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Quartodecimanium Memo

2018-10-09

カトリック布教の遅れたブリテンの事情

05:11


第八世紀まで十四日主義者が居たという件ですが

中世ブリテン島は、多様な色彩を見せるかのようにキリスト教が一色ではありません。

第三世紀のアレラーテ会議にカンタベリーなどブリテンから三人の司教が参加していたとの記録があり、この時代に島の南部キリスト教が達していたことは明らかです。

しかし、その後は王朝の交代などに伴いカトリックと従来派とのオセロゲームの様相を見せていた様が伝えられています。または、野球の攻守交代、つまり支配者が代る度に「チェンジ」が行われていたかのようです。(ブリテンとキリスト教

それは、アイオナ島の修道院を拠点とする旧来派と北進してくるローマヴァチカンからの勢力のせめぎ合いの場でありました。

しかも、古いアイルランドに由来するキリスト教は三一派でなかったと聞いております。

そこでニケア信条以前のキリスト教の残存があっても不思議はないでしょう。


さて、直接的な証拠としまして

ローマ派のヨーク司教ウィルフィード[Wilfird(633c-709c)]なる人物が、彼の反対者と復活祭の日付を巡って争ったという記録があります。

この事情はWikiでも見られます→Quartodecimanism "Regacy"

Wilfrid, the 7th-century bishop of York in Northumbria, styled his opponents in the Easter controversy of his day "quartodecimans",though they celebrated Easter on Sunday.


これを近代の学者連は十四日派の残党であろうと観ているというところに8世紀まで十四日派が存続した根拠があるということです。


ですが、ご存じと思いますが、十四日派への異端宣告はアンティオケイア会議(341)で、カトリックローマ帝国の法で地歩を固めるよりも40年ほど古いですし、早くも第二世紀初頭でアンティオケイアのイグナティオスが小アジアの習慣を「古い習慣」として(おそらく十四日遵守を)批判しておりますので、一神論よりずっとはやく退けられていたものに思えます。

既にニケアーでパスカの日付の決定がアレクサンドレイア司教に委ねられていましたが、これは日曜を主日とし、春分後の満月の次に来る主日にパスカを行うもので、しかも夕刻に日付けの変わる暦ではありませんでしたし、この論題は一神論のように尾を引いておりません。

⇒ 参考

十四日主義が残っていたとすれば、ニケアーを超えて、それ以前のウルフィラスに比べるほど古いキリスト教ブリテン島に残っていたことにはなります。少なくともカトリック式の「コンプトゥス・パスカリス」(Computus paschalis)で日付けを定めない主の晩餐を行っていたということは言えるのでしょう。


しかし、第8世紀のヨーク周辺(ノーザンブリア)にどんな形で十四日主義が残っていたのかは定かでありませんし、単にカトリック方式ではない「主日」を守っていた可能性もあるのではないかとも思えます。

それでも、中世ブリテンは何が出て来るか予測も着かない意外さが期待できそうです。この辺り、現状で誰かが何か断言できるものでないようです。島の北辺に行くほど伝説の要素が高まるようです。ただ、ドルイドとの確執はあったものの、ブリテン島よりはアイルランドの方がキリスト教の事情は安定していたようで(アイオナ・アビーはアイルランド由来)、初期アイルランドは西欧沿岸に宣教者を派遣するほどであったそうです。この勢力カトリックではありません。

しかし、古代のエイレナイオスやエフェソスのポリュクラテースのような理解を期待することはまずできそうありません。キリスト教は第二世紀に一度出来上がり、その後は聖霊を失って後退を続けたために、時代が下るに従い劣化したからです。

それでも、「カトリック教令」の以前の姿のキリスト教欧州辺境に命脈を保ち、それがカトリック布教の遅れた地域で8世紀に至るまでその教理の残像を残していたというのは有り得ることでしょう。








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