Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

コリント第二4:18 見えないもの

[μὴ σκοπούντων ἡμῶν τὰ βλεπόμενα ἀλλὰ τὰ μὴ βλεπόμενα· τὰ γὰρ βλεπόμενα πρόσκαιρα, τὰ δὲ μὴ βλεπόμενα αἰώνια.]


βλεπώ ⇒ πρόσκαιρος

μὴ βλεπώ ⇒ αἰώνιος


[ἀλληγορeω] =allegory to speak allegorically or in a figure Ga4:24「例えの」「象徴の」

[παρεπιδήμοις]iPet1:1 ↓
[ויבא הפליט ויגד
לאברם העברי והוא]
=עִ בְ רִ י
アヴァール」「渡り者」⇒「イヴリー」・・その子孫「ト」複数

Gen14:13[לְאַבְרָ֣ם הָעִבְרִ֑י]「"ヘブライ人アブラム"に告げた」城市ソドムの奪略を告げ、同時に定住者であるカナン人たちの同盟者としてのアブラムについて「イヴリーのアブラムに」と述べている。この観点から見ると、「ヘブライ(非定住)人のアブラム」と述べる意味が生じる。「エベルの子孫の」は意味をほとんど成さない。エラム語の系統は不明ながら創世記ではセムに属しエベルより古い。シディムに攻め込んだ軍はエラムとシュメルの混成の可能性が高いように思える。また、この時までにロトはイヴリーの生活をやめ、都市に住んでいた。事件を知らせたのはロトの僕であったひとりらしいが、ロトもまた元はイヴリーであったのであるから、ここでアブラムをイヴリーと呼ぶ意味は、血統としてではなく、やはり都市生活者や土地のカナン人との対照としての非定住民であることを指していると解するのが妥当。イヴリート[עברית]とは、古来非定住の生活様式を送る者を指したが、アブラム以前の家系が遊牧民であったところから、自らをイヴリートと名乗っているうちに、都市生活者や定住者の間でアブラハムの家系を総称するのに都合のよい通称となり固定化したとする説#もあり、カナン定住のイスラエルはこの意味ではイヴリートではなくなったが、民族の在り方としての誇りはあったと思われる。ただエジプト期よりは呼ばれる頻度は大幅に落ちている。よそ者ではなくなった。だが、都市生活を送らず、俗世やニムロデに屈しない気概が込められて、それが残ってヘブライと呼ばれる誇りとなっていたと捉えることはできるのではないか?これは実際に訊いてみよう。#(おそらくMalamat)

[הָעִ֥יר]Gen10:12#

都市革命以来の賑わいある俗世の具象性V.S原野の抽象性の対照
偶像の神V.S不可視の神
ニムロデの世間V.S放牧の野原
究極の偶像 ⇔『偶像崇拝から逃れよ』
大衆(Proletatiatus) ⇔ 啓蒙人(Classis)
PS107:1-7


偶像が大洪水後のものであるという記述を残したエイレナイオスからすれば、偶像とは「現れたくても現れることのできない神」の脆弱な願望を示すものとなっている。
「荒らす憎むべきもの」はサタンそのものの願望を表すものとなり、統一された政祭の極みに立つことになろう。
創造の神とキリストとは、人の自由意思を保つためにも不可視を保つが、これは対照的。

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民数記24にあるバラムの預言
「わたしは彼を見る、しかし今ではない。わたしは彼を望み見る、しかし近くではない。ヤコブから一つの星が出、/イスラエルから一本のつえが起り、/モアブのこめかみと、/セツのすべての子らの脳天を撃つであろう。
敵のエドムは領地となり、/セイルもまた領地となるであろう。そしてイスラエルは勝利を得るであろう。⇒Isa63 Ob
権を執る者がヤコブから出、/生き残った者を[מֵ עִ יר]#から断ち滅ぼすであろう」。#(הָעִ֥יר)
バラムはまたアマレクを望み見て、この託宣を述べた。「アマレクは諸国民のうちの最初のもの、/しかし、ついに滅び去るであろう」。
またケニ人を望み見てこの託宣を述べた。「お前のすみかは堅固だ、/岩に、お前は巣をつくっている。
しかし、カインは滅ぼされるであろう。アシュルはいつまでお前を捕虜とするであろうか」。
彼はまたこの託宣を述べた。「ああ、神が定められた以上、/だれが生き延びることができよう
キッテムの海岸から舟がきて、/アシュルを攻めなやまし、/エベルを攻めなやますであろう。そしてもまたついに滅び去るであろう」。
こうしてバラムは立ち上がって、自分のところへ帰っていった。バラクもまた立ち去った。」17-25
バラム自身はアラム人でエベルより由来が古い
この場合のカインはおそらくアベルとの対比の中で語られ,義者を嫉妬から退ける者を表している。終末のケニはアベルに象徴されているのであろう。ケニはミディアンより古くから系統不明で語られ、ミディアンに住んでいた時期がモーセと重なる。おおよそはアブラハム系でもテラハ系でもないとすると意味が深い。アマレクと対照されているところも興味深い

⇒Mic5:5-6 「彼らは剣をもってアッシリアの地を治め、抜身の剣をもってニムロデの地を治める」

⇒Dan11:30 「キッテムの船」アッシリア史に事例有り、これは象徴表現とみられる 

エベルについては、ヘブライ語表現の反復として、セム系アシュルを同義異語で語る。

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終末の聖徒との契約の再開から、聖徒の滅びが1260日であれば、その終点がパスカの時期になるのかも知れない。逆算すると仮庵の祭りの初日ころになる。10月15日。
パスカからイエスの復活までが足掛け三日、聖徒は三日半、その時点で聖徒の裁きは完了か?その直前までにパリンゲネシーアによる古代の聖徒の天界への復活が起っているらしい。主の復活より聖徒の召し挙げが半日程度遅れるのは、地に残る聖徒らは死からの復活ではなく、それに先んじる古代の聖徒がいるからなのだろう。
双方の聖徒が天界に揃うと、幕屋を雲が覆う、この時点で大患難のへの序章である『鉢』の災いが地の人類に示されるが、サタンの慫慂は既に止めようがない。不法の人の神格化が進み、シオンがエルサレム神殿を脅かす集団であるとされ、矛先が信徒に向かう。それがハルマゲドンの戦いへの召集となる。
天界では、聖徒が揃うことによって神の王国は準備が整いつつある中で、地上では急速に神対人の戦いに向けた準備がされなくてはならない。そこで『大いなるバビロン』は存在を終えるべき状況に入り、諸国の公権力がこれを滅ぼすが、不法の人にとってもう片方の『シオン』も片付ける必要がある。そこでハルマゲドンとなるが、不法の人からすれば、自分の崇拝こそが唯一のものとならなければならないので、どちらも退けるべきものということでしかない。





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