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御光堂世界〜Pulinの日記

2011-11-24

自動車依存社会の終焉を目指して—6. 自動車が街や地域社会を破壊している

自動車は街や地域社会の衰退と崩壊を引き起こしてきた。

以前取り上げたた○○難民問題(→ )にしても、自動車依存社会の弊害、自動車によって作り出された問題が多いのが分るだろう。

交通難民とは、まさに自家用車の普及が公共交通機関の衰退をもたらしたことによる問題であり、自動車依存社会の弊害そのものである。交通難民問題とも密接に関連する買い物難民もまた、自動車依存の郊外型大型店舗の増殖が中心市街地の衰退やシャッター街化を引き起こしたことで現われてきた問題でもある。

中心市街地が空洞化し生活圏が徒歩圏以上に拡散した上、公共交通機関が衰退すれば生活に支障をきたす。公共交通機関の衰退は、自家用車を持たない人々を直撃し、医療や保育などの公共サービス機関に行くこと自体に多大な困難をもたらしている。

そして、交通にまつわる難民状況を改善する手段として自動車を用いることが、結局はさらに公共交通機関の衰退につながり、全体的には難民状況が加速していくという悪循環で、自動車依存はまさに悪質な薬物の依存症のように社会という生命体を蝕み破壊しているのである。

郊外型大型店舗の台頭によって中心市街地が衰退・空洞化し、次は比較的近い郊外型店舗が、遠いがもっと大規模の郊外型店舗との競争に敗れ衰退する連鎖によって、日常的な生活圏がどんどん拡散して、自動車依存を強めざるをえなくなっていく。

むしろ、自動車を「買わせ」「使わせる」ために、このような生活圏の空虚な拡散が、自動車産業と商業資本との連携によって作り出されているとも言える。

都市においても、かつて路面電車という非常に便利な公共交通機関があったが、東京などの大都会では自動車通行の妨げになるとして廃止されてしまった。

東京では、戦前から市電・都電(路面電車)が非常に便利な公共交通機関として整備され、昭和30年代ごろまでは都市交通の中心的役割を担っていた。本来、道路上に敷かれた路面電車の専用軌道上に自動車の乗り入れはできなかったが、自動車の交通量が増えてくるにつれ、自動車利用の便を計るため昭和34年(1959年)に法改正されて都電の軌道上も自動車が通交できるようになった。すると、自動車の渋滞に都電も巻き込まれることになり都電の利便性が次第に低下していき、自動車が増えるにつれ渋滞が一層ひどくなってますます都電は利用価値が下がり利用者が減少し車からも邪魔者扱いされるようになり、昭和47年(1972年)までには荒川線以外の都電がすべて廃止された。

これもまた、自動車を普及させるために、路面電車の使い勝手を悪くして廃止させたとみることができる。

路面電車の代替としてのバスと本来の路面電車とでは路面電車の方がはるかに利便性に優れている。

大都市では都市交通を担うために莫大な費用と手間をかけて地下鉄網が建設されたが、路面電車がきちんと機能していたら多くは不要であったろう。

都市での路面電車が消えていくとともに地方の鉄道路線も赤字路線であるとして縮小廃止が加速度的に進められていった。そこでさらに自動車依存が強まった。

アメリカの多くの都市でも、20世紀のはじめには路面電車を中心とした公共的な交通サービスが安価で提供され、安定した生活環境を作っていた。

その後、自動車の普及(アメリカでT型フォードの大量生産が始められたのは1914年)によって、多くの路面電車が姿を消した。アメリカの鉄道網は自動車産業及び石油産業によってどんどん潰されていき(1900年代前半のゼネラルモーターズの鉄道買収など)、アメリカは、自動車がなけれ生活が成り立たない社会になるとともに、鉄道後進国となってしまった。

アメリカでのモータリゼーションの弊害による都市や地域社会の衰退・崩壊の過程に、後から続いた日本は何も学ぼうとしなかったわけである。それどころか自動車の普及こそが文明の進歩、経済発展の証であるとする考えに取り憑かれていた。

自動車以外の交通手段はことごとく不便にさせられ、それによって自動車の普及を促すという交通政策が暗黙のうちに進められていったともいえる。自動車はなんと言ってもカネを生み出すものとして経済・産業の中心に位置付けられていたからである。自動車産業は戦後日本の経済の中核・輸出の花形となった。

最近になって交通規則を厳格に運用することで自転車まで使い勝手を悪くさせようとしているとさえ感じる。(→

都市計画においても、ル・コルビュジエ的な、機能別にゾーニングされ広いスペースをとって配置された区域を自動車で結ぶ広々とした「輝ける都市」が理想に見立てられてきた。ここでも自動車依存が前提なのである。前述の生活圏のなし崩し的拡散は、期せずしてそれが最悪の形で実現してしまったものかもしれない。

街や地域社会の様々なあり方が、自動車によって破壊され衰退させられ全国どこでも画一的な姿に変質していったことは、文化の破壊でもあった。

自動車のような乗り物に便利な面があることは否定できない。便利だから普及したわけでもある。しかし、それが現行の自動車である必要はあるのだろうか。

次にはその問題を考えてみよう。


(続く)

自動車依存社会の終焉を目指して—7.「犯人」は誰か?


参考文献

自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)

自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)

社会的共通資本 (岩波新書)

社会的共通資本 (岩波新書)


(承前)

自動車依存社会の終焉を目指して—5. 松本清張「速力の告発」

りゅうた×2りゅうた×2 2014/03/30 01:49 松本清張の「速度の告発」で検索していて、貴ブログにたどり着きました。大変参考になるご意見です。ぼくは赤旗法について何か記事を書いてみようと思っていて、そのことの関連で松本氏のこの作品を思い出しました。昔読んで大いに啓発された「速度の告発」は「分離の時間」に収録されているのですね。それと、宇沢氏の「社会的共通資本」はまだ読んでなかったので、こちらもAMAZONに注文しようと思います。

PulinPulin 2014/03/30 12:43 >りゅうた×2様

コメントありがとうございます。

松本清張の当の作品は現在残念ながら絶版になっているようですね。
自動車問題をめぐる状況はこの何十年ほとんど変わっていないと思われます。やはり自動車産業が日本の主力産業として位置づけられているからなのでしょう。

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