Hatena::ブログ(Diary)

Quartodecimanium Memo

2013-12-11

ものみの塔の思考パターン

00:03

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思考パターンの固定化

(赤色部分に矛盾と緑色部分に異議あり)

引用

エホバご自分の組織を通して,世界中の兄弟たちに豊かな霊的食物を供給しておられます。多くの聖書的な諭しが,出版物を通して与えられます。それに加え,手紙や旅行する監督の指示を通して,会衆の長老たちに直接導きが与えられることもあります。羊たちはそのような方法で,明確な導きを得ているのです。

彼らの聖書理解は実際には浅く、組織も学識者からの情報を切り貼りしており、独自のものは年代計算、禁忌事項の設定が主なものでしかない。三一の否定や十字架への批判一般教会よりは程度が良いという程のことで、それに比較して幾らか良いからと「神の是認」を主張するのは論理の飛躍がある。



エホバの組織から与えられる指示は,奇妙で異例なものに思えるかもしれない。しかし,わたしたちは皆,同意できるかどうかにかかわらず,どんな指示にもすぐに従うべきである。それらの指示に従うことは命を意味するからである。

ここでは個人の判断は神の思考力に及ばないことを理由に、間違える事もあるという人間の組織への盲従を命じているが、恰も「永遠の命」が自己判断の放棄に掛かっているかのようにすり替えられており、自ら倫理上の判断を下すべき人間の尊厳への挑戦を行っている点で危険な教えである。同時に「エホバの組織」という名称によって、ものみの塔が神のものであるという意識を持つように誘導されているが、神がどのようにこの宗教組織と契約などの各別な関係を結んだのだろうか。むしろ神名を前面に立てることで、指導側の聖書認識レベルが低いことに信者が気付かぬよう予防線を張る意図が見えている。これに騙されるとすれば、相当に洗脳が進んでいるに違いない。聖書中に判断を放棄させることで人を導いた記録が有ったろうか。むしろ、それぞれの個人に、神は奇跡など何らか仕方で意図を知らせ判断させているのではないか。それが聖書の神の特質ではないか。



・「聖書イエスの弟子となる人々に、二つの種類の希望を差し伸べています。一つは、イエスと共に天に復活して、神の王国の成員となるという見込みです。しかし、その見込みが差し伸べられるのは限られた数の人々です。しかし、その他の数えつくすことのできない数のクリスチャンには、それとは異なる希望が差し伸べられています。彼らは、大患難を生き残って、神の王国政府の支配を受け、この地上で永遠の命を楽しむという見込みが差し伸べられます

二つの種類の希望ではなく、天に集められる『聖徒』が『初穂』として先に贖われ、地の『信徒』の贖罪と千年支配を為すのであって、終末期に二種類の希望が叶えられるように促すのは間違っている。

それでも最終的に双方が創造物としての『神の子』に復帰することを目指すものであり、天と地のすべてのものが御子を要として、神の前にひとつのオイコノミアにまとめられることが知的な全創造物の希望である。「永遠の命を楽しむ」というのは「ご利益信仰」であり決定的に欠けるものがある。それが神と他者への関係性であり、アガペーやヘセドと呼ばれる絆の確立である。それがあればこそ永遠に生きる理由は自然に生じるが、永遠に生きたいから信仰するとすれば、その肉的動機は逆であり、永遠は重荷となり、いつしか意味を失い飽きる。神の創造の業は、全ての創造物がキリストによって復帰されることにあるので、そこには神と互いの回復という偉大な希望がある。そもそも、全能の神が全人類に永生をもたらすことははじめから可能である。だが、神がそうしないのは、個々の人が他者とどう生きてゆくかを決定することを委ねているのであり、それによって誰に永生を与えるか、それが「裁き」の要諦であり、人は問われるのであり「希望が差し伸べられている」わけではない。Eph1:10/Co1:20



・彼らは、大患難の前の極度の圧力が加えられる時にも、イエス・キリストの贖いの犠牲に信仰を働かせながら、エホバ義の基準に従い、証しを行ない、野獣の崇拝を避け、戦争に行って人を殺すようなことをしません。

「大患難の前の極度の圧力が加えられる」のは『聖なる者ら』が『新しい契約』を最後まで守るか否かに関わるものであり、その結果『ひとりは連れて行かれ、ひとりは残される』ことになる。これら脱落する聖なる者については、タラントやミナ、また引き網や盛大な結婚式の例えにも語られている。聖徒の試みの『ひと時とふた時と半時の間』信徒の集団の方は『荒野の場所』に守られるのであり、そうであればこそキリストの『兄弟ら』に親切も施せる。したがって、ものみの塔は必要のない重い頸木を信徒に課して、迫害の緊張感を持たせることで組織に頼らせ支配している。



ヤハウェやヤーウェといった形を用いるのは間違っているのでしょうか。そのようなことはありません。大切なのは,神の名を用い、それを他の人々に宣明することです。

使徒らや初期の弟子らは明らかに神名を発音していなかった。もし、そうしていたならば、神殿域外での神名の発音が禁じられていた当時のユダヤ教徒との論争が生じたに違いないが、そのような場面なく、パウロアテナイリュカオニア人に対しても神名を用いていない(新世界訳参照) 彼らにとって知らせるべき名は、ナザレ村のイエスメシアとして(神ではなく)到来されたということであり、その結果としてイエスの名は最も著名なものとなった。もし、彼らが禁を犯して神名を発音していれば、今日までYHWH発音は保たれていたに違いない。現状でそうでないのは、むしろ神慮であり、神がそうできなかったわけはなく、エホバの証人の助けを必要ともしない。なぜなら、彼らもやはり正確な発音を知らないのであるから、「エホバの証人」という名称そのものに矛盾がある。神名は終末に於いて、真に聖霊を注がれる人々によって知らされるであろう。



エホバ支配権の基礎になっているのは、義と公正の基準をしっかり守ることです。聖書は、『罪の報いは死である』ことを示しています。もし、エホバが人類の罪深さを大目に見るとすれば、神はご自身の義の規準を無視することになったでしょう。そうなると、それは宇宙内で不法を助長し、宇宙の主権者としての神の立場を弱め、宇宙の永続的な平和を脅かす結果を招いたでしょう。それで、神は感傷に負けて人類の罪をすぐに許してしまうというようなことはできませんでした。

論理が奇妙な上に断定しており、この筆者は錯乱気味である。『罪の報いは死』である以上、神は「人類の罪深さを大目に見る」ことは既にしていない。また、創造の神は明らかに主権者として君臨することを望んでいない。そうでなければ「エデンの園の二本の木の選択」は意味がない。アダムは神から独立した自由な意思があり、神もそれを楽しみ創造物の名付けをさせている。また、全知全能であるのに、善悪の知識の木を監視することをしなかった。もし、神が主権者としての支配を望むなら、選択を許す理由なく、二本の木を設ける必要もない。神は自らの『象り』である知的な創造物を尊重することで自らを尊重しているのであり、人間の権力者のように(統治体のように)人々を支配する貪欲さを持ってはいない。その論議の以前に「主権」とは『罪』ある闘争者を規制するための「暴力」であり、歴史に明らかにように『罪』ない者にはまったく必要のない「汚れた」概念である。




・最終的にイエス・キリストと彼に従う油そそがれたクリスチャンがサタンと彼に従う者たちを滅ぼしてしまいます。ですから、私たちは、サタンとサタンの胤の側からは離れましょう。女と女の胤は最終的に勝利します。最終的な女と女の胤つまりイエス・キリストキリストの兄弟たちの側に立ちましょう。そうすることによって神の王国の支配下地上の楽園に入ることができます。それは永遠の命をもたらします

人間はアダムの堕罪以来、等しく『この世』のものであり、『我らはこの世のものでない』と言い得たのは、聖霊によって清められキリストと共に『神の子』の立場を得た『聖なる者ら』だけである。したがって、信徒であっても依然として『この世』から出ることはできておらず、『聖徒』のように『新しい契約』によって仮の贖罪も為されていない。それにも関わらず信徒ら自らが『この世』のものではないかのように自分を見做すなら、そこでパリサイ的優越感を避けることができなくなる。まさに、エホバの証人が伝道で遭遇する、人々の無関心と冷たい反応の理由はこの無言の優越感にあり、自ら原因を撒きつつ刈り取っている。




・私たちの生き方に関して、エホバとサタンの間で論争があります。すべての人は、その論争に巻き込まれています。私たちが自分の人生をどう生きるかはエホバ神の誉れともなれば、恥ともなります。また、喜ばせることになれば、悲しませることにもなります。

私たちがこの論争で神の側にしっかり立つ時、エホバは私たちに天もしくは地上での永遠の命を与えてくださるでしょう。ですから、この重大な論争においてエホバ神の側をしっかりと擁護しましょう。

ヨブ記の解釈が間違っている。この書の全体を読み込むと誰でも分かりそうなものではあるが、その結論は、ヨブが自分の義を神の義より高めたことを悔い改めて撤回したのであり、サタンの糾弾も友らの審問も、ヨブの義を際立たせるための前座であって、本論はエリフの発言によって開始されている。つまり、ヨブは自分の正義によって神に何も与えることはできないし、彼がどれほど悪を為そうとも、神に害を与えることもできない。(ヨブ35:6-7)従って、ものみの塔は信者を仮想の「善と悪のゲージ」の上に置いてしまい、余計な間断のない緊張と苦しみを与えている。しかし、人は皆『罪人』であることに変わりなく、キリストは『人はあらゆる種類の罪や冒涜を赦される』と言われる。(マタイ12:31)そのためにこそキリストの犠牲は必要であったはずであり、サタンに対する糾弾はイエスの一度限りの死に至るまでの忠節によって既に立証されている。そこに『聖なる者』以外の誰も関わる余地がない。




・あなたが崇拝を共にしている人々が,もし神の言葉を自分の生活に誠実に当てはめないなら聖書はそのような人々との交わりを絶つことを勧めています。

新約聖書にある道徳規制は『聖なる者ら』がレヴィ族のような清さを示して『新しい契約』を全うし、『しみなく傷なく』キリストの前に立つためのものであって、聖霊のない信徒に課されるべきものではない。パウロは、聖徒としての相応しい歩みをしない無規律な者らの影響力をエクレシアが染まらないように避ける目的で幾らかの期間に交わりを断つよう命じたのである。神との契約に無い人々に聖徒の道徳規準を求めるなら、それは『罪』に対する過酷な扱いとなり、不自然に重い荷を人々に負わすことになる。まして、ヨハネが『挨拶の言葉もかけてはならない』と言ったのは紛らわしいグノーシス主義者がエクレシアに侵入することを避けるためであった。それは家族、友人との交友を徹底的断つという無慈悲で悪魔的行為を命じてはいない。むしろ『医者を必要とするのは病人』であり、ユダヤ社会から排斥された罪人に寄り添ったキリストの精紳とは逆のパリサイ派傲慢を避けるべきである。




・大抵の宗教組織は悪い実を生み出してきました。

しかし,真の宗教はそのような崇拝の方式のすべてとは対照的に,人をさわやかにさせるものです。

比較による優越感は常に比較対象を必要とする。比較はいくら行っても絶対のものを保障しない。もし、他の宗教組織を度外視した場合、ものみの塔全体主義的圧制の最たるものであり、その「爽やかさ」とは自己義認による高慢な自己満足以外のなにものでもない。




イエスはご自分の真の弟子たちが互いに対する,つまり仲間の信者に対する愛によって顕著な仕方で見分けられると言われました。(ヨハネ 13:35)このことの重要性は聖書の中で繰り返し強調されています。(ガラテア 6:10。ペテロ第一 4:8。ヨハネ第一 3:14,16,17)しかし,イエスは,神のおきてに対するわたしたち従順によって示される,神ご自身に対するわたしたちの愛のほうがさらに重要であることを示されました。(マタイ 22:35‐38。ヨハネ第一 5:3)そのような愛を証明するには,神の言葉を研究し,生活に当てはめ,また崇拝を行なうために神に仕える仲間の僕たちと共に集まり合わなければなりません。

まず、アガペーは仲間にだけ示されるものではない。敵をも愛するほどに広げられるべきことをこそイエスは強調している。まして、アガペー理念を捻じ曲げ、一宗教組織の集まりや生活上の生活規準への従順に入れ換えるべきではない。キリスト教の最も重要なアガペー信仰という事柄を、何気ない文章の中で、宗教組織への「従順」に誘導する試みは極めて危険なカルト性を強く孕んでいる。『見える人を愛せない者が、見えない神を愛せるか』。まして神は自足しているが、人はそうではなく、様々な助けを要するところは、互いに変わらない。




・一見,信仰の点では熱心で,明らかに神との良い関係を持っていると自分では考えていたものの,神の是認を得るには実際に何が求められているかを理解していなかった人々について,使徒パウロも書いています。(Rm10:2-4)

もし,わたしたち神のおきてを余り重要でないものとして扱ったとしたなら,わたしたち神との個人的な良い関係を持つことができるでしょうか

まず、キリスト教徒に与えられた掟は『愛すること』であり、それは自発的であってはじめて示せるものであるから、規則化された時にアガペーは消えてしまう。これは律法主義の罠である。#

ものみの塔エホバの証人に求めている様々な規則は、愛も憐れみも型にはめて実質を失わせるものになっている。

まして、それを行う動機が「楽園」に入ることであるのなら、利己的であって、正反対の精紳を抱いていることになる。

それに加えて、契約にない者が「神との個人的な良い関係を持つ」というのは個人の力では不可能なことで、却って人には重荷を負わせることになる。なぜなら、聖徒以外の全ての者は、イエスと彼らからの千年王国に於ける贖罪を受ける必要がある「罪人」であることは、どんなに努力しても変わらないからである。

ものみの塔は、「楽園」に入る事を重要視させる余り、神の裁きの意向を無視しているが、これはまったく自己中心のご利益信仰である。人に問われるのは善行の報酬としての「願望」ではなく、愛や信仰という「倫理」だからである。


#(パウロローマ10章で述べているのは、ユダヤ教徒トーラーに従う事を指して言っており、『キリストは律法の終り』と言っている。また、教条墨守ユダヤ教徒が『自分の義を確立しようとして、神の義に服さなかった』ともそこで指摘している。従って、この熱心さが神の是認をもたらすわけでは無いという論題で、このパウロの句を挙げて「神のおきて」を守ることが神の是認をもたらすかのように述べることは、まったく正反対の事になる。)


・どの宗教組織が正しいかはどうすれば分かりますか

その教えは何に基づいていますか。それは神から出ていますか。それとも,大半は人間から出ていますか

この設問そのものに無理がある。現状で「神から出た」正しい宗教というものが確かにあるか否かという前提はまったく吟味されていない。

だが、どれほど聖書に従ったからといって「正しい宗教」が存在するようになるわけではない。それは人間の能力を遥かに超えたことで、決定的なものが欠けている。

それが即ち神の側からの働きであり、『聖霊』の奇跡の賜物であり、それは終末に為政者の前で『論駁できない』ほどの聖霊の言葉を語ることが予告されている。その時には唯一正当な宗教も存在すると言える。しかし、あらゆる人間由来の宗教組織にはそれがないことは歴史が証明している。聖霊降下はなお将来のことであるに違いない。そこで、この設問にはヒステリックな自己義認が見られる。




・そのような愛は人種的,社会的,国家的境界を越えて人々を引き寄せ,純粋の兄弟関係に引き入れます。この愛はそれほど強力ですから,それらの人々を本当に異なった存在として際立たせます

「兄弟」という言葉を信徒同士に用いているところは、他のキリスト教と変わらないが、旧約の「同朋」また新約の「兄弟」とは、イスラエルと改宗者、また異邦人聖徒を指している。殊に終末に於いては、脱落聖徒らが背教し甚大な被害をもたらすこと、また、その中の主要な者が『不法の人』となり、背教がクライマックスを迎えることを予期するなら、『偽兄弟』の危険は非常に大きいことになり、聖徒以外を「兄弟」の呼称で呼ぶことには大きな危さがある。単に、一組織の成員の友誼と一致の促進のために「兄弟関係」などと吹聴することは、身の程知らずな上、「キリストの兄弟ら」によって世が裁かれる事の重大さの認識が欠けている。




・忙しくて報いの多い生活を送っており,人々を救うために従順に仕えていることを自覚して深い満足を覚えています

自分たちの活動が「人々を救うため」であるというのは、その活動によって命がもたらされると言っていることになるが、使徒時代の救いは聖霊を受け聖徒になることを意味した。仮の義認をもたらしたからである。そこで、今日「水のバプテスマ」を受けたからといって、そのまま「救い」に入ることはけっしてない。終末の裁きのときに聖霊に対して信仰を働かせることが裁きを通過させることはあっても、一般人の救いは千年王国を通すものである。エホバの証人の言う「命を救う業」という言葉には、その無理解、また社会一般への蔑視が含まれている。それを肥やしに自らの満足感を得るとは、まことに的外れであり、また、自らを神の裁きに於いての危険を高めることになりかねない。





所見

どうしてこのようなことが言えるものかと首をかしげるところが多い。しかし、個々の信者にそれを話したところで判断することは彼らに禁じられているので、その鉄面皮の前には何の意味も成さない。まるで人間相手をしていないかのようになってしまい。そのうちに近付きもされなくなるだけのことである。その動機は彼らの「命惜しさ」であって神への関心でも聖書理解でもないことがその行動に明瞭である。一旦信者になったなら、探求は止めなくてはならず、組織という他人の解釈にだけ身を委ねるよう強要され、個人で判断することは「背教」とされ禁止される。その他者信仰への盲従が「一致」だとも。

ものみの塔の思考パターンは、「アリストテレスの奴隷観」がそのまま通用している。人を指導部の下に置く事に於いて、古代の奴隷制を見事に体現している様は見事でさえある。

これらの文言は、聖書そのもののテイストとは明らかに異なり、分かりやすくするためか簡略化されデフォルメされて、まるで自分たちが神の経路であるかのような独断が横溢し、何々をしたければ何々をせよという、ご利益を前面に出したCMのようなところがある。殊に信徒の「命」を質物に取ったような脅迫には真の神には無い悪魔的圧制がはっきりと見えている。指導者の人格はこのようなのだろうか。神が求めるものは従順ではなく信仰であることはまったく明らかなことであるのに、その両者の大きな違い、180度も異なることを識別しないのだろうか。

しかも、何か青年組織の統制的プロパガンダのようで、「野外活動」と「奉仕の精神」を強調するところはボーイスカウトを思い起こさせる。信者はいつまでも青少年のように倫理的決定を上層部に下してもらわねばならないのだろうか。

上記のどれも論旨に浅薄な印象を否めず、もちろん感心できるものではない。

聖徒に求められる基準や働きを単なる信者に課してしまい重荷としており、裁きの時を前倒ししているために、クリスチャンという狭い救いを仮定してしまったので、神の掟、規準などを守り「従順」であることが救いの要諦として繰り返され、そこで責任感ある誠実な人々から判断力や人格を奪い拘束する結果となっている。

だが、やはり人に救いをもたらすのは明らかに「従順」ではなく「信仰」である。理屈を捏ね回しているうちに混同したのか、やがて入れ替わってしまったのだろうか。従順が自己判断を求めないのに対し、信仰個人の価値観による倫理的判断そのものである。

カルケドン・ドグマを脱したこと評価できても、信者主体の報酬獲得目的のご利益信仰であることは否めず、この宗派もやはり「キリスト教世界」の一部と言わざるを得ない。この頑迷固陋さには文章からし疲労感を覚えるほどである。

なお、「神とサタンの間に論争がある」と称する由来はヨブ記らしいが、それは論争ではなく、知的被造物の忠節な愛が試されているのであり、この件は既にキリストの忠節な死によってサタンの道を歩むことが誤りであることが一度限り立証されており、只の人が善を為そうと悪を為そうと、創造者が崇敬されるべきことに何ら影響しない。また、ヨブ記の本旨を把握できていないことも露呈しているが、これはヨブ記の全体を読み込めば分かることである。


新約での神名の扱いの提言

ヨブ記の結論

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引用



ラッセル兄弟が“真理”を見い出す経緯(触れ告げるから)、お墓がピラミッドの形だったのは知っています。

な ぜ組織はそれを公表しているのでしょうか?

実はこのことは、信仰を強めるものとなるからです。 エホバ神がどのように人間を導かれて、ご意志を成し遂げられるかが聖書の古代からの記述と見比べて見ても、理解できることに気付きます。

また、組織の謙遜さや正直さを見て、聖書の中で過去に用いられたモーセダビデのような指導者と比較しても、エホバ神が人間を用いられることを通して、ふさわしい特質を持つ人、忠節を保つ人、従順な人、謙遜な人を見い出すこと、また同時に教育もこの時期にされているように伺われます。

エホバの証人聖書研究の仕方が、『教団の教えを…』と仰るが、聖句も引用されています。 あの仕方は教え方の一つの形なので、いつの日か知識として記憶に残り、当てはめて考えられる様になります。

学校で教わることは(あなたが思うのと)同じように洗脳だとは思いませんよね。一つの教え方です。

そして大事な点として、司会者を通しての研究はバプテスマを受けるまでです。(厳密には推奨書籍2冊まで)その後は個人的に研究する必要があります。

つまり基礎的な知識と独り立ちする霊的な生活の型を学び、円熟を目指しますが、それを怠る人は成長しません。

ラッセル兄弟は、基礎を築く(バプテストのヨハネがしたようにキリストの臨在に先立ち道を整える)のに用いられたと言えるでしょう。 その時の理解で行動したのです。だってその時に、正しい真のキリスト教が存在してなかったんですから、いきなり突如として現れるものではないのです目に見える奇跡は止んだのです

理解はラッセル兄弟から進んで、オカルト的なモノは一切排除しています。

さて、イエス・キリストは言いました。『知恵は、その働きによって義にかなっていることが示されるのです。』同じように、エホバの証人聖書理解に従って当てはめると、聖書全体の整合性・調和を見ることが出来ます。他のキリスト教の教理の不合理さ、無理があるのが分かります。私は信仰で言いますが、エホバの証人こそ、真理を持っていると思います。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1461128774

文字色編者

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所見:

アブラハムと神の関係性の深さ、その契約に属する民とそうではない異邦人との区別が無い。そのため、19世紀のアメリカ人がモーセやバプテストのように用いられたとすることに躊躇は無いらしく見える。つまり、神との契約関係の重さは認識してはいない。

聖霊を注がれた初期キリスト教徒には「聖霊の賜物」が有り、それを持つ人には、その聖霊が「聖なる者」の身分を明かすものであることをパウロは再三述べており、ものみの塔もそれを教えていないわけではない。

にも関わらず、神の物事の扱い方を充分には検証していないように見える。神が行動されるときには、律法契約でも新しい契約でも霊の働きがあり、人の為すところを超えてきた。おそらくはコリント第一13:8を根拠に「目に見える奇跡は止んだ」と言い切っているが、その文言も文脈もそれを確証しない。むしろ、聖書を総体的に判断し、初期キリスト教徒の資料を調査するなら、ここまで「聖霊の賜物」を軽視することはできない。

神が働かれるときは、突然であっても純正な教えを提出される。聖書に書き換えの必要なく、そこに汲めども尽きぬ真理が存するのは神の著作であるためであり、聖霊有って初めて可能なことではないか。対して、修正を繰り返す教理は人間のものに他ならず、しかも聖霊の働く余地を「目に見える奇跡は止んだ」と言い切ってマタイ10:18-20などの将来の聖霊の活躍の場を無視することは、聖霊軽視という以上に恐るべき思想というより他ない。即ち「多少の間違いの混入は当然」で「聖霊は邪魔である」というに等しく、神の御手の働きを卑しめている。このような人々が『反駁できない』ほどの聖霊の言葉を語ることはまず無いであろう。「聖霊の賜物」をはじめから除外し、蔑視さえしているに等しいのであるから。

チャールズ・テイズ・ラッセルは、聖書に親しみ習熟した人物ではあったろうが、聖徒とは言えず、やはり只の人であり最期までそうであった。その推論は訂正を要するものであったところは、人間由来であることを証ししている。しかし、キリスト教界が異教や哲学にすっかり汚染されて、何ら浄化兆しが無い中でのものみの塔の理解は確かに先進的ではあった。だが、指導者が交代するに従い、自分たちのだけの義を掲げたところで神を押しのけたであろう。神に向かって「自分は正しい」と言ってよいだろうか⇒「ヨブ記の結論

また、個人聖書研究が自立後も継続されるとされてはいるが、これは個人研究というよりは、他者の理解を追体験するためのプログラムをなぞるばかりで進展性のない「解釈の植え付け」というべき方式の続行のようにしか見えない。そこでは個人独自の理解や解釈は許されず、「伸びる芽は摘まれる」。つまり誰も指導者を超えてはならないと言って、幾らか詳しいだけのただの人が実質的に信仰の主人となっている。したがって、この宗派の人々も、やはり信仰において自己の尊厳ある決定を下してはおらず、他人の信仰を借りて生活している。その証拠に、返答に窮するような教理の矛盾を突かれると、思考を中断し、自分で答えようとはしない。つまり、そこで答えると指導者の教えを超えてしまうからである。そこで『信仰の主人』は誰かが見える。その対処法は答えに窮するような質問をする者への「背教者」というラベルを張る作業に黙々と入ることになる。それはまるで人格も思考力も失ったロボットのように人間性を欠き、反社会性を露呈するかのようにさえ見える。これは学校教育では見られない。ものみの塔は自らの組織の集会プログラムが提供されることを指して「霊的ライフライン」とも称するが、そのようなものが有るとすれば、それは聖書そのものを読むところが強調されるべきではないのだろうか。そうではなく、ものみの塔の教育プログラム信仰の糧として必要不可欠であるとするのであれば、その信者は間断のない人間の指導を必要としているのであり、聖書だけでは足りない「何事か」を供給され続けるべき脆弱な種類の「信仰」を普段から持っていることになる。それは、日常不断に宣教に携わらせ、道徳規準に従わせるべき、生活の型を保つことが、それらの「教育」によって保たれていることを証拠立てている。つまり、それは聖書から直接に来るものではないのである。


これはモルモンなどにも強く現れる特質であるが、バプテスマを受けるまでの教育でそれぞれの宗派での生活の方式を確立して、人々を一定の「型」にはめる。そうすることが信仰の発露であると思い込むようだが、これはキリスト教というよりは律法によって生活を規定するユダヤ教様式を踏襲するものである。信者になろうとする者がその定式に従うことに安心感を見出しているのなら、それはまず間違いなく信者は自分で信仰を抱く勇気を持たずに神への恐怖から逃れようとしており、指導者層はキリスト教自由闊達さを理解していないし、信仰者たちを「仕切る」ことを望んでいるであろう。そうすることで彼らも神への恐怖から逃れようというのだろうか。さて、その権威はどこからのものか?どちらも刹那的で且つ破滅的にしか見えない。他の多くのキリスト教の御多分に漏れず、彼らを支配するのは神への恐怖心というユダヤ的特質であろう。(ヘブライ12:18-23)⇒「キリスト教はご利益信仰か



これらの文章のエッセンスをまとめ、論点を煮詰めて提出し易いものにして置くべきか


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信徒同士で「兄弟」と呼び合うべきか

聖書中の例は、ギリシア語での判別が難しいところがある。

信徒を兄弟と呼んでいるのか、忠実な者をそう呼んでいるのかが判然としない。

しかし、全般的に見ると、キリストの兄弟同士ではっきりそう呼ばれており、また、その理由も提出されている。しかし、信徒についてはその理由がなく、実例も極めて乏しい。

従って、信徒同士が「兄弟」と呼び合うのは適切とは言えない。

ものみの塔などでは、その呼称を以って信者同士の平等性を演出しているが、実際にはヒエラルキアの確固たる宗教組織であり、それはものみの塔そのものも外部に対してはそのようにコメントしている通りであり、これでは却って偽善的な活用をしてしまっていることになる。

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バプテスマについて

その意義を”み子の弟子として神に仕えるための,エホバに対する個人的な献身をしなければなりませんでした。クリスチャンの水のバプテスマにはそうした意味があり,これは今日に至るまで変わっていません。”(崇拝する)などと解釈しているが、ここには大きな誤解がある。

バプテスマの意義を「献身」としているが、そこでは信徒と聖徒の区別を見失っており、だれもが契約関係に入るかのように誤認されている。聖霊なく『神のイスラエル』に含まれない人々がどうして献身できるだろうか?また、その必要がどのようにあるのか?

三位一体という語も概念も新約聖書に無いように、バプテスマと献身を結びつける語も概念も新約聖書にない。

『水のバプテスマ』はキリストをナザレ人イエスであると認め、その救いに信仰することを表すものであり、また『新しい契約』と『契約の使者』の到来へと人々を整えるものであったとは言えるが、もし献身に似た事柄を探すとすれば、それは旧約の祭司任命やナジルの誓約、新約ならば『新しい契約』に入るというところくらいにしか見当たらない。それは聖徒には当てはまっても、信徒には重すぎる頸木になるだろう。

総じて「ものみの塔」とは

どれほど差別化を行っても

プロテスタントを母体にしているところは拭い難い。

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×聖書に厳密に従えば清い崇拝が可能であるという仮定

×自派組織だけが是認されており、救いの経路であるという独善

×永遠の命を最重要視させ、保身欲求で信者を操作する

×永遠の命のご利益がこの組織から来るとする「置き換え」

×信者の永遠の命の価値が組織にあるとの錯覚を悪用し統制

×個人の見解の相違を認めず、中央が教理を信仰させる

×指導部への絶対的服従とヒエレルキーの順位順守

×長老など中間職の偏重と弱者への不公正

×信者から判断力を奪う、道徳生活指導

×社会への蔑視と差別化が正義の根拠とされる

×道徳律に従うことで神の是認を得るという反キリスト教

×没人格的な一致行動への強要

×行動の多寡による賞罰

×子供への鞭を使った人格蹂躙

×家族制度への介入と破壊

×規範に達しない者への処罰(律法的従順要求

×精神疾患への無頓着

×神の意志は年代計算が可能であるという妄想的仮定

×忌避制度での指導部の保身主義個人の権利の制限

×良心的脱退者までをも忌避し情報統制する

×信者集団の所有権の否認と財産収奪

以上は「ものみの塔」だけのものではなく、モルモンや一部のメソジスト、SDAなどにも散見される。

キリスト教として発想は然程目立ったところもない、アメリカ人のキリスト教という範疇で見ると典型的とも言える。

教理がどのような人格を培うかと言えば

尊大で道徳主義的な人格、新約聖書中のパリサイ派が非常によく似ている。

カトリックの「完徳」;究極的には神にのみ属する完全。修道者の場合、清貧・貞潔・従順の勧めの実践によって達成されるべき目標。


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ものみの塔が唱える諸問題の解決策というのは、「支配者の交代」と「神の善悪の基準に従う事」に集約される。つまり「誰が支配し、誰が善悪を決めるか」によって人類の諸問題は解決されるというのである。

そこで、自分たちの組織の中では、既に犯罪や戦争などの問題は解決されており、それが「現代の奇跡」であるともされてきた。

だが、これは業により正義であり、神の支配を受け入れるなら人間の抱える問題は解消すると言っているに等しい。実に「キリストは既に支配を組織内で始めている」ので、千年王国の支配もその延長線上だという。

だが、これは全く間違っている。

問題は支配体制にあるのではなく、人間自身が抱えている「罪」にあることがいつの間にか忘れ去られている。それはキリストによる「贖罪」によるほかなく、それこそが「千年王国」の役割である。しかし、彼ら思考では「千年王国」とその後の時代が「楽園」によってつながってしまっており、ご利益の延長としか捉えられない。

従って、キリストの犠牲は既に信者に適用されてしまっており、「千年王国」に入る以前の裁きは通過できることになってしまい、ものみの塔を神の組織と信じることが裁きの要諦になってしまっている。

従って、終末の裁きの概念は曖昧にされ、ハルマゲドンと大患難の区別もはっきりとせず、ただ自分たち以外の一切の組織宗教を表すとされる「大いなるバビロン」の滅びが始まることを待っている。

これは巧妙に、自分たちの義を確立してしまっているのであり、既に裁きは組織に属すか否かで判断されている。そこで失われるのは、自らを神の意志と照らして吟味する姿勢であり、パリサイ派のように正義を言い張ることに於いて、どこの宗教とも変わるところがない。

信者の心理では、神の裁きを恐れることを回避し、自分が既に神の是認の許にあるので、永遠の命は確実だと信じるところに凝り固まらざるを得ない。その強い願望が「1914年からひと世代」を信じることと交換条件にされ、受け入れてしまったことに聖書の当該箇所からも、聖書キリストの示す精神からも逸脱していることに信者を気付かせない。

「神の約束」と称される、架空の自分の「永遠の命」を守るために、組織を擁護し、その指導層を疑わないことの奴隷となって、様々な観点から聖書を観ることを拒絶することが「信仰による義」とされている。

当然ながら、これは神の前に人間の決め付けを信じる傲慢であるだけでなく、神の終末に於ける働きを、自分たちの行動と入れ替える冒涜であり、異常なほどに自分たちを高め過ぎている。

その弊害は、この組織の周辺に見られる通りでありながら、それを情報統制の手段によって断っているのは、既に悪辣な域に達しており、神からも社会からも糾弾される時を待つのみである。信者はその真相に気付く時に、そのものが信じられないほどになろう。本来、知的な人々であっても、天賦の判断力を抑制され続けたからである。





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