもそも、そのような道には車を走らせるべきではなく走らせたとしても車の方がすぐ止まれる程度の速度で走るべきであるという当たり前のことがそっくり逆さまにされてしまっているからである。車中心社会の横暴とも言える標語であろう。

自動車は当たり前のように道路を走行しているが、そもそもそれは何の権利に基づくのか、そこから疑う必要もあるだろう。



参考文献

自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)

自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)

社会的共通資本 (岩波新書)

社会的共通資本 (岩波新書)

(続く)

自動車依存社会の終焉を目指して—5. 松本清張「速力の告発」


(承前)

自動車依存社会の終焉を目指して—3. 交通事故の賠償の問題(被害者に酷で加害者に甘くできていること)

*1:自動車にそれほどの巨額が賦課されたら自動車を利用して成り立っている産業に影響を与えずにはおかないから、そのコストは結局さまざまな物価に転嫁されて人々の生活を圧迫するのではないか? という疑問が生じるかもしれない。宇沢弘文はその問題には直接的には答えていないが、自動車のコストが高くなれば自動車に対する需要も低くなると述べ、「したがって、支払い能力があり、支払う意志を持つ人だけが自動車を所有し、運転できる、という市場機構的な原則が貫かれるべき性質のものであるといえよう」「自動車通行は市民の基本的権利を構成する要素ではなく、むしろ、選択的なかたちで消費されているものであるということができる」(『自動車の社会的費用』156〜157ページ)というように、無理に自動車を使う必要はないのである。鉄道と比べてみよう。鉄道を私的に所有し使用しようと思ったら莫大なコストがかかるだろうが、それが公共交通機関として維持運用されることで多くの人や貨物の輸送に比較的安価に供せられるわけである。

*2:現在、新自由主義とか市場原理主義とかいわれている指向は、この新古典派の経済学に連なるものである。

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