名文機構4

愛知県出身のSさんはアパートから電車で十分ほどの距離の大学の卒業生で、就職をしないで毎日、アパート前の細長い庭をぶらぶらしていた関係上、同様の境遇の自分と顔を合わすことが多かった。Sさんは、その基本的な外見はブルース・リーであり、鉄亜鈴、ブルワーカーなどで体を鍛えており、ヌンチャクを庭で振り回すのを日課としていた。だからといって、けっして汗くさい無骨なひとではなく、英語を勉強し、四コマ漫画を描くなど、文武両道に秀でたひとであった。彼は五年の間に、テレビのディレクター、通訳、漫画家、歌手、デザイナー、写植屋、アクション俳優など多くの職業を志したが、なにひとつ成就したものはなかった。彼は挫折のひとであった。
しかしながら彼は、けっして欝屈することなく、オッホ、などと意味不明の奇声を発しつつヌンチャクを振り回し、ときに、旨いものを食おうと思ったのか、豚肉の固まりを電子レンジに突っ込んで爆発させ、絶叫するなど、生活への意欲を捨てることがなかった。いま彼がどうしているかは不明であるが、もう一度会ってみたいと思う。

町田康つるつるの壺』より