Notae ad Quartodecimani

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ミゲル・セルヴェトとその影響


ミゲル・セルヴェト Miguel Serveto, 1511-1553 ミッシェル・セルヴェ<仏>
ルターが95か条の提題を発表したときには、北スペインのヴィラヌエヴェ#に住む六歳の少年であった。
地方判事の息子として生まれたが幼くして才を見せていたという。
父は法律の道に進めようとフランスに留学させるが、ミゲルはそこで聖書を読むことになる。
彼は聖書中に伝統的な教会の教理の根拠を見出さなかったし、三位一体の根拠もまるで見出さなかった。むしろ、福音書中のイエスは「信仰告白」のイエスとは著しく異なることも発見する。
翌年に彼はボローニャに行き*、そこでカール五世の戴冠を見たが、冠を授ける教皇の有様に衝撃を受けた。*(かのサン・ペトロニオ大聖堂正面で、神聖ローマ皇帝カール5世が教皇クレメンス7世によって戴冠している。アーヘンではない)
彼はこう述懐している。
"わたしがこの目で見たのは、教皇が弟子たちの肩にかつがれ、公道ですべての人々にひざまづかれ、あがめられている光景であった。うまく教皇の足や靴に接吻することができた人々は他の誰よりも幸福者であると思い込んでいた。なんて堕落した獣の中の獣だろう!何と恥知らずな淫売婦だろう!"
難解な神学と教会の世俗的な腐敗に対するセルヴェトの反抗は、三位一体の教義に向かった。彼はプロテスタントの指導者らに間違いを悟らせようとしたが、書簡や対話で目的を達成できないと分かるや「三位一体の誤謬について」Des erreurs de la Trinité 1531を著した。その中ではキリストの行った奇跡からペテロをはじめとする人々はイエスを神の子でメシアであると結論していることなどの論点を挙げた。
セルヴェトの著作は非常に広まり、独、瑞、伊、その後波でも流布した。
しかし、新教指導者らはこの見解が野放しに広まることを怖れた。新教の教義が余りにカトリックから離れるなら、一度収まりかけた迫害が再び強まるだろうと政治的に危惧したからであった☆。こうしてセルヴェトの意図とは裏腹に、プロテスタントは却って三位一体に押し戻される結果となってしまった。新教諸都市は直ちにセルヴェトの著作を発禁に付した。☆(主にフランス国内の状況を言うのだろうか?当時は三十年戦争中)



翌1532年にセルヴェトは「三位一体の誤謬について」を幾分穏便なものに書替えようとしたが、内容はほとんど変わらなかった。
この年から彼はミカエル・ヴィラノヴァヌス#という偽名を用いてフランスに住んだ。彼は編集者、科学者として輝かしい成功をおさめ、パリ大学でも講義を行うまでになった。
その間にも神学への探求は捨てがたく、やがてカルヴァンにその誤りを教えようと文通を再開した*が、カルヴァンはその指摘に憤りセルヴェを憎むようになった。(この時期にあの「行き違い事件」があったのだろう)
この頃セルヴェは主著となる『キリスト教の回復』を書いたが、これは新旧の教会の改革を提起したものであった。しかし、この著作の発表を以ってミカエル・ヴィラノヴァヌスがミゲル・セルヴェトであることが世に発覚されるところとなった。フランスの異端審問所はセルヴェを投獄するも彼は脱出に成功する。
それから友人の住むナポリを目指して逃避行に入るが、何故かカルヴァン勢力下のジュネーヴを通過することを選び、これが彼の死を決することになる。(スイスに直接隣接はしていないが、ドーフィネ州ヴィエンヌの大司教ピエール・ポミエが彼に庇護を与えていたためか?あるいは敢えてカルヴァンに会おうとしたか?、彼はドーフィネからジュネーヴに入った)

だが、カルヴァンの方はセルヴェトがジュネーヴに来るようなことがあれば生きては帰さないと常々豪語していたという。
セルヴェトが捕えられて後、断罪の票決においてカルヴァンは目立たないように振る舞っていたが、評議が火あぶりにすることを確信していたという。
1553年10月26日に判決文が読まれ、翌日死刑が執行された。火刑はとろ火で行われ五時間に及んだといわれる。

改革者のひとりであるベザは次のように伝えている。
三位一体の見解がカルヴァンとは違ったというだけで火の中で死に絶えてゆくセルヴェトの姿を見て、人々は非道だと騒ぎ出した。これに対してカルヴァンは「犬どもが四方から私に吠えかかっている」と自分がキリストでもあるかのように詩篇22篇を引用してわめいたが、そのときはジュネーヴから追い出されるかと思われるほどであったという。


そこでカルヴァンは自分の立場を正当化するために翌年の二月までに『セルヴェトゥスの驚くべき誤りに対する聖なる三位一体に関する正統派信仰の擁護』を書き上げた。その中で、セルヴェトが火刑にされなかったなら、彼の異端はすべてのキリスト教国を汚すとまで言っている。(三一論とはそれほど脆弱なのか)
多くの改革者らはセルヴェトの処刑に賛成しており、メランヒトンもその旨を手紙でカルヴァンに送ってきた。




しかし、セルヴェトの処刑から異なった影響を受けた人々が存在した。
そのひとりがカステリオ(シャティロン)☆である。
Sebastian Castellio (Sébastien Châteillon)1515–1563
彼はボルドー市長でもあったM.d.モンテェーニュにも知られた学識あるサヴォワ出身のフランス人で、ストラスブールカルヴァンに乞われ、しばらくはジュネーヴの大学総長として働いていた。後にヴォルテールがカステリオはカルヴァンよりも傑出した学者であったと述べているように、カルヴァンの嫉妬もあって彼をジュネーヴから追い立てた。〇
カステリオが市民集会に於いて、指導者と意見の合わない者を虐げることに反対したとき、カルヴァンは彼を大学総長の座から追い払い、同時にそれを自発的な辞退と称して市民に退任の理由を尋ねることを許さなかった。

その後の艱難辛苦を経て、彼はセルヴェトの処刑の当時は自由都市バーゼルの教授であったが、宗教上の良心の自由を重ねて表明する決意をし、カルヴァンの処置に反対を唱えた。彼は初期にはアウグスティヌスのような教父たちが、また当時にはルターを含めた改革者たちが、異端者を死刑に処してきたことを『異端者について』という書に著し別名を名乗ってバーゼルから秘密裏に出版した。そこでは異端者がどう扱われるべきかを説き、また、異端とされた様々な教理を紹介している。
カステリオはこう書いている。
”七を七十倍するまでも許すことを教えたキリストの生涯と教訓を考え、それに倣わないなら、どのようにして我々はキリスト教徒の名を保てるのか?” ”各人は自分の目から梁を除く前には、兄弟の目から埃を除く資格は無い” ”わたしが言うのは異端と呼ばれる人々の血の事であり、「異端」という名称は今日では敵と決め付けるのにそう呼ぶのが最も手っ取り早い方法となっている程に忌まわしく嫌悪すべき、そして恐るべき呼び名となっている。単なる言葉がこのような恐怖を惹き起こすさまは、その言葉が発せられるときに、人々が犠牲者の弁明に耳を閉ざし、しかもその人だけを猛烈に迫害するのみならず、彼の代わりに敢えて発言しようとする人々をも迫害する程である。このような狂暴によって、彼らの訴訟が実際に理解される前に、多くの人々は滅ぼされてしまうようになっている。わたしがこのことを言うのは、わたしが異端者に味方するからではない。わたしは異端を憎む、しかしわたしが発言するのは、ここに二つの大きな危険を見るからである。第一は異端者と見做されている人が、異端者ではないということである。このことは昔もあった。キリストと弟子たちは異端者として処刑された。我々の世紀に於いてもこのことの再発する恐れは充分にあるし、それは改善どころかむしろ悪くなっている。” ”第二の危険は、真に異端者である者の処刑のやり方が苛酷すぎたり、あるいは、キリスト教の規律に於いて要求される以上のやり方で行われることである。”



☆この人物は優秀な学者であっただけでなく、人格的にも見るべきものがある。彼は八人の扶養者を抱えて非常な貧困に耐えた時期があっただけでなく、ジュネーヴをペストが襲ったときに病人を見舞ったほぼ唯一の宗教人であり、その間にジュネーヴ教会当局とカルヴァンは病人の見舞いを拒否している。

〇彼はジュネーブに於いて新たな仏語聖書翻訳をカルヴァンに願い出たが、カルヴァンはオリヴェルタン聖書で十分であると取り合わなかった。この以前からカステリオの人望が高まっていたこともカルヴァンには都合が悪く、この翻訳の件からカステリオへのカルヴァンの反対運動が始まった。


所見
こうして見ると改革派には残念ながらカルヴァンには良いところがない。宗教とは力尽くで教勢を拡大するものなのであろう。知識が正確であっても人望があっても、この世で勝利を収めるのはそのような者ではないことを歴史は再三証明してきているように見える。政治に同じく、いや政治そのものではないだろうか。こうした狭隘な精神は様々な宗教に現在も見られるもので、意見の異なる者を処刑する自由が宗教から奪い取られているだけのことで惨劇が防がれているだけのことであろう。そこで人が主張する「正義」とは人が捏造するものであろう。「自分だけは正しい」と主張するほど罪なこともないが、それを許してしまうのが大衆である。大衆は強引な指導者の後を着いて回るばかりであって、自分からは深く考えず、考えることを誰かに委ねようとする。そこで強く広く簡単な言葉で、または余りに難しく分からない言葉で説得されることを待っているばかりで、衆愚によって苛酷な刑や専横を許すのもまた大衆ではないか。こうした事例が促すものは、各人が愚民となることを避けることであろう。そのためには自分で考え続け、自分で判断し続ける労を負うよりほかない。人類は真理を持ち得ないので、思想信条が異なる領域もまた人間には必要であり、それを欠けばバランスを失って偏向する。その悲劇は人類史上で飽くほどに味わってきたのではないか。圧制者は人を真に育てようとはしない。「大衆」でいてくれれば川の流れのように治水支配できるからであろう。「大衆」は圧制者とセットされ易く、圧制者が失敗する危険が高まるのは「大衆」の扱いを誤った後に訪れてはいないか?「大衆」とは理性的であるよりは、よほど感情的に行動しようとする。「大衆」を制したい野心家は、ヒトラーがしたように、彼らの感情を力強く代弁し、その感情を強く煽り立てることである。つまりはヒットさせるための歌謡曲やポッススの作詞法とあまり変わらない。セルヴェトの処刑を為したは、ポピュリストと大衆の合作である。人間愚性の暗部ではないか。同じことは権力のあるところではどこでも起こり得る。政治でも起こったに違いない。





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