「吉本新喜劇×ヤノベケンジ」

大衆芸術と言われてなにを思い浮かべますか。落語、歌舞伎、新劇、マンガ、アニメ…。日本で芸術、美術という言葉が使われるようになったのは明治になってからのこと。外国から輸入した言葉です。以降、大衆芸術と純粋芸術という線引きが生まれました。サブカルチャーハイカルチャーなどとも言われますね。芸術の大衆化という言葉も、よく耳にします。その度に、色々な人のざらざらした声が流れこんで来るように思います。このところ、芸術の大衆化とはどのようなことをさすのか考えています。

吉本新喜劇×ヤノベケンジ」千秋楽を見てきました。関西圏の人間ではありませんので吉本新喜劇は初見。ただ、テレビでは親しんできていて、土曜のお昼は新喜劇という幼少期を過ごしていました。生で池乃めだかさんが見られてとても感動です。以下ネタバレあります。注意。
お話の核はエネルギー問題でした。あらすじとしては、大阪万博開催の年、池乃さん扮するトラやんが事故で瀕死の状態になり、開発されたばかりのニュークリーンエナジーによってロボットとして復活。ロボの運動能力を生かして東京オリンピックに出ようとタイムマシンにのるが、間違えて未来に飛んでしまう。そこではニュークリーンエナジーは危険なものと見なされていて…というものでした。
出演者はとても豪華で池乃さんはじめ、知っている方ばかり。未知やすえさんと内場勝則さんは夫婦役でした(リアル夫婦!)おなじみのギャグを織り込めながらお話は進みますが、いつもの新喜劇とはやはり違う。まず、人が死ぬこと、そして場面転換があることです。新喜劇は時代劇や西部劇のように「お約束」のストーリー展開があります。定型化されたものです。定型化されたものに違和を投じることで、受け手に考えるとっかかりを与えるのが現代美術の常套手段。
なぜ新喜劇か。ヤノベケンジさんは自らアトムスーツを着てチェルノブイリを訪れて以降、自ら着用することを封じておられるようです。この行為によって傷ついた人がいたことの反省からだそうなのですが、それ以降「恥ずかしいくらいにポジティブ」な作品を作ろうとしておられます。恥ずかしいくらい…と聞いて、一発ギャグをする時の芸人さんの顔、思い浮かびません?
人情喜劇に感じる気恥ずかしさ。その形を借りてつくられたのが今回の作品です。そして楽しげな笑いにくるまれた中には、現実と歴史という苦いものが待ち受けています。
冒頭で芸術の大衆化とはどのようなことを指すのか、と触れました。ここで字面だけみて大衆芸術と純粋芸術の境がなくなったと述べることはならんと考えています。大衆芸術は自国の文化と社会を表すアイコンです。それらがサンプリングされ純粋芸術の文脈に組み込まれることで現代美術が生まれます。純粋芸術の文脈すら輸入してしまった日本では成立が曖昧で、このへんが話をややこしくしているなーと感じます。
なのでヤノベケンジ新喜劇に話を戻すと、これはやはり純然たる現代美術作品であるなと思うわけなのです。芸術作品による大衆教化などなど、もっと言いたいことがあるけど長くなりすぎなのでもうやめます。
あの、とにかく、楽しかったよ!