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Quartodecimaniのメモ帳

2018-06-22

ヒュームの社会契約論批判から

19:42


◆「原始契約について」

歴史的な記録を見ても、我々は社会契約による国家設立実例を知らない。皆で集まって対等な立場で約束して、クラブとかソサイアティとかを作ったように国家を作った、などというエピソードは聞いたことがない。むしろ歴史を振り返る限りでは、たいていの国家は戦争と征服の結果出来ている。つまり、対等な契約ではなく、勝利者、征服者による一方的な押し付けの結果として

この論点

仮に我々の国家が社会契約によって出来上がったとしても、その拘束力がなぜ我々に及ぶのか?

また、世代を越して行く契約の効力は何によるものなのか?誰も社会契約について、それを相続するか否かが問われることはない。だからといって我々が国家権力に従わなくてよいわけもない。そうであれば、法律を守るべき義務とは、契約と守る義務とは異質のものである「何か」であることになる。

契約によって国家に参加するか否かを決められるのであれば、ある国家の支配に服する気がなければ、契約を拒否でき、領域から逃げることが許されなければならないはずである。しかし、実際にそれは難しく、無産者階級であればまず逃げられないにも関わらず、「お前が国家法に拘束されているのは社会契約に参加しているからだ」と言われてもまったく納得できない。

であるから、庶民らが法を守り、国家に服従する義務を与えるのは社会契約ではないことになる。



ヒュームの法秩序のモデル

"Convention"「慣習」

社会的に共有された振る舞い方の「約束」

約束といっても無自覚的であり、強制力もない。

ヒュームによれば、社会秩序は契約でも約束でもなく、自然発生的な「不都合を避けるために」従うものであると

誰かが意図的に作ったものでもない

そこはアダム=スミス経済論に似る。つまり、人は個人の利益を追求して経済活動に参加してくるが、それが全体としての利益を生み出してゆくと




所見

もうひといき

人は権力の及ばない狭間では必ずしも強制されない。強制は主に権力という外面からくるが、内面から強制が起ることもある。これは「良心」や「愛」のようなものが原因であり、国家の法とも言えない。

人間にとって法秩序は社会契約とは言えず、自らの必要から来た仮のものではないか。しかも、参加しているのではなく、縛られているという以外にない。不自然であったり不公平な害をなす法も避けられないのであるから。

国家の本質は「征服」であり「強制」であって、ニムロデの性格を必ず持っている。

また、道徳の成立が利にあるとして、人の必要からのものであることを説いているが、これは『善悪の知識の木』に通じるところあり。しかし、道徳が利から来るというのは、人間側からの発想では避けられない。なぜなら、道徳を行うべき理由を追及してゆくと、人間には互いの利益以外に普遍的に説得させるものが存在しない。「愛」と言えば動機にならないし、実際できないからである。(Co2取引などが端的な例)




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