Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

信仰、希望、愛

パウロがこれを述べた背景

コリントスのエクレシアの長所と短所
霊の賜物に勝るものを重視させる必要
内面の充足が不十分であった(クレメンスの譴責)
彼らの問題はそこに原因があった
賜物ゆえに高慢になったか
(そうであれば賜物は内面に比例するわけではない)

」と書いた理由
 遠い将来のことであれば、彼らは注意しない
 第二信をみるとコリントスの人々にはこれは理想が高すぎたか


間接的に
 霊の去った状況に於ける教訓を含んだか



・「初穂」が刈り取られるのは終末であって、聖徒が地上に居るから初穂なのではない!!(Rev14:4→15)
ヤコブも自分たちが初穂だとは言っていないし、パウロも『初穂の霊を持つ』とは書いたが『初穂』になったとは書かなかった。
この事とコロッサイの『王国の権威の下に移してくださった([μετέστησεν]アオ)』を混同すべきでない。(Col1:13→23)

そうなると、聖徒が信仰、希望、愛を追求する必要は非常に大きかったことになる。

キリストは愛の掟を命じるに当たり『新しいいましめをあなたがたに与える』[Ἐντολὴν καινὴν δίδωμι ὑμῖν]と言われた(ヨハネ13:34)
パウロは『互いの重荷を負う』ことを『キリストの律法』[τὸν νόμον τοῦ Χριστοῦ]と呼んでいる。(ガラテア6:2)
使徒ヨハネは『彼の掟を行うなら、我々は彼と結びついている』(1jh3:24)という。これは聖徒について述べている。契約外の者らについては『結びつく』ことは無い。しかし、同じく「愛の掟」に従おうとすることは空しくならない。なぜなら、愛は聖霊の賜物を超えたところにあり、『罪』の対極に位置するもので、『罪』を悔いるならこの掟の精紳に倣おうとするからである。
それに対し、聖徒らに細々と求められた行状の清さというものは、『新しい契約』に従う者の実際上の行動基準を示したものであり、それは具体的な要求条項というよりは達成を目指す精神を鼓舞されていたというほうが実際に近い。
だが、これを律法契約の律法のように教条と見做すなら根本的にキリスト教から出てしまう。
契約外の信徒にとっての愛と信仰は了解し易いが、希望とはなにか?







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