閑話休題

他の記事と、テンション違いますがたまにはこんなのもよかろうもんです。思ったことをつらつらとつづる。

図書館にはたくさんの死角がある。防犯上は本来好ましくないことであろうが、私はここを好いている。
自殺防止の取り組みをしている図書館がある、という話を聞いた。取り組みといっても具体的に何かするのではなく「死にたくなったら図書館にいらっしゃい」という、やんわりとした心づもりで来る人を迎えるのだという。本には沢山の人の言葉が眠っている。愛も苦悩も熱情も全てがある。
見つめられるのがつらい、しかし人の気配を感じたいというような時、本棚の影に隠れて古い人の苦悩の優しさにくるまる。それだけでずいぶん救われるでしょう。求めるひとには声をかけることもするらしい。求めるひとは自然わかるのだという。本棚と本棚の影には小さな椅子が密かに置かれている。
明るく、フラットで、見通しが良く、資本主義的な図書館が増えている。税金を使う以上、沢山のひとに利用してもらえるよう努めるのは当然だろうと思う。しかし、はみ出してしまったひとたちを柔く包めるようなところも、無くなってほしくない。古くて少し残念なものの愛おしさを、許容できる強さがどうか無くなりませんように。

デジタル技術と肖像写真

ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』において「はるかな恋人や個人を追憶するという礼拝的行為のなかに、映像の礼拝的価値は最後の避難所を見いだす」といい、肖像写真がアウラの最後の砦であるとしました。決して改変されず、時の移ろいとともに失われる一回性を持つものとして人の顔を捉えていたためです。では、デジタル技術が発展し、像の複製・加工が容易な現代では肖像写真はどのようなものとして在りうるでしょうか。
デジタル技術の肖像写真の活用例として、撮影された顔に加工を施すことがあげられます。撮影対象の顔と撮影者自身の顔がデジタルによって合成されているヴィベケ・タンベルグによる「Line」のシリーズや、自らの身体を用いて、合成と特殊メイクによって著名人の肖像写真をパロディ化している森村泰昌の作品などです。森村の毛沢東を模した「赤い夢/マオ」では、多くの加工と合成によって、本人の面影は二重まぶたが特徴的な眼に微かに残るだけです。ここから撮影された人々の個性、感情、人生を読み取ることはできません。手を加えられたその顔の上には見るものと見られるものが親密に同居し、個人の境界が曖昧になった現在の人間の関係性を感じることができます。
デジタル技術によって加工されるのは顔だけではありません。「三人三様」で森村は自らをデジタル技術によって複製し、別人として一つの画面に複数存在させています。このように現実にはあり得ない空間に人物を落とし込む手法もデジタル技術の肖像写真への活用のひとつです。ロレッタ・ラックスは撮影した子どもの写真をデジタル技術によって切り抜き、別で撮影した背景と合成して作品を作り上げています。「Girl with Marbles」の少女は地面に散らばったカラフルなビー玉を拾おうとしているような体勢をとっていますが、その目は一つとしてビー玉を捉えては居ません。写真は全体的に色調が調整されており、おとぎ話の挿絵のような印象を受けます。やなぎみわによる「マイ・グランドマザーズ」のシリーズはモデルとなった女性の理想の死に方を特殊メイクとデジタル合成によって作り上げています。「MIE」では、永遠に広がる自然と無機質なコンクリートの空間で途方にくれる老婆の写真と添えられた文章が退廃的な物語を構成しています。
このようにデジタル技術によって加工された人の顔と身体は、撮影されたものの人生から切り離され純粋な素材となります。素材となった人体は個人という枠を超え他者や物質と混じり合い、新たな生物へ変貌します。そこでは撮影されたものへの追憶や思慕は生まれません。しかし、加工によって生まれた新たなる生物は他の何者でも成し得ない形で現在の人間の有り様、社会の有り様を表現することができます。そして、合成によって現実離れした物語を描く肖像写真は、絵画と比較され続け、絵画的な写真というあり方から逃避しようともがいていた写真の姿はもはや過去のものであると高らかに宣言しているように思えます。デジタル技術によって肖像写真は写真と絵画の境界を無効化しました。そして、肖像写真は個人の枠を超え人間という概念そのものを映すことのできる表現手段へと変貌したと言えるのではないでしょうか。
ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)まなざしのエクササイズ ─ポートレイト写真を撮るための批評と実践現代写真論

ベンヤミン『複製技術の時代における芸術作品』

今、森美術館でやっているウォーホル展について知人と話をしていた時「版画なら美術館までわざわざ足を運ばなくったって印刷物で十分じゃないか」と言われ、あ、これは、と思いました。アウラという言葉を耳にしたことがありますか。アウラとは何かということを通してオリジナルの作品を見る、ということについて考えたいと思います。

アウラとはヴァルター・ベンヤミンが『複製技術の時代における芸術作品』で提唱した概念です。書かれたのは1936年。1920年代、小型カメラの開発や印刷技術の発展によって写真がメディアとして一般市民に流通しはじめました。グラフ雑誌が発刊され、多くの人々が実物の前に立たずして像を目にする、という経験になれていきます。こうしたなかで、芸術作品を見る目と芸術作品そのものが、どう変わるかということが「複製技術の時代における芸術作品」では述べられています。
作品のオリジナルから、鑑賞者は多くのことを受け取ることができます。例えば、この絵が誰のために描かれてどのような人の手にわたったのか、どのような材料が使われているのか、手の跡から伝わる作者の胸のうち、積み重ねてきた年月や時代など。物質として、変わることなく「いま、ここ」に存在すること、複製のきかない一回限りものであることによって、作品はこれらを伝えることができます。オリジナルである作品が伝える諸々のことをベンヤミンは真生性と読んでいます。真生性を持つことによって、作品は歴史の一部となります。ベンヤミンは、アウラとは「事物の権威、事物に伝えられている重み」であると言っています。作品が、連綿とつらなる歴史を背負い「いま、ここ」にあるという事実をもって生まれる「ありがたみ」のような、ある雰囲気がアウラです。
こうしたアウラが成立する諸々の要素の価値を低下させたのが、写真を始めとする複製技術です。写真は人の手による模写や偽作とは違って、複製者の技術によって再現性を左右される可能性が少なく、多くの新しい利用価値と可能性を持っていました。人間の眼で見ることのできない角度から作品を見ることや、任意の場所に展示すること、リトグラフを所有して好きな時に繰り返し鑑賞することなどです。複製技術によって芸術作品そのものを改変することも可能になりました。これらの新しい可能性によってオリジナルが「いま、ここ」にある価値は希薄なものになってしまいました。「いま、ここ」の価値が低下したことによって、作品から伝えられる真生性は成立しなくなり、ベンヤミンの考える形では、アウラは感じられなくなってしまいます。
もともと、芸術は儀式のために生まれました。作品は神や教義をあらわす仮象の姿であったため、物質的永続と一回性を持った永遠の美が目指されました。作品はアウラという「ありがたみ」を帯び、見る者は神の仮象から受け取ったものをもって自らの内に瞑想します。ここでは作品との空間の共有が最も重要で、視覚による鑑賞は必須ではありませんでした。日本で言うと、お堂に隠された秘仏を拝む感じを思い浮かべると合点がいくかと思います。複製技術による像の氾濫によって、像を見ること=鑑賞になりました。鑑賞は眼を中心になされ、作品の表層から伝えられる意図を受け取り、解釈し、楽しむという態度で行われるようになります。そして、作品は歴史の文脈から切り離され、鑑賞者の楽しみに消費されるものになります。そして作品のあり方も変化していきます。

  • 「印刷物で十分」?

で、ここで冒頭の話にもどりますが「印刷物で十分」について。実物の前に立ってもアウラを感じられないなら、わざわざ見に行かなくていいじゃないかということになる訳です。西洋では複製技術が発達するまでは、人間の作為をもって自然を美化することで美はなされるべきであるとされ、作者の手の跡が重要視されていました。しかし、写真の登場でこうした美学は覆されてしまいました。人間の手の跡が必須でなくなったことで、芸術の制作は多様化します。ウォーホルのファクトリーによって流れ作業化された制作形態はその最たる例であるといえます。彼らは、アウラに変わって特定の意思を作品に託しています。そしてそれは、作品に対峙した者が思考することで各々読み取るものです。複製による像だけで思考が可能なのであれば、作品のオリジナルに訪ねる必要はないと言えます。ちょっと乱暴ですが、好きにしたら、としか言えないわけです。
しかし、それでは芸術作品の成立と存在意義が危うくなってしまいます。そこで美術館は展覧会を編集し、文脈立てて種々の工夫を施し参照図版のように作品を提示することで、人を集めます。芸術による島おこしや国際芸術祭なども芸術の新しい社会的意義を模索する動きですね。インスタレーションやパフォーマンスなどの、空間や鑑賞者を含めて成立する作品の形態も芸術の存在意義を求める狂おしい試みであると感じます。
日本人は、ながらく芸術を「ありがたみ」を持って見てきました。アウラ凋落の過程と美学の変遷は西洋における事態であり、戦後の近代化において西洋の美術観を細切れに輸入した日本では文脈として理解されにくいものです。しかし、確実に違和感としてあり、そうした違和感が「芸術って難しい」という言葉に集約されています。展示室で、稀に所在の無さを感じることがあります。身の置き所のわからなさというか、作品との遠さのようなものです。これがアウラの不在です。しかし、複製技術はアウラと引き換えに、鑑賞者と芸術の新しい関わり方を与えてくれました。芸術作品を自らの一部として引き受けて解釈すること、自己実現、相互に影響をあたえることなどです。私がここに展覧会の感想などを書くのも芸術による自己実現のひとつ。
作品に対峙して意図を読み取ろうとしている時、アウラのようなものを受け取っているような感覚があります。とても素敵な人とお話をしている時の嬉しさのようなもの。惜しむらくは家まで連れて帰りたいという気持ち。(図録を買いましょう)ベンヤミンのいう一回性のうえに成り立つアウラとは異なるものなのでしょうが、これだって作品のオリジナルを見に行く理由として十分ではないのかなぁと思うわけです。わざわざ足を運ぶのだって悪くないもんだよ。だから展覧会、行こうね。

ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

「吉本新喜劇×ヤノベケンジ」

大衆芸術と言われてなにを思い浮かべますか。落語、歌舞伎、新劇、マンガ、アニメ…。日本で芸術、美術という言葉が使われるようになったのは明治になってからのこと。外国から輸入した言葉です。以降、大衆芸術と純粋芸術という線引きが生まれました。サブカルチャーハイカルチャーなどとも言われますね。芸術の大衆化という言葉も、よく耳にします。その度に、色々な人のざらざらした声が流れこんで来るように思います。このところ、芸術の大衆化とはどのようなことをさすのか考えています。

吉本新喜劇×ヤノベケンジ」千秋楽を見てきました。関西圏の人間ではありませんので吉本新喜劇は初見。ただ、テレビでは親しんできていて、土曜のお昼は新喜劇という幼少期を過ごしていました。生で池乃めだかさんが見られてとても感動です。以下ネタバレあります。注意。
お話の核はエネルギー問題でした。あらすじとしては、大阪万博開催の年、池乃さん扮するトラやんが事故で瀕死の状態になり、開発されたばかりのニュークリーンエナジーによってロボットとして復活。ロボの運動能力を生かして東京オリンピックに出ようとタイムマシンにのるが、間違えて未来に飛んでしまう。そこではニュークリーンエナジーは危険なものと見なされていて…というものでした。
出演者はとても豪華で池乃さんはじめ、知っている方ばかり。未知やすえさんと内場勝則さんは夫婦役でした(リアル夫婦!)おなじみのギャグを織り込めながらお話は進みますが、いつもの新喜劇とはやはり違う。まず、人が死ぬこと、そして場面転換があることです。新喜劇は時代劇や西部劇のように「お約束」のストーリー展開があります。定型化されたものです。定型化されたものに違和を投じることで、受け手に考えるとっかかりを与えるのが現代美術の常套手段。
なぜ新喜劇か。ヤノベケンジさんは自らアトムスーツを着てチェルノブイリを訪れて以降、自ら着用することを封じておられるようです。この行為によって傷ついた人がいたことの反省からだそうなのですが、それ以降「恥ずかしいくらいにポジティブ」な作品を作ろうとしておられます。恥ずかしいくらい…と聞いて、一発ギャグをする時の芸人さんの顔、思い浮かびません?
人情喜劇に感じる気恥ずかしさ。その形を借りてつくられたのが今回の作品です。そして楽しげな笑いにくるまれた中には、現実と歴史という苦いものが待ち受けています。
冒頭で芸術の大衆化とはどのようなことを指すのか、と触れました。ここで字面だけみて大衆芸術と純粋芸術の境がなくなったと述べることはならんと考えています。大衆芸術は自国の文化と社会を表すアイコンです。それらがサンプリングされ純粋芸術の文脈に組み込まれることで現代美術が生まれます。純粋芸術の文脈すら輸入してしまった日本では成立が曖昧で、このへんが話をややこしくしているなーと感じます。
なのでヤノベケンジ新喜劇に話を戻すと、これはやはり純然たる現代美術作品であるなと思うわけなのです。芸術作品による大衆教化などなど、もっと言いたいことがあるけど長くなりすぎなのでもうやめます。
あの、とにかく、楽しかったよ!

あいちトリエンナーレ2013について思うこと

随分今更ではあるのですが、あいちトリエンナーレについて。今年の終わる前に残しておこうと思います。以前このブログにも書いたのですが、私は3年前のトリエンナーレをとても楽しみました。それまで知らなかった作家の作品に多く触れ、現代美術の見方について考えて、なんと素敵なものかと喜んだものです。特に、愛知県美術館学芸員さんがおっしゃっていた「同時代の作家の作品だからこそ、予備知識がなくても同調し、感じることができる」という事にには、なるほど!と思ったものです。
今回のトリエンナーレは3年前よりも、テーマが明確に設定されていました。かなりストレートに震災、原発をテーマにした作品も多く、自らを強くもって見る必要がありました。耐えられない人も多かったことと思います。私も、特に震災、原発を直球で表現した作品の多かった芸文センターなどは見終わってすっかり放心してしまいました。しかし、この心の疲れこそ、同時代の美術を鑑賞する醍醐味であるかと思います。現在も私たちの足元を、脅かしている問題を、いかにとらえるか。日常のなかで深く考える機会を持つことは難しいです。表だって口にすることも憚られるということもあります。現代美術は、考え、語るきっかけをあたえてくれるものです。今回の国際芸術祭について、様々な意見があがっているようです。的外れな指摘をされている方もいらっしゃるようですが…。
私も、全てが完璧で手放しで良かった!という感想は言えません。バリアフリーの表示や人的援助の不足、外国人来場者への案内の不備など種々気になることはありました。長者町会場の、3年前に使った会場がなくなってしまったことなども残念に思っています。
しかし、展示作品には大いに考えさせられました。特にプロジェクトFUKUSHIMA!や、提灯行列など一般の人が気軽く参加できるものが多く、娯楽性という面でも決して不足していたとは感じません。
現代美術の醍醐味は、自らの問題として作品を引き受け、感じ、考えられることにあります。大勢で手を繋いでまわる盆踊りでは、鑑賞者と作品はもはや一体です。何の文句がありましょうか。
願わくば、また3年後にもあいちトリエンナーレが開催されますことを。

愛知県美術館「アイチのチカラ!」

愛知県美術館の「アイチのチカラ!」展に行ってきました。戦後から現代まで、愛知にゆかりのある作家がとりあげられた展覧会です。
巨匠から新進気鋭の作家まで、さらに油絵、日本画、彫刻、版画と、幅広く見ることができ、とてもお得感がありました。安藤正子さんなど新収蔵品のお披露目もあり。
私は特に版画の作品に好みのものが多くありました。いつもはあまり版画に注目しないのですが、今回は展示されている作品全部好きと言っても良いくらいです。
特に鈴木幹二さんの「樹」(正確には樹の後に数字がふられているのですがメモし忘れてしまいました…)という作品が良く。白い背景に、木の枝と幹だけが黒く這わされた画面は深々としています。まるで雪の降り積もるなかに仰向けになって見上げた光景のようです。その場に居るようです。
井上靖の「あすなろ物語」ご存知でしょうか。主人公の少年が憧れていた女性が雪の中で、他の男性と心中してしまうというエピソードがあるのですが(ちょっとうろ覚えです)、この作品の前に立ってひどく思い出されました。彼女が死に向かって見た景色は、こんなだったのではないだろうかと。寒々しく、恐ろしく、悪寒がし、満たされ、幸せ。
こんな綺麗な景色を、命を失わずに見られるとはなんという幸せ。

展覧会は来年2月まで行われています。是非どうぞ。

MU[無]ーペドロ コスタ&ルイ シャフェス@原美術館

原美術館で開催中の映像と彫刻の展覧会に行ってきました。ポルトガルの現代美術の展覧会です。
ペドロ コスタさんの映像は、何故だか目をそらせなくなる不思議なものでした。特に2階に展示されていた「少年という男、少女という女」は印象的。暗い部屋の対角線上に置かれたスクリーン。両面に異なる映像が投影されており、部屋の中はじっと立って映像に見入る人がずらりと。そのうち一人がそろそろと裏側にまわり、また別の一人が裏側にまわり、と鑑賞者まで含めたパフォーマンスの様にも感じました。動けば作品にとりこまれるような錯覚からしばらく動くこともできずひたすらスクリーンの片面を見つめてしまいました。

ルイ シャフェスさんの彫刻は、金属でつくられた抽象的なもの。黒い金属の滑らかさと、形に見とれてしまうほど綺麗でした。映像と彫刻が同じ部屋に展示され、映像の光だけで彫刻を鑑賞させるという面白い試みもあり。「香り(幻惑的にして微かな)�」は、シャンデリアを思わせるような形をして、その影まで計算しつくされたもので、とても素敵に幻惑されてしまいました。「虚無より軽く」は一つの部屋を贅沢に使って展示されており、その部屋ごとどこかに隔離されてしまったように感じました。宙に浮くような流線型の彫刻で、上部は球状になっており、未知の生物のようでも、人の臓器のようでもあり。金属の無機質さがそうした空想を軽々とかわしているようでもありました。

なんだか夢の中に居るような感覚を味わえる展覧会でした。