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御光堂世界〜Pulinの日記

2016-10-23

いずれ動詞の活用は無くなるのか?

日本語は動詞の活用が無くなるような変化をするのかもしれない。

「読まない」「食べない」などというところを「読むない」「食べるない」、「読みます」「食べます」などというところを「読むます」「食べるます」、「読みたい」「食べたい」などというところを「読むたい」「食べるたい」などといっている例がネット上(Twitterなど)で観察できる。

これらは動詞を接続する語に合わせたしかるべき形に活用させず、終止形に「ない」「ます」「たい」などを接続しているわけである。こういう言い方をしている人は、動詞を活用させるのが面倒なのか、動詞は活用させるものという意識が希薄になっているのかもしれない。これだと終止形だけ憶えておけば済むから、文法が簡単になる。

(ただ、「読むた」「食べるた」というような言い方はまださすがにないようだ。)

形容詞についても、「楽しすぎ」「嬉しすぎ」というところを「楽しいすぎ」「嬉しいすぎ」といった、終止形にそのまま接辞をくっつけてしまうような言い方が現れていると前に指摘したことがある。

この傾向がだんだん広まって、何十年後かの日本語では動詞も形容詞も(当然助動詞も)活用がなくなっているのかもしれない。外国人にとっては習得しやすいだろう。


(追記)

自分の立場としては日本語動詞は活用があるのではなく語幹+接辞という構造なのだと思っているが、ここではとりあえず活用形があるとして説明した。

2015-08-05

「萌える」と「癒す」

萌える」も「癒す」も、ある種の感情表現として、近年すっかり定着した感のある言葉です。

萌える」と「癒す」には語の性質の上で違いがあります。「萌える」は自動詞であり、「癒す」は他動詞です。「萌える」を他動詞にして「萌やす」、「癒す」を自動詞にした「癒える」などはほとんど使われません。「萌え」と言っても「萌やし」とは言わないし、「癒し」と言っても「癒え」とは言いません。

萌える」と「癒す」が使われるシチュエーションを考えてみればその違いが分りそうです。

萌える」は「萌やす」他者がいる(ある)からこそ「萌える」わけですが、「萌え」の中心であるオタク層は、独特の自尊心があって、他律的に「萌やされている」のではなく主体的に「萌えている」のだ、という意識があって、「萌える」と言い、「萌やす」とは使わないのだと思われます。だから「すごく萌えるアニメ」とは言っても、「すごく萌やすアニメ」などとは言いません。

一方、「癒し」を求めるのはもっぱら若い女性層であり、かれらは自主的・主体的に「癒える」よりも、「癒し」てくれる他者に依存したいがゆえに、「癒す」と言う言いが広まっていったのだと思われます。だから、「癒しのパワースポット」とは言っても「癒えのパワースポット」などとは言いません。

どちらも想像なので特に根拠などはありません。

2013-12-03

「楽しい過ぎ」「嬉しい過ぎ」といった言い方について

本来「楽し過ぎ」「嬉し過ぎ」「面白過ぎ」などと言うところを、「楽しい過ぎ」「嬉しい過ぎ」「面白い過ぎ」などと言う用法が現れてきているようだ。そのような事例をネットで結構観察することができる。

これらは形容詞終止形にそのまま「過ぎ」をくっつけているわけである。こういった言い方をする人は、本来の「形容詞語幹+過ぎ」という造語法の意識が薄れているのだろう。この方が形容詞語幹を切り出す手間が省けるから簡単と言えないこともない。そもそも形容詞語幹という意識も薄れているのだろう。

こうした言い方が広まって定着してしまうのか、一部の人の誤用で終るのか、将来的にどうなるかは分らない。


(追記)

同様に「大きめ」「小さめ」「緩め」と言うところを「大きいめ」「小さいめ」「緩いめ」と言うようなケースも観察される。

これも「形容詞語幹+接尾語」という造語法の意識が薄れていると思われる例である。


(追記2)

さらに、「楽しいかった」「嬉しいかった」「面白いかった」、「楽しいくない」「嬉しいくない」「面白いくない」などと言っているケースも見られる。

形容詞語幹という意識が薄れているのではないかと上では書いたが、形容詞終止形自体が新たな「語幹」として認識されるようになってきたのかもしれない。「楽し」「嬉し」「面白」といった形容詞語幹が不安定に感じられるから、「楽しい」「嬉しい」「面白い」という終止形を「語幹」として使ってしまうのではなかろうか。

「楽し」「嬉し」「面白」といった「形態素」(単語よりも小さいレベルで意味を担う最小単位)が存在しているという無意識の認識が薄れているのかもしれない。(形態素という言葉は知らなくてもそうした単位があると無意識的に認識しているからこそ言葉が使えるのである。)つまり、形容詞終止形そのものが新たに「形態素」となってきたという変化とみなせる。


このような言い方が一般的になるということは、すなわち形容詞の「活用」が消滅する方向に変化するということである。


どうも書き足し書き足しでまとまりが悪くなったので、あらためて書き直してみる予定。

2013-10-04

タイムが伸びる?縮む?

水泳や陸上競技などで、能力や成績が向上し時間が縮んだこと(つまり速くなったこと)を、「タイムが伸びる」と言ったりする。字義通りには「タイムが縮む」でなければおかしいわけである。

これは、能力や成績の向上(良くなる変化)は伸びることであるというメタファーが直接タイムそのものに結びついて「タイムが伸びる」という言い方になったものと考えられる。良くなる変化なのに「縮む」というマイナス方向の意味を持つ言葉は使いづらいという意識も働いているだろう。

しかし時間が縮んだことを具体的に数値で表すには、タイムが10秒縮んだ、と言って、タイムが10秒伸びた、とは言わないだろう。

2013-07-01

日本古代の色名

日本語には色の名前が豊富で素晴らしいと言われたりするが、それは後代に染色技術が発達してからの話で、古代には色を表す語彙は乏しかった。

日本古代の色名は、クロ、シロ、アカ、アヲ、の四つだったと考えられている。それも現代の、黒、白、赤、青、に対応しているわけではなく、クロは暗い色、シロは鮮やかな色、アカは明るい色、アヲは淡い色を表していた。つまりこれらの色名は、光のスペクトル(色相)と対応しているのではなく、色の彩度や明度といった色の性質を表していた。

アカとシロについては、太陽の明るい色はアカであり、現在の赤に当たる鮮やかな色はシロであった。後にアカとシロの色名の逆転(ないしは混同)が起こった。それにより、鮮やかな赤色がアカとなったが、太陽の色はアカという観念は変らなかったので、その結果、日本では太陽の色が赤とされるようになったのである。

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