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情報や資料のノートの蓄積

メシアニック・ジュウ

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Messianic Judaism
ユダヤ教徒としてのアイデンティティを保ちながら(トーラーに従いつつ)イェホシュア(イェシュア)をマシアハとして信じる人々。
教師はラビと呼ばれ、シャバットやユダヤ祭礼を守ることが多く、一方でクリスマスやイースターを祝わないところで、「キリスト教」とは区別されている。
宗教的に自由な米国で各派に発展しているが、イスラエル本国での立場は非常に難しい。
そのためか東アジアでの発展も期待されていて、近年は東京だけでなく日本各地のプロテスタントの中に拠点を設けつつある。




◆主張----
・1 「終わりの時代」に必ず起こるとされる最大のしるしが、「イスラエル全家の回復」である。

・2 霊的な回復、つまりイスラエルのメシアであるイエシユアにある霊的リバイバルイスラエルの土地で)ある。

・3 神が「終わりの時代」におけるイスラエルの霊的回復に向かう「初穂」もしくは「残りの民」として現代の時代に起こされているのが、メシアニック・ジユーであると理解する。

・4 メシアニック・ジユーとは、自らがイスラエル民族に属することを、取り消されえない神の永遠の召しと自覚し、その民族的アイデンティティを最大限に尊重しつつ、イエシユアこそイスラエルの召しを成就するメシアであり、王であることを信じ、告白する人々である、と理解する。

・5 彼らこそ、長い歴史におけるイスラエル民族に対するキリスト教会の憎悪と迫害、その結果としての強固なキリスト教への拒絶感情を乗り越えて、アブラハムの子らにイェシユアの福音を届けることのできる希望であると信じる。

・6 伝統的なキリスト教神学は、重要な部分において聖書の指信を歪曲してきており、特に反ユダヤ主義的視点からの汚染が顕著である。これに対して、メシアニツク・ジユーの聖書解釈は、聖書が記された本来の意図に沿って、ヘブル的視点に基づいてこれを行おうとするから、伝統的なキリスト教神学における誤りが矯正されるとともに、これによってキリスト教会が、より健全で、神の御旨に沿った聖書的土台を築き直すことができる。

・7 私たち(プロテスタントの人たち)は、メシアニック・ジユーから大いに学び、これによって私たちのキリスト教信仰を、真の土台であるへプル的ルーツにしっかりと根ざすようにしたいと思っている。

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・8 メシアニック・ジューの出現は、主イエス再臨が近い印なのです。

・9 ユダヤ教キリスト教は、それぞれ対立する聖書解釈を発達させてきました。ユダヤ教キリスト教に都合の良い部分(たとえばイザヤ53章はメシアの苦難だとする解釈)を取り除き、キリスト教もまたユダヤ教に都合の良い部分(神は決してユダヤ人を捨てられないこと)を取り除いてきました。その結果、互いに聖書解釈が曲がってしまっています。ユダヤ的な背景を持つメシアニック・ジューの出現により、私たち異邦人クリスチャンはその「失われた部分」を復興することができます。

・10 私たちは、ユダヤ人と共に相続の約束を受けています。アブラハムは私たちすべての者の父なのです。メシアニック・ジューの出現は、御国の完成に向けて全ての「世界の相続人」が揃う兆候であり、非常に大きな意味があるのです。

・11 クリスチャンがユダヤ人たちに対して筆舌に尽くし難い迫害と殺戮を行ってきたことは、キリスト教史の大きな汚点です。この罪の告白と悔い改めは大変重要であり、そのためにはユダヤ人に対する謝罪が重要です。メシアニック・ジューに対する謝罪と和解は、真のキリスト者同士の和解と一致がありえるため、新しい可能性を開いています。

・12 絶対にイエスを信じないと、自他共に認めていた人々に、ある時期に集中的に、それも超自然的なやり方で聖霊が注がれたことは、どう考えても神の意思表示でしょう。しかし、そうしてキリストに出会った人々が「ハレルヤ、これでユダヤ人をやめることができました!」と言ったのでは、神の契約が成就したことになりません

・13 メシアニック・ジューは、レベルの違いはあっても「神のドラマの出演者」という観点から、ユダヤ人としての民族性を保ち続けようと考えている人々です。ユダヤ人としての民族性を守るとは、ユダヤ人として生きることであり、それには、当然のことながら(程度の問題は別として)律法の順守や、ユダヤの風習や伝統を守ることが含まれてきます


・14 彼らの苦闘は私たち異邦人に見せるための神の業であり、それを見た時に「諸国の民は、わたしが主であることを知る」(エゼキエル36:23)のです。世界宣教を完成させる重要な役割を演じているメシアニック・ジューたちに、異邦人である私たちは注目し、応援するべきなのです。





《番号付、文字色変えと括弧挿入は編者》

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あなたがたはラビと呼ばれてはならない。Mt23:8

世の基が置かれて以来流されたすべての預言者の血がこの世代に求められる。Luk11:50

また彼は多くの者のために一週のあいだ契約の効力を保たねばならない。そして、週の半ばに、彼は犠牲と供え物とを絶えさせる。Dan9:27

こうしてあなた方が天の星のように数多くなっていたとしても、ごくわずかな者だけが残されることになる。あなたの神の声に聴き従わなかったためである。Deu28:62

こうしてあなた方はわたしのすべての法令とすべての司法上の定めとを守って,それを行なわなければならない。わたしが携え入れて住まわせるその地があなた方を吐き出すことのないためである。rev20:22

彼らの踏み外しによって諸国の人たちに救いがあり、それは彼らにねたみを起こさせるためです。Rom11:11

水と霊から生まれなければ、だれも神の王国に入ることはできないのです。肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊ですJoh3:5-6

この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(Ga6:16)

ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。(Act10:28)

わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。Mt8:10-12

そこで王は憤り、自分の軍隊を送ってそれら殺人者たちを滅ぼし彼らの都市を焼きました。それから彼は自分の奴隷たちに言いました。宴はたしかに用意ができているのだが、招いておいた者たちはそれに値しなかった。Mt22:7-8

あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちに証しするためです。人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき与えられるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話すあなたがたの父の聖霊だからです。Mt10:18-20

神の王国はあなたがたから取り去られ、その実を生み出す国民に与えられる。Mt21:43

わたしの後に来られる方は、あなたがた(ユダヤ人)に聖霊と火とでバプテスマを施すであろう。
すでに斧は木の根元に置かれている
その方は手に箕を持って小麦は蔵に、籾殻は火で焼きはらうであろう。Mt3:10-12

主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。Jer31:31-33

神は、「新しい」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。Heb8:13

その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである。Mal3:2

いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである Lk19:43-44

そ(神殿)の石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう。Mt24:2

わたしは、彼ら(ユダヤ体制派)が神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。
なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。
キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。Rm10:2-4

もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。Ga2:21

割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。
律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。Ga5:3-4



◆所見--
メシアニック・ジューは、新約聖書の中で展開されるようになった幾つかの重要なギリシア語の概念に通じていないか、無視している。
また、律法が過去のものとなったとは考えず、ラビたちの教え、つまりパリサイ派のトーラー教理と折衷して考える人々が多勢を占めている。

キリスト教はマシアハが地上に現れて直接に教えられたものではなく、エシュアが犠牲の死を遂げて後に弟子らに約束した聖霊によって拓かれたものであり、イルメヤフの預言していた『新しい契約』に属する『聖なる者ら』のエクレシアを通して開始されたものである。エシュア自身は生涯にわたり割礼を受けたユダヤ教徒であり、トーラーをただ一人成就して、その業によって義に到達された方である。(エレミヤ31:32-33/ガラテア4:4)

トーラーはそうして役割を果たしたが、マシアハの義の完全性を証しし続けていることに於いて、その一点一画も朽ちることはない。(ヘブライ2:10-11/マタイ5:17-19)

そのマシアハの完全な義によって、エシュアは対型的なメルキゼデクに類する王また大祭司となられたが、その義は『新しい契約』を通して聖霊を注がれた『聖なる者ら』を従属の祭司団とするために義の仮承認を神の前に果たした。この予型はヨム・キプルの贖罪の手順にも顕れている。(ローマ8:1/レヴィ16:17)

そこでパウロとの衝突は繰り返されることになる。この点では彼らに教化されたキリスト教徒は、新約聖書への無知が利用されているところが観察される。⇒「新約聖書ヘブライ語原典説


事の要点は双方の「聖霊」の理解の欠如
血統のイスラエルと『神のイスラエル
今日のエルサレムと『上なるエルサレム
ハガルとサラ
アブラハムの共同相続者の『印』が何か
『水と霊から生まれる』ことが何を意味するか
『回復』と世界宣教の主役が何か

以上の区別が出来ていない状態で生じた、ユダヤ人のなかでのメシア認知、この扱いにキリスト教徒の中で誤解が生じている。悪くすればユダヤ愛国主義に呑み込まれる危険性もある。キリスト教徒であるというなら、それがどれほど時代錯誤的であることかに気付かねば意味が無い。

このマークそのものにも問題点がよく表出されている。次元の異なるものの折衷であって、キリスト教のより高次な価値が理解されていない。



『諸国民よ神の民と共に喜べ』この句に賛同する教会員の観点では『神の民』が血統上のユダヤ人であるとし、『諸国民』は異邦人キリスト教徒となってしまい、アブラハムの裔の益は狭い範囲に留められ、『地上のすべての家族』には到底及ばないことになる。つまり、『神の民』に異邦人聖徒が含まれるという理解が無いために神の人類全てへの意志の全体像を見失うことになる。
『神の民』=『アブラハムの裔』=『祭司の王国、聖なる国民』=『キリストの兄弟たち』=『二人の証人』=『キリストと共同の相続人』ユダヤ

今日では、キリスト教の卓越性を理解しない「クリスチャン」側の蒙昧も手伝って、ユダヤ文化にかぶれるアメリカ中西部にメシアニック・ジューへの傾倒が見られる。
彼らは、「イスラエル」が依然として血統のイスラエルであるに違いないと思い込んでいて、ネイヴィームの諸々の回復の預言が『肉のイスラエル』と地上のイェルシャライムに起ると勘違いして凝り固まっている。

しかも三位一体などの古代異教の遺物を捨てないので、「イスラエル民族主義」と「異教的キリスト教」の混合物を醸造しつつある。
これは『不法の人』を招来し兼ねない極めて危険な動きであると思われる。

地上に第三神殿が建てられる時には、その恐れは頂点に達するのであろう。
聖書と至聖所が地上に存在するときに、律法の履行は全体を覆うものとなると思うであろう。
だが、マシアハが『世を救う、神の子羊』として捧げられた後に、いまさら動物の犠牲にいったい何の意味が残っているというのだろう。
三つの一神教は合同し、現在のエルサレムにやや近い別の地点に「新しいエルサレム」と称するおそるべき場所を設けるかも知れない。



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    • 引用--

地震、飢饉、伝染病、戦争は、人類の歴史を通して常に存在しています。しかしイエスは、その再来前にはそれらがより激しくなるだろうと述べています。
(中略)

1948年5月14日、国連憲章に基づき、ユダヤ人によるエルサレムの部分的統治が認められ、ユダヤ人が2000年間待ち望んでいたイスラエル再建がとうとう実現しました。しかし、そのわずか数時間後、境界線沿いに駐在していたアラブの軍隊が宣戦布告し、イスラエルとその近隣地域間の緊張が高まりました。

1967年、エジプト、ヨルダン、シリアの各軍隊がイスラエルを包囲しました。新聞はこれを、「エジプトがイスラエル攻撃を宣戦布告」という見出しとともに大きく報じました。数的に圧倒的不利と思われていたイスラエル軍でしたが、奇襲作戦が功を奏し、わずか6日間で敵を壊滅することに成功しました。この劇的な勝利は奇跡に他ならないと多くのユダヤ人が語りました。イスラエルはまた、1967年の戦争でも輝かしい勝利をおさめ、ついにエルサレムイスラエルに帰属することが決まりました。人々が待ち望んでいた平和が、ついに訪れようとしていました。また同時に、「エルサレムをすべての国々にとって重い石とする」という預言が成就されようとしていました。

イスラエルの奇跡的な再生により、救世主が登場するための舞台は整えられました。救世主は、ユダヤ人がエルサレムに住まうことを求めていましたが、現在、神がアブラハムに約束された土地には、およそ600万のユダヤ人が暮らしています。わずか1世紀の間に、事実上その存在を抹消されていたイスラエルは、世界的に有力な国家へと変貌を遂げたのでした。

☆イエスの再来はどのように行われるか?

聖書には、主は偉大なる力と栄光を携え戻ってくると書かれています。

エスが最初に姿を現す500年前に、預言者ゼカリヤは、主が来られるとき、エルサレムは激しい戦いの中にあるだろうと書きました。エルサレムが世界中の軍に包囲されているだろうとも書いています。すさまじい戦闘により大量の血が流れ、イスラエル軍は敵に制圧されるが、その時、ある出来事がその情況を劇的に変えるというのです。

ユダヤ人たちは、一瞬のうちに自分達の救い主が、かつて拒絶したイエスであると気づくだろうと書かれています。なぜならば彼らはイエスの弟子達のように、その掌に残された釘の痕を見るからです。そして、まるでイエスが自分の一人子であるかのように激しく嘆き、その大いなる愛に触れることになるのです。

全ての希望が絶たれたように思われたその時、万能なる主イエスが雲に乗ってやってくるのが見えます。もはや従順な僕としてではなく、王の王、主の主として、力と威厳を携え神の創造物に回復と正義を備えるために現れるのです。「全ての目が-彼を突きさした者でさえも-彼を見る」と言われています。 主は、その再来を人々がどのようにして知るか預言を通して語っています。
エスが再来するとき、彼に敵対するものはその力強い姿に圧倒されるでしょう。イエスエルサレムが用意した栄光の王座につき、正義と公正を基として国々を治めるのです。およそ2000年前にイエスが現れるという預言が成就されたように、イエスの再来も成就されるのです。預言された数々の出来事は、神の定める時間に合わせて起きます。イエスの再来は、彼を信じる人々に喜びと報いをもたらしますが、彼を信じない人々には厳しい裁きの時となるでしょう。[Revelation 19:11-16, 21:3-15, 2 Thessalonians 2:1-8, Psalm 89:14, Matthew 25:31]

e-Jesus Japan (団体所在等不明)

Rev20:25こうしてあなた方はわたしのすべての法令とすべての司法上の定めとを守って,それを行なわなければならない。わたしが携え入れて住まわせるその地があなた方を吐き出すことのないためである
⇒Rev18:24これらの事のいずれによってもあなた方の身を汚してはいけない。わたしがあなた方の前から去らせる諸国民はこれらのすべての事によってその身を汚したのである。25 そのためにその地は汚れており,わたしはそのとがのゆえにそれに処罰を加え,その地もそこに住む民を吐き出すのである。


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「接木」を用いてメシアニックジュウがそのつなぎ目の役割を果たすという。キリスト教界を一致させるのはメシアニックジュウであり、彼らによって諸国民は喜べると。
Rm11:26を敷衍して、イスラエルは皆救われるという。
Mt23:39を用いて、「祝福あれ、主の御名によって来られる方」というときまでキリストが戻らないと云われたことを根拠に、最初の来臨にユダヤの民が必要だったように帰還にもユダヤ人が必要だ、と主張している。
しかもメシアニックジュウが144000人に達したときに大患難とリバイバルだそうだ。

◆所見---
幾らか新約の引用箇所が増えてきているが、証拠を探し読みしている観は拭えない。
神殿と律法制度の破滅を逃れたヘブライストキリスト教徒には聖霊の賜物があり、そのゆえにもエフェソス書では異邦人とユダヤ人のふたつの民の壁(ソーレグ)がキリストによって取り払われたことを力説しており、その「神の民」とは双方から選ばれた者らであり、今日のメシアニックジュウに都合よく、血統の選びも優越性もパウロは語らない。本来的にその特権があったにせよ、それを捨てた為に諸国民の接木が必要になった原因はユダヤ人自身にあったではないか!そのユダヤ人の144000人はいったい何を以って『証印』を押されるというのだろう。むしろ、東や西から異邦人が『神のイスラエル』として集まってくるのではないのか?

ここで最も重要なファクターはやはり聖霊の賜物となる。それはすべての議論を力と印を以って終わらせるに違いない。自分たちの選びを主張する者らは数多く、メシアニックジュウばかりではない。しかし、選ぶ者である神の観点を欠けば、だれもが独り善がりでしかない。
このような視座から見ると、メシアニックジュウは終末に向かって物事を混乱させるための一方策のようである。そして、それに着いて行くべき人々があるのも仕方のないことなのであろう。それほどまでにキリスト教界とは退屈な場所となってしまった。死体のあるところに鷲が集まっている。

しかしだれもが、神からの視点でものを観ようとはしないのは残念に思う。選ばれる側の者が、自分が選ばれると言ってよいのだろうか?神の前に、もう少しでも謙虚にはなれないものか?こちらから見ると親の七光にすがった我儘な子のように見える。彼らの血統がユダヤで無かった方がよほど謙遜になれたのではないだろうか?一キリスト教徒となることで満足できるなら、よほど、神の前に素直で廉潔であろうに。

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メシアニック・ジュウに於ける問題点
キリスト教界同様に「新しい契約」が何であるかが理解されない
ヘロデ神殿に代る天的神殿が何であるかが理解されない
・ナハムーの預言が血統上のイスラエルに起こると理解される
まとめると、聖霊による養子縁組が肉のイスラエルにも必要であったことが知られていない。
アブラハムの裔』とは、マシアハの復活した命の内を生きる、『水と霊から生まれた』者たち、即ち『新しい契約』に聖霊によって預かる『聖なる者ら』(ハギオイ)のことであり、彼らはマシアハと『共同の相続人』であり無割礼の異邦人であっても『兄弟』となる。その『相続物』とは『神の王国』に他ならない。これは水のバプテスマを受けた「クリスチャン」というわけではない。そこにまた誤解の原因もある。


◆所見2--
事の要点は、やはり聖霊」の理解の欠如そのため『新しい契約』による相続を理解していない。その相続物はアブラハムから伝えられるものであり、受け手は真実のイスラエルであり、その民は『シオンの子ら』である。

聖霊が『神のイスラエル』に導き、神の恩寵はもはや肉のイスラエルにはないことが理解されていない。
人間の抗争を奇跡というのであれば、「肉の思うところは肉」と言わざるを得ず。キリストが肉において律法を成就した意味が消去されていまっている。キリスト教ユダヤ教に勝って、肉と霊ほどに遥かに高いものであるという価値にすらキリスト教徒が気付いていない、これは現今のキリスト教ユダヤ教に試されて、不足していることを示されているのが分からないのだろうか?

メシアニック・ジュウに謝罪し、平身低頭するキリスト教徒は、キリストの偉大さを放棄し、それが間違いでしたと降参するようなものである。しかも、肉の争いを起こした忌まわしい十字軍の末裔であることすら認めてしまうことになる。その前に、キリスト教のローマ国教化以前に、ユダヤ教徒がイェシュアばかりか使徒らや直弟子らを処刑し、初期キリスト教徒の迫害に乗じて、陰険な密告と、処刑の手伝いをせっせと行っていたことはどうなのか?人は人を裁けないではないか。ただ、敵意と悪行が有ったことを悔いるのみであろう。宗教信仰者の「自分の正しさ」がイェシュアを刑死させたばかりか、無数の宗教抗争の犠牲者を生んだ張本人ではないのか。誰であれ神の明確な証しなく自己の正統を唱えるなら誰も抗争を免れない。なぜ人は喜んでその渦中に入ろうとするのか?正義は人間に有らず。皆がアダムの罪人である。エリフがヨブに諭したように「あなたは神を待つべきである」。どうしてイェシュアを二度葬って良いものか。
キリスト教が剣を執らず、肉の争いを離れた教えであることを、双方の主張からして忘れさせようとしているではないか。

おそらく、この系統の人々はユダヤ教オーソドックスと新教キリスト教とのジョイントになるものではないか。
イスラエル本国には勢力を持っていないが、北米に多いのであれば、キリスト教との距離は近く、アンチクリストをパレスチナに導くに適している。
北米合衆国が『南の王』であり、また『子羊のような二本の角の野獣』でもあるなら、キリスト教ユダヤ教の触媒に最適であるように見える。
キリスト教側は「地上再臨」と「三一」を主張し、こうして「第三神殿」の建設にも邁進し、「不法の人」を玉座に迎え、遂に二度目のマシアハを「聖徒」迫害によって屠る立場に立つように見える。

ペテロとパウロが書簡ではっきりと『兄弟』をユダヤ人だけでなく、混成の二つの民に適用している価値が明確にされる必要がある。
あるいは、エフェソス書の「二つの民」という表現も旧来のユダヤ教キリスト教に歪められるのかも知れない。


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