ピョートル4世の<孫の手>雑評 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

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2008-03-05 (水)

6本足タコ発見ウェールズ沖−時事通信

[] ショスタコーヴィチ交響曲第11番8種聴き比べ(ダスビ感想外伝)

◇第11番の聴き比べ(ムラヴィンスキー2種、クリュイタンス御前演奏、コンドラシン、ロジェストヴェンスキー、ヤルヴィ、北原、ロストロポーヴィチの計8種)のつもりで書き始めた(それもかなり無謀だったが)が、どちらかというとそれに至る理由の方が本筋だということが分かった。その理由とは結局、「なぜ私がダスビにここまで血が騒ぐか」の説明になっているので、「ダスビ感想外伝」とした。それにしても少し時間ができたらえらくマニアックな方に進んでしまった(全文をまとめて表示するには日付をクリック)。

第15回定期演奏会後遺症

◇前エントリオーケストラ・ダスビダーニャ第15回定期演奏会の感想本編とその追記を書いた際に、比較で聞いた録音について他の評価も参考にしていた*1のだが、どうも私の印象と違う。その違和感から繰り返して各種録音を聴き込んでいったところ、ショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」については、北原幸男盤への過剰な思い入れから(というか、最初のCDとして圧倒的な回数聴き込んでいたため)、他の録音はあまり聴き込んでおらず、ほとんどその理解が進んでいなかったということが分かった。

◇そのため、本編と追記の中で各種録音について触れた部分には自分で非常に不満になってしまい、もはや追記の追記では済まないことになってきた。また、ダスビの感想の確認というところから逸脱して「第11番聴き比べ」に突入してしまった(さらに、並行して第10番と森の歌とムツェンスクマクベス夫人も気になっているので、今年のダスビ後遺症は特に重篤といってよい)。

◇ちなみに、その過程でもう一つ気づいたのは、私は徹頭徹尾「音楽の文学性」に重点を置いて聴く人なんだなあということ。といっても、梅津時比古氏*2のような上等なのではなく、相当主観的な「思い入れ」でしかないのだが。

◇私の聴き方としては、普段は「同曲異演(盤)」を聴き比べるということはあまりしない。むしろ、特定の演奏家で聴き進む(「スヴェトラーノフ週間」とか「フェドセーエフ週間」とか)、または、特定の作曲家で聴き進む(最近の例では「S.I.タネーエフ月間」とか「ミャスコフスキー月間」とか「モーツァルト月間」とか)という場合が多い。私の「文学性」の基準からすると、「文脈」や「系譜」や「連環」という観点は、ときに実際に聞いている「音」よりも重要である。例えば、「タネーエフを聴くときには、その背景としてロシアにおける『西欧学派』とされるA.ルビンシテイン、チャイコフスキーラフマニノフの系譜と、それと対照されるダルゴムイシスキー、ボロディンムソルグスキーリムスキー=コルサコフ、リャードフ、グラズノフスクリャービンの系譜、といった文脈の中で聴く(そうすると何気ないフーガ一つにも相当の思い入れが出てくる…)」といった具合である(といいながら、音楽関係の文献をきちんと参照するわけでもないので、「相当主観的」なのである)。

◇某コミュニティをみればクラシックマニア丸出しなのに、当ブログの[音楽短信]のカテゴリ(「[音楽短信]記事一覧 - ピョートル4世の<孫の手>雑評」)の内容は現代邦楽録音の紹介とダスビの感想で占められており、「聴き比べ」は初めてである。

「1905年」「1917年」「10月」

◇さて、第11番を聴き比べるにあたっての私の文脈としては、ショスタコーヴィチの他の作品の中でも、交響曲第12番「1917年」、と交響詩「10月」との関連が気になる(仮に「後期革命3部作」とでもしておこうか)。第11番・第12番については、政治的位置づけはもはや問題にならないだろう。「ロシア第一革命とロシア革命を描きました」という分かりやすい主題に対して、実際は「帝政ロシア暴力性=ソヴィエト連邦の暴力性」であることが示されつつ、さらにそれでもなお「ロシア人としてロシアを愛する」ことが明確に表現された音楽であるのは疑いない。フィナーレに見える「歓喜」の表現も当然ながら、「文字どおりの歓喜」ではなく、「強制・偽装された歓喜」としての性質を持つことになる。そして、以上のような政治性を度外視したとしても、純粋に「交響曲」として、親しみやすさがあり、しかも強力である。

◇一方、交響詩「10月」は厄介で、ショスタコーヴィチの作品の中でも完全に駄作である。私の中では、チャイコフスキーの機会音楽『ハムレット』と並んで2大駄作として位置づけられている。しかし、音楽的に駄作であっても、両作品とも文学的系譜の中ではやはり気になる作品である。いや「10月」の場合は、駄作なのはフィナーレの取ってつけたとしか思えない「パッパラパッパパパパパ、パッパラパッパパパパパ、パパパパパパー」というトランペットファンファーレ部分だけなので、何ともやりきれない。第11番・第12番と聴いてきて、この「10月」を聴いてしまうと最後ですべてが台無しになる。そもそもこれも「やーい、バーカ、バーカ」というショスタコーヴィチの策略なのかもしれないが、「強制・偽装された歓喜」としてもあまりに安っぽく、音楽的アイロニーとしても上質とはいえない。…で、これが、世評高い第11番ヤルヴィ盤への私の評価とも連動してくるのである。

第11番8種聴き比べのポイント

◇今回、手許で聴き比べることができたのは、8種(タコだけに?)。まず録音年代で2グループに分かれる。

1.1950年代:ムラヴィンスキー2種とクリュイタンス御前演奏

2.1970〜1990年代:コンドラシン、ロジェストヴェンスキー、ヤルヴィ、北原、ロストロポーヴィチ

演奏時間で言えば、80年代のロジェストヴェンスキー以降、1割程度長大化する傾向にある(60分→約65〜67分。ただし、ヤルヴィ盤除く)。以下、時間数は各盤のレーベルリーフレット記載のもの。

聴き比べのポイントを指定して主にそれについて比較する。単に全曲を比較しても印象がぼやけてしまうだろうから。中でも静寂中心の第1楽章はそれほど差がつかないと思われるので、

1.第2楽章の皇帝への誓願とデモ制圧の場面

2.第3楽章の位置づけ(特にヴィオラ旋律について、単に美しそうに弾くだけでは曲の中であまり魅力を感じない部分なので)

そして、第4楽章フィナーレの

3.冒頭部分〜前半の高揚

4.後半の木管と鐘の扱い

以上の4点について、各盤の特徴を比較する(曲全体の内容については、前エントリと「交響曲第11番 (ショスタコーヴィチ - Wikipedia」参照)。

*1:反形式主義的ショスタコーヴィチ研究会404 Not Found

*2毎日新聞専門編集委員、という肩書を持ちつつ実に文学的な音楽評を書く方。毎日jpではその文学的部分はあまりupされていないようだ。「ページが見つかりません - 毎日新聞」。著書多数。『冬の旅―24の象徴の森へ』冬の旅―24の象徴の森へなど

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